読み方にカタカナを充てればベレシート、In the beginningと英訳されています。
ראשיתというBeginningとかfirstと定義される言葉の前にבがついているのでIn the beginningと訳されているわけですが
そういう、よく知られている文法など一切考えず、単なる文字列として眺めると少々違うものが見えてくるような気がします。
ヘブライ語聖書の創世記1章1節はこのように書かれています。
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃
私は3年前からこの御言葉を台所に貼って毎朝毎夕「眺めている」のですが
ある日、ベレシートの頭の三文字と二語目のבראが同じ文字列である、と思いました。
おそらく、文法を学んだことのある人やヘブライ語聖書を読み慣れている人にはそういう見え方はしないはずですが、私は文法など知らず、ただ漠然と文字を眺めているだけなので、「あ、同じだ」と思ったわけです。
で、そういうふうに見てしまうと、もはやベレシートがבの付いたראשיתだなどとは全く考えられなくなり、
בראשיתベレシートという文字列に別の言葉までが見えてきました。
それはברית
בראשיתベレシートという言葉の初めの二文字と最後の二文字をあわせたら
בריתになる!と思ってしまったわけです。
まあ、こんなことを言い始めたらきっときりが無いわけですが、
朝食の準備をしながら毎日ぼんやりとヘブライ語を見続けているお婆さんのたわごとにもう少しだけお付き合いください。
ברית
これはブリットと読み、英語ではcovenant つまり「契約」のことです。
トーラーの冒頭の言葉בראשיתベレシートにブリットが入ってた!と思ったわけです。
となるとお婆さんは止まりません。
בראשיתベレシートは
בריתブリットのברとיתの間にאשという二文字が挟まれている言葉なんだ、と思い、
ちなみに、אשには火、炎という意味がありますが、
このאשという言葉、聖書の中に初めて登場するのは創世記15章17節なのですよ。
ויהי השמש באה ועלטה היה והנה תנור עשן ולפיד אש אשר עבר בין הגזרים האלה׃
日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。
創世記15章17節 聖書協会共同訳
ブリットは契約という言葉であり、動物の身体ではないのでブリットを切り裂いた間に炎があったとしても創世記15章17節になるとは思いませんが(;´Д`A ```
今度は、裂けたブリットを見て、つまりברとיתですが
ברバルには息子という意味があります。(新約聖書のバルナバ、バルテマイ・・・でおなじみ)そしてBerean Strong's Lexiconによれば
ヘブライ語の「bar」は主に「息子」または「相続人」を意味し、血統や子孫の文脈でよく使用されます。また、純粋さや清浄さを意味することもあり、汚れのない、または選ばれた状態を反映しています。文脈によっては、純粋さや無邪気さを表す比喩として使用されます。語源は「浄化する」または「選択する」
そしてיתは
תタブという文字自体には「印、封印する、完了、完全」というような意味があり
その文字の「前」に神聖四文字の一文字目であり、神さまの御手を表す文字
יヨッドがあるのですから、神さまが御手で事を行われ、完了された完成されたことを表していると考えられ
ベレシートとは「罪の無い神さまの息子が完成する」
・・・さすがにここまでくるとこじつけすぎのような気はしますが
しかし、
בראשיתベレシートという言葉に、
人間には思い描くことなどできるはずもない永遠の時空が表現されているような気がし始めたのです。
なにしろそれはトーラーの冒頭に置かれた言葉です。
יתで終わるבראשיתベレシートという言葉。
「いいか、お前たち、トーラーは完全であり完結、完成しているものであって、一切の変更は許さないぞ、足すことも減らすことも許さないからな!」という
強い思いを感じたような気がしたのです。
トーラーは、このבראשיתベレシートという言葉で始まり
レビ記の冒頭はויקרא
民数記の冒頭はוידברという言葉で始まっているわけですが
(以前、マルコによる福音書1章15節のところにוヴァヴを見出した話を書いた事があります。興味のある方はご覧ください。https://kyudochu.blogspot.com/2023/06/115.html)
エハッドとは1です。
トーラーの文字を追っていくと
トーラーとは
永遠から永遠まで一瞬の途切れもなく続いていく
אחדエハッド(ただ一人)であるお方の存在とその教えであることが
見えてきます。
「聖」という言葉の意味、そして考え方がよく理解できます。
例えば、創世記1章の3節から8節までわずか数節だけでもそれがわかるように書かれています。聖書協会共同訳聖書から引用します。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
注目すべきはויבדלヴァ・ヤブデル「そして神さまは分ける」という表現です。これが「聖」という言葉のおおもととなっている考え方であると私は考えます。
創世記1章の3節から8節までのところをもう少し詳しく見ていきたいと思います。
神さまの創造にはプロセスがあります。動詞に着目するとそれがよくわかります。
1.「言われた」
神さまが御言葉によって「御心を宣言」されます。
2.「あれ」「あった」
「あれ」と言われた「もの」がこの世界に存在するようになります。
3.「見て」
神さまはお造りになられたものをご覧になって評価(כי טוב キ・トウブ=良し)されます。
(ただしキ・トウブ=良しと評価されたのは7回だけ。すべてのものにはこうおっしゃってはいない)
4.「分け」
「良し」とされたものとそれ以外のもの、または、造られたものとそれ以外のものを「分け」るということをなさいます。
5.「呼び」
お造りになられたものに「名前」を付けられます。
そして、
日本語の聖書ではほぼ読み取れないことなのですが、
「あれ(在れ)」と言われて存在し始めた「もの」は
「あれ(在れ)」という単語יהיの中央にあるה(アブラハムのハにあたる文字であり、神聖四文字を構成する文字の二番目と四番目にある文字)が先頭につけられるようになります
例えばאור光 は האור
הは英語では定冠詞theのように訳されることになっているようですが、
私は、アブラハムのハと同じような意味
つまり、神さまとの契約関係に入った印なのではないかと思っています。
で、創世記1章1節で造られた天と地には初めからהがつけられているので、天と地は「言うまでもなく」「大前提として」「当然のことながら」
神さまの所有物であるということがしめされているのではないか、と。
(השמים天とהארץ地の前にあるאתという文字列に関しては過去に書いた事があります。https://kyudochu.blogspot.com/2022/02/22.html)
この創造のプロセスにおいて、
例えば上に引用した「光を昼と呼び」というところはヘブライ語でこう書かれているわけですが
ויקרא אלהים לאור יום
出だしの ויקרא 「そして神さまが呼ぶ」とは、קראのまえにיヨッドが付いているわけですね。
יヨッドは主の右の御手です。右の御手は救いをお与えになる御手です。
そして、この「呼ぶ」という単語はקクフから始まる単語です。קクフは
קדש「聖なる」という意味を持つ単語の一文字目の文字です。
このことから、「呼ぶ」という行為=命名 とは、その前の段階の「分ける」という行為とあわせることで、「聖」とするという概念とほぼ同じものではないかと私は考えています。
神さまはお造りになられたもの、目を留められたものに、いわば「愛着」され、そしてそれを見、それを「知り=選び」、「聖」とする。
(「知る」という言葉については、「箴言24章5節「知恵」「知識」と訳されている言葉とתעודה」というところに少し詳しく書きました。→https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/245.html)
そして「聖」としたそのあとにあるのはלאור יום
לラメドのついた「光」אורという言葉と「昼」יוםです。
לラメドとは学ぶという意味があり、そしてלラメドは「牛を逐うための突き棒」から出来た文字だという説があるようです。だとすれば、
לאור
光という単語の前にלラメドがつけられる段階というのは
光には「昼」をつかさどる(照らす)という
「その役割が定められた」ということなのではないか、と思うわけです。
そう考えると、הは
アブラハムのハで、
それは、神さまとの契約関係に入ることであり、
続いて、それ以外の物ときちんと分けられ=名前をつけられ 聖とされ
そうやって「神の国を構成するもの」となったものには
その果たすべき役割が、לラメドによって逐われ、突かれて 決定された
ということのように思えるのです。
(ラメドについて、この辺りの事は以前にも書いた事があります。https://kyudochu.blogspot.com/2023/11/3026_24.html )
そして「聖」とは
他のものとは異なるということをはっきりさせることですが
(前回の記事にギリシャ語のἁγιάζω、ἅγιοςについて書きましたのでご覧ください。→https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_12.html)
神さまはアダム(人)にも「生き物に名をつける」という事を通してそのことを教えます。生物に命名するためにはそれがほかの生物とどう異なるのかということをはっきり認識する必要があります。生物学には分類学(←Wikipediaにリンクさせてあります)という学問がありますが、まさにそれです。
分ける、分離させる、切り離す、
これが
「聖」という概念の原点だと私は考えます。
そういうことを踏まえた上で
前回の記事「暗い暗い夜明け前」 https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_12.html
で書いたエレミヤ4章23節の「混沌」について考えるならば、
創造の初めに、
神さまの御言葉によって
きちんと分けられ、名前をつけられ(定義され)
整然となっていた「聖い」「良い」ものが、
あれもこれも混ざってしまったから
混沌となってしまう、ということです。
勝手に混ざってしまうことはないのです。
生き物たちにしっかりとした「種類」があることでわかるとおり、
被造物には神さまの定められた混ざることのない混ぜてはいけない
境界線がしっかりあるはずだからです。
この「境界線」となるものがトーラーです。
「翻訳聖書におけるパウロが」何と言おうが、
(私は「パウロ」が何と言おうが、とは言っておりませんのでご注意ください。)
トーラーはがんじがらめにするものではありません。
がんじがらめのように思うのは「人間」が誤った解釈をしていたからです。
苦しんでいる病人がいたとしても安息日だから直してはいけないとか変な方向に行ってしまったのは、トーラーのせいではなく人間のせいです。イエスさまが来られた時代のユダヤ教の教師たちのせいだと思います。
神さまは完全であり、正しいお方なのだ、という前提条件を持っているならば
どうして、そのお方によって与えられたトーラーがある日突然変更されなければならないのでしょうか。
変更されていないからこそトーラーにある通り創造主は創造主としてあがめられるべきお方のままであり、創世記にあるアダムとエバのストーリーから原罪が示され、その原罪があるからこそ私たちは救われる必要がある。
トーラーが有効であるからこそ信仰のない者は罪に定められるのです。
もしもトーラーが無効なら、
まことの神様を信じない者を裁く法はどこにあるのですか?
ここで
エレミヤ書31章31節から34節を聖書協会共同訳の聖書から引用したいと思います。
31節
その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。
32節
それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。
33節
その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
34節
もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。
31節で語られる「新しい契約」とは33節にあるとおりです。
「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」
「律法」という言葉はヘブライ語聖書では「トーラー」と書かれています。
そして、「書き記す」という言葉は刻み付けるというような意味のある「カタブ」という言葉です。今とは違って紙や簡便な筆記用具が豊富にある時代の話ではありません。書き記すのは神の戒め、契約、および神の民の歴史、法律、法令、そういう時代における「書き記す」という言葉がכָּתַבカタブです。
エレミヤ書31章33節に登場するこの「カタブ」という言葉は、申命記9章10節にある「神の指で記された」と書かれているところに用いられている動詞と同じであるということを知ればその重みと意味を感じる事が出来ると思います。
主は神の指で記された二枚の石の板を私に与えられた。その上には、あの集会の日に、山で火の中から主があなたがたに語られた言葉がすべてそのまま記されていた。
神聖四文字なるお方が定められた「トーラー」を人間の「中心」
すなわちקֶרֶבケレブに刻み付ける、ケレブとは、私たちの思考や感情といったものがあふれ出てくるところを意味しますが、その場所に「トーラー」を刻み付ける、「וそして」(そのことのゆえに)私は彼らの神となり、「וそして」(そのことのゆえに)彼らは私の民となる。
それがエレミヤの「新しい契約」についての預言なのです。
クリスチャンとしての理解、教理をここにあてはめてみてください。
そう、これはクリスチャンがよく言う「聖霊さまの内住」です。
そのことによって「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」と言っているのです。
ならばここでエレミヤの預言をもう一度読んでみてください。
何を「心に書き記す」=「中心に刻み付ける」と書いてありますか?
その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。エレミヤ書31章33節
心に書き記されるものは「トーラー」とかかれているのです。
なぜでしょうか。
それはヨハネが福音書の冒頭で語っている通りだからです。
「神さま」は「言葉」なのです。
見えない神さまは言葉によってしか見ることはできないお方なのです。
言葉とは何でしょうか。言葉とはみ教え、言葉とはトーラー。
イエスさまは御言葉であるお方、人となられたトーラー。
聖霊さまは私たちの真ん中におられトーラーを教えて下さる神さまご自身です。
(この辺りのことについて再度触れた記事があります)
トーラーというヘブライ語をノモスというギリシャ語
Strong's Greek 3551νόμοςに誰かが変換してしまったところにそもそもの失敗があるのだと私は思っています。
このブログで何度も書いておりますが、トーラーとノモスはイコールではありません。
ギリシア語のノモスとは法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範のこと示す言葉です。
しかしトーラーは創世記の天地創造の場面も含まれるわけですから、ノモスが表すような規範だけではなく、自然界のすべてのルール、DNAの塩基配列もそうですし、物理や化学として知られているようなさまざまな法則も含まれるわけです。
にもかかわらずノモスだなどと訳し、そういうものだと考えているから、
「原子をいじって」最悪な兵器を作って大殺戮の罪を犯したり、「人間の身体に人工的なRNAを入れてしまうような事」を平気な顔をして、否、正義面をして行うようなことになるのです。
「トーラー」について語るときに「がんじがらめの」などという修飾語をつけて表現するのは見当違いも甚だしい。がんじがらめなどではなく、創造主によって与えられた極めて美しい世界の秩序の起源と被造物の取扱に関する説明が書かれたもの、それがトーラーの本質です。がんじがらめにしたのはトーラーではなく、それを正しく解釈せずルールを「付け加えて」いった人間です。付け加えてはいけない、付け加える必要のないものに、さも当然という顔をして付け加えるからがんじがらめになってしまう。現代日本における「がんじがらめ感」もキリスト教会におけるがんじがらめ感も同様。
神聖四文字であられる方の教え(トーラー)を破壊しよう、ハ・アレツ(地)を我が物にしようと狙っている「破壊者」(=バベルの塔を作ったニムロド(シンボルはX))が望んでいる方向に持っていかれていることにクリスチャンであっても気付かないほどの「うまい言葉」「いかにも正しそうに見える言葉」で誘惑者は人間に語りかけ、
それをよく考えもしないで「いいね、いいね」と言ってしまうからおかしな方向に行くのです。
神さまの定められたトーラーを無視し
神さまによって与えられていた秩序を壊す
そういうことを良しとするのは破壊者です。דダレト=扉 の外に追いやる者のしわざです。
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録3章20節
何と恐ろしい黙示でしょう!
神さまを戸の外に締め出しているのは不信者ではないのです。「教会」!
クリスチャンの皆さま、
この時代、
おそらくは既に教会の中に居ると思われる「声の大きな破壊者」の「誘惑の言葉」に耳を貸さぬよう本当にお気を付けください。
バベルの塔を作って神さまに反逆したニムロドのような
「(人間の目から見て)賢く強い者」の言葉にのせられ騙されてはいけません。
私たちはエデンの園の出来事を繰り返してはいけません!
エバがしたように「神さまの教え=トーラー」を曖昧な言葉にしてはいけません。
ウザの行為が赦されなかったように
「べつに悪意はないんだし」「細かいことは ま、いいか」はないのです。
だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。サムエル記下6章6、7節
もちろん、それだからこそ神さまの教えを完全に守ることのできない私たちにはイエスさまの十字架が必要ではありました。
しかし、「守る必要が無いと思って守ろうとしなかった」人の行いと、
「守ろうと頑張ったけれども守れなかった」人の行いでは、
結果は同じかもしれませんが、
人間のこころの中をご覧になられる方の目には違うものが見えるのではないかと思います。
神さまの御心は神さまの御言葉(=教え=トーラー)です。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
マタイによる福音書5章17~20節(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書5章のこの箇所が間違いなく有効であるという信仰を持っているのならば「守るように定められている教え(トーラー)については全て」守らなければなりません。そういう大前提があったうえで、キリストによる「完成」があるのだということを私たちは知るべきです。
トーラーの一部分だけ有効であとはどうでもよい、ということにするものでもありません。