イティエルという言葉について、興味深い記述を見つけました。
一つは
https://www.mgketer.org/
というサイトにあったラビ・メナヘム・ハメイリという方の文章です。
Ityel - つまり、Itay Elは、私が彼(神さま)の真ん中に立っていると言いたいのです。そして私は食べる、名前に「イスラエル」を付ける問題のように、「あなたは神と人々に仕えてきたから、賢くなれるという目的をほのめかしている
もう一つは
https://www.hatanakh.com/
というサイトのבין אגור לאיתיאל ואוכלという項目の中にあった文章です。
アグル・ベン・ヤケとは誰ですか?イティエルとウカルとは何者ですか?
これらは、知恵というテーマに関して教える象徴的な名前である可能性があります。これらの名前が象徴的なものであるとすれば、この聖句は単なるタイトルではなく、次のような教訓を教えていることが理解できます。イティエルは神が自分と共にいる、つまり自分が神さまと同じレベルにいると考える人です。ウカルは自分は何でもできると思っている男です。 どちらも人間の誇り、特に科学者の誇りを象徴しています。科学者は、自分の知恵があれば、神が世界を創造した秘密を理解し、その秘密を利用してあらゆる目的を達成できると考えています。一方、アグル・ベン・ヤケは、多くの知識をため込み、蓄積し、そしてそれを吐き出した人です。それは、人間があらゆる知恵と知識にもかかわらず、決して知ることのない秘密や決してできないことがあることに気づいた、プライドの後に訪れる人間の失望を象徴しています。
アグル・ベン・ヤケはイティエルを叱責し、彼らの誇りを食い荒らします。彼は彼らにこう言います。「あなたは自分がすべてを知っていると思っていますが、私は自分が何も知らないことをすでに知っています。」私は人間の知恵と理性には限界があることを認識しています。
イティエルאיתיאל
という名前について、
תを完全な者、完成された者というふうにとらえ
また、アレフאとヨッドיそしてエルאלに囲まれているととらえると
ラビ・メナヘム・ハメイリのように「(完全な)私が彼(神さま)の真ん中に立っている」という意味にとらえることになり、
さらに、hatanakh.comにあったように、「自分が神さまと同じレベルにいる」「自分は何でもできる」というような、発想をする者を表しているようにも読め、
ちょうどバベルの塔を建てようとしたニムロドのような人間がそこに見えてくるというわけですね。
そして、アグル・ベン・ヤケが「決して知ることのない秘密や決してできないことがあることに気づいた、プライドの後に訪れる人間の失望を象徴」しているのだと考えると
なるほど、箴言30章4節のこの言葉の雰囲気
天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、風をこぶしの中に集めたのはだれか、水を着物に包んだのはだれか、地のすべての限界を定めた者はだれか、その名は何か、その子の名は何か、
ヨブに語られた神さまの言葉(38章)に似ているような気がします。
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。・・・
そして、
どうして箴言30章という箴言が、箴言という書物の最後に置かれているのかということについて、その理由にも気付く事が出来たような気がします。
イティエル,アグル・ベン・ヤケ,ヤケの子アグル,
学んだことを踏まえて再度30章を読んでみまして
世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。世には自分の目にみずからを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある。世にはまた、このような人がある――ああ、その目のいかに高きことよ、またそのまぶたのいかにつりあがっていることよ。世にはまたつるぎのような歯をもち、刀のようなきばをもって、貧しい者を地の上から、乏しい者を人の中から食い滅ぼすものがある。箴言30章11節~14節
別に、誰が、とは言いませんが、既視感(;´Д`A ```