イザヤ書33章22節

はわれわれのさばき主、
はわれわれのつかさ、
はわれわれの王であって、われわれを救われる。イザヤ書33章22節(口語訳)
こそ私たちを裁く方。
は私たちを指揮される方。
は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
כי יהוה שפטנו יהוה מחקקנו יהוה מלכנו הוא יושיענו׃
これまではそれほど切羽詰まった思いではなく読んでいたこの御言葉でしたが
最近は本当に切実な思いで読んでいます。
 
なんだかんだ言って、
平和な日本だったのです。
そういう「戦後の昭和」に生まれた自分にとって
「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」というイザヤ書9章2節(口語訳)の言葉は
「クリスマス」という
「過去」に成就し完了したものでしかありませんでした。


私のようなクリスマスを単なるイベントとして消化するだけだった寝ぼけた馬鹿者は
長い長い間、「救い」を個人的な御利益のようにしかとらえることができず

祈りが聞かれるの聞かれないの
病気が治るの治らないの
 
そんなものだったのです。
 
 
しかし、んなこたぁどうでもいい!
そんなことは!
 
正直言って
 
もはやそんなことを言っている状況にはない!それが自分の今の心境です。


 
毎朝毎朝新しい新聞が届くたび
並んでいるのは置き場のないほどのたくさんの棺。
老いも若きも あの人もこの人も
この間の救急車はこの方の・・・と気付かされる。
台所の戸棚にあふれかえる香典のお返し。
 
テレビをつければ
バベルの塔の言葉、うそにまみれた強欲な言葉。
弱い者をかえりみるようであり、その実(じつ)は真逆。
求めているのは自分だけの利益、豊かさ
自分さえよければほかの人はどうなろうと知ったこっちゃない
 
「死ぬ?死など恐れることはない。遺伝子を変えて永遠に生きようではないか!」
CMだってバベルの塔!美しいメロディ、知的で美しいアナウンスは
御霊様の神殿に恐れもなく偽のトーラーを入れてしまえといざなう。
 
私たちに御言葉を伝えてくださった宣教師のふるさとは、もはや義の言葉からは程遠く、
いかにしてその邪悪で強欲な手から逃れることができるのか
私の心の中にはそればかりがあります。
 
 
 
人々の間には亀裂、そして分断、闇、闇、闇!
 
 
 
 
 
 
・・・しかし、必ず救われる。
絶対に、絶対に、
邪悪なものをのさばらせたままにはしない。
主は来られる!
そして救ってくださる!
 
 
 
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。イザヤ書9章2節(口語訳)
 
主こそ私たちを裁く方。
主は私たちを指揮される方。
主は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
 
 
 
 
 
「救い」とは
「救われる」とは
 
 
 
ここまで恐怖を覚え
ここまで切実で
 
ここまでつらく悲しく
どうにもならない
逃げ場のないものからの救いだったのだ。
 
創世記に描かれた「罪」は熟し
ここまで
さらりと
全くそれと気付かないほどに
日常生活の中に
当然のこととして・・・
 
 
 
しかし、
私たちは救われ「た」
 
スクリーンに映し出されていた恐怖の場面は
スクリーンでしかない。
「それ」はそこに「ある」ように見えるが
「ある」わけではない。
 
そう、恐れなくてよいのだ。
今「ある」ようでも「それ」は終わっている。
 
なぜなら私たちは「あってあられる」お方にあがなわれた。
 
私たちは恐れる必要はない。
すでに主は勝利されているのだ。

 
 
それが「救い」だ。
 
 
恐れる必要はない
恐れる必要はない
恐れる必要はない