2023年12月14日木曜日

聖書に登場する「ガザ」

Strong's Hebrew 5804 עַזָּה  Azzah

コンコルダンスによると、私たちがガザと呼んでいる(ヘブライ語ではガザではなくアザというらしい)地名は、旧約聖書の中に21回登場します。

この地名はStrong's  Hebrew 5794 עַז azに由来するもので、

5794番のDefinition(定義)は strong, mighty, fierceで、
fierceを日本語にすると獰猛(どうもう)な、凶暴な、激しい、すさまじい、猛烈な、荒れ狂う、不快な、ひどい・・・だそうです。

口語訳聖書ではガザではない地名になっている場合もありますが、
5804番が含まれているとされる箇所を以下に引用します。

 

創世記 10:19

カナンびとの境はシドンからゲラルを経てガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムを経て、レシャに及んだ。 
HEB: גְרָ֖רָה עַד־ עַזָּ֑ה בֹּאֲכָ֞ה סְדֹ֧מָה

申命記 2:23

またカフトルから出たカフトルびとは、ガザにまで及ぶ村々に住んでいたアビびとを滅ぼして、これに代ってそこに住んでいる。)
HEB: בַּחֲצֵרִ֖ים עַד־ עַזָּ֑ה כַּפְתֹּרִים֙ הַיֹּצְאִ֣ים

ヨシュア記 10:41

ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。 
HEB: בַּרְנֵ֖עַ וְעַד־ עַזָּ֑ה וְאֵ֛ת כָּל־

ヨシュア記 11:22

それでイスラエルの人々の地に、アナクびとは、ひとりもいなくなった。ただガサ、ガテ、アシドドには、少し残っているだけであった。
HEB: יִשְׂרָאֵ֑ל רַ֗ק בְּעַזָּ֛ה בְּגַ֥ת וּבְאַשְׁדּ֖וֹד
NAS: only in Gaza, in Gath,

ヨシュア記 15:47

アシドドとその町々および村々。ガザとその町々および村々。エジプトの川と大海の海岸までが、その境であった。
HEB: בְּנוֹתֶ֣יהָ וַחֲצֵרֶ֗יהָ עַזָּ֥ה בְּנוֹתֶ֥יהָ וַחֲצֵרֶ֖יהָ

士師記 1:18

ユダはまたガザとその地域、アシケロンとその地域、エクロンとその地域を取った。
HEB: יְהוּדָה֙ אֶת־ עַזָּ֣ה וְאֶת־ גְּבוּלָ֔הּ

士師記 6:4

イスラエルびとに向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった。
HEB: עַד־ בּוֹאֲךָ֖ עַזָּ֑ה וְלֹֽא־ יַשְׁאִ֤ירוּ

士師記 16:1(口語訳では16章2節)

「サムソンがここにきた」と、ガザの人々に告げるものがあったので、ガザの人々はその所を取り囲み、夜通し町の門で待ち伏せし、「われわれは朝まで待って彼を殺そう」と言って、夜通し静かにしていた。
HEB: וַיֵּ֥לֶךְ שִׁמְשׁ֖וֹן עַזָּ֑תָה וַיַּרְא־ שָׁם֙

士師記 16:21

そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋の中で、うすをひいていたが、 
HEB: וַיּוֹרִ֨ידוּ אוֹת֜וֹ עַזָּ֗תָה וַיַּאַסְר֙וּהוּ֙ בַּֽנְחֻשְׁתַּ֔יִם

サムエル上 6:17

ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。
HEB: לְאַשְׁדּ֨וֹד אֶחָ֔ד לְעַזָּ֤ה אֶחָד֙ לְאַשְׁקְל֣וֹן

列王記上 4:24

これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。
HEB: מִתִּפְסַח֙ וְעַד־ עַזָּ֔ה בְּכָל־ מַלְכֵ֖י

列王記下 18:8

彼はペリシテびとを撃ち敗って、ガザとその領域にまで達し、見張台から堅固な町にまで及んだ。
HEB: פְּלִשְׁתִּ֛ים עַד־ עַזָּ֖ה וְאֶת־ גְּבוּלֶ֑יהָ

歴代誌上 7:28

エフライムの子孫の領地と住所はベテルとその村々、また東の方ではナアラン、西の方ではゲゼルとその村々、またシケムとその村々、アワとその村々。 
HEB: וּבְנֹתֶ֔יהָ עַד־ עַיָּ֖ה וּבְנֹתֶֽיהָ׃
KJV: also and the towns thereof, unto Gaza and the towns
INT: towns far Gaza towns

エレミヤ書 25:20

もろもろの寄留の異邦人、およびウズの地のすべての王たち、およびペリシテびとの地のすべての王たち、(アシケロン、ガザ、エクロン、アシドドの残りの者)、
HEB: אַשְׁקְל֤וֹן וְאֶת־ עַזָּה֙ וְאֶת־ עֶקְר֔וֹן

エレミヤ書 47:1

パロがまだガザを撃たなかったころ、ペリシテびとの事について預言者エレミヤに臨んだ主の言葉。
HEB: פַרְעֹ֖ה אֶת־ עַזָּֽה׃ ס

エレミヤ書 47:5

ガザには髪をそることが始まっている。
アシケロンは滅びた。
アナクびとの残りの民よ、
いつまで自分の身に傷つけるのか。
HEB: קָרְחָה֙ אֶל־ עַזָּ֔ה נִדְמְתָ֥ה אַשְׁקְל֖וֹן

アモス書 1:6

主はこう言われる、
ガザの三つのとが、
四つのとがのために、
わたしはこれを罰してゆるさない。
これは彼らが人々をことごとく捕えて行って、
エドムに渡したからである。
HEB: שְׁלֹשָׁה֙ פִּשְׁעֵ֣י עַזָּ֔ה וְעַל־ אַרְבָּעָ֖ה

アモス書 1:7

わたしはガザの石がきに火を送り、
そのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす。
HEB: אֵ֖שׁ בְּחוֹמַ֣ת עַזָּ֑ה וְאָכְלָ֖ה אַרְמְנֹתֶֽיהָ׃

ゼパニヤ書 2:4

ともあれ、ガザは捨てられ、
アシケロンは荒れはて、
アシドドは真昼に追い払われ、
エクロンは抜き去られる。
HEB: כִּ֤י עַזָּה֙ עֲזוּבָ֣ה תִֽהְיֶ֔ה

ゼカリヤ書 9:5

アシケロンはこれを見て恐れ、
ガザもまた見てもだえ苦しみ、
エクロンもまたその望む所のものが
はずかしめられて苦しむ。
ガザには王が絶え、
アシケロンには住む者がなくなり、
 אַשְׁקְל֜וֹן וְתִירָ֗א וְעַזָּה֙ וְתָחִ֣יל מְאֹ֔ד
 וְאָ֤בַד מֶ֙לֶךְ֙ מֵֽעַזָּ֔ה וְאַשְׁקְל֖וֹן לֹ֥א

2023年12月13日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

והיה אור הלבנה כאור החמה

ואור החמה יהיה שבעתים

כאור שבעת הימים

ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

イザヤ書30:26 
(ヘブライ語聖書から引用) 

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)

 

 

七つの日の光(口語訳、新改訳)、七日分の光(聖書協会共同訳)、七日の光(直訳)になる、とは何なのか。

 

単純に七倍になった事を言い換えているだけだとも考えられますし、
実際、自分はずっとそう考えて読んできたのですが、

ゆっくりじっくりと読んでみると、何かがおかしい。

 

読者はまず「月の光は日の光のようになり、」という言葉を読み

月の光は日の光のようになるというイメージを膨らませるわけです。

ああ、月が日のように明るくなるのかというイメージを読み取るわけです。

そして続いて「日の光は七倍となり、」とかいてあるので、

月も明るくなるけれども、太陽の光は7倍になるのか、と

それはそれはギラギラとまぶしい7倍の光となった太陽のイメージを心に描くわけです。

 

で、そこで終わっていれば、そういう話だという事でなるほどね、昼も夜も明るいねという事になるわけですが

そこでは終わらず「七つの日の光のようになる。」と言うわけです。

ヘブライ語で見ますと、「日の光は七倍となり、」という言葉の後にくる「七つの日の光のようになる。」という言葉はヴァヴで接続されていませんので、

新たな話をしているわけではなく、直前に書かれている太陽の話か、もしくはその前の月の光の話も含んだ話(つまり月と太陽の光の変化)を「七つの日の光のようになる。」という表現で受け、まとめているようにも思えるのですが、

七つの日の光はどう読んでも七日間seven daysの光と読め、

石のようにコチコチの頭を持つ私には

「七日という言葉は日数であって光の量を表さない」としか思えないわけです。

それでもどうしても光の量を表すのだと考えるなら
一日分の光を1単位としてそれの7倍ということなのか、とか思ってみるわけですが

それだと七日間の光とは「一日分の光が七日間照射される」という話になってしまい、太陽光の量には何の変化も起こっていないことになってしまうわけです。

ならば、月や太陽の変化が7日間なのかと考えたらどうかと考えましたが、
だったら別の言い方でもっと簡潔に直接的に表現した方が正確に伝わるはずです。

ドツボにはまった感がありますので

 

とりあえずまずはいつもの調べ学習のパターン。ヘブライ語聖書で

שבעת הימים七日seven days という言葉を含む箇所をコンコルダンスで拾い上げます。

 

創世記 7:10

こうして七日の後、洪水が地に起った。
HEB: וַֽיְהִ֖י לְשִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וּמֵ֣י הַמַּבּ֔וּל

出エジプト記 13:7

種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。 
HEB: אֵ֖ת שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וְלֹֽא־ יֵרָאֶ֨ה

士師記 14:17

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。 
HEB: עָלָיו֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים אֲשֶׁר־ הָיָ֥ה

1 歴代誌 9:25

またその村々にいる兄弟たちは七日ごとに代り、来て彼らを助けた。
HEB: לָב֨וֹא לְשִׁבְעַ֧ת הַיָּמִ֛ים מֵעֵ֥ת אֶל־

2 歴代誌 30:22

そしてヒゼキヤは主の勤めによく通じているすべてのレビびとを深くねぎらった。こうして人々は酬恩祭の犠牲をささげ、その先祖の神、主に感謝して、七日のあいだ祭の供え物を食べた。
HEB: הַמּוֹעֵד֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים מְזַבְּחִים֙ זִבְחֵ֣י

イザヤ書 30:26

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
HEB: כְּא֖וֹר שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים בְּי֗וֹם חֲבֹ֤שׁ

エゼキエル書 45:23

祝い日である七日の間は、七頭の雄牛と、七頭の雄羊の無傷のものを、七日の間毎日、燔祭として主に供えよ。また、雄やぎを罪祭として日々ささげよ。 
HEB: לַיּ֔וֹם שִׁבְעַ֖ת הַיָּמִ֑ים וְחַטָּ֕את שְׂעִ֥יר

エゼキエル書 45:25

七月十五日の祝い日に、彼は七日の間、罪祭、燔祭、素祭および油を、このように供えなければならない。
HEB: כָאֵ֖לֶּה שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים כַּֽחַטָּאת֙ כָּעֹלָ֔ה

 

 

ドツボの度合いがいっそう増した感ww

特にこれと言って・・・

気付けないのはわたしだけ?(;´Д`A ```

 

 

 

もしかして「七日の光」とは何か慣用句的なものなのでしょうか?

直前の七倍とかそういう数字の表現とは関係なく、

「七日の光」単独で共通理解できるようなそういう表現?

直前の「七倍」という数字が「7という数字」つながりで

「七日の光」という言葉について異邦人読者に疑問を抱かせにくい一体感、ナチュラル感、聖書っぽさを醸し出しているのだけれども実際には「七倍」とは全く関係のない独立した言葉であって、

 

うーん・・・たとえば

 

例文1 彼は、朝ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。

例文2 彼は、夕ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。

という二つの文があったとして、

日本語ネイティブであれば、「朝飯前」という言葉は「簡単である」という意味だと知っていますから、その前にどんな言葉があっても「そんなの簡単だ」とわかるわけですが

朝飯前という言葉を文字通りの「朝ごはん前」と読んでしまうと、

例に挙げた二つの文は???ということになり

人によっては勝手に言葉を補って

「そんなの朝飯前にやった」と「完了形」でとらえてしまうかもしれない、というような

 

聖書ヘブライ語ネイティブではないゆえの誤解をしているのではないか・・・

 

 

で、とにかく何かしら読解の手がかり足がかりになるものはないかしらということで

12月5日の記事の最後に書いた謎サイトの文章を読んでみることにしました。

שבעת הימים

この文字列を検索にかけたところ、想像していたのとは異なる検索結果が現れて…というのが12月5日の記事の最後だったわけですが

 

אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光

שבעת הימים – ויקיפדיה 七つの海

 

 

יום(日)ではなくてים(海)と読んでしまって「七つの海」というのはさすがにイザヤ書の場合文脈に沿わないと思うので、
「七日間の光」という記事の方(ハバド・ハシディズムの教えについて書かれているChabadpediaにおけるשבעת הימים)をグーグル翻訳の力を借りて読んでみました。ハバド・ハシディズムがどういう教えなのかはよくわかりませんが、「七日間の光」という言葉にヘブライ語を知る人たちが何を感じるのか知りたいのです。

 

すると、まず最初にこんなことが書いてありました。



בפי חז"ל 賢者?

 

全体を一括で翻訳すると日本語に訳された言葉の意味が全く見えなかったので、

一語一語、そしていくつかの言葉をまとめて翻訳してもらったりいろんなことをして読んでみたのですが

ドツボから今度は大海のど真ん中に引きずり出されたような(笑)

しかし、やはり「七日間の光」という表現は見出し語となりうる一つの決まり文句というか、ヘブライ語聖書を読む人々が共有する特別な表現であるということに気付かされました。
ちょっとまだはっきりと言える段階ではないのですが、

ただ、これが創世記の初めのところで神さまが創造された「光」を指す言葉なのだと認識されているのだとすれば、

 

そこにはまだ罪などはないわけで

これは以前、エデンの園とイエスさまという記事を書いたときに


「ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 

トーラーを持たない私がこの言葉を聞いたとき、
この言葉は、自分の現在の立ち位置を原点として未来という一方向だけに限りなく伸びる半直線をイメージさせました。
そして、「死んでも死なない」という意味での「永遠の命」そして漠然とした「天国」を思い描いたわけですが、
トーラーを持つ人々がこの言葉に出会った場合、
おそらく線は自分の立つ原点を中心に、未来だけではなくはるか遠い創造の昔にも向かっているのです。
そして、こんなメッセージを聞くことになるのです。
「エデンの園に帰れるのだ!
神さまは御子によって人間を再びエデンの園に戻してくださった!
神さまとの断絶が完全に終わったのだ!」

と書きましたが、

ちょうどそれと同じような気分で語る

「創造」の時の光というのが「七日間の光」であって

だとすれば

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)

というのは、

「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」というところで

イザヤの気持ち、イザヤの言わんとしたことはいったん終了して

そういう「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」となることで

創世記の初めのようになる、つまりこの「七日間の光」という言葉のあとの「いやし」の内容につながっているということなのかもしれません。

ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

(9)の記事でも書いた事の繰り返しになりますが

月の光日の光の話の後にあるのは、単語の意味を並べてみればこういうふうになっているわけで

 

「その日」

「包む」

「主(神聖四文字)」

אֶת

「壊れている、破滅状態、(クラッシュしている)」

「彼の民」

「そしてひどく傷ついている(砕け散っている)」

「虐殺、疫病、刃物や銃による傷」

「完全にいやす」

 

そして、「包む」というのは「ろばにくらを置く」という事であり、

「ろばにくらを置く」というのはすなわち

ろばがろばとしてそのやるべきことをやるために必要な準備ですから

イスラエルにはいろいろなことがあったけれども、

 

月がうんぬん日がうんぬん・・・というようなことがあり

このようにして「七つの日の光のように」なったので

彼らは癒され、

創造の初めのあるべき姿となり

彼らは彼らのなすべきことを行うようになる

 

ということでしょうか。

 





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2023年12月11日月曜日

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

今日は、イザヤ書30章26節について「いったん」まとめようと思っています。
まだ「7日分の光」という言葉について納得できていないので、今後も調べ学習は継続していこうと思っておりますが、とりあえず現段階ではどんな理解に至ったのか、という事を記録しておこうと思います。


とその前に、今朝創世記16章を読みながら少々思ったことがあったのでその話から。

口語訳聖書の創世記16章を「日本語の聖書」様サイトより引用させていただきます。

16:1アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。 16:2サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。 16:3アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。 16:4彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。 16:5そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下さげます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。 16:6アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
16:7主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、 16:8そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。 16:9主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。 16:10主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。 16:11主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。 16:12彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。 16:13そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。 16:14それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。これはカデシとベレデの間にある。
16:15ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた。 16:16ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。

創世記16章(口語訳)

創世記という書には、この世界の根本、土台、そもそも、という事が書かれています。

良いか悪いか、読者の納得がいこうがいくまいが、誰がどんな評価をすることになろうがそんなことにはおかまいなく、書かれているわけです。

そしてこの創世記の16章もそう割り切って読まないとやっていられないストーリーの一つだと私は思っています。

このくだりさえなければ、と思わない日はないわけです。

 

しかし「要するに」
人間というものは、年齢も経験も立場もへったくれもなく、

もっと言えば創造主との関係性や距離感にも関係なく

欲に駆られて創造主の言葉を改変したり曲解したり無視したりという罪を犯し

罪を犯せば必ずトラブルが起こって、
遅かれ早かれ、経路はともかく「死」に至る。

が、創造主が愛であったゆえに
完全な滅びに至る前に
最適なタイミングで軌道を正され今日の世界がある。

 

 

だとすれば、イザヤ書30章26節もそうであるということです。

 

まずは25節から読んでいきます。
「大虐殺」というキーワードがまずあるわけですが
これは主が容認されているからこそ起こり得たことです。
言い換えると、
イスラエルは、契約のとおりであればいずれそうなるだろうとわかっているにもかかわらず欲に駆られて創造主の言葉を改変したり曲解したり無視したりという罪を犯したので報いとしての「死」がもたらされた、ということです。

そしてそれは、敵の剣による場合もあるし、疫病である場合もあるし、
いずれにしても、神の民は壊れてボロボロになっているわけです。

 

しかし、同時に、「塔」も倒れるのです。
イスラエルが頼りにした神さま以外の国や物、
より頼んでも何の助けにもならない「塔」もすべて倒れてしまう。
30章の初めから読むとそのあたりのことが読み取れます。

そして、大虐殺と塔のすべてが倒れる事態の前後関係は

当然のこととして、塔=要塞が倒れたからそれに守られていた人々が死に至るはずで、
要するに、イスラエルがより頼んでいたものは何の役にも立たなかったということです。

イザヤは「月」という語にバベルの塔建設のために使ったれんがと同じ文字列の語を使うことで、ここにおける「塔」という言葉と「バベルの塔」に関係があることを読者に伝えます。

「ユダヤ古代史」によると、バベルの塔建設をさせたリーダー、ハムの孫のニムロデ(ニムロド)は、彼らの繁栄が
創造主のおかげではなく、
彼ら自身の剛勇(アレテー)によることを納得させたとありますが、


Strong's Hebrewで、(バベルの)塔=ミグドルの前後の単語(文字列の似ている単語)に目を留めてみると
  
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower 
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh 

ミグドルの一つ前には同じく塔を表すミギドウン、そしてもう一つ前には人間の優秀さを意味するメゲドがあり、

ミグドルの一つ後にはヨハネの黙示録に現れるハルマゲドンに含まれる地名であるメギドン(メギド)があります。

つまり、ヨハネが黙示録に置いて言及したハルマゲドンとはイザヤ書30章26節に由来するものであり、ハルマゲドンとは第一義的にはイスラエルが
創造主である神さまにより頼むことなく大国や人間が手で作ったものにより頼むことによってはじまりもたらされる大量死、大虐殺のことです。
従って、イスラエルが頼りにしたもの「塔という塔は」倒れてしまうことになります。

 

そして26節「月の光が日の光のようになる」という言葉について

月は月です。日ではないのです。

月には月の役割そして能力というものがあります。
しかもここで言う「月」は神さまが創造された「月」ではなく、人工物であるれんがです。バベルの塔を作り上げたうちの一つのれんがです。(れんがは単数形である)

その発する光を「日の光」のようにするとすれば、

月は恒星ではありませんから日の光を反射して光っているわけで、

「日の光」をれんが一つに照射するという事になります。

ここで言う「日(太陽)」は「激怒」という意味を持つ単語と文字列が同じものなので、

「激怒」の光をれんがに向かって照射するという事になります。

激怒ではないただの光だったとしても、れんがの一つに過ぎないものに太陽のエネルギーは完全にキャパオーバーです。
そう、太陽一つ分の光であっても受け止めきれないでしょうに、日の光は7倍になるという事ですから

ただの土の塊であったれんがは

焼き尽くされて跡形もなくなってしまう。

 

 

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

イザヤ書30章25、26節

 

 





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2023年12月8日金曜日

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節をずーっと考え続けてる中で、困っているのは「光」という単語です。

これまでの人生経験・・・いや、聖書のメッセージを聴いている中で「光」は闇の対極であって、100パーセント良いものとして教えられてきたからです。

聖書辞典も眺めてみましたが、案の定、悪い意味での「光」なんてないわけです。

 

 

なんかないかなあ・・・と考えていて気付いたのは目の前のディスプレイ。

これ、私の目に悪いw。長時間じっと眺めていると片頭痛を催すし、そもそもまぶしすぎて不快なのでメガネをかけて使っております。

最近の研究ではブルーライトカットグラスをかける方が悪いとか言う説もあるようですが、私は自然光であっても強い光を浴びると閃輝暗点を起こすので、駄目なものは駄目ということで、サングラスやブルーライトカットグラスは友達です。そう、ブルーライトで虫が死んでしまうという研究もありましたし・・・ってブルーライトは聖書とは関係ないわけですが

そんなことを考えていて気付いたのは「~の光」という表現。

たとえ「光」が良いものであったとしても「~の」に当たる部分が悪であればその光は悪なのではないかと。

(苦し紛れのこじつけか)

 

神さまの「栄光」もあるが悪い集団の長の「栄光」だってある

とそこまで考えたときパウロが言ってた言葉を思い出しました。

新改訳聖書を30年近く読んでおりましたので、こういう時に思い出すのは新改訳聖書の言葉なのですが、太陽の栄光もあり月の栄光もあり星の栄光もあります・・・というところ。第一コリントの15章。著作権の関係があるので口語訳から引用します。

コリント人への第一の手紙15章41節
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 

栄光の話であって光ではないとは思いますが、

光にもいろいろあると言えばあるのではないか、と。

 

確信を持って言っているわけではないので今後10年間でまた話が変わっていくのかもしれませんが、現時点の思い付きと思い込みとして、そういう「~の光」という
修飾語が付くことによって

また、その光を受け止める人々の状況などによって

「性質の異なる光」というものがある、と

 

一般的には光と言ったら好ましいものではあるけれども

だいたい、この夏の尋常ではない暑さを思えば

暑さではなく「熱さ」であり、

いつになってもやむ気配もなく、

…12月になってもまだ20度に行きそうで…

太陽の光がこんなに恐ろしいものなのかと

白く筋の入った新米をとぎながら思っているわけです。

 

 


光という言葉をヘブライ語の聖書で眺めてみました。

 

 

 

イザヤ書30章26節に登場する「月の光は日の光のように」

というところはどういうふうに書かれているかというと

אור הלבנה כאור החמה

 

意味は

אור 

הלבנה the

כאור のように

החמה the日(太陽)

で、

אורという言葉は122回聖書に登場しているのですが、

כאורという表現になるとわずか3回しかないのです。

言い換えると、「光のようになる」という聖書の箇所は3か所しかないということです。
で、3回のうち2回はイザヤ書にあります。

光という言葉は聖書の中ではほとんどの場合(122回中52回)
אור’ō·wrオウル という何も付かない状態で現れるのですが、
イザヤ書には文字がついていることがあり
…ヨブ記もいろいろついている気がしますが

時代の問題だったり、書の性質の問題だったり、いろいろあるとは思うのですが
イザヤ書はトーラーの学びというか、トーラーでしっかり単語の基本を押さえていないと読み解けない仕様になっているような気がします。(個人の感想です)

 

אור’ō·wrオウルという語の使われ方


bā·’ō·wr — 1 回 ヨブ記
bə·’ō·wr — 7 回 ヨブ記1回、詩篇3回、箴言1回、イザヤ書1回、ミカ書1回
bə·’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
ḵā·’ō·wr — 1回 詩篇
hā·’ō·wr — 7回 創世記3回、士師記1回、ネヘミヤ記1回、伝道の書2回
kā·’ō·wr — 1回 ハバクク書
kə·’ō·wr — 3回 箴言1回、イザヤ書30章26節に2回
lā·’ō·wr — 7回  創世記1回、ヨブ記2回、イザヤ書2回、ミカ書1回、ゼパニヤ書1回
lə·’ō·wr — 13回 ヨブ記2回、イザヤ書7回、エレミヤ書3回、ハバクク書1回
lə·’ō·w·rêḵ — 1回 イザヤ書
lə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記
mê·’ō·wr — 1回 ヨブ記
’ō·wr — 52回
’ō·w·rām — 3回  ヨブ記1回、イザヤ書1回、エレミヤ書1回
’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
’ō·w·rêḵ — 1回  イザヤ書
’ō·w·re·ḵā — 2回  イザヤ書2回
’ō·w·rê·hū — 1回 ヨブ記
’ō·w·rî — 1回 詩篇
’ō·w·rîm — 1回  詩篇
’ō·w·rōw — 4回 ヨブ記2回、イザヤ書1回、エゼキエル書1回
ū·ḵə·’ō·wr — 1回  サムエル記下
way·yā·’er — 1回  詩篇
wā·’ō·wr — 1回 イザヤ書
wə·hā·’ō·wr — 1回  伝道の書
wə·’ō·wr — 7回 ヨブ記1回、詩篇3回、イザヤ書2回、エレミヤ書1回
wə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記1回

 

 

 

さて、

כאור のように

ということばについてですが、

この言葉は上に書いた通り聖書の中にはこの形で3回出てきます。

でそのうち2回はイザヤ書ですがもう一つ箴言にこの形の言葉が登場します。

正しい者の道は、夜明けの光のようだ
いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4章18節

この箴言の言葉を眺めていて思ったのは、

夜明けの光のようだ、というのは夜明けの光ではないということです。

「正しい者の道は夜明けの光のようだ」と書かれているものを読んで

正しい者の「道」が夜明けの「光」になってしまう様子を思い描く人はいないということです。

イザヤは、そういう「ストレートではない」文学的な表現を、この30章の箇所と限らず多く用いているわけです。

だとすると、

「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。」

というこの箇所は天体である月の光や太陽の光の話をしているわけではなく、

れんがと同じ文字列の「月」という言葉を用いたり、

激怒という言葉と同じ文字列の「日(太陽)」という言葉を使うことで

 

イエスさまがたとえ話をなさったように
「謎」を提示しているのかもしれません。

 

そして

預言者のことですからそもそも「謎」が標準仕様であるのに

すべては解明しつくされていて、注解や講解を読めばちゃちゃっと理解できるものだと思い込んでいた私の態度が間違いだったのだと思います。

 

 





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イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年12月7日木曜日

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

「光」という言葉が何を言っているのかずっと考え続けているのですが、どうもよくわからないので、先に
Strong's Hebrew 2280 חָבַשׁ 
について書きたいと思います。
Definitionとしては to bind, bind on, bind upと書かれているこの言葉、どこに書いてあるかというと

イザヤ書30章26節
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

bind upということなので、包帯をしっかり巻くというような意味なのだとは思うのですが、聖書のほかの箇所で調べてみるとなんとなくイメージが違う。

まず、聖書の中で一番初めに2280番が登場するのは創世記で

 創世記22:3
アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

太字にしましたが「ろばにくらを置き」というところが該当箇所です。

2280番は聖書の中に33回登場するのですが、

で、この「ろばにくらを置き」という翻訳がつけられているのは全部で13回。

民数記 22:21

士師記 19:10

サムエル記下 16:1

サムエル記下  17:23

サムエル記下  19:26

列王記上 2:40

列王記上 13:13(2回)

列王記上 13:23

列王記上 13:27(2回)

列王記下 4:24

そして、ろばにくらを置く以外の翻訳としては

 出エジプト記29:9
彼ら、すなわちアロンとその子たちに帯を締めさせ、ずきんをかぶらせなければならない。祭司の職は永久の定めによって彼らに帰するであろう。あなたはこうして、アロンとその子たちを職に任じなければならない。

「帯を締めさせ」の方が2280番のように考えがちですが、帯を締めるという単語は別にあって、2296番חָגַר英語でもgirdというbindではない単語が使われています。

で、ここまでのことを踏まえて2280番の意味を考えると、

bindという英語を聞いてまず思うであろう「ひもでしっかり縛る」というニュアンスよりも「かぶせる」というニュアンスがあり、

もう少し踏み込むと、「ろばにくらを置く」とかアロンとその子たちに「頭巾をかぶせる」という行為は、
所有者、使用者が、そのものをそのものの使命や立場にふさわしく、くらを置いたり頭巾を「かぶせて整える」というようなことなのかもしれないと思います。
(書きながら、かぶりものについて書かれている第一コリント11章のところを思い出したのですが、ユダヤ人の男性のキッパーのことを考えると一コリント11章がなんだかよくわからない
。。。と言えてしまう今日この頃。Wikipediaによると「キッパー」は神に対して頭を隠すことで神に対しての謙遜の意思を表す意味があるそうです。)

 

2280番חָבַשׁの話に戻ります。

2280番の言葉は、NASB(New American Standard Version)  の翻訳語として以下のような語がカッコ内の数字の頻度で充てられているそうです。

bandage (1), bandaged (1), bind (5), binds (2), bound (3), dams (1), gives relief (1), healer (1), rule (1), saddle (3), saddled (10), wound (1), wrapped (3).

最も多いのがsaddle(d)であるということはお分かりいただけると思うのですが、
面白いのは

gives relief (安心を与える) healer(いやす人)というような単語と並んで
rule(ルール、治める、統治する)という単語があることです。

 

以前詩篇23篇に登場する「杖」ついて書いた事がありますが


「羊飼いが見た詩篇23篇」
W・フィリップ・ケラー 著/ 舟喜順一 訳
という本の110ページから123ページ、
「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」という項で

羊が「所有者の支配と権威の下に入る」ということは
「所有者である彼の注意深い、細かい、直接の検査を受けるということ」
だと学ばせていただいたことがあります。

 

悪王に支配されるということは締め付けられる負の要素しかありませんが

善王の支配に入るということは安心を得られることです。

 

 

さて、口語訳聖書のイザヤ書30章26節において、2280番は以下のような太字の箇所だと書きましたが、

イザヤ書30章26節
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。


「さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、」
と訳されているところを単語の順に並べるとこうなります。


「その日」

「包む」←2280番

「主(神聖四文字)」

אֶת

「壊れている、破滅状態、(クラッシュしている)」

「彼の民」

「そしてひどく傷ついている(砕け散っている)」

「虐殺、疫病、刃物や銃による傷」

「完全にいやす」

 

翻訳者は、日本語話者の理解しやすさと「宗教の教典」ゆえの品位を第一に考えて訳したのだろうなあと察するわけですが

イザヤが語っている場面は相当ひどい状態のようです。

 





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2023年12月6日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

どうしてこんなに近くにあった言葉を見落としたのかわかりませんが
イザヤ書30章26節の「日(太陽)」2535番 חַמָּה chammah

と同じ文字列ではあるけれども発音の異なる2534番

 חֵמָה chemah

この言葉を含む聖書の箇所を読むと、月の光が日の光となりとか七倍になるとか言う話が間違いなく悪い話であることが分かります。(日本語の引用聖句は口語訳)

神さまが怒っておられる話ばかりで日本語の聖書でも怒り怒りとたくさん書いてあって、どこがその単語に該当しているのかわからない!

なので、複数回怒りだの憤りだのが登場している引用箇所では該当箇所として太字にした部分が間違っているような気がしますが

とにかく怒っておられる。
ハムにヘーが付いた文字列の単語は怒りを表しているのです。

2534番の言葉は全部で122箇所あるのですが、

トーラーとイザヤ書のところだけ引用します。

 

創世記27:44
あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。
 אֲשֶׁר־ תָּשׁ֖וּב חֲמַ֥ת אָחִֽיךָ׃

レビ記26:28
わたしもあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 
 וְהָלַכְתִּ֥י עִמָּכֶ֖ם בַּחֲמַת־ קֶ֑רִי וְיִסַּרְתִּ֤י

民数記25:11
「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。
 הֵשִׁ֤יב אֶת־ חֲמָתִי֙ מֵעַ֣ל בְּנֵֽי־

申命記9:19
主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。
 מִפְּנֵ֤י הָאַף֙ וְהַ֣חֵמָ֔ה אֲשֶׁ֨ר קָצַ֧ף

申命記29:23
――全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、むかし主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。――
 יְהוָ֔ה בְּאַפּ֖וֹ וּבַחֲמָתֽוֹ׃

申命記29:28
そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである』。
אַדְמָתָ֔ם בְּאַ֥ף וּבְחֵמָ֖ה וּבְקֶ֣צֶף גָּד֑וֹל

申命記32:24
彼らは飢えて、やせ衰え、
熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。
わたしは彼らを獣の歯にかからせ、
地に這うものの毒にあたらせるであろう。
 בָּ֔ם עִם־ חֲמַ֖ת זֹחֲלֵ֥י עָפָֽר׃

申命記32:33
そのぶどう酒はへびののよう、
まむしの恐ろしい毒のようである。
 חֲמַ֥ת תַּנִּינִ֖ם יֵינָ֑ם

 

イザヤ書27:4
わたしは憤らない。
いばら、おどろがわたしと戦うなら、
わたしは進んでこれを攻め、
皆もろともに焼きつくす。
 חֵמָ֖ה אֵ֣ין לִ֑י

イザヤ書34:2
主はすべての国にむかって怒り、
そのすべての軍勢にむかって憤り
彼らをことごとく滅ぼし、
彼らをわたして、ほふらせられた。
 כָּל־ הַגּוֹיִ֔ם וְחֵמָ֖ה עַל־ כָּל־

イザヤ書42:25
それゆえ、主は激しい怒りと、
猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。
それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、
彼らを焼いても、心にとめなかった。
 וַיִּשְׁפֹּ֤ךְ עָלָיו֙ חֵמָ֣ה אַפּ֔וֹ וֶעֱז֖וּז

イザヤ書51:13(二か所)
天をのべ、地の基をすえられた
あなたの造り主、主を忘れて、
なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、
その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。
しえたげる者の憤りはどこにあるか。
 הַיּ֗וֹם מִפְּנֵי֙ חֲמַ֣ת הַמֵּצִ֔יק כַּאֲשֶׁ֥ר
 לְהַשְׁחִ֑ית וְאַיֵּ֖ה חֲמַ֥ת הַמֵּצִֽיק׃

イザヤ書51:17
エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。
あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、
よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。
 אֶת־ כּ֣וֹס חֲמָת֑וֹ אֶת־ קֻבַּ֜עַת

イザヤ書51:20
あなたの子らは息絶えだえになり、
網にかかった、かもしかのように、
すべてのちまたのすみに横たわり、
主の憤りと、あなたの神の責めとは、
彼らに満ちている。
מִכְמָ֑ר הַֽמְלֵאִ֥ים חֲמַת־ יְהוָ֖ה גַּעֲרַ֥ת

イザヤ書51:22
あなたの主、おのが民の訴えを弁護される
あなたの神、主はこう言われる、
「見よ、わたしはよろめかす杯を
あなたの手から取り除き、
わが憤りの大杯を取り除いた。
あなたは再びこれを飲むことはない。
 קֻבַּ֙עַת֙ כּ֣וֹס חֲמָתִ֔י לֹא־ תוֹסִ֥יפִי

イザヤ書59:18
主は彼らの行いにしたがって報いをなし、
あだにむかって怒り
敵にむかって報いをなし、
海沿いの国々にむかって報いをされる。
 כְּעַ֣ל יְשַׁלֵּ֔ם חֵמָ֣ה לְצָרָ֔יו גְּמ֖וּל

イザヤ書63:3
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
もろもろの民のなかに、
わたしと事を共にする者はなかった。
わたしは怒りによって彼らを踏み、
憤りによって彼らを踏みにじったので、
彼らの血がわが衣にふりかかり、
わが装いをことごとく汚した。
בְּאַפִּ֔י וְאֶרְמְסֵ֖ם בַּחֲמָתִ֑י וְיֵ֤ז נִצְחָם֙

イザヤ書63:5
わたしは見たけれども、助ける者はなく、
怪しんだけれども、ささえる者はなかった。
それゆえ、わがかいながわたしを勝たせ、
わが憤りがわたしをささえた。
 לִי֙ זְרֹעִ֔י וַחֲמָתִ֖י הִ֥יא סְמָכָֽתְנִי׃

イザヤ書 63:6
わたしは怒りによって、もろもろの民を踏みにじり、
憤りによって彼らを酔わせ、
彼らの血を、地に流れさせた」。
 בְּאַפִּ֔י וַאֲשַׁכְּרֵ֖ם בַּחֲמָתִ֑י וְאוֹרִ֥יד לָאָ֖רֶץ

イザヤ書66:15
見よ、主は火の中にあらわれて来られる。
その車はつむじ風のようだ。
激しい怒りをもってその憤りをもらし、
火の炎をもって責められる。
מַרְכְּבֹתָ֑יו לְהָשִׁ֤יב בְּחֵמָה֙ אַפּ֔וֹ וְגַעֲרָת֖וֹ

 

 



おいおいおいおいと言いたくなるような箇所ばかりで。

あの綴りである「日(太陽)」の光が七倍って

激怒が七倍になる感じじゃないですか!?

ああ大変!

でも

間違いないことは

神さまは従う者には怒るはずがない。

ニムロドのような者たちへの怒りですよね。

 

 

それにしたって

なんで私は「月の光は日の光日の光は七倍」というこの箇所をほんわか良いムードな感じにとらえていたのでしょうか40年も!

本当にこれって・・・アレのことなんですか?アレの・・・

 

 

あ、聖句を思い出した

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。ヤコブの手紙3章1節

(;´Д`A ```

 





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イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

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2023年12月5日火曜日

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

本当はこういうことをしたらいけないのだと思うのですが・・・
口語訳聖書のイザヤ書30章23節から26節までの文をヘブライ語聖書での並び順に入れ替えて言葉も少々変えて並べてみたいと思います。23節24節は入れ替えの必要がないと思えるのでいじりません。

 

(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。

(25)すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。

 

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
(26)月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光

 

その日主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる

変更前の文章

(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。
(25)大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
(26)さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

 

次に、
この文の流れに注目してください。

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光のようになる。
その日、主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる

 

これを

(1)から(6)で書いた内容と以前書いた「バベルの塔とハルマゲドン」という記事を踏まえて読み直してみます。

(1)から(6)で書いた事

この節で使われている「月」「日(太陽)」という言葉はほかの箇所にはあまり出てこない単語で表現されていて、「月」という言葉はバベルの塔を造るために使った「れんが」と同じ文字列であり、「日(太陽)」という言葉はノアの息子であるハムの名前の後に神聖四文字に二回使われているהヘーというヘブライ文字が付いているものである。
ノアの息子であるハムの名前の後に父なる神さまを表すאアレフというヘブライ文字が付いている単語がダニエル書にあってそれは「激怒」と訳される。
七倍という言葉は災いや復讐などの時に使われている言葉である。

 

「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」
虐殺という言葉はהרגヘレグで、הרハル=山という意 に גギメル=ラクダを表す文字で大きいというニュアンスが込められることが多い が付いている

やぐらという言葉はヘブライ語ではミグダルの複数形でמגדליםミグダリムとなっている。

Strong's Hebrewで、この単語の前にあるいくつかの単語に目を留めてみると
 
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh 

メギドンまたはメギドという地名は「塔」という言葉に大変近い音(綴り)

 

「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」を合体させるとヨハネの黙示録16章にあるハルマゲドンという言葉になる可能性が高い。

 

「月の光」「日の光」
ここでいうところの「月」は、その文字列がバベルの塔を建設するために人間が作った「れんが」と同じであるということと、前節にバベルの塔を思い起こさせるミグダルが登場する事や
30章26節と全く同じ「月」「日」というレアな単語を使用しているイザヤ書の24章23節の箇所を考えあわせると、天体としての月ではない可能性が高いのではないかと思う。

 

 

 

 

イザヤ書24章23節について

こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
あわて恥じる。
イザヤ書24章23節

この箇所の大きな特徴としては月と日が擬人化されているということです。

月は「あわて」というところにあるヘブライ語は
Strong's Hebrew 2659חָפְרです。

2659番はイザヤ書1章29節でも使われているのですが
偶像崇拝者がどうなるのか、ということを描写する「恥じ」という表現用いられています。

あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、
はずかしめを受け
みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。

 

次にイザヤ書24章23節の

日は「恥じる」というところにあるヘブライ語は
Strong's  Hebrew 954בּוּשׁです。
これもイザヤ書1章29節で使われていて、口語訳聖書でははずかしめを受けと訳されています。

イザヤ書におけるほかの用例を探しましたら、イザヤ書19章9節の「恥じる」という言葉も 同じStrong's  Hebrew 954でした。

練った麻で物を造る者と、
白布を織る者は恥じる

イザヤ書19章は「エジプトについての託宣」が書かれているところです。

 

 

そういう恥ずかしめだったりというものを24章23節の月や太陽は受けるとイザヤは語るわけですが、そうなってくると、単なる文学的な表現としての月と太陽の擬人化ではなく、月や太陽に関係する偶像崇拝を象徴しているのではないかと考えたくなります。

イザヤ書3章16節から23節にはこのような言葉があり

主は言われた、
シオンの娘らは高ぶり、
首をのばしてあるき、目でこびをおくり、
その行くとき気どって歩き、
その足でりんりんと鳴り響かす。
それゆえ、主はシオンの娘らの頭を
撃って、かさぶたでおおい、
彼らの隠れた所をあらわされる。
その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、 耳輪、腕輪、顔おおい、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、 指輪、鼻輪、 礼服、外套、肩掛、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。

太字にしましたが、「月形の飾り」という言葉があります。
この言葉はヘブライ語ではשַׂהֲרֹןサハロンといい、コンコルダンスで調べると、この箇所のほか士師記に二度登場するものだということがわかります。

 

士師記8:21
そこでゼバとザルムンナは言った、「あなた自身が立って、わたしたちを撃ってください。人によってそれぞれ力も違いますから」。ギデオンは立ちあがってゼバとザルムンナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった月形の飾りを取った。

 

士師記8:26
こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。

 

ヨブ記31章にもこんな箇所がありますが

わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
これもまたさばきびとに罰せらるべき悪事だ。
わたしは上なる神を欺いたからである。31章26節~28節

選ばれ愛されている民であるにもかかわらず
創造主であるまことの神さまを主と仰がず
偶像(月)崇拝の罪を犯す者がたくさんいたのだということを改めて認識できる箇所かと思います。
ヨブ記31章26節で「日」と訳されているところは太陽ではなく
 אוֹרという単語が使われています。翻訳聖書では日の光のように訳されていることがありますが基本的には創世記1章3節のところで創造された「光」が אוֹרオウルです。

ヨブ記31章26節で「月」と訳されているところはיָרֵחַで、イザヤ書30章26節に登場するレアな単語ではありません。メジャーな方の象形文字のような絵文字のような「月」という単語です。
だとすると、イザヤは月を崇拝しているという表現をするためにレアな単語を使ったわけではないということだと思います。メジャーな単語を使っても表現可能であったにもかかわらずあえてレアな単語を用いたということになるのだということになろうかと思います。

つまり、イザヤは、あえてレアな単語を使うことでその単語でしか伝えることのできないメッセージを盛り込もうとしたのではないでしょうか。

 

 

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光

月という天体は創造の初めに神さまがどんな役割を与えたのかということについては(3)で確認しましたが、
創世記1章に、月は夜をつかさどる光、と書いてあります。

しかしそのような役割を持っているはずの月の光は日(太陽)の光のようになってしまうとイザヤは語ります。



大虐殺の時、塔という塔が倒れ、倒れればそこは塔の形を成さないれんがの山になるのでしょうが、そのれんがの光が日の光のようになるというのです。れんがが太陽になるのではなく、れんがの光が太陽の光のようになる。

ただし、この「太陽」もレアな単語חַמָּהで、明るさよりも「熱さ」を意識させる語ですから、月が昼の担当になるのではなく、夜のままで熱い太陽の光を放つということでしょうか。
「そして光、太陽 7倍」
七倍となる日の光というものが月の光の変化したものを指すのか、月とは異なる昼の天体である太陽を指すのかわかりにくいのですが、
レアなחַמָּהが連続して使われ、それが7倍だと言っていますので、別の天体の話を始めたようには思えないのですが、もしも日の光を発するようになってしまった月とは別の天体としての太陽だったとしても、七倍の熱は尋常ではありません。そして、七倍とは、(6)で書いたように怒りや復讐わざわいという意味で使われることの多い表現ですので、少なくともこれは楽しく素敵な光景を描写しているわけではありません。

そして七日の光…なのですが

七倍という言葉の補強なのかなんなのかちょっとよくわからないのですが

七日分と訳したところにはこういう言葉があります

שבעת הימים

で、この文字列を検索にかけたところ

想像していたものとは異なる検索結果が現れました。

אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光

שבעת הימים – ויקיפדיה 七つの海

 

 

調べ学習も考察も終わることはありません。

 





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イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年12月3日日曜日

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

 

BIBLE HUBを眺めていましたら、

2528番にはחמאという言葉がありました。
これはחמハムにאアレフ(神さまを表す文字)が付いているわけですが
これはダニエル書3章だけに登場する言葉で
「激怒」という意味だそうです。(神さまを後ろに置いているんだもの、そりゃ激怒だわ)

で、その該当箇所(わずかに二か所)を眺めていましたら、ちょっと気になる言葉がありました。(以下すべて引用は口語訳聖書より)

ダニエル書3:13
そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。

ダニエル書3:19
そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。

 

3章19節の方に「七倍熱くせよ」という言葉があるのですが

「七倍」という言葉はイザヤ書30章26節にもありましたね!

 

そこで、今日は口語訳聖書における「七倍」という言葉を日本聖書協会の聖書本文検索を利用して調べてみました。

 

 

すると、「七倍」という文字列を含む箇所は旧約聖書のみに存在し、それは以下の6書であるということがわかりました。

創世記
レビ記
詩篇
箴言
イザヤ書
ダニエル書

 

具体的には

創世記は4章15節の「カインを殺す者は七倍の復讐」という箇所と

4章24節の「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍

 

レビ記は26章に4か所あって、

18節「わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰する」

21節「わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下す」

24節「あなたがたの罪を七倍重く罰する」

28節「あなたがたの罪を七倍重く罰する」

 

詩篇は79篇12節に

「主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを
七倍にして彼らのふところに報い返してください。」

箴言には6章31節に

「もし捕えられたなら、その七倍を償い、
その家の貨財を、ことごとく出さなければならない。」

 

そしてイザヤ書は30章26節の箇所で、
「日の光は七倍

最後のダニエル書は上に引用した3章19節の箇所で
「炉を平常よりも七倍熱くせよ」

 

 

イザヤ書30章26節ではぼんやりとしている「七倍」という言葉の持つ意味合いが

はっきりしたような気がしました。

 





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