主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。
モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。
三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。
出エジプト記10章21~23節(口語訳)
出エジプト記に書かれている10の災いのうちの9番目は暗闇の災いでした。
暗闇、חשֶׁךְ
これはイスラエルがエジプトに居たときの出来事であり、この暗闇はエジプト全土という範囲で起こったことです。
しかし聖書はこの時同時に起こっていた大切な事実、不思議な事実を伝えます。
「しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」
エジプト全土は災いの中にあったのだけれどもイスラエルの住むところには光があったというのです。
あなたはあなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。
それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、
また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。
主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。
聖書を読むと「イスラエルの民」は「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」創造主である神さまにとって特別な民であるという事がわかります。
聖書の神を信じていない人にとってはこんなことはどうでも良いことでしょう。
しかし逆に、聖書の神を信じていると語る人々がそれを否定する「はずがない」。
それを否定しているとしたらそれは聖書の神を信じている人ではありません。
そして、イスラエルは特別な民であるゆえ、聖書にはこう書かれているのです
「あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。」と。
イスラエル人は自分をイスラエル人だと言うのなら
当然のこととして
イスラエルの神の命令と、定めと、おきてを守らなければいけません。
創造主がイスラエルにまず何を命じ、
どう生きることを求めておられるのか
そのとおり行わなければどうなるか
それは律法と預言者が語る通りであり歴史書が証言する通り。
わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。主はわたしに答えて言われた、この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
ハバクク書2章1~4節(口語訳)
なぜ申命記7章に続いてハバクク書2章なのかと言いますと
ハバクク書2章3節のこの言葉
כי בא יבא לא יאחר
בא יבא「来る、神の御手は来させる」そのあとのלא יאחר
לא יאחרという言葉はハバクク書のこの箇所ともう一か所申命記7章10節だけにある「遅くはならない、滞りはしない」という言葉なのです。
申命記ではここに登場しています。
また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。
昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
詩篇78:14(口語訳)
神さまは「火の光」をもってイスラエルを導かれたという詩です。
この詩にしても出エジプト記10章の暗闇の災いにしても、語られていることは物理的な暗さだと考えられますから、それに対する「光」という意味をそれぞれ見出すことが適切であろうかとは思いますが
たとえば申命記33章に遺されているモーセの言葉にはこんな箇所があり
「主はシナイからこられ、セイルからわれわれにむかってのぼられ、パランの山から光を放たれ、ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、教をうける。モーセはわれわれに律法を授けて、ヤコブの会衆の所有とさせた。民のかしらたちが集まり、イスラエルの部族がみな集まった時、主はエシュルンのうちに王となられた」。
また、ちょうどこの箇所をベースにしているような箇所がハバクク書にも見られるわけですが
神はテマンからこられ、聖者はパランの山からこられた。その栄光は天をおおい、そのさんびは地に満ちた。〔セラ
その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。
ハバクク書3章3,4節
神さまは「右の手」で救いをお与えになりますので、「右の手」に持っておられるとわざわざ書かれている申命記の光である「燃える火」が気になりまして
申命記33章2節の「燃える火」をヘブライ語で確認したところ
אשדתもしくはאש דתとなっておりました。
אשは火、そして דתは王の勅令または法令のことです。
そういうことを踏まえると、「光がある」ということが、物理的な明るさを与える光のことだけを述べているわけではなく、イスラエルにとって光となり得るものは神さまの命令だというニュアンスを含むように思えます。
ちょうど詩篇119篇105節には「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」という言葉があります。
また、ハバクク3章4節にある神さまの手からほとばしる光とはStrong's Hebrew 7161
קֶרֶן であり、それは聖書中ではおもに「角(つの)」と訳される語であり、光とは言っても武器であるようなニュアンスを感じるわけです。
となると、申命記33章2節での「燃える火」という言葉を知っている人々にとってハバクク3章4節とはただならぬ恐ろしさを与える言葉なのかもしれません。
イザヤ書30章26節「月の光は日の光のようになり」という言葉をどうとらえたらよいのかということでずっと考え続けているわけですが、
太陽のように明るくなった「月の光」
偽りの朝の光について前回書きました。
イザヤがそこにバベルの塔の材料である「れんが」と同じ文字列の「月」という単語をあてていることを考えると
あの「バベルの塔」というものを構成するたくさんのたくさんの「れんが」があり、
そのれんがが・・・
バベルの塔については過去に書いたものがありますのでご覧いただければと思います。
教えは既に聞いていること、知っているはずなのに、この世の権威である「バベルの塔」の言葉に心惹かれてしまうという、エデンの園の蛇の誘惑の言葉に耳を傾けてしまうのと同じことが起こるのです。
この世の権威(真の科学ではない科学的なるものも含む)を着て羊たちを教える指導者の言葉に依存してはいけません。
指導者がすべて正しいわけではない。
それがこの時代の危険です。
「教えに付け加えてはいけない
教えを減らしてはいけない」
それがどういう意味であるか
私たちは良ーく考えなければいけない。
真の王は創造主である神おひとり
真の指導者は神おひとりです。
声の大きい者に流されてはいけない!
もちろん、たくさんの羊を路頭に迷わせる羊飼いは罰せられるに違いありませんが、偽物を「選んだ」なら選んだ羊にも責任があります。誘惑するものはとても悪い。しかし誘惑者の言葉を取り入れたエバにも責任はあるのです。
世の中のあれこれをどう考えたらよいのか心配になるのは仕方がないことですが
神さまに信頼し、落ち着いて静かにしていれば
やがて本当の太陽が昇ります。
焦らなくても大丈夫。本物の夜明けは来ます。
偽物の夜明け、本物の教えを減らしたり付け加えたりした誘惑者の言葉を信じてはいけません。
しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ書9章1,2節
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