マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
箴言30章1節(口語訳)ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)
דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃
31:1マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。
箴言31章1節(口語訳)レムエル王の言葉。これは母が彼に与えた諭し。
箴言31章1節(聖書協会共同訳)
דברי למואל מלך משא אשר יסרתו אמו׃
まず「マッサ」という語について考えてみようと思います。
新改訳では「マサ」という表記になっていると思います。
聖書協会共同訳の方にはカタカナのマッサが消えているわけですが、これはどこに行ったのかというと「託宣」という翻訳になったのです。
マッサという言葉は
Strong's Hebrew 4853の מַשָּׂא (massa')
聖書の中には60回以上登場しています。
で、4853番のマッサは、「託宣」と訳されたり、「重荷」と訳される言葉なのですね。
で、口語訳聖書でマッサの人とかマッサの王と訳されているのはこの箴言の30章31章にあるマッサが創世記25章14節と歴代誌上1章30節に登場するマッサだと考えて、そう訳したのだと「察します」。
創世記25章12~18節
サラのつかえめエジプトびとハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシマエルの系図は次のとおりである。イシマエルの子らの名を世代にしたがって、その名をいえば次のとおりである。すなわちイシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマ。これはイシマエルの子らであり、村と宿営とによる名であって、その氏族による十二人の君たちである。イシマエルのよわいは百三十七年である。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。イシマエルの子らはハビラからエジプトの東、シュルまでの間に住んで、アシュルに及んだ。イシマエルはすべての兄弟の東に住んだ。
歴代誌上1章28~31節
アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。
この人名であるマッサはStrong's Hebrewでは 4854番 מַשָּׂא (Massa)とあり、創世記と歴代誌上のみに登場すると記載されています。
箴言30章1節と31章1節のマッサはBible HubのStrong's Hebrewでは4853の מַשָּׂא (massa')の方に分類されています。
ただ、人名の方にしても、マッサという文字列が表す意味、定義は、4853番の「重荷」であって、これは本当に重いものであるからこそ「託宣」という表現で訳されるわけです。
聖書協会共同訳聖書のどの箇所に「託宣」という言葉が使われているか聖書本文検索で調べると
例えばイザヤ書では13章のバビロンについての託宣に始まり、とてつもなく恐ろしい話題ばかり11回!
そういうことを踏まえつつ
次に聖書協会共同訳の箴言30章1節で「疲れた疲れた」と訳されているところについて
そこにはこういう文字列が入っています
לאיתיאל לאיתיאל
これは口語訳では「イテエルに向かって言った、すなわちイテエルと」と訳されている箇所です。
NAS Exhaustive Concordanceによるとこのイテエルという言葉は
「perhaps from eth and el」と書いてあって
つまりこれはאתとאלが起源となっている言葉だと考えられているようなのですが
まあ、一応ここでのאתは854番なので、聖書の中に数千回をはるかに超える数登場しているにもかかわらず「意味不明」としてその存在をスルーされ続けている853番のאתではないものの、
そういう放置プレーをいつまでも続けているから、こんな登場の仕方をしたら全く歯が立たないのではないかと思うわけです。
それにしても
לאיתיאל לאיתיאל
これがいったい何を意味しているのか。
イテエルの繰り返しなのか疲れているのかその両方なのか。
今の段階で自分なりに考えたことを少しだけ記録しておこうと思います。
イテエルという箇所は文の最後にこういう形で記されています。
לאיתיאל לאיתיאל ואכל
何かわからないイテエル的な言葉を二回繰り返し、
そのあとヴァヴでつないでウカルと書いている。
ヘブライ語の基本中の基本として二度繰り返すというのは強調するときです。
そして、ヴァヴとは、その前の話から途切れさせずにヴァヴ後の単語につなげていくものです。
だとすると、「託宣」と言った後に何かを強調して語っているのだとしたら、その次の瞬間読者に読んでほしいことが書いてあるはずです。疲れた~疲れた~飲み込まれちゃう~って書いてあるんだろうか。
לאיתיאל
これって、右から読んでも左から読んでも同じ文字列になっているんです。
ヘブライ語文法など習ったこともなく参考書も持たない読書百遍の私にはいつものように絵画が見えてくる。
真ん中には主の御手יが抱いたתがある。
そしてその両脇に神さまのマークאがあって
右から読んでも左から読んでもלאになる。
לאはאלの逆の文字列というよりもלラメドという棒でאアレフであられる方のほうに押しやって矯正するニュアンスなのだと私はとらえているのですが、その矯正のための力が右からも左からもかけられて、תを両側の御手とともにがっちりと挟んで動かせない状態にしている。
תは絶対に動かない。そして、תは中央に置かれている。
じゃあ、תとは何か、まずは文字の意味を考えると「完全」「完了」。
そしてこの文字を含むこれらの単語
תורה Strong's Hebrew 8451 תּוֹרָה (torah) direction, instruction, law
ברית Strong's Hebrew 1285 בְּרִית (berith) a covenant
אמת Strong's Hebrew 571 אֱמֶת (emeth) firmness, faithfulness, truth
トーラー、契約、真理、ですね。そういうתが中央に置かれ神さまご自身がしっかりがっちりガードしておられる様子。
そういう単語が二度繰り返され、
そしてウカル
ウカルという言葉はאֻכָלで、人名ではあるようですが、
同じ文字列אכלは食べるという意味や食べ物という意味があります。
それなので、聖書協会共同訳では「呑み尽くされてしまう」という訳が充てられたのだと思います。
ただ、グーグルに翻訳してもらうと
וְאֻכָֽלとはシンプルに「そして食べます」ということになるようで
見当違いなことを書いてしまうかもしれませんが、たとえば
エレミヤ15章16節
わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
とか、
申命記8章3節
人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
とか、そして食べる、という言葉の前に
תが真ん中に据えられた単語があって強調されていたと考えた場合に
そういった意味での「食べる」という言葉に至る可能性はないだろうかと考えたりしました。
あと、
the man「その人は」と訳されているהַ֭גֶּבֶרは語源はגָּבַרで、to be strong, mightyという意味の言葉です。確かに大きなものを表すגギメルという文字が使われていて強そうです。人ではあるのだけれど、そういう強そうな人間である、
そのあたりからアプローチしなおすという手があるかもしれないと思います。