2023年11月30日木曜日

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節

月の光は日の光のようになり・・・

日の光は七倍となり・・・

ということをここのところずっと考え続けておりました。

で、今朝目が覚めた瞬間私は実に単純なしかし重大なことを見落としていたことに気付きました。

 

太陽が7倍って

光量であれ熱量であれどっちでもいいですが、

地球上の生物は生存不可能ではないでしょうか。

 

太陽は一つでよいのです。

それがベストだから

神さまはそうされたのです。

 

としたら、変える必要は無いわけです。

 

じゃあ、なぜ変えるのか。

 

 

 

と考えると、

これはあまりよい状況には思えないのですが・・・

 

 

7という数字に良いイメージがあるので、日の光が7倍になると言われると良いイメージに引っ張られがちですが、

 

太陽は一つで十分でありその状況がトーブなのですから

 

たとえ7という数字がそこにあったとしても

 

7倍が良いとは思えません。

 

だとすると、これはわざわいではありませんか?

 





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イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

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イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

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イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年11月27日月曜日

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書31章26節の太陽と月にに関係するところが新約聖書にないものか探してみることにしました。

 

ギリシャ語で太陽はStrong's Greek 2246

ἥλιος hélios

新約聖書には32箇所あります。以下すべて口語訳聖書から引用します。

書名をカタカナで書いたところは月Strong's Greek 4582 σελήνη  selénéが同時に登場する箇所です。
書名を英語で書いたところは太陽と月とセットではない箇所です。

 

 

マタイ5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

 

Matthew13:6 が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 

 

Matthew 13:43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

 

Matthew 17:2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔はのように輝き、その衣は光のように白くなった。

 

マタイ24:29 しかし、その時に起る患難の後、たちまちは暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

 

Mark 1:32  夕暮になりが沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。

 

Mark 4:6 が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 

Mark 13:24 その日には、この患難の後、は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 

Mark 16:2 そして週の初めの日に、早朝、の出のころ墓に行った。 

 

Luke 4:40 が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。

 

ルカ 21:25 またと月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

 

Luke 23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。

 

使徒 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
はやみに
月は血に変るであろう。

(ヨエル 2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、日שֶׁמֶשׁは暗く、月יָרֵחַは血に変る。)

 

Acts 13:11 見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲になって、当分、の光が見えなくなるのだ」。たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。 

 

Acts 26:13 王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。

 

Acts 27:20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。

 

1 コリント 15:41 の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

 

Ephesians 4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、が暮れるようであってはならない。

 

 

James 1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。

 

Revelation 1:16その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

 

黙示 6:12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、

 

Revelation 7:2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、

 

Revelation 7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

 

黙示 8:12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。

 

Revelation  9:2 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。

 

Revelation 10:1  わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。

 

黙示 12:1  また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。

 

Revelation 16:8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

 

Revelation 16:12  第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。

 

Revelation 19:17  また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。

 

黙示 21:23  都は、や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。 

 

Revelation 22:5  夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 

 

 

 

ギリシャ語で月はStrong's Greek 4582 

σελήνη  seléné

新約聖書に9回登場します。

太陽は単独で現れることのある言葉でしたが、月は必ず太陽とセットで登場していました。

 

マタイ 24:29  しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

 

マルコ 13:24  その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 

ルカ 21:25  また日とと星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

 

使徒 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに
は血に変るであろう。

(ヨエル 2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、日שֶׁמֶשׁは暗く、月יָרֵחַは血に変る。)

 

1 コリント 15:41  日の栄光があり、の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

 

黙示 6:12  小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、は全面、血のようになり、

 

黙示 8:12  第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。

 

黙示 12:1  また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下にを踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。

 

 

黙示 21:23  都は、日やがそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

 

 

 

 

新約聖書からわかったことのまとめ

月という言葉は太陽とセットで登場するが、太陽は単独で登場することがある

太陽はほとんどの場合暗くなる方向に変化する

ただし、

ルカ 21:25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

この箇所では「しるし」という言葉が用いられているので、どういう変化があるのかはわからない。

また、

Revelation 16:8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

この箇所では明るさについては言及していないが「焼く」ということなので、通常の温度とは異なる「異常な高温状態」になるということだろうと思う。

 

そういえば、

詩篇19篇において二種類の太陽という語が登場していて、

その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神はשׁמשׁのために幕屋を天に設けられた。詩篇19:4(口語訳)


それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
そのחמה暖まりをこうむらないものはない。詩篇19:6(口語訳)

 

イザヤ書30章26節に書かれている「太陽」

Strong's Hebrew 2535 חמה は暖まりと訳されていた。

 

とすると、イザヤ書30章26節の「太陽」の変化とは
ヨハネの黙示録16章8節で言及されているもの「温度の変化」ということに近いのだろうか。

ただしここには月という語は登場しないので断定はできません。

 





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2023年11月24日金曜日

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

創世記1章14節から19節までを口語訳聖書から引用します。

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。

神さまが太陽と月を造られたという箇所です。

神さまはいったい何のために太陽と月を造られたのかというと

まずは分けること。「昼と夜とを分け」と書いてあります。

分けるため、というところにはלהבדילという言葉があります。

元の単語はבדלバダル(分けてわかれさせる、区別する)という言葉です。

להבדיל lə-haḇ-dîl という形では聖書にトータル3回登場していて

この創世記1章14節以外にはレビ記11章47節とエゼキエル書42章20節にあります。

 

これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。レビ記11章46,47節

 

 

このように、四方を測ったが、その周囲に、長さ五百キュビト、幅五百キュビトのかきがあって、聖所と、俗の所との隔てをなしていた。エゼキエル書42章20節

 

 

בדלバダル この言葉こそがトーラーを表していると私は思っています。

トーラーをギリシャ語のノモスであると勘違いし、律法と訳し、がんじがらめに縛るものだという認識で長い間居りましたが、トーラーは縛るものなのではないのです。

 

20年以上前、私の娘は新築の家に引っ越した2週間後にアトピーを発症しました。また、その後の経緯からも、シックハウス症候群(化学物質過敏症)の疑いを持たざるを得ませんでした。
どんなものであれ病気になると、私たちはそれまでの生活をそのまま続けることができなくなるわけですが、化学物質に過敏であると判断した私がまず行ったことは
家中のよろしくなさそうな揮発性化学物質が使用されているという疑いのあるものをすべて撤去することでした。(家の引っ越しは金銭的な問題で不可能でした)

結果、わが家では木製の家具やクローゼット、押し入れがすべて使えなくなり、布団も衣類もすべてのものが収納庫の外に出されることとなりました。

 

イメージしてください。あなたの家の収納庫が無くなった状態を。収納庫に収納されていたすべてのものが目の前にごちゃごちゃに積まれている状況を。

 

トーラーが無い状態というのは、そういう状態のことだと思います。

 

 

神さまに似たものとして造られた私たちは、ごちゃごちゃに積まれているものをまず用途に応じて分けないでしょうか。

例えば目覚まし時計は玄関ではなく寝室に。部屋全体を照らす照明器具はテーブルの下ではなく天井に取り付ける。

 

そして、そういう表に出しておいて使うものとタンスや押し入れなどにしまっておくものも分けるわけです。(しまうときにも自分なりのルールで物を分けるでしょう?)

 

しかしタンスやクローゼットや押し入れなど一切が使えなくなった時、

 

目覚まし時計は寝室に、照明器具は天井に取り付けることまでは可能なのですが、表に出したままにしておくものと必要になるまで見えない場所にしまうものの区別ができないという混乱に陥りました。

 

トーラーは秩序を与えるものです。

縛り付けるのではなく、分けるためのルールです。

生物学の土台となるような分類学という学問がありますが、
神さまが一番初めにアダムにやらせた「名前を付ける」という行為はまさに分類です。

神さまが造られたたくさんの生き物が名前を持たない状態で存在していた時に
神さまは生き物をアダムのところに連れてきて名前を付けさせるわけですね。
名前を付けるために最も重要なことは、これとそれには何らかの違いがあると気付くことです。空を飛んでいるものと飛べないものという違い、陸を歩いているものと水中にいるものという違い、初めはそういう大雑把なところから入り
やがて空を飛んでいるものの中にも大きさが違うとか色が違うとかくちばしの形が違うとか食べ物が違うとかいろいろな違いが見いだせるようになるはずです。

どういう「違い」があるのか、その「違い」に基づいて名前を付ける
そうやって人は「違い」を意識し、その違いに基づいて「名前」で呼ぶことができるようになる。
神さまはアダムに「違い」の存在を意識させ、教育しているのです。

私たちも小さな子供にまずは「名前」を教えますね。りんご、みかん、犬、鳥・・・

動物と人間、他者と自己、

分けるという行為、区別するという行為
それがトーラーです。上にレビ記11章46節47節をלהבדיל lə-haḇ-dîl という言葉が使われている箇所として引用しましたが

これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。レビ記11章46,47節

 

違いを「分かる」ことによって食べられるものか食べられないかという具体物の区別ができるようになります。

具体物の区別ができるようになったら次は抽象的なことがらを区別していく、私たちが子供たちを教育するときに行うことと同じ、それがトーラーです。

律法について悪い評価をする人々に考えてほしいのは、「縛る」と言われるようなルールは「トーラー自体」なのか「解釈段階での問題」なのか、
そして、「そのルールを守らねばならないのは誰なのか」ということです。

上に引用したレビ記は誰のためのルールでしょうか。レビ記の初めにはこう書いてあります。

主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、レビ記1章1,2節

主は、モーセを呼んで「イスラエルの人々に言いなさい」とおっしゃっています。
ですからイスラエルの人々が聴くべき守るべきルールであるということです。

律法の一点一画は滅びないのですから、イスラエルはイスラエル、それ以外はそれ以外ということに変化はないはずです。

置換神学のせいでイスラエルを「真のイスラエルであるクリスチャン」などと「読み替える」ようなことをするからおかしなことになるわけで、

神さまは筋の通った何の変更もないお方なのですから

ごちゃまぜにしてはいけないのです。

混ぜるからおかしくなるのです。神の言葉に混ぜ物をしてはいけないのです。

イスラエルは申命記14章2節に書かれているような民です。

あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

 

だから大変なのです。だからイスラエルは大変。責任が重いのです。

 

 

さて、超絶前置きが長くなりましたが、

今日は前回の記事に関連して太陽と月の役割の話です。

トーラーである創世記で、神さまは太陽と月の区別と役割について語られています。

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。

創世記1章14節から19節までを再度引用しましたが

わずかこれだけのところに重要な秩序、区別、ルールともいうべきことが書かれています。

「天のおおぞらに」日本語で読むと読み流してしまいがちですがヘブライ語では「天」と「おおぞら」は別の単語できちんと区別されています。

言い換えます。天(シャマイム)と空(ラキア)は別物。ラキアのところに光があります。

で、ラキアのところにある光は
昼と夜を     להבדיל     区別し、
לאתת     しるしとなり、
למועדים    季節のため(直訳すると「定められた時」のため) 
לימים ושנים    日のため年のため       にあるというのです。

そして、ラキアのところにあって、地を
להאיר  照らす
למאורת  光となれ

そして大きい光に
昼をלממשלת  つかさどらせ
小さい光に
夜をלממשלת  つかさどらせ
星も造られ

神はこれらをラキアに置いて
地をלהאיר  照らさせ

昼と夜とをלמשל  つかさどらせ

光とやみとをלהבדיל  分けさせられた。

 

לラメドという文字がそれぞれ言葉の頭に付いています。色と大きさを変えて書きましたが、聖書の本文ではそんなふうにはなっていません。ご了承ください。

לラメドという文字は、ウィキペディアによれば、「牛を追うための突き棒」からできた文字だそうです。また、לラメドという「文字の名前」と同じ文字列である
למד という単語には「学ぶ」という意味があります。

 

ヘブライ語聖書を見ると、1章14節から19節までのこれほどの箇所の言葉の頭にそれぞれלラメドがわざわざつけられていて

(私はヘブライ語に関する参考書や文法書を見たことがありませんのできれいな一対一対応の日本語ですっきりと表現することはできませんが)

לラメドが言葉の頭につけられているときには、それはちょうど「牛が牛飼いに追われる」ときのように、神さまから「神さまのお決めになったまっとうな道」をあゆませられる、すなわち個々の被造物独自の役割、使命がלラメド以降の言葉で表現されているように感じます。

そして、これがトーラーに書かれた決まり事、ルールです。

確かに細かいかもしれません。

 

しかし、このルールのどれが取り去られたとしても世の中は大混乱となるでしょう。

実際、

トーラーで定められていたルールを

破壊しようとして、もしくは壊した結果いろいろな混乱が起きています。

トーラーで定められた「普遍的なルール」は取り去ってはいけない。

(ex.元素の構成する粒子や元素の持つ性質は神さまの定められたルールDNAの塩基配列は神さまの定められたルール

トーラーに定められたものを破壊するものは神さまの敵
クリスチャン用語でいえば反キリストです。

破壊すればどうなるか。

エレミヤ書4章23節記されたような創造前の混沌、茫漠となるのです。

 





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2023年11月22日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章25節と26節のところを口語訳聖書とヘブライ語聖書から引用します。

 

 

30章25節 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。

והיה על כל הר גבה ועל כל גבעה נשאה פלגים יבלי מים

ביום הרג רב בנפל מגדלים׃

 

 

30章26節 さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

והיה אור הלבנה כאור החמה ואור החמה יהיה שבעתים כאור שבעת הימים
ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

 

 

前の記事では太陽と月と訳されている単語について調べて分かったことを書きました。

きょうは、そういう細かい話以前のこと、イザヤ書30章25、26節の「国語の読み取り」的な話についていつも思っていることを書きたいと思います。

 

まずは「大いなる虐殺の日」というもの提示され、そういう日があるのだな、と考えるわけですね。そして次に「やぐらの倒れる時」という言葉が句点で区切られて書かれているので、この二つの内容の関係性はどうなのかと考える。

で、「虐殺とやぐらが倒れるということが同時に起こる」と言いたいのか「大いなる虐殺の日とはつまりやぐらが倒れる時」と言いたいのか、よくわからないなあ、と毎回思うわけです。

しかし、日本語というのは最後まで読まないと意味が分からないものだ、という長年の経験がありますから、そういう分からなさのモヤモヤをいつも抱えたまま「やぐらの倒れる時」のあとの句点に目が行き、

句点があるから無意識に期待するわけです。「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」という二つもの条件設定をされた上での句点、だからきっと「その時」にどうなるのかという事が、次に書いてあるはずだと。

ところが、どう「なる」わけではなく、句点の前には全くなにも言ってはいなかったのように山と丘に川が「ある」と言い放つわけです。

「ある」ということになると、「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」の以前から川という存在が山や丘にセットされていて、つまりそういうセットがなされたら「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」に至るということ?

なんだかすっきり読み取れないのです。

まあ、預言なんだからそれで良し、と言われるのでしょうが。

 

 

ただ、ヘブライ語聖書を見るとなんだか印象が違ったのです。

上に引用しましたが25節の一語目והיה 「そして、あるよ~」と言ってます。

「あるよ~」なんて軽く言ってみましたが、実際にはそんな軽いものではないようにも思えます。ヘブライ語の文字をご覧ください、神聖四文字の順番の入れ替わったものです。
いやあ、そんなもの山のようにあるでしょうと思われる方も多いとは思いますが、
そもそもヘブライ語で「そして、ある」という言葉がこういう文字列で表現されることには深い意味があるに違いないと私は思っています。
創世記の各文の文頭にセットされているוヴァヴと同様、世の初めから永遠に途切れることなく存在する神の国を表現していると思えるוヴァヴにはじまり、
アブラムがアブラハムになるときに与えられた文字であるהヘーが二つある間に見える小さなיヨッド。まるで、聖い風を取り入れることのできる窓をそっと開けたら、そこに小さな小さな神さまの救いの右の御手が見えたかのようです。
そういう文字列、והיהが「そして、ある」と日本語に訳しているヘブライ語です。
神さまがかつて石の板に文字を刻んで与えてモーセに渡してくださったことを思うと、
きっと一文字一文字、思いを込めて、私たちに伝えてくださっている、と私には思えるのです。

で、

「そしてなにがあるの?」って思って次を見ると

על כל הר 右側から「アル カル ハル」と読みます。
調子のよい韻を踏んだ言葉の3連続ですがアルは上 カルは全て ハルは山 です。
 

全部読むとごちゃつくので省略しますが、
要するに25節のスタートでヘブライ語は大虐殺なんて言ってないわけです。まずあるのは24節までのストーリーを裏切らない内容で、口語訳聖書で言っているところの

「すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。」
という部分が25節の最初にあるわけです。

せっかくだから23節からつなげてみましょうか?

23節 主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、

24節 地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。

25節の初めの文「(そして)すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。」

で、そういうここまでの話があって「その日」という殺戮の話につながっていくわけです。

 ביום הרג רב בנפל מגדלים

ביום その      

הרג 殺戮

רב  大きな

בנפל 倒れる    

מגדלים 塔という塔(複数≒ים海 の水がたくさんあるようにたくさんの)

  

 

ただ、新しい聖書協会共同訳でも口語訳と同じ順番に書かれていて

大いなる殺戮の日、塔という塔が倒れる時に
そびえ立つすべての山、高いすべての丘に
水の流れる水路ができる。(聖書協会共同訳)

順番なんてどうでもよいですか?出来事が網羅されていればそれでよいですか?

新しい聖書の方では「水路ができる」と言っているので、口語訳聖書の「ある」よりは読みやすいというか納得しやすいというか。・・・いや、意味が変わっている。

ん?あ、もしかして・・・ヘブライ語から直接翻訳していないのかな・・・

英語から日本語にしているの?えー?

 



どんな言語であれ、おそらくは言いたいことから言い始めるだろうし、少なくとも時系列は意識するよね?とか思うのですが

ま、仕方ない 

気を取り直して26節に行きます。

30章26節 さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

25節を読んで続けて26節を読んでいたわけです。ま、普通ですよね。
で、そうするとね、脳内は前の節の影響を受けるわけですよ。
(そうかそうか、川なり水路なりができて、その次に「主がその民の傷を包み・・・」って書かれているから水でいやされるのかなあ、水の少ないところだから水が豊富っていいよね)とか思っていたわけです、私は。

ところが、ヘブライ語聖書で26節の初めに何が書いてあるのかというと、傷を治す話ではないのです。

26節の一語目והיה

25節と同じですね「そしてあるよ~」って言ってます。
また何かがあるらしい。
神さまが何かをもたらして存在させるらしいのですね。
何があるの?と思って次を見るとאורと書いてあります。これはという単語です。そして次に出てくるのが前回の記事で「れんが」と同じ綴りだと書いた

לבנה」です。
上に引用したヘブライ語の26節、という単語と前回の記事で取り上げた「」、「」、に該当する単語の色を変えてみましたが

いずれにしましても、26節の初めにあるのは月と太陽の光の話です。そしてその話の次に、

ביום その日 がまた登場するわけです。で、その日、

神聖四文字であられる方がいやしてくださる、という話が書いてあるのです。

 

細かく読めば注意深く読めば読み取れるのですから問題ないと言えば問題ないのかもしれませんが、話があっちに行ったりこっちに行ったりしていると、私たちの脳は関連のある内容を勝手にくっつけて理解しがちです。

「月」がバベルの塔の「れんが」と同じ綴りであるというようなことがあるのだとすれば、そのあたりがきちんと伝わるような文の並びにしないと
神さまのメッセージが正しく伝わらないことになるような気もします。

 

前節からつながるような川(水路)の話があって、

その次に「大虐殺」と「塔」が倒れる話、
次の節に行くと「塔」に関連するかのようにバベルの塔の「れんが」と同じ綴りの「月」の光とハムの入った「太陽」の光の話、

そして最後に傷ついた「主の民」がいやされるというストーリーがあり

27節に続いていく

 

イザヤを通して神さまが何を語られたのか

 

「聖書のみ」という信仰を長く続けておりましたのでね

原典ではないものには誤りがあるんだから細かいことなどどうでもいいだろう

という気にはやはりなれません。

原典に近いところにヘブライ語聖書があるのならば

極力それに沿って読み取りたいとおもいます。

 





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イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

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イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光はの光のようになり、の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

前回חמハム(חם)という言葉がハマスという言葉に含まれているという話を書きましたが

そういう視点を持つとき、イザヤ書30章26節の「日(もしくは太陽)」という言葉にもחמハム(חם)という言葉が含まれている、ということになります。

 

「日(もしくは太陽)」と訳されているヘブライ語は多くの場合、絵文字のような象形文字のようなキラキラしたイメージを感ずることのできるこちらの単語

 Strong's Hebrew 8121 שׁמשׁが使われています。

שׁמשׁという語はEnglishman's Concordanceによれば聖書中に134回登場しているようです。

しかし、イザヤ書30章26節で「日」と訳されている言葉は聖書中に6回しか登場していないレアな単語です。

イザヤ書30章26節の「日」はStrong's Hebrew 2535です

Strong's Hebrew 2535 חמה 

Englishman's Concordanceを見ると、この単語が登場する6回のうち3回はイザヤ書に現れているということがわかります

Strong's Hebrew: 2535. חַמָּה (chammah) -- heat, sun


口語訳聖書から2535番が登場する箇所を引用します。
太字にしたところが2535番を訳したと考えられるところです。

ヨブ記30:28
わたしはの光によらずに黒くなって歩き、
公会の中に立って助けを呼び求める。

詩篇19:6
それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。

雅歌6:10
「このしののめのように見え、
月のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。

イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
月はあわて、は恥じる。

イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光はの光のようになり、の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

(七つの「日」とは太陽のことではなく日数)

 

 

聖書は古い書物であり、長い長い時間をかけて66巻がそろったわけですので、そういう書物にありがちなこととして、時代による言葉の変化というものがあります。
また、レアな単語である2535番がトーラーに現れていないということを考え合わせると、それほど一般的な言葉ではなかったのかもしれないとも思えます。

ただ、間違いなく言えることは
詩篇19篇を見ると、その一つの詩の中に両方の単語が登場しているので、

その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神はのために幕屋を天に設けられた。詩篇19:4(口語訳)


それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。詩篇19:6(口語訳)

4節に登場する「日」という言葉はשׁמשׁで6節の方にあるのはחמה です。

 

詩篇19篇が書かれた瞬間には二つの言葉は共存していたと考えられます。
「日(もしくは太陽)」と訳されている二つの単語はどちらかからどちらかの語に移行していったという性質のものではなく、
どこかの瞬間に二つの言葉となり、
それら二つには古代ヘブライ語を使う人々にとってはきちんと認識できる何らかの「違い」があり、使い分けていたと考えられるような気がします。
口語訳聖書においても詩篇19篇だけは
あまりに近い場所にふたつの「日(もしくは太陽)」と訳される単語があったからでしょうか4節のשׁמשׁは「日」と訳し、6節のחמהは「暖まり」と訳し分けられています。

イザヤ書でも13:10、38:8、41:25、45:6、49:10、54:12、59:19、60:19、60:20に登場する太陽にはשׁמשׁが使われており、複数イザヤ説を考慮するとしても、前半部分においてשׁמשׁחמהという二つの言葉は共存していたことになります。というか、こういうことを考慮するからこそイザヤは複数存在すると言われるのだ、と納得し、また少し昔の自分の信仰から遠ざかったような気がしました。

 

さて、ここまでは太陽の事ばかり書いてきましたが、実は「月」=moonについても、イザヤ書30章26節にはメジャーではないこんな単語が使われています。

 Strong's Hebrew 3842 לבנה

 

日本語聖書の中で「月」と訳されているところには、実はこの3842番ではない単語

 Strong's Hebrew 3394ירחが多く使われています。


例えば創世記37章9節にこんな箇所がありますが

ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。

「日と月と」と訳されている箇所にはこう書いてあって

השמש והירח

日のところにはשמשとあり、月というところはירחとあります。
ירחשמשのように絵文字のような単語で、文字を右から眺めると、新月から満月になっていくように・・・私には見えます。

この3394番は聖書中に26回登場します。

一方イザヤ書30章26節にある月という言葉

 Strong's Hebrew 3842 לבנה は

聖書中にわずか3回しか登場しません。
לבנה が使われているのは以下の箇所です。

雅歌6:10
6:10「このしののめのように見え、
のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。

イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
はあわて、日は恥じる。

イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

そして、この3箇所はすべて上に書いたレアな単語חמハム(חם

入った太陽חמה とセットで登場しています。

 

 

もっとも、レア単語でない絵文字のような太陽と月もセットで登場することが多いような気がします。

例えば詩篇にはこのような箇所があります。

 

彼は日と月とのあらんかぎり、
世々生きながらえるように。
彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、
地を潤す夕立ちのごとく臨むように。
彼の世に義は栄え、
平和は月のなくなるまで豊かであるように。
詩篇72篇5~7節(口語訳)

 

わたしはわが契約を破ることなく、
わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
わたしはひとたびわが聖によって誓った。
わたしはダビデに偽りを言わない。
彼の家系はとこしえに続き、
彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
また月のようにとこしえに堅く定められ、
大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
詩篇89篇34~37節(口語訳)

この二つの箇所は両方ともレアではない象形文字のような絵文字のような

שמש太陽ירח

という単語が使われています。
この詩篇における太陽と月は
神さまの被造物であるけれども私たち人間のような短い命ではないものとしてのたとえというか「永遠」というニュアンスをもたせてセットで登場しているわけですよね?

 

ただ、いつでもそういう良い感じの意味でשמש太陽とירח月が登場しているわけではなく

ヨブ記にはこんな箇所があって

わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
ヨブ記31章26,27節(口語訳)

これは実は「日」と訳されているのはここまで書いてきた「日(太陽)」ではなく「光」という単語が使われているのですが「月」はでレアではない方のירח月という単語で、

いずれにしてもこの箇所では被造物である日と月を拝む行為=偶像礼拝 についての描写であるわけです。

聖書に登場する「太陽と月」という単語にはそういう場合もあります。

 

そんなことも踏まえながらイザヤ書30章26節の話に戻りますが

 

イザヤ書30章26節に登場する「月」と訳されているレアな単語

Strong's Hebrew 3842 לבנה

 

実は、発音(母音)こそ違うものの、
3842番と完全に同じ文字列を持つ3843番という単語があるのです。

Strong's Hebrew 3843 לבנה

3843番、これは、何を隠そう創世記11章3節、
バベルの塔の話に登場する「れんが」です

彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 

バベルの塔を造る場面における「れんが」という言葉と
イザヤ書30章26節に登場する「月」という言葉は
同じ文字列を持つ単語
なのです。

イザヤ書30章25節では「塔」に言及しているわけで、

「塔」の話の後に「れんが」と同じ文字列の「月」

とても気になります。

 

 

 

 

ちなみに

イザヤ書には3843番の「れんが」に該当する単語も2箇所つかわれていまして

1箇所目は9章10節の「かわら」というところ、これが3843番です。

すべてこの民、
エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう。
彼らは高ぶり、心おごって言う、
かわらがくずれても、
われわれは切り石をもって建てよう。
くわの木が切り倒されても、
われわれは香柏をもってこれにかえよう」と。
イザヤ書9章9、10節(口語訳)

2箇所目は65章3節の「かわら」、これが3843番です。

わたしはわたしを求めなかった者に
問われることを喜び、
わたしを尋ねなかった者に
見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
よからぬ道に歩み、
自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、
園の中で犠牲をささげ、
かわらの上で香をたき、
墓場にすわり、ひそかな所にやどり、
豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
イザヤ書65章1~4節(口語訳)

 

חמハム(חם)の入ったחמה太陽と

「れんが」לבנהと同じ文字列לבנהである月

 

イザヤ書30章26節の見え方が少し変わるような気がしませんか?

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

 





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2023年11月14日火曜日

Strong's Hebrew 2555 Definition: violence, wrong

時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
創世記6章11節(口語訳)

ותשחת הארץ לפני האלהים ותמלא הארץ חמס׃

Strong's Hebrew 2555 Definition: violence, wrong

חמס 

 ḥā·mās

 

 

ちなみに例のテロ組織はחמאסと表記するそうです。

חמאס – ויקיפדיה

 

そしてノアの息子のハムはחמסからסサメフを取って

חם

ḥām

 

 

今日は

חמס

この語を含む聖書の箇所を調べました

 

そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
創世記6章13節(口語訳)

 

シメオンとレビとは兄弟。
彼らのつるぎは暴虐の武器。
創世記49章5節(口語訳)

 

あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。
出エジプト記23章1節(口語訳)

 

もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、
申命記19章16節(口語訳)

 

2555番の言葉はトーラー以外預言書などにも登場しますので

いくつかピックアップし口語訳聖書から引用します

 

彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。イザヤ書53章9節

 

見よ、主の手が短くて、
救い得ないのではない。
その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義が
あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が
主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
あなたがたの手は血で汚れ、
あなたがたの指は不義で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、
あなたがたの舌は悪をささやき、
ひとりも正義をもって訴え、
真実をもって論争する者がない。
彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、
害悪をはらみ、不義を産む。
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。
その卵を食べる者は死ぬ。
卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
その織る物は着物とならない。
その造る物をもって身をおおうことができない。
彼のわざは不義のわざであり、
彼らの手には暴虐の行いがある。
イザヤ書59章1~6節

 

主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、
そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。詩篇11篇5節

 

詩篇140篇

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、
わたしを守って、
乱暴חֲמָסִ֣ים人々からのがれさせてください。
彼らは心のうちに悪い事をはかり、
絶えず戦いを起します。
彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、
そのくちびるの下にはまむしの毒があります。〔セラ
主よ、わたしを保って、
悪しき人の手からのがれさせ、
わたしを守って、わが足をつまずかせようとする
乱暴חֲמָסִ֣ים人々からのがれさせてください。
高ぶる者はわたしのためにわなを伏せ、
綱をもって網を張り、
道のほとりにわなを設けました。〔セラ
わたしは主に言います、「あなたはわが神です。
主よ、わが願いの声に耳を傾けてください。
わが救の力、主なる神よ、
あなたは戦いの日に、わがこうべをおおわれました。
主よ、悪しき人の願いをゆるさないでください。
その悪しき計画をとげさせないでください。〔セラ
わたしを囲む者がそのこうべをあげるとき、
そのくちびるの害悪で彼らをおおってください。
燃える炭を彼らの上に落してください。
彼らを穴に投げ入れ、
再び上がることのできないようにしてください。
悪口を言う者を世に立たせないでください。
乱暴חָמָ֥ס人をすみやかに災に追い捕えさせてください」。
わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
貧しい者のために正しいさばきを
行われることを知っています。
正しい人は必ずみ名に感謝し、
直き人はみ前に住むでしょう。

ידעת כי יעשה יהוה דין עני משפט אבינים׃

わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
貧しい者のために正しいさばきを
行われることを知っています。

אך צדיקים יודו לשמך ישבו ישרים את פניך׃
正しい人は必ずみ名に感謝し、
直き人はみ前に住むでしょう。