2024年12月16日月曜日

ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして「聖」

トーラーの一番初め(つまり創世記の一番初め)に書いてある言葉はבראשיתです。
読み方にカタカナを充てればベレシート、In the beginningと英訳されています。

ראשיתというBeginningとかfirstと定義される言葉の前にבがついているのでIn the beginningと訳されているわけですが

そういう、よく知られている文法など一切考えず、単なる文字列として眺めると少々違うものが見えてくるような気がします。

ヘブライ語聖書の創世記1章1節はこのように書かれています。

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃

私は3年前からこの御言葉を台所に貼って毎朝毎夕「眺めている」のですが

ある日、ベレシートの頭の三文字と二語目のבראが同じ文字列である、と思いました。
おそらく、文法を学んだことのある人やヘブライ語聖書を読み慣れている人にはそういう見え方はしないはずですが、私は文法など知らず、ただ漠然と文字を眺めているだけなので、「あ、同じだ」と思ったわけです。

で、そういうふうに見てしまうと、もはやベレシートがבの付いたראשיתだなどとは全く考えられなくなり、
בראשיתベレシートという文字列に別の言葉までが見えてきました。

それはברית

בראשיתベレシートという言葉の初めの二文字と最後の二文字をあわせたら

בריתになる!と思ってしまったわけです。

まあ、こんなことを言い始めたらきっときりが無いわけですが、
朝食の準備をしながら毎日ぼんやりとヘブライ語を見続けているお婆さんのたわごとにもう少しだけお付き合いください。

ברית

これはブリットと読み、英語ではcovenant つまり「契約」のことです。

トーラーの冒頭の言葉בראשיתベレシートにブリットが入ってた!と思ったわけです。

となるとお婆さんは止まりません。
בראשיתベレシートは

בריתブリットのבריתの間にאשという二文字が挟まれている言葉なんだ、と思い、
ちなみに、אשには火、炎という意味がありますが、

このאשという言葉、聖書の中に初めて登場するのは創世記15章17節なのですよ。

ויהי השמש באה ועלטה היה והנה תנור עשן ולפיד אש אשר עבר בין הגזרים האלה׃

日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。
創世記15章17節 聖書協会共同訳



ブリットは契約という言葉であり、動物の身体ではないのでブリットを切り裂いた間に炎があったとしても創世記15章17節になるとは思いませんが(;´Д`A ```

今度は、裂けたブリットを見て、つまりבריתですが

ברバルには息子という意味があります。(新約聖書のバルナバ、バルテマイ・・・でおなじみ)そしてBerean Strong's Lexiconによれば

ヘブライ語の「bar」は主に「息子」または「相続人」を意味し、血統や子孫の文脈でよく使用されます。また、純粋さや清浄さを意味することもあり、汚れのない、または選ばれた状態を反映しています。文脈によっては、純粋さや無邪気さを表す比喩として使用されます。語源は「浄化する」または「選択する」


そしてית
תタブという文字自体には「印、封印する、完了、完全」というような意味があり

その文字の「前」に神聖四文字の一文字目であり、神さまの御手を表す文字
יヨッドがあるのですから、神さまが御手で事を行われ、完了された完成されたことを表していると考えられ


ベレシートとは「罪の無い神さまの息子が完成する」
・・・さすがにここまでくるとこじつけすぎのような気はしますが
しかし、
בראשיתベレシートという言葉に、
人間には思い描くことなどできるはずもない永遠の時空が表現されているような気がし始めたのです。

なにしろそれはトーラーの冒頭に置かれた言葉です。
יתで終わるבראשיתベレシートという言葉。

「いいか、お前たち、トーラーは完全であり完結、完成しているものであって、一切の変更は許さないぞ、足すことも減らすことも許さないからな!」という
強い思いを感じたような気がしたのです。

トーラーは、このבראשיתベレシートという言葉で始まり

出エジプト記の冒頭はואלה
レビ記の冒頭はויקרא
民数記の冒頭はוידברという言葉で始まっているわけですが
注目すべきは三つの書の先頭のוヴァヴという文字。
ヴァヴというのは幕屋の壁と入口を形成する幕を留めるフックの形から出来た文字です。
つまり、ヴァヴとはしっかり連結させるためのフックという意味があります。英訳すればandということになるわけですが、文の冒頭についているときには「この文は前の文からの続きです」というメッセージがそこに見えるわけです。
(以前、マルコによる福音書1章15節のところにוヴァヴを見出した話を書いた事があります。興味のある方はご覧ください。https://kyudochu.blogspot.com/2023/06/115.html

וヴァヴに着目すると、בראשיתベレシートという言葉で始まるトーラーは切れることなく出エジプト記に続き、出エジプト記の次のレビ記も切れることなく続き、そして民数記も続いていることとなり、(そういう見方をすると申命記だけは異質です。)
しかし少なくとも四つの書物は一つאחדエハッドだということがわかります。
エハッドとはです。
トーラーの文字を追っていくと
トーラーとは
永遠から永遠まで一瞬の途切れもなく続いていく
אחדエハッド(ただ一人)であるお方の存在とその教えであることが
見えてきます。

そしてבראשיתベレシートという言葉で始まるトーラー(創世記)を読むと

「聖」という言葉の意味、そして考え方がよく理解できます。

例えば、創世記1章の3節から8節までわずか数節だけでもそれがわかるように書かれています。聖書協会共同訳聖書から引用します。


神は言われた。「光あれ。」すると光があった。

神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」

神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。

神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

注目すべきはויבדלヴァ・ヤブデル「そして神さまは分ける」という表現です。これが「聖」という言葉のおおもととなっている考え方であると私は考えます。


創世記1章の3節から8節までのところをもう少し詳しく見ていきたいと思います。

神さまの創造にはプロセスがあります。動詞に着目するとそれがよくわかります。

1.「言われた」
神さまが御言葉によって「御心を宣言」されます。

2.「あれ」「あった」
「あれ」と言われた「もの」がこの世界に存在するようになります。

3.「見て」
神さまはお造りになられたものをご覧になって評価(כי טוב キ・トウブ=良し)されます。
(ただしキ・トウブ=良しと評価されたのは7回だけ。すべてのものにはこうおっしゃってはいない)

4.「分け」
「良し」とされたものとそれ以外のもの、または、造られたものとそれ以外のものを「分け」るということをなさいます。

5.「呼び」
お造りになられたものに「名前」を付けられます。


そして、

日本語の聖書ではほぼ読み取れないことなのですが、

「あれ(在れ)」と言われて存在し始めた「もの」は
「あれ(在れ)」という単語יהיの中央にあるה(アブラハムのハにあたる文字であり、神聖四文字を構成する文字の二番目と四番目にある文字)が先頭につけられるようになります
例えばאור光 は האור

הは英語では定冠詞theのように訳されることになっているようですが、
私は、アブラハムのハと同じような意味
つまり、神さまとの契約関係に入った印なのではないかと思っています。
で、創世記1章1節で造られた天と地には初めからהがつけられているので、天と地は「言うまでもなく」「大前提として」「当然のことながら」
神さまの所有物であるということがしめされているのではないか、と。

השמים天とהארץ地の前にあるאתという文字列に関しては過去に書いた事があります。https://kyudochu.blogspot.com/2022/02/22.html)


この創造のプロセスにおいて、
例えば上に引用した「光を昼と呼び」というところはヘブライ語でこう書かれているわけですが

ויקרא אלהים לאור יום

出だしの ויקרא 「そして神さまが呼ぶ」とは、קראのまえにיヨッドが付いているわけですね。

יヨッドは主の右の御手です。右の御手は救いをお与えになる御手です。
そして、この「呼ぶ」という単語はקクフから始まる単語です。קクフは
קדש「聖なる」という意味を持つ単語の一文字目の文字です。
このことから、「呼ぶ」という行為=命名 とは、その前の段階の「分ける」という行為とあわせることで、「聖」とするという概念とほぼ同じものではないかと私は考えています。

神さまはお造りになられたもの、目を留められたものに、いわば「愛着」され、そしてそれを見、それを「知り=選び」、「聖」とする。

(「知る」という言葉については、「箴言24章5節「知恵」「知識」と訳されている言葉とתעודה」というところに少し詳しく書きました。→https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/245.html


そして「聖」としたそのあとにあるのはלאור יום
 לラメドのついた「光」אורという言葉と「昼」יוםです。


לラメドとは学ぶという意味があり、そしてלラメドは「牛を逐うための突き棒」から出来た文字だという説があるようです。だとすれば、

לאור 
光という単語の前にלラメドがつけられる段階というのは

光には「昼」をつかさどる(照らす)という
「その役割が定められた」ということなのではないか、と思うわけです。

そう考えると、ה
アブラハムのハで、

それは、神さまとの契約関係に入ることであり、
続いて、それ以外の物ときちんと分けられ=名前をつけられ 聖とされ

そうやって「神の国を構成するもの」となったものには
その果たすべき役割が、לラメドによって逐われ、突かれて 決定された

ということのように思えるのです。

(ラメドについて、この辺りの事は以前にも書いた事があります。https://kyudochu.blogspot.com/2023/11/3026_24.html )




そして「聖」とは

他のものとは異なるということをはっきりさせることですが

(前回の記事にギリシャ語のἁγιάζωἅγιοςについて書きましたのでご覧ください。→https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_12.html

神さまはアダム(人)にも「生き物に名をつける」という事を通してそのことを教えます。
生物に命名するためにはそれがほかの生物とどう異なるのかということをはっきり認識する必要があります。生物学には分類学(←Wikipediaにリンクさせてあります)という学問がありますが、まさにそれです。

生物を種々な共通的な特徴によって分類するということをアダム(人)は学び、
地球上のあらゆる「もの」や「こと」を

分ける、分離させる、切り離す、

これが

「聖」という概念の原点だと私は考えます。




そういうことを踏まえた上で

前回の記事「暗い暗い夜明け前」 https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_12.html

で書いたエレミヤ4章23節の「混沌」について考えるならば、

創造の初めに、
神さまの御言葉によって
きちんと分けられ、名前をつけられ(定義され)
整然となっていた「聖い」「良い」ものが、
あれもこれも混ざってしまったから

混沌となってしまう、ということです。

勝手に混ざってしまうことはないのです。
生き物たちにしっかりとした「種類」があることでわかるとおり、
被造物には神さまの定められた混ざることのない混ぜてはいけない
境界線がしっかりあるはずだからです。

この「境界線」となるものがトーラーです。

「翻訳聖書におけるパウロが」何と言おうが、
(私は「パウロ」が何と言おうが、とは言っておりませんのでご注意ください。)
トーラーはがんじがらめにするものではありません。

がんじがらめのように思うのは「人間」が誤った解釈をしていたからです。

苦しんでいる病人がいたとしても安息日だから直してはいけないとか変な方向に行ってしまったのは、トーラーのせいではなく人間のせいです。イエスさまが来られた時代のユダヤ教の教師たちのせいだと思います。

神さまは完全であり、正しいお方なのだ、という前提条件を持っているならば

どうして、そのお方によって与えられたトーラーがある日突然変更されなければならないのでしょうか。

変更されていないからこそトーラーにある通り創造主は創造主としてあがめられるべきお方のままであり、創世記にあるアダムとエバのストーリーから原罪が示され、その原罪があるからこそ私たちは救われる必要がある。

トーラーが有効であるからこそ信仰のない者は罪に定められるのです。

もしもトーラーが無効なら、
まことの神様を信じない者を裁く法はどこにあるのですか?


ここで
エレミヤ書31章31節から34節を聖書協会共同訳の聖書から引用したいと思います。


31節

その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。


32節

それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。

33節

その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。


34節

もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。



31節で語られる「新しい契約」とは33節にあるとおりです。

「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」

「律法」という言葉はヘブライ語聖書では「トーラー」と書かれています。

そして、「書き記す」という言葉は刻み付けるというような意味のある「カタブ」という言葉です。今とは違って紙や簡便な筆記用具が豊富にある時代の話ではありません。書き記すのは神の戒め、契約、および神の民の歴史、法律、法令、そういう時代における「書き記す」という言葉がכָּתַבカタブです。

エレミヤ書31章33節に登場するこの「カタブ」という言葉は、申命記9章10節にある「神の指で記された」と書かれているところに用いられている動詞と同じであるということを知ればその重みと意味を感じる事が出来ると思います。

主は神の指で記された二枚の石の板を私に与えられた。その上には、あの集会の日に、山で火の中から主があなたがたに語られた言葉がすべてそのまま記されていた。

神聖四文字なるお方が定められた「トーラー」を人間の「中心」
すなわちקֶרֶבケレブに刻み付ける、ケレブとは、私たちの思考や感情といったものがあふれ出てくるところを意味しますが、その場所に「トーラー」を刻み付ける、וそして」(そのことのゆえに)私は彼らの神となり、「וそして」(そのことのゆえに)彼らは私の民となる。
それがエレミヤの「新しい契約」についての預言なのです。

クリスチャンとしての理解、教理をここにあてはめてみてください。

そう、これはクリスチャンがよく言う「聖霊さまの内住」です。

そのことによって「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」と言っているのです。

ならばここでエレミヤの預言をもう一度読んでみてください。

何を「心に書き記す」=「中心に刻み付ける」と書いてありますか?


その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。エレミヤ書31章33節

心に書き記されるものは「トーラー」とかかれているのです。

なぜでしょうか。

それはヨハネが福音書の冒頭で語っている通りだからです。

「神さま」は「言葉」なのです。

見えない神さまは言葉によってしか見ることはできないお方なのです。

言葉とは何でしょうか。言葉とはみ教え、言葉とはトーラー。

イエスさまは御言葉であるお方、人となられたトーラー。

聖霊さまは私たちの真ん中におられトーラーを教えて下さる神さまご自身です。

(この辺りのことについて再度触れた記事があります)

トーラーというヘブライ語をノモスというギリシャ語
Strong's Greek 3551νόμοςに誰かが変換してしまったところにそもそもの失敗があるのだと私は思っています。

このブログで何度も書いておりますが、トーラーとノモスはイコールではありません。
ギリシア語のノモスとは法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範のこと示す言葉です。
しかしトーラーは創世記の天地創造の場面も含まれるわけですから、ノモスが表すような規範だけではなく、自然界のすべてのルール、DNAの塩基配列もそうですし、物理や化学として知られているようなさまざまな法則も含まれるわけです。

にもかかわらずノモスだなどと訳し、そういうものだと考えているから、
「原子をいじって」最悪な兵器を作って大殺戮の罪を犯したり、「人間の身体に人工的なRNAを入れてしまうような事」を平気な顔をして、否、正義面をして行うようなことになるのです。

「トーラー」について語るときに「がんじがらめの」などという修飾語をつけて表現するのは見当違いも甚だしい。がんじがらめなどではなく、創造主によって与えられた極めて美しい世界の秩序の起源と被造物の取扱に関する説明が書かれたもの、それがトーラーの本質です。がんじがらめにしたのはトーラーではなく、それを正しく解釈せずルールを「付け加えて」いった人間です。付け加えてはいけない、付け加える必要のないものに、さも当然という顔をして付け加えるからがんじがらめになってしまう。現代日本における「がんじがらめ感」もキリスト教会におけるがんじがらめ感も同様。

神聖四文字であられる方の教え(トーラー)を破壊しよう、ハ・アレツ(地)を我が物にしようと狙っている「破壊者」(=バベルの塔を作ったニムロド(シンボルはX))が望んでいる方向に持っていかれていることにクリスチャンであっても気付かないほどの「うまい言葉」「いかにも正しそうに見える言葉」で誘惑者は人間に語りかけ、
それをよく考えもしないで「いいね、いいね」と言ってしまうからおかしな方向に行くのです。

神さまの定められたトーラーを無視し

神さまによって与えられていた秩序を壊す

そういうことを良しとするのは破壊者です。
そして、破壊の結果は滅びאבדアバドです。
אבアブ(アバ)=父なる神さま を 
דダレト=扉 の外に追いやる者のしわざです。


見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録3章20節


何と恐ろしい黙示でしょう!
神さまを戸の外に締め出しているのは不信者ではないのです。「教会」!

クリスチャンの皆さま、
この時代、
おそらくは既に教会の中に居ると思われる「声の大きな破壊者」の「誘惑の言葉」に耳を貸さぬよう本当にお気を付けください。

バベルの塔を作って神さまに反逆したニムロドのような
「(人間の目から見て)賢く強い者」の言葉にのせられ騙されてはいけません。


私たちはエデンの園の出来事を繰り返してはいけません!

エバがしたように「神さまの教え=トーラー」を曖昧な言葉にしてはいけません


ウザの行為が赦されなかったように

「べつに悪意はないんだし」「細かいことは ま、いいか」はないのです。

だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。サムエル記下6章6、7節

もちろん、それだからこそ神さまの教えを完全に守ることのできない私たちにはイエスさまの十字架が必要ではありました。

しかし、「守る必要が無いと思って守ろうとしなかった」人の行いと、

「守ろうと頑張ったけれども守れなかった」人の行いでは、

結果は同じかもしれませんが、

人間のこころの中をご覧になられる方の目には違うものが見えるのではないかと思います。

神さまの御心は神さまの御言葉(=教え=トーラー)です。


「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
マタイによる福音書5章17~20節(聖書協会共同訳)

マタイによる福音書5章のこの箇所が間違いなく有効であるという信仰を持っているのならば「守るように定められている教え(トーラー)については全て」守らなければなりません。そういう大前提があったうえで、キリストによる「完成」があるのだということを私たちは知るべきです。

トーラーからは絶対に一点一画消えうせることはないのです。
何度も何度も書いていることですが
トーラーから一点יヨッドが消えれば
トーラーから一画וヴァヴが消えれば
トーラーから神さまのお名前יהוהが消えてしまうのです。

キリストの愛、十字架の愛とは、トーラーを無かったことにするものではありません。
トーラーの一部分だけ有効であとはどうでもよい、ということにするものでもありません。
トーラーの言葉は神さまご自身、イエスさまご自身、聖霊さまご自身だからです。
時が移り社会情勢が変わったとしても
変わらないもの、それがトーラーです。

暗い暗い夜明け前

 漆黒の闇はどす黒い悪を覆い隠し、小さな光は悪意に囲まれ圧し潰されてしまうかのように見えます。

そして昭和生まれの婆さんだから・・・なのか

次から次へと本当にわけが分からぬことばかり。

気分はエレミヤ4章23節のようです。

私は地を見た。そこは混沌であり天には光がなかった。
エレミヤ書4章23節 聖書協会共同訳


混沌」とは、物事が入り混じって区別する事が出来ない無秩序状態を表現する言葉です。そして、どんなときでも開き、私たちを包み込んでくれていたはずの空に光るものは無く、天までもが闇になってしまっていたのだとエレミヤは語ります。


混沌」と翻訳されているところはヘブライ語聖書には
תהו ובהו トーフー ヴァ ボーフーと書いてあります。
「トーフー」とは形のない状態や空虚な状態を表す言葉
ヴァボーフーとは、「ヴァ」は英語ではandのことで、「ボーフー」は空虚または虚無を表しているとBerean Strong's Lexiconには書いてあります。

ところで、このתהו ובהו トーフー ヴァ ボーフーという表現ですが
実は聖書の中にもう一か所、全く同じ表現で存在しています。

それは創世記1章2節です。

地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
創世記1章2~4節 聖書協会共同訳


これらのことから、
トーラーを熟知しているはずのエレミヤが4章23節で述べていたのは、創世記1章2節で語られている「ありさま」であろうと推察できます。


さて、

トーラーの最初の書である創世記の冒頭、つまり創造主による創造とは、「分けることと線引きすること」それが基本です。

創世記1章の3節から8節までの箇所を聖書協会共同訳聖書から引用します。

神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
創世記1章3~8節 聖書協会共同訳聖書


創造には5段階の過程があるように思えます。

1.「光あれ。」まず、神さまが御言葉によって御心を宣言されます。

2.「すると光があった。」御心のとおりのものが現れ、存在するようになります。

3.「神は光を見て良しとされた。」神さまはお造りになられたものについて評価(認証)されます。

4.「神は光と闇を分け」そして「良し」となったものをそれ以外の物と「分け」るということをなさいます。

5.「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」お造りになられたものに「名前」を付け、それ以外の物と区別されます。


そしてこの「創造」における「分けることと線引きすること」こそが

「聖」という思想の土台であり、根幹をなしているのだ、と私は考えます。

なぜなら、「聖」とは、他のものとは異なるということをはっきりさせ、分離する、切り離す、という言葉だからです。

神聖にする、神聖として扱う、神聖として区別する、聖別する、神聖化する、浄化する
という意味を持つギリシャ語
Strong's Greek 37 ἁγιάζω  hagiazó は 

Strong's Greek 40 ἅγιος hagios から派生した言葉だと辞書にあります。

この40番 ἅγιοςhágiosの基本的な(中核的な)意味は「異なる」というものです。
世にあるほかのものとは異なる、区別されているものという意味で
それは「主にとって特別なもの」という意味となり「聖」ということになります。


したがって、エレミヤ書4章23節に語られている「地」の様子は、
創世記が語る「分類と線引き」が破壊されてしまった結果の光景であるということです。

物理についても生物についても、そして、観念的なことについても、
世にある全ての物事が、境目を失って入り混じり、
それはちょうど創造以前のもの
תהו ובהו トーフー ヴァ ボーフーになってしまった

そういうことです。

そして、それはつまり創世記という トーラー=神さまの教え をないがしろにした結果であるということです。


イエスさまが福音書でこのようにおっしゃったことがありますが


よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
マタイによる福音書5章18節

ヘブライ文字で一点一画というとיヨッドとוヴァヴのことです。

この二つの文字は神聖四文字のうちの二文字です。

神聖四文字はこう綴ります。
יהוה
יヨッドとוヴァヴが消えてしまえば
まずは神さまのお名前が消えてしまうのです。



ちなみに
エレミヤ書4章23節にある「光」というところはヘブライ語で

אוֹרָ֑ם オウラム と書かれています。
光という単語がこの形で聖書に現れるのは3回で、

それはこのエレミヤ書とイザヤ書「バビロンについての託宣」という章と、そしてヨブ記「主は嵐の中からヨブに答えられた」という章のところです。

空の星と星座は光を放たず
太陽が昇っても暗く、月もその光を照らさない。
イザヤ書13章10節

悪しき者どもからその光は取り去られ
振り上げた腕は折られる。
ヨブ記38章15節





(つづく)

2024年12月12日木曜日

箴言24章5節「知恵」「知識」と訳されている言葉とתעודה

 箴言24章5節を聖書協会共同訳で読むとこうあります。

知恵ある男は強い。知識のある人はさらに力を加える。


今日はこの聖句を手掛かりにして「知恵」と「知識」とは何か、という事を調べたり考えた話と、いつものように今朝台所でふとひらめいた!?話を記録したいと思います。


ヘブライ語聖書で箴言24章5節を読むとこうなっています。

 גבר חכם בעוז ואיש דעת מאמץ כח׃


右から二つ目の単語חכםカカム が「知恵」にあたる言葉です。

これはWise, skillful, learnedと定義されるようです。

ギリシャ語ではσοφός, sophos ソフォス


で、「知恵」とは、
古代イスラエルではこれは「神さまからの賜物」すなわち、神の道を深く理解し、その知識を人生に効果的に適用する「能力」であるという理解だったようです。
なので、出エジプト記における幕屋製作の場面で、例えば35章10節にはこんな御言葉がありますが

あなたがたのうち心に知恵のある者は皆やって来て、主が命じられたものをすべて作りなさい。(聖書協会共同訳)
この御言葉に書かれている「知恵」がまさにחכםカカムです。
חכםカカムを持っている人のことをヘブライ語では「賢者」と呼ぶようです。
過去の記事ではそのあたりのことを良くわからぬままに「賢者」という言葉を引用しておりました。賢者とは、自らの経験によって得た知識や技能を、

「神さまと共に歩む道のりの中で活かす」ことのできる人であり、
自分以外の人々に対して正しい決断を下せるように導ける人ということなのですね。

賢者という言葉を引用している過去の記事↓

「箴言30章1節 ヤケの子アグル」
https://kyudochu.blogspot.com/2024/08/blog-post_8.html

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」
https://kyudochu.blogspot.com/2023/12/3026.html



ところで、箴言24章5節のחכםカカムの前にある一語目の単語

גברゲベル これは聖書協会共同訳の翻訳では「男」と訳されているのですが、

これは人間の性別を表す言葉ではなく、「強い」または「勝つ」を意味するガバルという言葉の派生語で、強さ≒戦士のような資質を意味する言葉です。
今どきの社会でそういうことを言ったらぶん殴られるのかもしれませんが、聖書の世界=家父長制社会において男性は強くあることが求められます。家族を守り、一族を守るための強さ。肉体的に、そして道徳的にも勇敢であることが求められたのですね。
גברゲベルは箴言30章1節にもあった言葉です。今年の8月に書いた記事でちょっとだけ言及しています。
(参照)箴言30章1節 「疲れた~」とか言ってる場合じゃないと思うのですがhttps://kyudochu.blogspot.com/2024/08/blog-post.html

ちなみに、聖書によく登場する「強くあれ雄々しくあれ」という言葉にはゲベルとガバルではない言葉が使われています。


強く、雄々しくあれ。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に進まれる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。」
申命記31章6節(聖書協会共同訳)


ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたがたが戦う敵すべてに対し、主はこのようにしてくださるのだから。」
ヨシュア記10章25節(聖書協会共同訳)

この二か所にある「強く、雄々しくあれ」はヘブライ語でこう書かれています。

חזקו ואמצו

חזקカザクが「強く」という意味で、強くあれ、と励ますときによく用いられるそうです。

そして雄々しくあれと訳されているのはאמץアメツで、勇気があるという意味がある単語です。困難や敵に直面したときに勇気をもって勇敢に、毅然とした態度で臨むこと、つまり精神面での強さ≒神さまへの信仰に基づいて勇気を持つこと それが日本語で「雄々しくあれ」と訳されている部分です。

גברゲベルとは、חזקカザクとאמץアメツの両方を持つ者なのだと思います。それが古代イスラエルにおいて「男性」に望まれたことです。
まあ、現代においてはそうでないのでしょう。
どんどんどんどんトーラーで定められた境界線が取り払われてごちゃまぜにして、いかにもそれが進歩的文化的であるような事を言って
しかしそれは成熟した文化ではなく衰退なんだ、エレミヤ書4章23節なんだ、と私には見えます。なぜなら聖書の神さまを信じているからです。ああ、また昔見たムーディ科学映画を思い出す😩




次に箴言24章5節において「知識」と訳されている言葉について、

ヘブライ語聖書では右から5番目にある単語がそれです。

גבר חכם בעוז ואיש דעת מאמץ כח׃

דעתダアト

この単語が聖書の中で一番初めに登場するのは創世記2章9節「善悪の知識の木」というところです。
そしてדעתダアトは、

「知る」という意味があるידעヤダという単語が元になってできた言葉だそうです。
ידעヤダは、夫と妻の親密な関係や、神さまとの契約関係を表すときに使われています。

神さまとの契約関係を表している箇所とは
例えば創世記18章19節に「選んだ」というふうに訳されている言葉がありますが、
そこにידעヤダという単語が使われています。

私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼らが正義と公正を行い、主の道を守るようにするためであり、主がアブラハムに約束されたことを成就するためである。
創世記18章19節(聖書協会共同訳)

夫婦の親密な関係について「知る」という言葉が使われていることは日本語の聖書だけを読んでいるだけの時にも知っていましたが、
神さまがアブラハムを「選んだ」と訳されている言葉も
「知る」という意味のあるידעヤダであったとは・・・。
古代のイスラエル人にとって「知る」ということは、日本人である私たちの知っているところの「知る」とはかなり違うのではないか、と思わされます。

私たちにとって「知る」ということは、特に現代に生きる大多数の人々にとって「知る」という言葉は、物事の表面をうっすらと掠る程度の話ではないでしょうか。
たとえば、小さな子供が大人から何かを尋ねられたときに「それ知ってる知ってる!」というようなことだったり、
あとは、
あえて「小さな子供」の例と並べるという意地悪をしようと思いますが、
日本の有名大学の学生がテレビのクイズ番組で得意そうに披露する、特に専門性があるということではない、「言葉の定義などについての情報」が現代日本で暮らす私たちが思う「知識」であり、それらを自らの中に集積させることが「知る」という単語の定義なのだろうと思います。
しかし、夫婦の親密な関係や神さまとの契約関係が単なる情報の集積であるはずはなく、しかも聖書に初めて登場する「知識」という言葉は「善悪の知識の木」ですから、

ヘブライ語聖書が語る「知る」とはそして「知識」とは、
現代の日本語において定義されるものとは全く異なるもののような気がします。
結果として脳の中に集積されるという現象は起こるとしても、
知ろうと思うに至る「動機」そして手にする「知識」

それはまさにדעתダアトという言葉の三文字が語る通りなのです。

דダレトは「扉」という意味を持つ文字ですが、
知ろうと思うに至る「動機」を持った人間がまずは知識に至るための「扉」の前に立つわけです。そしてעアインは「目」です。目で見る、観察する、そういう行動を起こすわけですね。そして最後はתタヴ「完了、完成」です。


そんなことを考えながら台所に立っていたら

貼ってあるイザヤ書8章20節の中の一つの単語に目がいきました。
תעודהテウダー

これは以前

イザヤ書8章20節 絶望の淵から
https://kyudochu.blogspot.com/2023/02/820.html

という記事でも言及した言葉なのですが、
そのתעודהテウダーの中にדעתダアトの三文字が丸々入っていることに気付いたのです。

完全に逆の配置、左から書かれたדעתダアト
逆の配置であるので、תタヴから始まる。
תタヴから始まるのだから既に完成しているもの。
何かをこれから付け加える必要のないもの。
私たちのように新しく何かを知って知識を獲得しなくて良いもの。
そしてתורהトーラーと同じようにתタヴから始まっていてהヘーで終わる言葉、
つまり、תורהトーラーと同じように命を与える完全なもの。


לתורה ולתעודה

תורהトーラーと並列できる、完全で、私たちに命を与えてくださるもの!

あ!

次の瞬間、
תעודהテウダーの日本語訳である「証し」という言葉と全く同じ「証し」という言葉が新約聖書にあることに気付かされました。

その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。
ヨハネによる福音書3章33節(聖書協会共同訳)



イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
ヨハネによる福音書8章14節(聖書協会共同訳)

イザヤ書8章20節と同じ「あかし(証し)」という言葉
ギリシャ語ではμαρτυρία マルトゥリア

しかもヨハネ8章14節には「知っている」という言葉があります。
天から降られた御子は全てのことをご存じであるけれども、一方人々を導く賢者であろうファリサイ派の人々は賢者であるが「知らない」。

そして、イエスさまはתמיםタミム(完全)。
罪の無いתמיםタミム。

מים枯れることのないをお与えになるお方。

神さまがイザヤを通して語られた、
תורהトーラーと並列できる、
完全で、私たちに命を与えてくださるתעודה「あかし(証し)」

神さまの御子イエスさま!


たしかに、よくよく考えてみれば、イザヤ書8章の後にあるのは9章なのです。
8章20節に書いてあったのは
תורהトーラー(教え)とתעודהテウダー(証し)によらなければ夜明けは訪れないということです。しかし、9章の1節2節ではこのように書いてあるのですから

しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ書9章1,2節(口語訳聖書)

そしてתורהトーラー(教え)とתעודהテウダー(証し)がそろったので暗やみの中に歩んでいた民は光を見ることになったわけです。

イザヤが語っている時代にתורהトーラーは既にあるのですから、あとはתעודהテウダー。じゃあ、תעודהテウダーとは何かと問われれば
イザヤ書9章1,2節をもたらしたお方、つまりイエスさま!


なぜ、今まで気が付かなかったのでしょう(;´Д`A ```

2024年12月10日火曜日

「完全」という言葉(2)「エロヒム」と「タミム」のイム

先日書いた「完全という言葉」https://kyudochu.blogspot.com/2024/11/27.html

という記事で触れたタミムとトム(タム)という単語にイムがくっついた形?という話の続きです


תםトム(タム)とתמיםタミムが両方とも「完全」という意味を持つというのですから、

תםトム(タム)をベースにしてים」が付き、תמיםタミム なのではないだろうか、と考えるのは自然な話で、

だとすれば、תםトム(タム)にיםがついたתמיםタミムとは、

תםトム(タム)のあらわす「完全」とどこが異なっているのか、
その違いを調べればיםがいったい「どういう気分でつけられたものなのか」という事がわかるはずです。

そして、もしもそこに見いだせるものがあるのならば、ほかの言葉においても
つまり、יםがついているか否かという違いはあるが基本的な意味において類似している二つの単語があった場合に、

もちろん、単純に「複数形」だと考えればよいものはあるわけですが、本当に「複数形」なのか?と困惑させられるようなיםや、תמיםタミムのように明らかに複数形ではないけれども単語の最後がיםで終わっているものについて、

聖書ヘブライ語を理解して使っていた古代人たちがיםという二文字をどんな気分で使っていたのか、ということを知るための手がかりになると思うのです。



תםトム(タム)にיםがついたתמיםタミムというיםの有る無しによる意味の差についての詳しいことは前回の記事である「完全という言葉」https://kyudochu.blogspot.com/2024/11/27.html

にありますのでご覧いただければと思いますが、そのとき気付いた事は、

תםトムとתמיםタミムでは、それぞれの言葉が「完全」だと評価する「対象」に違いがあるということです。

聖書にתםトム(タム)である、と書かれていたのは

・ヨブ(ヨブ記1章1節)ただし、12章4節における「正しく全き人は物笑いとなる」というヨブの言葉における「全き」はתמיםタミムです。

・ヤコブ(創世記25章27節)
・雅歌に登場する花嫁(雅歌5章2節、6章9節)

そして、תמיםタミムであると書かれていたのは

・主の律法(詩編19編8節)
・神さまの御業(申命記32章4節)
・神さまの道(詩編18編31節)
・ノア(創世記6章9節)
・ささげものとして認められた動物

そしてתמיםタミムとなること、תמיםタミムであることを要求された人や物は

・アブラム(創世記17章1節)
・レビ人(申命記18章13節)
・ささげものとする動物



תמיםタミムは最も高い意味での「完全」という言葉のように見えます。

そして、

これだけの結果で語るのは時期尚早かもしれませんが、

יםとは
神さまレベルの、本当に何の欠けも見出す事が出来ないレベルを示す言葉なのでは??


יםはもともと「海」を表す言葉です。

古代人が海を見てどんなことを思ったのか、その気持ちがこの二文字にこめられているのかもしれません。

広く広く大きな大きな海。水平線の向こうが一体どうなっているのか想像もつかない海。生きていくためには絶対に欠かすことのできない水がたくさんたくさんある海。満ちてあふれてざぶ~んざぶ~んと陸地に水がのぼって来る海。そしてそこに竿を振り下ろせば、ひょっこり魚が現れる海。
無限で、
力強く、
命を与えてくれる海!


יヨッド=神さまの右の手と、
מメム=波の形から出来た文字 が
大きく広がったようなםメムソフィートで表される
יםヤム=海


大きくて広くて無限で豊かで、
しかしその一方で荒れれば舟を飲み込み、津波となれば町をも飲み込んでしまう恐ろしさを持つ

そのようなイメージが語末のיםにはあるような気がします。


そして、

יםが語末につくと「複数形」である、といういわゆる「文法」に関することについてですが、


中学校時代の英語学習の記憶に基づいて、一つではなく二つ以上の場合には「複数形」に変える、そういうものだと単純に理解しがちですが、

どうして複数形に変えなければいけないのか、どういう心持で英語話者はそこを変化させるのか、ということについて、複数形を持たない日本語話者である自分にとっては理解しがたいものがあります。もちろん、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん・・・と無意識のうちに言えてしまう事を考えるならば、どの言語を使う人々においても、脳の中にはよく考えることもなく、反射といえるようなスピードで言葉を処理するシステムが備わっているのであって、ネイティブスピーカーならば細部まで「理解ししみじみと味わっている」わけではないのも事実です。
しかし、聖なる言語、聖書ヘブライ語のことです、ロボットでも簡単にクリアできてしまうような理解、与えられた情報を暗記して「物知りです。何でも聞いてください。いろいろ暗記してます。すごいでしょ?」だけでよいのか、というような気がしています。


話がずれました。

複数形のיםの話をしていたのでした。

自分としては今「聖書ヘブライ語では単語の繰り返しによって物事を強調する言語である」ことと「複数形」にはかかわりはないのか、というあたりが気になっています。

創世記2章17節では死ぬという言葉が二度繰り返され、「死が不可避」であることを表していたり、

מות תמות

イザヤ書6章3節ではについて聖なるを三度繰り返して「強調」されています。


קדוש קדוש קדוש יהוה


クリスチャン生活が長くなり、日本語聖書を読み慣れてくると、繰り返していることがあまりにナチュラルになりすぎて、深く意味を考えることが無くなり、「聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな」こういった場合には三度繰り返されていて当たり前、繰り返すのが当たり前というような、聖書の記述が脳内で勝手に「式文」化され、何の不思議もなくなってしまいます。が、しかし

本来の意味としては、一度の「聖なる」では足りない、二度でも足りない、三という完全な数の回数「聖なる」を繰り返すことによってしか
神さまが本当に本当に本当に聖であることを表せないと「考えている著者」がいたわけです。


同じ言葉を繰り返すことによる強調と、複数あるように表現することには「気分的な近さ」があるのではないか、と私は思うのです。

ある意味洗練されていない言語表現とも言えそうですが、こういうところに将来を見据えた言語の設計を感じます。文化的な背景が異なる者たちそして小さな子供から高齢者までがこの言語のもとに集まった時、
「いっぱいいっぱい、大きい大きい、すごいすごい」と言っている人がいたならば
「いっぱい、大きい、すごい」と言っているよりもたくさんあり、もっと大きくて、とてもすごいらしいということは伝わるからです。
一方、もしも「どこどこには『~小町』と呼ばれている人がいる」という話があったとしても、それがいったいどういう意味なのか、たとえ日本語話者であったとしても、小学校低学年の児童にはおそらく伝えることはできません。


創世記1章1節の
אלהים エロヒムとは

他に類を見ない偉大なお方を表現するための複数形יםなのではないか、と思います。


なあんて書いてからBIBLE HUBでStrong's Lexiconを見ていたら、
https://biblehub.com/hebrew/430.htm

数ではなく威厳や強さの複数形
複数形は、神の本質と属性の完全性を反映している可能性

と書かれていました。
落ちこぼれクリスチャンなので教わったことがなくて知りませんでした~💦
辞書も持ってなかったから何日も何日も何十日も何年もw考え続けてしまったww。
でも、極東の、専門性もお金もないアラ還主婦でも、無料サイトを使った自学自習でそこらへんには到達できるってことですよね。神殿だからw

楽しい(⋈◍>◡<◍)。✧♡

そうそう、最近のBIBLE HUBはUsageとCultural and Historical Backgroundが充実していっそう便利になりましたね。感謝、感謝、感謝!です。


ところで、

ここのところずっとתמיםיםについて考えていて、

ふと、2023年の11月から2024年の2月まで書き続けていたイザヤ書30章26節の解釈シリーズが思い出されたのです。


イザヤ書30章25節をヘブライ語聖書で見るとこう書いてあるわけですが

והיה על כל הר גבה ועל כל גבעה נשאה פלגים יבלי מים ביום הרג רב בנפל מגדלים׃

下線を引っ張ったところは

「大いなる殺戮の日、塔という塔が倒れる時に」

にあたる部分で

「塔という塔」と訳されているところは
מגדלミグダル=塔 にיםイムがついて
מגדליםミグダリムになっているわけです。
だから「塔という塔」と訳しているのだと思いますが、

מגדלミグダルという名詞にיםイムが付いたこの単語も、もしかしたら
יםイムによるמגדלミグダルの強調、つまり、塔がたくさんあるという意味ではなく、非常に優秀な、バベルの塔を企てたような人物一人を暗示しているのかもしれないと思いました。

もちろん、יםイムを単純に複数ととるのか、強調ととるのかということについてはケースによって適用の可否はあると思いますが。

ただ、間違いなく言えることは、貴重な「紙」にものを書く古代人が、私のような現代の俗人がスマホやPCを使って書くような雑で愚かなことをするはずはありません。

文字の選び方、言葉の選び方、そして文字や言葉を紙のどの位置に置くかということまで、真剣に真剣に考えているはず。

しかも、預言の言葉です。

神さまはイザヤに何を託し、書かせたのでしょうか。

令和の世に生きる日本人だって読むはずの聖書に。



まあ、何が書いてあろうと何が起ころうと私にできることなすべきことは

たった一つしかありませんけれども。ね。

2024年12月3日火曜日

【残りの者】残るのと残らないのはどっちが良いのか

今日は
キリスト教会で語られている「ある教え」について自分の考えるところを書こうと思います。
以下、確固たる信念を持っている、というか、何を言われても動じない自信のあるクリスチャン以外は絶対に読まないでください。


以前から書いているように

旧約聖書には
良いものが残る「残りの者」という思想があります。

同じ意味のヘブライ語とギリシャ語を一度に確認できるようにイザヤ書10章22節を引用します。

כי אם יהיה עמך ישראל כחול הים שאר ישוב בו כליון חרוץ שוטף צדקה׃

שאר という言葉が残りの者という意味のヘブライ語で、NASB(New American Standard Version) では以下のように翻訳されています。remainder (1回), remnant (11回), rest (13回), survivors (1回)

そして、イザヤ書10章22節は日本語では以下のように翻訳されています。

あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。滅びは定められており、正義がみなぎる。(聖書協会共同訳)

そしてこの箇所はローマ9章27節に引用されていますので、その箇所をNestle 1904から引用します。

Ἡσαΐας δὲ κράζει ὑπὲρ τοῦ Ἰσραήλ Ἐὰν ᾖ ὁ ἀριθμὸς τῶν υἱῶν Ἰσραὴλ ὡς ἡ ἄμμος τῆς θαλάσσης, τὸ ὑπόλειμμα σωθήσεται·

このギリシャ語の文ではὑπολείπωというのが残りの者を表現しています。

(Byzantine Majority Text 2005ではκατάλειμμαと書かれています)

ローマ9章27節は日本語では以下のように翻訳されています。

また、イザヤはイスラエルについて、こう叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が
海の砂のようであっても
残りの者だけが救われる。
ローマの信徒への手紙9章27節(聖書協会共同訳)




ノアの箱舟にしてもそうですし、ソドムとゴモラにしてもそうですが、

旧約聖書では神さまに従う者が地上に残ります。逆はありません。

つまり、悪い者たちが地上に残り、神さまに従う者たちが地上から消えてしまうというようなことはないのです。


さらに、もっとシンプルで根源的なトーラーの話をするならば、

生きている人間は  הארץ ハアレツ(地)で生きるようにデザインされ造られました。

だから、「生きている人間」「身体を持っている人間」にとってはこの地上、地面の上で暮らすのが一番ふさわしく最も良い居場所です。


ならば新約聖書のこの箇所はどうとらえればよいのか。

すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一4章16、 17節

日本語の聖書で読むとたしかにクリスチャンたちが高い空に行ってしまうような印象を受けます。
ほんとうにそうなのか、
確認するために17節をギリシャ語の聖書を見てみましょう。

ΠΡΟΣ ΘΕΣΣΑΛΟΝΙΚΕΙΣ Α΄ 4:17 Greek NT: Nestle 1904

ἔπειτα ἡμεῖς οἱ ζῶντες οἱ περιλειπόμενοι ἅμα σὺν αὐτοῖς ἁρπαγησόμεθα ἐν νεφέλαις εἰς ἀπάντησιν τοῦ Κυρίου εἰς ἀέρα· καὶ οὕτως πάντοτε σὺν Κυρίῳ ἐσόμεθα.


この箇所で「(中で)」と日本語に訳されている言葉はεἰςἀέρα

原形はStrong's Greek 109 ἀήρです。

この109番は新約聖書に合計7回登場します。
口語訳聖書から引用します。



人々がこうわめき立てて、中に上着を投げ、ちりをまき散らす始末であったので、使徒22:23


そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、を打つような拳闘はしない。一コリ9:26

それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、にむかって語っていることになる。一コリ14:9


かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。エペソ2:2

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。一テサロニケ4:17

そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。黙示9:2
 

第七の者が、その鉢をに傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。黙示16:17

 この7か所のうちἀέραという形で登場するのは
使徒22:23、一コリ9:26、一コリ14:9、一テサロニケ4:17、黙示16:17の5か所です。


語源を見ておきましょう。

Strong's Greek 109 ἀήρの語源は「呼吸をすること」です。呼吸をするという意味がベースにある「空気」という言葉なのです。
リンクを張りますのでBIBLE HUBで確認してみてください。
https://biblehub.com/greek/109.htm

この世界の物質が、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする
エンペドクレスの四元素の概念における「空気」を古代ギリシャ語でαήρと言いますから、そのあたりの認識でこの言葉を使っている可能性が考えられます。
ウィキペディアの「空気」の項にある「大気の理解」というところに

鉛直構造としての大気は高所に行く必要があり空気の研究に比べると遅れた

 とありますが、

古代人は地上からの天文や気象の観察は良くおこなっていたと思いますけれども、青く見えるような大空に地上と同じような空気が存在するのかというようなことについて
予想はしたかもしれませんが、日常的には考えていなかったのではないかと想像します。
つまり、彼らがαήρと表現するとき、四元素のうちの空気であったり、呼吸するときに吸う風のようなものをイメージすることはあっても、その言葉を持って高いところにある「空(そら)」考えることはないと思うのです。

もちろんヘブライ語にはシャマイムという「天」を表す言葉も概念も存在するわけですが、それは神さまのおられる天なのであって空気のことではありません。また、ラキアという創世記1章6節にある「大空」を表す言葉もありますけれども、ラキアは辞書によれば対応するギリシャ語は
στερέωμα これは聖書の中にはたった一度コロサイ人への手紙2章5節に登場する言葉で

私は、体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。

口語訳聖書で言うと「堅い」と訳されているところに該当し、堅固で確立されたものという概念を伝えるために使用されるとのことです。

なぜ旧約聖書で「大空」と訳されるヘブライ語のラキアがギリシャ語の「堅固で確立されたもの」になるのかと言うと、これも辞書に書いてあったことですが、

古代の宇宙論、特にヘブライとギリシャの伝統では、天空は、上の水と下の水を分ける堅固な(かたくてこわれにくい)ドームまたは広がりとして理解されていたからだそうです。

高い高い大空と地上の自分の周りにある空気がつながっていると判断しそのように思えるのは、現代の科学教育を受けているからです。

ちなみに、

新約聖書にはラキアということではなく日本語で言うところの「空」という言葉も存在していることは確かです。全部を引用しませんがいくつかを日本聖書協会の聖書本文検索を使い口語訳聖書から拾ってみます。

マタイによる福音書6章26節
の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。

マルコによる福音書13章25節
星はから落ち、天体は揺り動かされるであろう。

ルカによる福音書13章19節
一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、の鳥もその枝に宿るようになる」。

使徒行伝10章12節
その中には、地上の四つ足や這うもの、またの鳥など、各種の生きものがはいっていた。

ヨハネの黙示録8章10節
第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。

ヨハネの黙示録8章13節
また、わたしが見ていると、一羽のわしが中を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。

そしてそれぞれの箇所をBIBLE HUBで調べてみると

まず、マタイ6章26節の「空」の鳥の「空」というところには

Strong's Greek 3772 οὐρανός という単語が使われていました。

οὐρανόςという言葉はヘブライ語で言うところの
シャマイムשָׁמַיִםすなわち「天」ということだそうで、

ギリシャ語の新約聖書では空、星の住処、神の住まいを表すために使われているということです。

マルコによる福音書13章25節の「空」もοὐρανός
ルカによる福音書13章19節の「空」もοὐρανός

使徒行伝10章12節の「空」もοὐρανός

ヨハネの黙示録8章10節の「空」もοὐρανός

ヨハネの黙示録8章13節の中空だけは異なる単語でμεσουράνημα

これは該当するヘブライ語はなく、空の最高点を指し、「中天」または「天の真ん中」と翻訳されることが多いそうです。新約聖書では、何かが誰の目にもはっきりと見える空の位置を表すときにμεσουράνημαを使うそうです。

文字を見れば予想は付きますが、μέσος「真ん中」とοὐρανός「天」が合わさってできた言葉だそうです。


聖書以外の文献を検討してはいませんが、

少なくとも聖書を読んでいる限りにおいて

Strong's Greek 109 ἀήρが空(そら)を表していることはなく

Strong's Greek 109 ἀήρは英語で言うところの「air」空気というニュアンス、

つまり、私たちの近く(まわり)にある、手をばたばたさせればフワっと動き、吸いこむことのできる気体のある場所の辺りを示していると考えるのが古代人の感覚に近い読み方、理解だと思います。




次に「引き上げられ」という言葉について

ここに使われているギリシャ語はἁρπαγησόμεθαで、

原形はStrong's Greek 726 ἁρπάζωです。
726番には「力ずくで奪い取る」という意味があります。聖書の該当箇所を読めばわかりますが戦利品を奪い取るというようなニュアンスです。

福音書で726番が使われているところを聖書協会共同訳聖書から引用してみます。

洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。マタイ 11:12

また、まず強い人を縛り上げなければ、どうして家に入って家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。マタイ12:29

誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。マタイ13:19

イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。ヨハネ 6:15

羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――ヨハネ10:12

私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。ヨハネ10:28

私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。ヨハネ10:29 



翻訳された方に伺ってみないと分かりませんが、
726番に「引き上げる」という訳を充てることになったのは、
109番を高いところにある「空(そら)」と定義してしまったからではないでしょうか。

Strong's Greek 109 ἀήρに高い高い空の上のようなニュアンスは持たせず、基本に忠実に、私たちの周りにある空気と定義すれば
「引き上げる」などと訳すこともなく
さらに言えば、神さまが創造の初めに造られた物理法則に一切逆らうこともなく、そのままで「力ずくで奪い取る」というストーリーとなります。


また、

「雲」という言葉については、旧約聖書を知っていれば、普段私たちがこの地上で目にする「空に浮かぶ雲」、すなわち、積乱雲だとか巻雲だとかで知られるような気象現象をイメージするだけの限定的な読み方にはならないはずです。

旧約聖書の中に登場する雲という言葉
Strong's Hebrew 6051 עָנָן 
創世記9章の契約の虹の場面や
出エジプト記の「雲の柱」の場面で登場する「雲」は、たしかに高い空に現れていたはずですが、

「雲」という言葉は「要するに」聖書の文脈では神さまの存在や導きの象徴として登場する「もの」ととらえた方が妥当なのではないか、と思うのです。

なぜ「要するに」なのか、というと、「雲」が現れそうな文脈で
Strong's Hebrew 6225~6227の אשׁן「煙」が登場する箇所も存在しているからです。


シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
出エジプト記19章18節




主よ、あなたの天を傾けて降り
山々に触れて煙を吐かせてください。
詩編144章5節




その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。
イザヤ書6章4節


神さまの御臨在は、雲、煙、つまりは、コロイド粒子、エアロゾルの中に、ということだと思います。

で、恵みの雨をもたらしてくれる雲、雷鳴や稲妻をもたらす雷雲、燃える炎や噴火でモクモクするといういろいろなケースがありますから意味も変わってくるわけですが。

ところで、
ギリシャ語で「雲」は

νεφέλη

と言います。聖書には25回登場します。
語源はνέφοςで、この言葉はヘブル人への手紙 12:1に登場します。

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

つまりどういうことかというと、

聖書が語っている「雲」というものはこの絵にある感じのものではなく、


一テサロニケ4:17でもそうですが「囲む」「覆う」イメージのようです。
そういう意味でも煙との類似性を感じます。


「煙」はギリシャ語で

καπνός

この単語は聖書の中に13回登場するようです。

聖書協会共同訳から引用しますが

使徒言行録2章19節に一箇所と

上では、天に不思議な業を
下では、地にしるしを示す。
血と火と立ち上る煙が、それだ。

ヨハネの黙示録に12回登場します。

旧約聖書のような内容で使われているヨハネの黙示録15章8節を引用します。

すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。


雲や煙は、

聖書に記録されているようないろいろな事情でその都度そのような現象が
神さまによってもたらされたのだろうと「信仰者である自分としては」考えています。
また、日々の暮らしの中で、雲が空を覆うと恵みの雨が降るとか、大きな音とともに空を割るような光が現れるわけですから、古代の人々がそれをどのような思いを持って見たのだろうか、ということは想像に難くないわけです。
観察力の鋭い古代人がチンダル現象を見て、否、現代人でも「薄明光線」を「天使の梯子」と呼ぶくらいですから、いろいろな自然現象を見た人々がさまざまな表現をもって「驚きや感動」を、そして「恐怖」を聖書の中に、または伝承として残しているのではないか、という視点も新旧問わず聖書の解釈を行う時には必要ではないかと思います。
そういうことを言いますと、「聖書のみ」という信仰の点で問題があるという方がおられるかもしれませんが、

(この記事を書いた当時の私はまだ、どうにか自分を受洗したときの枠の中にとどめておきたい、これ以上おかしな状態になりたくはないと必死でした 2025年6月追記)


被造物の美しさや素晴らしさ、そして不思議さは
神さまご自身の「みわざ」そのものなのですから、
それは文字の無い御言葉であって、「聖書のみ」という話から逸脱するわけではないと思います。

ところで、今ここに「逸脱」という言葉を書いて思いましたのは
ユダヤ教とキリスト教の大きな大きな違いということであります。

教義という決められた枠から一歩もはみ出してはならないのが正統的なキリスト教と呼ばれるものだと私は認識しておりますけれども、ユダヤ教はそうではない。

善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。
伝道の書7章20節(口語訳)

伝道の書から引用しました。
パウロもローマ人への手紙3章で言っています「義人なし一人だになし」
だから、
「人の行う聖書解釈に完全なものはない」とユダヤの人々は考えるのだそうです。

だから、ユダヤ人は聖書の解釈に少しでも疑問があれば目上の人であれ先生であれ、質問をし、そして議論をするのだそうです。だからタルムードには後世の学者の見解もたくさん書いてある。

新約聖書の中で幼い日のイエスさまが偉い先生相手に議論していたという話が書かれていますが、それは決して珍しいことではなく、

ただ、もちろん、きちんとした自分自身の意見、正しいと考えているものが無ければ議論にはならないわけですから、
私たちの主は幼いころから立派な方だったのだと思います。

議論をたたかわせることが良いことなのか否かはわきに置いておくとしても、
ユダヤ人の世界というものは昔も今も我々異邦人キリスト教徒が想像するような世界ではないということは間違いないようです。

そういう世界にあった「パウロ」という人の言葉を私たちは今新約聖書として読んでいるわけです。

まさか自分の書いた書簡がトーラーと並び聖書と呼ばれているなんて、

パウロはきっと心の底からショックを受けると思います。・・・かわいそうに。

預言者でもない一人の人間であるパウロが語る一テサロニケ4:17の言葉は、

あの書きかたから予想できるのは、彼の独自解釈ということではなく、当時の彼の周辺で「そういうもんだ」と考えられていた一つの説を、書いた、という事なのだと思います。

彼は「メシアが地上に来られた」という点でほかのパリサイ派の人々とは意見が異なるわけですが、ユダヤ人として、パリサイ派にあった者として、
「地上に降りてきてくださった生けるトーラー」に関する彼自身の解釈や信仰という「コメンタリー」を書き続けていたに違いないのです。

もちろん、彼は彼なりに自信をもって書いていた事でしょうが

彼の言葉の一字一句を「翻訳聖書で読んで」文字通りに信じることが
「間違いのない神さまの御心である」と考えなければならないというのは

ユダヤ人パウロとしてはとても不思議に思うのではないか、と私は思います。


そのうち、パウロ先生にお会いできる日が来たら尋ねてみたいと思っています。



ふざけやがって!と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私はふざけているわけではありません。

すべての物理法則を定められたのは神さまだ、ということを忘れないでいただきたい、そして人間の身体をデザインされたのは神さまだ、ということも忘れないでね、と申し上げたいのです。


地球上の被造物、
私たち人間にとっての幸せは、
そして人間が人間として歩むべき道は、
神さまが造られた通り、お決めになられた通り、
トーラーのとおりに生きることです。

それが聖書の語る最も大切な思想です。

人間は、ハ・アレツの上で(大地の上で)、

適切な濃度の酸素を吸ったり吐いたりしながら

神さまの与えてくださった食物を食べ、


主と共にいられるのが一番幸せ

だと私は思います。


ちょっとの間でも空の上は大変よ。鳥じゃないんだから。

雲に覆われてまかれたらびっちょびちょだよ?陸上生物なんだからびっちょびちょはやだよ。

(個人の感想です)

さて、



こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イエスの上って行かれるとき、彼らがを見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜを仰いで立っているのか。あなたがたを離れてに上げられたこのイエスは、に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

使徒行伝1章9節から11節までを口語訳聖書から引用しました。


「天に上げられ」という箇所はギリシャ語で読むと「天」に該当するところは無く、
ἐπαίρω 「上げる」とか「持ち上げる」という意味のギリシャ語が書いてあります。目を上げるとか手を上げるとか声を上げるとかそういう時に使う言葉です。

そして、他の「天」はすべて、上の方に書いた
Strong's Greek 3772 οὐρανόςです。


使徒行伝1章9節から11節までのところにはまずこういう景色が見えます。

ガリラヤの人たちは、地上で、つまり、地に足が付いた状態で、
主が天に上げられるのを見たわけです。

そして白い衣を着たふたりの人は言うのです

イエスさまはその時と同じ有様で来られる(であろう)と。

「有様」というところはギリシャ語でτρόποςです。

辞書にはThe Greek word "tropos" primarily refers to a manner or way of doing somethingと書いてありますので、有様というよりも「何かを行う方法ややり方」を指すということになります。

とすれば、主ご自身は天(空、上の方)に居られる瞬間があるのかもしれませんが、
そのあとにはちゃんと地面のある所にいる人々のところにやってこられ、
それはちょうど離れて行かれる前のように なる、というふうに考えるのが自然かと


私は思います。

(個人の意見です)