マルコによる福音書1章15節「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
口語訳聖書とΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904から引用しました。
日本語の口語訳聖書では、ギリシャ語聖書の冒頭にある
καὶ λέγων 英訳するとand saying
という言葉が前節に含まれたような形になっていますが、このκαὶ λέγων and sayingという言葉は
ヘブライ語の創世記における特徴的な表現です。
創世記1章の3、6、9、11、14、20、24、26、29節の冒頭に見られる
創世記1章の3、6、9、11、14、20、24、26、29節の冒頭に見られる
וַיֹּ֥אמֶר
という言葉がκαὶ λέγωνに該当すると私は考えます。
そういうことを意識して
ギリシャ語のマルコによる福音書1章の冒頭から読んでみると
この福音書はヘブライ語聖書の創世記に似ているのです。
何を持って似ていると思ったのか、と言いますと、
ヘブライ文字וヴァヴに該当するような語が各節の文頭に来ているということ。
ヘブライ語聖書の御言葉は、例えば創世記1章を見ると、2節以降文頭がみんなヴァヴ、英訳すればandなのです。
創世記1章の各節の冒頭を引用してみますのでご覧ください。1節は先頭なので2節から引用します。ヘブライ語は右側から読みます。ピンク色の文字がוヴァヴです。
2節 וְהָאָ֗רֶץ
3節 וַיֹּ֥אמֶר
4節 וַיַּ֧רְא
5節 וַיִּקְרָ֨א
6節 וַיֹּ֣אמֶר
7節 וַיַּ֣עַשׂ
8節 וַיִּקְרָ֧א
9節 וַיֹּ֣אמֶר
10節 וַיִּקְרָ֨א
11節 וַיֹּ֣אמֶר
12節 וַתּוֹצֵ֨א
13節 וַֽיְהִי־
14節 וַיֹּ֣אמֶר
15節 וְהָי֤וּ
16節 וַיַּ֣עַשׂ
17節 וַיִּתֵּ֥ן
18節 וְלִמְשֹׁל֙
19節 וַֽיְהִי־
20節 וַיֹּ֣אמֶר
21節 וַיִּבְרָ֣א
22節 וַיְבָ֧רֶךְ
23節 וַֽיְהִי־
24節 וַיֹּ֣אמֶר
25節 וַיַּ֣עַשׂ
26節 וַיֹּ֣אמֶר
27節 וַיִּבְרָ֨א
28節 וַיְבָ֣רֶךְ
29節 וַיֹּ֣אמֶר
30節 וּֽלְכָל־
31節 וַיַּ֤רְא
2章1節 וַיְכֻלּ֛וּ
以上のことを踏まえて今度はギリシャ語聖書でマルコによる福音書を眺めてみましょう。
マルコの1章では、5,6,7,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,25,26,27,28,29,31,33,34,35,36,37,38,39,40,41,42,43,44,の各節の文頭がκαίであり、英訳すればand であり、ヘブライ語で言えばוヴァヴなのです。
καίではないものをピックアップした方がよいようなκαίづくしです。καίでなくとも別のandと訳せそうな言葉が文頭に来ていたりして、創世記のような調子で書かれた聖書ヘブライ語の文章をギリシャ語に訳したのではないかと考えたくなるくらいκαίだらけ。
ほかの福音書でもκαίは少なからず登場しますがマルコによる福音書の文頭のκαίは徹底しています。
ヴァヴ。つまり文頭はいつも「そして」
日本語の作文では悪文とされるような書き方です。
しかし、このこだわりと言うかこの徹底ぶりを見ていると
著者の強いメッセージが聞こえてくるのです。
絶対に途切れることのない永遠から永遠、絶対途切れることのない神さまの国、
神さまはおひとり、唯一の神の創造そして支配。
そしてマルコの福音書のはじめのはじめは
Ἀρχὴ Strong's Greek 746で
これはar-khay'と読む単語ですが
Definitionは beginning, originで
創世記1章1節の書き出しבְּרֵאשִׁ֖ית in the beginningを思い起こさせるような始まり方。
בראשיתであると知ったあとにマルコによる福音書を読むと、
その言葉を熟知している著者が
בראשית すなわち創世記における「天と地を創造されたお方ご自身の地上における歩み」を記そうとして
その冒頭にἈρχὴ Strong's Greek 746という言葉を置いたのではないか、と思えてくるのです。
アドナイが人となって
人と同じように仮庵に住まわれ荒れ野を歩まれたというその事実
エデンの園を追い出された人類として
また、民族としての長い長い苦難の歴史を思いながら
そして、
イザヤが、そしてマラキが語っていた
あのお方がとうとう来られたのだという喜びを
マルコの福音書の著者は
トーラーを愛する者らしく
冒頭で書き綴ろうとしたのではないか、と「私は」思いました。
そういうマルコの福音書に書かれている
一番初めのイエスさまの「御言葉」が冒頭に引用した
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」です。
この御言葉をギリシャ語の聖書で見ると、上に書いたように
καὶ λέγων 「そして(イエスは)言われた」という言葉から始まります。
創世記で「そして(父なる神は)言われた」と書かれていたように。
神さまは語るのです。人となられた神さまは語る。
トーラーの神さまは語る。人となられたトーラー!
καὶ λέγων (and saying)
ὅτι(that)
πεπλήρωται (Has been fulfilled)
ὁ (the)
καιρὸς(time)
καὶ(and)
ἤγγικεν (has come near)
ἡ(the)
βασιλεία(kingdom)
τοῦ(of)
Θεοῦ· (GOD)
μετανοεῖτε(repent you)
καὶ(and)
πιστεύετε(believe)
ἐν (in)
τῷ(the)
εὐαγγελίῳ.(gospel)
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
主が
この地上に来られて発した言葉としてマルコの福音書に最初に記録されているこの言葉
いったいこれは何をおっしゃったのかどういう意味なのか
味わっていきたいと思います。