その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。 列王紀上19章9節
ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして「聖」 https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_16.html
をはじめとして聖ということというカテゴリで書いたことを心に留めながら列王記上19章辺りを読み返してみると
エリヤの「ほら穴にはいる」という行動はまさに「聖」となるための行動なのだ、と思ったのです。
19章3節のところにある「そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、」という言葉を読めば、たしかにエリヤは恐れて逃げたということではあるのですが、逃げた先で天使に養われて元気になったあと、
神の山であるホレブ山に行き、彼はほら穴に入るわけですね。
「ほら穴に入った」というところはヘブライ語聖書では
אל המערה とかいてあり、
אל エルは前置詞で「~の中に」と訳し、ほら穴に当たる部分はמערהで、その言葉の前に定冠詞theのように訳すとされるהヘーがついている形です。
ただ、深読みをすると、たしかにאלエルは前置詞なのでしょうが、その文字は
אלהיםエロヒムの初めの二文字であるאלエルであり、
אלエルのルは、לラメド=突き棒 ですから、
神さまの山であるホレブに行き、神さまに押されるようにその方向に入っていくという気分のような意味合いを感じ、
そしてその入っていく先はהヘー(アブラムがアブラハムになった時のハであり、神聖四文字のうちの二文字である文字)が頭と語尾に付いたהמערה ハ・メアラーです。
「ほら穴」という日本語を充てるのは申し訳ないような気分になるのは私だけでしょうかww
מערהメアラー ほら穴 についてStrongの辞書を見ると
ほら穴は埋葬や家として利用するほか、
ダビデがサウルから逃れるためにアドラムの洞窟 (サムエル記上 22:1) とエンゲディの洞窟 (サムエル記上 24:3) に隠れたというように「隠れ家、避難場所」として利用することが書かれていました。
列王記上19章におけるエリヤの場合は、
主にお会いするためのほら穴、神さまの言葉を聞くためのほら穴です。
天使に養われて元気を出し、四十日四十夜かけてやってきた神の山のほら穴です。
岩なる神さまのほら穴!
ざわざわした世、心が騒ぎ乱される混乱の世、トーラーによって与えられた秩序とは異なるごちゃまぜの暗闇を離れる事が出来る
「ほら穴」。
たった一人そのほら穴に入り神さまの言葉を待つ預言者エリヤ。
イエスさまの「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」という言葉
そして、パウロが言う「祈に専心するために、しばらく相別れ、」という言葉を思い出します。
聖であられる主の言葉を聞くためには聖でなければならないからです。
「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。レビ記19章2節
「聖である」とは何か?「聖」とは何か?「聖」となるとは何か?
聖とは
「世」という熱狂、「世」という大多数、「世」とよばれる一般とは「異なる」という事です。
なぜなら「神聖な」という意味を持つギリシャ語は
ἅγιος hágios ハギオスで、
ハギオスの核となる意味は「異なる」だからです。
世と異なる者とならなければ神さまの御性質に似たものにはなれない。
神さまは世とまったく異なるお方だからです。
だから大多数から分離して独りになる。熱狂から離れて一人になる、
静かにほら穴に入って
本物の主の言葉を聴こうとして待つ。
列王記上19章のことを考えていたので
去年10月に書いたדממהデママの話を思い出しました。
→主の御声 https://kyudochu.blogspot.com/2024/10/blog-post.html