2024年2月23日金曜日

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず

主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。
モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。
三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。
出エジプト記10章21~23節(口語訳)


出エジプト記に書かれている10の災いのうちの9番目は暗闇の災いでした。

暗闇、חשֶׁךְ

これはイスラエルがエジプトに居たときの出来事であり、この暗闇はエジプト全土という範囲で起こったことです。

しかし聖書はこの時同時に起こっていた大切な事実、不思議な事実を伝えます。

「しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」

エジプト全土は災いの中にあったのだけれどもイスラエルの住むところには光があったというのです。




あなたはあなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。
それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、
また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。
主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。
それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。

聖書を読むと「イスラエルの民」は「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」創造主である神さまにとって特別な民であるという事がわかります。
聖書の神を信じていない人にとってはこんなことはどうでも良いことでしょう。
しかし逆に、聖書の神を信じていると語る人々がそれを否定する「はずがない」。
それを否定しているとしたらそれは聖書の神を信じている人ではありません。

そして、イスラエルは特別な民であるゆえ、聖書にはこう書かれているのです

「あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。」と。

イスラエル人は自分をイスラエル人だと言うのなら

当然のこととして

イスラエルの神の命令と、定めと、おきてを守らなければいけません。


創造主がイスラエルにまず何を命じ、
どう生きることを求めておられるのか

そのとおり行わなければどうなるか

それは律法と預言者が語る通りであり歴史書が証言する通り。





わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。主はわたしに答えて言われた、この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
ハバクク書2章1~4節(口語訳)

なぜ申命記7章に続いてハバクク書2章なのかと言いますと

ハバクク書2章3節のこの言葉

כי בא יבא לא יאחר


 בא יבא「来る、神の御手は来させる」そのあとのלא יאחר


לא יאחרという言葉はハバクク書のこの箇所ともう一か所申命記7章10節だけにある「遅くはならない、滞りはしない」という言葉なのです。
申命記ではここに登場しています。


また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。







昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
詩篇78:14(口語訳)

神さまは「火の光」をもってイスラエルを導かれたという詩です。
この詩にしても出エジプト記10章の暗闇の災いにしても、語られていることは物理的な暗さだと考えられますから、それに対する「光」という意味をそれぞれ見出すことが適切であろうかとは思いますが

たとえば申命記33章に遺されているモーセの言葉にはこんな箇所があり

「主はシナイからこられ、セイルからわれわれにむかってのぼられ、パランの山から光を放たれ、ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、教をうける。モーセはわれわれに律法を授けて、ヤコブの会衆の所有とさせた。民のかしらたちが集まり、イスラエルの部族がみな集まった時、主はエシュルンのうちに王となられた」。

また、ちょうどこの箇所をベースにしているような箇所がハバクク書にも見られるわけですが

神はテマンからこられ、聖者はパランの山からこられた。その栄光は天をおおい、そのさんびは地に満ちた。〔セラ
その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。
ハバクク書3章3,4節


神さまは「右の手」で救いをお与えになりますので、「右の手」に持っておられるとわざわざ書かれている申命記の光である「燃える火」が気になりまして

申命記33章2節の「燃える火」をヘブライ語で確認したところ

אשדתもしくはאש דתとなっておりました。

אשは火、そして דתは王の勅令または法令のことです。

そういうことを踏まえると、「光がある」ということが、物理的な明るさを与える光のことだけを述べているわけではなく、イスラエルにとって光となり得るものは神さまの命令だというニュアンスを含むように思えます。

ちょうど詩篇119篇105節には「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」という言葉があります。

また、ハバクク3章4節にある神さまの手からほとばしる光とはStrong's Hebrew 7161

קֶרֶן であり、それは聖書中ではおもに「角(つの)」と訳される語であり、光とは言っても武器であるようなニュアンスを感じるわけです。
となると、申命記33章2節での「燃える火」という言葉を知っている人々にとってハバクク3章4節とはただならぬ恐ろしさを与える言葉なのかもしれません。



イザヤ書30章26節「月の光は日の光のようになり」という言葉をどうとらえたらよいのかということでずっと考え続けているわけですが、

太陽のように明るくなった「月の光」

偽りの朝の光について前回書きました。

イザヤがそこにバベルの塔の材料である「れんが」と同じ文字列の「月」という単語をあてていることを考えると


あの「バベルの塔」というものを構成するたくさんのたくさんの「れんが」があり、

そのれんがが・・・

バベルの塔については過去に書いたものがありますのでご覧いただければと思います。


教えは既に聞いていること、知っているはずなのに、この世の権威である「バベルの塔」の言葉に心惹かれてしまうという、エデンの園の蛇の誘惑の言葉に耳を傾けてしまうのと同じことが起こるのです。

この世の権威(真の科学ではない科学的なるものも含む)を着て羊たちを教える指導者の言葉に依存してはいけません。

指導者がすべて正しいわけではない。

それがこの時代の危険です。

「教えに付け加えてはいけない

教えを減らしてはいけない」

それがどういう意味であるか

私たちは良ーく考えなければいけない。


真の王は創造主である神おひとり

真の指導者は神おひとりです。



声の大きい者に流されてはいけない!


もちろん、たくさんの羊を路頭に迷わせる羊飼いは罰せられるに違いありませんが、偽物を「選んだ」なら選んだ羊にも責任があります。誘惑するものはとても悪い。しかし誘惑者の言葉を取り入れたエバにも責任はあるのです。

世の中のあれこれをどう考えたらよいのか心配になるのは仕方がないことですが

神さまに信頼し、落ち着いて静かにしていれば

やがて本当の太陽が昇ります。

焦らなくても大丈夫。本物の夜明けは来ます。

偽物の夜明け、本物の教えを減らしたり付け加えたりした誘惑者の言葉を信じてはいけません。




しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ書9章1,2節


 





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イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

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イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

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イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

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イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2024年2月22日木曜日

イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

 イザヤ書30章26節についてまだ考えています。

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。


イザヤ書8章20節と創世記1章16~18節を引用します。

わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。
イザヤ書8章16~20節

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、

昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。創世記1章16~18節

トーラーによれば、「太陽」は昼の光で「月」は夜の光です。

イザヤ8章20節に「ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」とありますが、そういう理由で闇の中に居続けている人も多いような気がします。

そういう暗闇、夜の間、人々が目にすることのできる見る光は「月」の光です。

自ら光を発しているわけではない月。
そして、イザヤ書30章26節にある「月」は

聖書の中に多く登場するヘブライ語Strong's Hebrew 3394のירחではなく

Strong's Hebrew 3842のלבנהという単語が使われており

この3842番は創世記11章3節、バベルの塔の話に登場する「れんが」と同じ文字列なのだと

2023年11月22日に公開したイザヤ書30章26節の解釈(1)レアな単語という記事に書きました。

そんな風に考えると以下のような解釈もあり得るかもしれない、と思いました。


暗い夜をつかさどるのは月であり、夜の世界にいる人々はずっと月の光を見ている。

だから、月の光が日の光のようになると、月の光を見ている人々は朝が来たと勘違いする。

もちろん、月の挙動(神さまが定められた地球から見た月の動き)を理解している人ならば、月がどんなに明るくなったとしてもそれは月だという事がわかるはずなのだが、

神さまの定められたルール=トーラー=神さまご自身 をないがしろにしている人々は

日のように輝く月の光を、それは月であって日ではないのに、

よく考えもせずに「明るい朝が来た、これが救いだ!」と勘違いしてしまう・・・


・・・それは偽物だ。

夜明けの光(太陽の光)ではない。


 





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2024年2月21日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈について考えておりまして、
昨年末より「七日(間)の光」について考え続けています。
前回までの理解としては、ハバド・ハシディズムの教えによると、これは「創世記の初めのところで神さまが創造された光を指す言葉」らしいという事だったのですが、
ほかのサイトではどうなっているのかということについて引き続き調べておりました。

すると、https://he.wiktionary.org/wiki/  でも

「神が世界創造の初日に創造した光の名前」とあり、

この起源はイザヤ書40章26節 にあると書かれていました。


目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ。
主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。(口語訳聖書より引用)


また、ユダヤ人の伝統によれば、イザヤ書の聖句に関するタルムードの解説 (ペサヒム冊子、第 6 章、68 ページ) に由来しているとのことです。

光は名士たちの創造とともに棚上げされた(棚にしまわれ一時蓄えられた)が、それは将来、終わりの日に義人の前に現れるだろう。(Googleによる翻訳)


ただ、私は「ペサヒム冊子」がどんなものかわからない。

そこで、פְּסָחִים で検索してみたところ、ウィキペディアにPesachimという項目がありました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Pesachim

で、6章については

Chapter 6 continues to discuss the sacrificial arrangement when Passover falls on a Sabbath, and with related issues such as when another animal must be sacrificed together with the paschal lamb, animals used for this sacrifice, and cases in which slaughtering the Passover sacrifice on the Sabbath is forbidden.

という事で、

過ぎ越しの祭りが安息日に当たる場合の取り決め、
過越の子羊と一緒に別の動物をいけにえにささげなければならない場合、このいけにえに使われる動物、
そして安息日に過越のいけにえを屠ることは禁止されているのでそれに関する問題について

 書かれているらしく、

それと七日の光がどういう関係なのか・・・

で、こんどはPesachim Chapter 6 で検索をかけてみました。
するとSefariaというサイトにたどり着き

Sefaria(セファリア)とは、インターネット上におけるオープンソースかつフリーコンテンツの、ユダヤ教文書のデジタルライブラリーだそうで

https://www.sefaria.org/texts

ここでタルムードの項から第6章を選択、68ページが見られました。

で、כאור שבעת הימיםをページ内検索してみると下の画像のような箇所がありました。



フリーコンテンツだという事なので英訳をキャプチャさせていただきました。
タルムードというものはこういうものなのですね。驚きました。
少年時代のイエスさまが律法の教師と議論したあの光景を思い出しました。

ただ、私が求めていた内容ではなかったので

このサイト全体の中で検索してみることにしました。

すると、たくさんの書物がヒットしたのですが

内容からBereshit Rabbahという書物を見ることにしました。Bereshit Rabbah とは西暦500年 ごろのミドラーシュだそうです。

https://www.sefaria.org/Bereshit_Rabbah.3.6


“God called the light, Day” – are “light” and “day” not the same thing? This is bewildering. It is taught: The light that was created during the six days of Creation cannot illuminate by day, because it would make the orb of the sun seem dim [by comparison], nor can it [illuminate] at night, as it was created to illuminate only during the day. Where is it, then? It was stored away, and is designated for the righteous for the future, as it is stated: “The light of the moon will be like the light of the sun and the light of the sun will be sevenfold, like the light of the seven days” (Isaiah 30:26). 
This is bewildering: “Seven [days]”? Are they not three? Is it not so, that the lights were created only on the fourth day? It is, rather, like a person who says: This and that I am preparing for the seven days of the wedding feast. Rabbi Neḥemya said: These are the seven days of mourning for the righteous Methuselah, during which the Holy One blessed be He conferred extra light upon them. 
“God saw the light, that it was good, and God distinguished between the light and the darkness” (Genesis 1:4). 


細かいことを考えるものなんだなあという印象をもちましたが、
たしかに、言われてみればそういう疑問はありますよね。
 “God called the light, Day” – are “light” and “day” not the same thing? 
「神は光を昼と呼んだ」―「光」と「昼」は同じものではないのか?
冒頭のこの一文を読んだときに、まずはこの発想を私は持っていなかったと思いました。
そして次のあたりを読んで「七日(間)の光」の意味するところに気付きました。

The light that was created during the six days of Creation cannot illuminate by day, because it would make the orb of the sun seem dim [by comparison], nor can it [illuminate] at night, as it was created to illuminate only during the day. 
創造の6日間に創造された光は、[比較すると]太陽の球が暗く見えるため、昼間に照らすことはできませんし、また、それが創造されたので、夜に[照らす]こともできません。日中のみ点灯します。

そう、神さまはまず「光」を創造されたと聖書には書かれているわけです。
神さまは光源となる物(太陽や月、星という天体)を造られたのではなく、「光」を創造されたわけです。
だから、太陽や月よりも前から「光」はあるという事になる。(もっと言えばその「光」よりも前に創造主とその言葉が存在しているわけですが)
「神は光を昼と呼んだ」―「光」と「昼」は同じものではないのか?
そう、光がクリエイトされ、光を昼と名付けという順番で
で、「昼」と名付けられたけれどもまだその段階では太陽がない!
太陽が造られたのは創世記1章14節~19節のところ、つまり第四日!
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第四日である。

 だから上に引用したBereshit Rabbahではこういう話の展開になるわけですよね

Where is it, then? It was stored away, and is designated for the righteous for the future, as it is stated: “The light of the moon will be like the light of the sun and the light of the sun will be sevenfold, like the light of the seven days” (Isaiah 30:26). 
では、どこにあるのでしょうか?それは保管されており、次のように述べられているように、将来義人のために指定されています。
「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。」(イザヤ書 30:26)。 

This is bewildering: “Seven [days]”? Are they not three? Is it not so, that the lights were created only on the fourth day? It is, rather, like a person who says: This and that I am preparing for the seven days of the wedding feast. 
これには当惑しています:「七[日]」?三日ではないの?そうではないですか、光は第四日にしか作られなかったのですか?それはむしろ、「私は婚宴の七日間に向けてあれやこれや準備をしている」と言っている人のようなものです。

Rabbi Neḥemya said: These are the seven days of mourning for the righteous Methuselah, during which the Holy One blessed be He conferred extra light upon them. 
“God saw the light, that it was good, and God distinguished between the light and the darkness” (Genesis 1:4). 
ラビ・ネヘミャはこう言いました。これは正義のメトセラのための七日間の喪であり、その間、聖なる方は祝福されますように。主は彼らに特別な光を与えられました。 
「神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:4)

righteous Methuselah正義のメトセラについては、クリスチャンたちが教会では聞かないストーリーがいろいろあるようだという事をウィキペディアを読んで知りましたがhttps://en.wikipedia.org/wiki/Methuselah

とにかく、創世記の初めの「光」について
そんなふうに読んだことも考えたこともなかった自分の浅さに
あらためて気づかされたのでした。



もちろん、今回ネット検索で与えられたタルムードやミドラーシュの内容が100パーセント正しく、100パーセント依存すべきとは思ってはいません。
ただ、高校生時代の愚かな私が教科書ガイドを丸写しして日本語の古文や漢文の時間を乗り切っていたというような 大脳を通さない=思考しない読み方 はいい加減卒業したいのです。
疑問は自由に持ち、疑問を解決したいと思う心、そして解決のための行動を、
放棄するようなことだけは
もう、したくないのです。

そして、
キリスト教という宗教によって自分は聖書に導かれたけれども
聖書は永遠に変わることの無い古い古い「イスラエルの神さま」の御言葉であり
イエスさまご自身はユダヤ人であるということを
悪い世、悪い時代の中で、忘れずにいたい。




話を戻します。
というわけで、
タルムードやミドラーシュによれば、
イザヤが30章26節の「七日(間)の光」とは、
創世記の初めの「光」のことであり
イザヤ30章26節の預言が成就するときに義人に「与えられる」光
という事になっていて

だとするとそれはおそらく

イザヤ60章1~2節の箇所や

起きよ、光を放て。
あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから。
見よ、暗きは地をおおい、
やみはもろもろの民をおおう。
しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ
主の栄光があなたの上にあらわれる。

また同じくイザヤ書60章19節20節と同義で

昼は、もはや太陽があなたの光とならず、
夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、
あなたの神はあなたの栄えとなられる。
あなたの太陽は再び没せず、
あなたの月はかけることがない。
主がとこしえにあなたの光となり
あなたの悲しみの日が終るからである。



ヨハネの黙示録の21章や22章にあるこの言葉も
「七日(間)の光」と同義であるのかもしれません。

 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。21:23

 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。22:5

 





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