今日は出エジプト記3章14節「わたしはある」という御言葉を調べてみました。
I AM WHO I AM の I AMにあたる部分のヘブライ語はאהיה ’eh-yeh
Strong's Hebrew 1961הָיָה hayah の先頭にאが付いた形。
אアレフはウィキペディアで見ると起源は
「牡牛(ヘブライ語 אֶלֶף elef)の頭を描いた文字に由来する」とあり、
父なる神さまを表す文字です。
אהיהは聖書中に43回登場します。
ちなみに、英語の翻訳聖書(NAS、KJV)で見ると43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけのようでした。
内訳は
出エジプト記3章14節(3回)、士師記11章9節、ルツ記2章13節、サムエル記15章34節、ヨブ記10章19節、12章4節、17章6節。
さてそれでは、本日はまず
אהיה
43箇所、口語訳聖書でいうとどこなのか引用してみます。
ただ、口語訳は直訳とか対訳された聖書ではないので、ここかな?というところにつけた印=太字 は必ずしもぴったり訳語を示しているわけではありません。
ただ、口語訳は直訳とか対訳された聖書ではないので、ここかな?というところにつけた印=太字 は必ずしもぴったり訳語を示しているわけではありません。
出エジプト記 3:12 וַיֹּ֙אמֶר֙ כִּֽי־ אֶֽהְיֶ֣ה עִמָּ֔ךְ וְזֶה־
神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。
出エジプト記 3:14 ויאמר אלהים אל משה אהיה אשר אהיה ויאמר כה תאמר לבני ישראל אהיה שלחני אליכם׃
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
出エジプト記4:12: לֵ֑ךְ וְאָנֹכִי֙ אֶֽהְיֶ֣ה עִם־ פִּ֔יךָ
それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
出エジプト記4:15: בְּפִ֑יו וְאָנֹכִ֗י אֶֽהְיֶ֤ה עִם־ פִּ֙יךָ֙
あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、
この箇所は日本語だと二回「ある」という言葉が出てくるのですが、ヘブライ語では「あなたの口と彼の口と」という感じで共にあるものが二つまとめて書いてあるのでאֶֽהְיֶ֤הは一度だけ書かれています。
申命記31:23 לָהֶ֑ם וְאָנֹכִ֖י אֶֽהְיֶ֥ה עִמָּֽךְ׃
主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。
ヨシュア記 1:5 עִם־ מֹשֶׁה֙ אֶהְיֶ֣ה עִמָּ֔ךְ לֹ֥א
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨ることもしない。
モーセと共にいた、というところの「いた」というヘブライ語は同じ1961番ではありますがהָיִ֛יתִיです。
אֶהְיֶ֣הではない、というこのあたりからも、単なる時制とかそういうこととは違う、「アレフの付いている1961番」という単語の意味が読み取れるような気がします。
ヨシュア記 3:7 עִם־ מֹשֶׁ֖ה אֶהְיֶ֥ה עִמָּֽךְ׃
主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。
この箇所でも、モーセと共にいた、というところの「いた」というヘブライ語は同じ1961番ではありますがהָיִ֛יתִיです。
士師記 6:16 יְהוָ֔ה כִּ֥י אֶהְיֶ֖ה עִמָּ֑ךְ וְהִכִּיתָ֥
主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。
士師記 11:9 לְפָנָ֑י אָנֹכִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לְרֹֽאשׁ׃
エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。
アレフ付きの1961番がこの箇所で初めて「エフタ」の意思表示というところで使われますが、
ここまでのאהיהの使われ方を意識するなら彼の言葉にどういう意味が込められているかということが見えるような気がします。
ここまでのאהיהの使われ方を意識するなら彼の言葉にどういう意味が込められているかということが見えるような気がします。
ヘブライ語の「文字」(書き言葉として伝達されるもの)には翻訳では読み取れないものが多くあるように思えます。
ルツ記 2:13 וְאָנֹכִי֙ לֹ֣א אֶֽהְיֶ֔ה כְּאַחַ֖ת שִׁפְחֹתֶֽיךָ׃
彼女は言った、「わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました」。
この箇所は「私は(まったく)違う、אֶֽהְיֶ֔ה、ひとり、あなたのはしため」という感じのヘブライ語になっています。
出エジプト記等の「ある」というאהיהを踏まえると、神さまが共にある存在というような特別な立場では全くないのに、という強い謙遜が感じられる??ということでしょうか。わかりませんが。
1 サムエル記18:18 בְּיִשְׂרָאֵ֑ל כִּֽי־ אֶהְיֶ֥ה חָתָ֖ן לַמֶּֽלֶךְ׃
ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。
「イスラエルの王」というものがどういう立場で
その婿というものがどういう立場であるのかということがאֶהְיֶ֥הという言葉から見えてきます。
その婿というものがどういう立場であるのかということがאֶהְיֶ֥הという言葉から見えてきます。
この次↓23章17節も同様です。
1 サムエル記23:17 יִשְׂרָאֵ֔ל וְאָנֹכִ֖י אֶֽהְיֶה־ לְּךָ֣ לְמִשְׁנֶ֑ה
そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。
ヘブライ語にはאֶֽהְיֶהが一度だけ書かれています。「イスラエルの王となり」というところは「王になる」という一語の動詞で表現されていて、תִּמְלֹ֣ךְという一語で完了しています。
2 サムエル記7:14 אֲנִי֙ אֶהְיֶה־ לּ֣וֹ לְאָ֔ב
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。
「子となる」という方の「なる」は同じ1961番ですがアレフが先頭についている単語ではなく神さまの御手を表す י ヨッドが付いているこの単語が充てられています。יִהְיֶה
「わたしは彼の父となり」という「なる」には神さまご自身の御意思(御意志)が感じられ、
「彼はわたしの子となる」という「なる」には神さまご自身のお考えを御手によって行われる(間違いなく確実に成し遂げられる)という感じが読み取れるような気がします。
2 サムエル記15:34 אֲנִ֤י הַמֶּ֙לֶךְ֙ אֶֽהְיֶ֔ה עֶ֣בֶד אָבִ֤יךָ
しかしもしあなたが町に帰ってアブサロムに向かい、『王よ、わたしはあなたのしもべとなります。わたしがこれまで、あなたの父のしもべであったように、わたしは今あなたのしもべとなります』と言うならば、あなたはわたしのためにアヒトペルの計略を破ることができるであろう。
2 サムエル記16:18 (לֹ֥ו ק) אֶהְיֶ֖ה וְאִתּ֥וֹ אֵשֵֽׁב׃
ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。
2 サムエル記16:19 אָבִ֔יךָ כֵּ֖ן אֶהְיֶ֥ה לְפָנֶֽיךָ׃ פ
かつまたわたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。
・・・どれがどのヘブライ語に該当するのかよくわかりません
1 歴代誌17:13 אֲנִי֙ אֶֽהְיֶה־ לּ֣וֹ לְאָ֔ב
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。
1 歴代誌28:6 לְבֵ֔ן וַאֲנִ֖י אֶֽהְיֶה־ לּ֥וֹ לְאָֽב׃
主はまたわたしに言われた、『おまえの子ソロモンがわが家およびわが庭を造るであろう。わたしは彼を選んでわが子となしたからである。わたしは彼の父となる。
ヨブ記3:16 טָ֭מוּן לֹ֣א אֶהְיֶ֑ה כְּ֝עֹלְלִ֗ים לֹא־
なにゆえ、わたしは人知れずおりる胎児のごとく、
光を見ないみどりごのようでなかったのか。
אֶהְיֶ֑הの前にלֹ֣אという否定語を置いて強く否定している。
つまり、そうなるように神さまがしてくださらなかった、という感じ?
ヨブ記10:19 לֹא־ הָיִ֣יתִי אֶהְיֶ֑ה מִ֝בֶּ֗טֶן לַקֶּ֥בֶר
胎から墓に運ばれて、
初めからなかった者のようであったなら、
よかったのに。
これも否定語לֹ֣אを置いて、そのあとで1961番を二回繰り返している。
で、前の方がהָיִ֣יתִי I had beenで
後の方がאֶהְיֶ֑ה
信仰を持ちながらも揺れ動くヨブの気持ちが表れている?
ヨブ記12:4 שְׂחֹ֤ק לְרֵעֵ֨הוּ ׀ אֶֽהְיֶ֗ה קֹרֵ֣א לֶ֭אֱלוֹהַּ
わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、
その友の物笑いとなっている。
正しく全き人は物笑いとなる。
ヨブ記17:6 וְתֹ֖פֶת לְפָנִ֣ים אֶֽהְיֶֽה׃
彼はわたしを民の笑い草とされた。
わたしは顔につばきされる者となる。
正しく全き人が物笑いとなる、そして、顔につばきされる者になるのは
神さまの御意思(御意志)によるというニュアンスが読み取れるような気がします。
…イエスさまが見える…
詩篇50:21 דִּמִּ֗יתָ הֱֽיוֹת־ אֶֽהְיֶ֥ה כָמ֑וֹךָ אוֹכִיחֲךָ֖
あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、
あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。
しかしわたしはあなたを責め、
あなたの目の前にその罪をならべる。
・・・・難しい~~~どこだろう
雅歌 1:7 בַּֽצָּהֳרָ֑יִם שַׁלָּמָ֤ה אֶֽהְיֶה֙ כְּעֹ֣טְיָ֔ה עַ֖ל
わが魂の愛する者よ、
あなたはどこで、あなたの群れを養い、
昼の時にどこで、それを休ませるのか、
わたしに告げてください。
どうして、わたしはさまよう者のように、
あなたの仲間の群れのかたわらに、
いなければならないのですか。
イザヤ書3:7 לֵאמֹר֙ לֹא־ אֶהְיֶ֣ה חֹבֵ֔שׁ וּבְבֵיתִ֕י
その日、彼は声をあげて言う、
「わたしはいやす者となることはできません、
わたしの家にはパンもなく、外套もありません、
わたしを立てて、
民のつかさびとにしないでください」。
イザヤ書47:7 וַתֹּ֣אמְרִ֔י לְעוֹלָ֖ם אֶהְיֶ֣ה גְבָ֑רֶת עַ֣ד
あなたは言った、
「わたしは、とこしえに女王となる」と。
そして、あなたはこれらの事を心にとめず、
またその終りを思わなかった。
エレミヤ書11:4 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
この契約は、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄のかまどの中から導き出した時に、彼らに命じたところのものである。すなわち、その時わたしは彼らに言った、わたしの声を聞き、あなたがたに命じるすべてのことを行うならば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
「民となり」というところの「なり」はוִהְיִ֤יתֶם
エレミヤ書24:7 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִ֑ים
わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。
「民となり」というところの「なり」はוְהָיוּ
エレミヤ書30:22 לְעָ֑ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
あなたがたは、わたしの民となり、
わたしはあなたがたの神となる」。
「民となり」というところの「なり」はוִהְיִ֥יתֶם
エレミヤ書 31:1 נְאֻם־ יְהוָ֔ה אֶֽהְיֶה֙ לֵֽאלֹהִ֔ים לְכֹ֖ל
「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。
「民となる」というところの「なる」はיִֽהְיוּ
エレミヤ書 32:38 לְעָ֑ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
そして彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
「民となり」というところの「なり」はוְהָ֥יוּ
エゼキエル書 11:20 לְעָ֔ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。
「民となり」というところの「なり」はוְהָיוּ
エゼキエル書14:11 לְעָ֗ם וַֽאֲנִי֙ אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
これはイスラエルの家が、重ねてわたしを離れて迷わず、重ねてそのもろもろのとがによって、おのれを汚さないため、また彼らがわが民となり、わたしが彼らの神となるためであると、主なる神は言われる」。
「わが民となり」の「なり」はוְהָ֥יוּ
エゼキエル書34:24 וַאֲנִ֣י יְהוָ֗ה אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
エゼキエル書36:28 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。
「わが民となり」の「なり」は וִהְיִ֤יתֶם
エゼキエル書37:23 לְעָ֔ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。
「わが民となり」の「なり」はוְהָיוּ
そして、神さまが私たちの神さまになってくださる、とおっしゃっているときには
アレフが先頭にある1961番であることは確定ですね。
しかし、この後登場するのはホセア書
ホセア書1:9 וְאָנֹכִ֖י לֹֽא־ אֶהְיֶ֥ה לָכֶֽם׃ ס
主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。
לֹֽא־ אֶהְיֶ֥ה 強い否定語の後にアレフが先頭にある1961番
ホセア書 14:5 אֶהְיֶ֤ה כַטַּל֙ לְיִשְׂרָאֵ֔ל
わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
よかった・・・悔い改めたイスラエルに対しては神さまは露のようになってくださる。
ゼカリヤ書 2:5 וַאֲנִ֤י אֶֽהְיֶה־ לָּהּ֙ נְאֻם־
主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、
ゼカリヤ書2:5 סָבִ֑יב וּלְכָב֖וֹד אֶֽהְיֶ֥ה בְתוֹכָֽהּ׃ פ
その中で栄光となる』と」。
ゼカリヤ書8:8 לְעָ֗ם וַֽאֲנִי֙ אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせ、彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ』」。