【調べ学習】わたしはある(2)
אהיה
あらためて43箇所のאהיהを含む日本語の聖句を読んでみました。
昨日書きましたように、
英語の翻訳聖書(NAS、KJV)で見ると43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけで、それ以外の34箇所にはNASまたはKJVの該当箇所が示されていません。
日本語の聖書でも「なる=成る」という動詞であることが確認できるものもありますが、補助動詞のような訳がつけられていたり
否、もしかしたら、補助動詞でもないのかもしれません。
昨日は日本語の聖句の単語から一生懸命「探し出して」これなのではないか?と太字にする部分を選んでみたのですが、もしかしたらそれは私の全くの見当違いで、口語訳聖書の中にאהיהはאהיהというものとして存在していないのかもしれない。(さすがにאהיהについてはそれはないかなあ・・)
以前、אתというStrong’sの853番の単語について書いた事がありますが
ヘブライ語聖書を眺めるようになって初めて知った事として、
旧約聖書には相当な頻度で登場するのにちゃんと訳されていない謎ワードというのが少なからずある、ということがあります。
אתという単語もその一つなのですが、7034回も登場しているのにその存在をスルーしてしまえる心理が理解できないというか
まあ、わからないものはわからないのだから仕方ないのでしょうけれども、
「見えないお方を見る」ことが信仰にもかかわらず
「ある物を見なかったことにする」って
書いておけばいいのにねえ、「ここに入ってるのよ謎ワード」って。
たった二文字の事なんだからそのままそれを書いておけばいいと思うのですが。
実験の結果の数値をプロットしたのち、なんとな~くいい具合にスムーズなグラフ書くのとは違うんですから
「神さまの言葉」はちゃんと写してちゃんと読もうとしなければよろしくないのではないか、とか思うのはおかしいでしょうか。
しかも、今回のאהיהは出エジプト記3章14節の御言葉を構成する重要な要素であるわけです。
出エジプト記 3:14 ויאמר אלהים אל משה אהיה אשר אהיה ויאמר כה תאמר לבני ישראל אהיה שלחני אליכם׃
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
ここで「有る」と訳されているאהיהという単語、
よりによって神さまご自身がご自身について語られ表わされている単語を
…スルーしてもいいのでしょうかねえ。
たとえきれいなわかりやすい日本語にならなかったとしても
…もしもそれがあの時わたされた石の板に刻まれた言葉だったなら、
読めるか読めないかはともかくとしてとりあえずは端から端まで民に見せなければ…
…あ、見せないのか、教会は(;´Д`A ```どこかの政府と同じで愚かな民衆には見せてもどうせわからないとか思っていて、否、見せたらウソがばれるから見せないのかな。(と勘繰ってしまう)
そもそもאהיהは文字の構成を考えれば、どこから眺めても大切な単語のように見えます。
先頭の文字אアレフは昨日も書きましたが父なる神さまを表す文字で、
二文字目四文字目のהヘーは神聖四文字の二文字目四文字目の文字であり、アブラムがアブラハムになるときの「ハ」であり、息が吹き込まれて命が与えられるような意味を持つ文字です。
そしてיヨッドは小さな文字ですが神さまの御手(右手)を表している文字です。
イエスさまが語られた一点一画の一点にあたる文字だと言われています。
2015年に、私は通読の聖書を新改訳から新共同訳に替えました。
新改訳を使っている教会で受洗し、そのあとオープンブレズレンの集会に移ってからも新改訳が使われていたので長い間新改訳を愛読していたわけですが、
ある時、新共同訳聖書を開いて、衝撃を受けたことがあったのです。
忘れもしません。ヨハネによる福音書です。ヨハネによる福音書の中に、私はこれまで一度も見たことのなかった「とんでもないもの」を見てしまったのです。それがこの言葉でした。「わたしはある」
そんな言葉がまさかヨハネによる福音書にあったとは知らなかった。
しかも、カギカッコつきで「わたしはある」と書いてあるのです。
イエスさまが、そうおっしゃっていたのです。
それまで、イエスさまは一度だって私に
「わたしはある」なんておっしゃったことはなかったのです。
しかしその日、イエスさまは「わたしはある」とおっしゃった。
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ヨハネによる福音書8章 24節(新共同訳)
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
ヨハネによる福音書8章 28節(新共同訳)
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
ヨハネによる福音書8章 58節(新共同訳)
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
ヨハネによる福音書13章 19節(新共同訳)
ἐγώ εἰμι エゴーエイミ
もちろん、「私はある」とせず、新改訳聖書のように翻訳したって良いのでしょう。
しかし、
ヨハネは福音書の冒頭で「生けるまことのトーラーである御子」を描いているのです。
たとえיוחנןヨハナンがΙωάννης イオーアンネースとされ、我々の知るところのヨハネとなり、彼の著作が彼の母語ではなくギリシャ語に変換されてしまっていたとしても、
彼がイエスさまの語られた言葉として伝えた「エゴーエイミ」というギリシャ語は単なる主語と動詞ではなく
「わたしはある」אהיהなのではないか。
それまでの私は、ただ単に、「通っていた教会で使われていた訳だから」とか「理解しやすい日本語で読みやすいから」という理由で翻訳された日本語の聖書を選んでいましたが
この「わたしはある」の一件以来、
ショックと恐怖で
そして、とりあえず、あの日、私は
シェルターに逃げこむような気分で
新共同訳聖書に乗り換えたのでした。