前回は、イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というような厳しい言葉をおっしゃった箇所と、それとは逆のことをおっしゃった箇所をピックアップしました。
イエスさまはいったい何に怒られたれたのでしょうか。
調べた言葉をじっくり眺めながら
イエスさまが問題にしておられたことは、おもに、
律法、預言者、天の国(神の国)という3つのテーマであるということに気付きました。
1.律法について
・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた5:17
・律法を守るように教える人は天の国では大いなるものとされる5:19
・ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20
・天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48
・律法の言わんとしていること=天の父の御心=人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい7:12
・主よ主よというものが天の国に入るわけではなく天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。7:23
・律法を形式的、表面的に行うのは偽善=人の目を意識して人前で善行6:1、人前で信仰深そうに祈る6:5、人に気付かれるような断食6:16
・イエスさまの言葉を聞いて行う者は岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている7:24
2.預言者について
・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた。5:17
・預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受ける。10:41
・偽預言者=良い実を結ばない木 を警戒しなさい。7:15
3.神の国について
・わたし(イエスさま)が、神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ12:28
・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者はこの世でも後の世でも赦されることがない。12:32
・イエスさまが派遣した弟子たちが病人をいやしたり悪霊を追い払うとすれば、それも聖霊さまの働きだから、そういう弟子たちを迎え入れもせず弟子たちの言葉に耳を傾けようともしない者がいたらその町はソドムやゴモラよりも重い罰を受ける。10:5~
補足として、
バプテスマのヨハネとイエスさまが全く同じことを語る箇所がありました。
「悔い改めよ天の国は近づいた」
3:2バプテスマのヨハネの言葉
4:17イエス様の言葉
「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げこまれる」
3:10バプテスマのヨハネの言葉として
7:19イエスさまの言葉として
木とその実については12:33~
悪い人間に良いことは言えない。人の口からは心にあふれていることが出て来る。
人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて裁きの日には責任を問われる。
自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪あるものとされる。
さて、それでは、以上のことを踏まえた上でもう一度たとえ話を読んでみます。
以下口語訳聖書より引用
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」
この話は、ごく大雑把にとらえれば、
「やるべきことをやった人とやっていなかった人がいてその人たちが再臨の時にどうなったかという話」です。
この粗さで語るならば、タラントのたとえもそういう話になります。
「やるべきことをやらなかった人」は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』という結末を迎えるわけです。
で、
何かをやらないことによってそういう結末を迎えるというケースにはどういうことがあるのかマタイによる福音書の全体から確認した結果、
それは
「律法を行わない」つまり神さまの御言葉を聞いても理解せず従わないというケース
だということが分かりました。
ただ、このたとえ話では十人のおとめたちの半数がそれに該当するわけですが
これまで自分が教会や集会で教わってきた花婿は再臨のキリスト花嫁は教会(信者)ということで考えた場合、十人のおとめは教会でもなければ信者ではないはずですから、イエスさまが誰に従うよう求めておられるのか、ということがわかりません。
なので、そういう知識とは関係なく改めて聖書を調べてみることにしました。
花嫁、嫁、花婿、婿、妻、夫、結婚、婚、婚礼、エルサレム・・・
日本聖書協会の本文検索をつかって調べてみました。
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。
小羊の婚姻の時がきて、
花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、
汚れのない麻布の衣を着ることを許された。
この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」
ヨハネの黙示録19章7~9節
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
ヨハネの黙示録21章2節
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
ヨハネの黙示録21章9~14節
シオンよ、さめよ、さめよ、
力を着よ。
聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
割礼を受けない者および汚れた者は、
もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
捕われたエルサレムよ、
あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。
捕われたシオンの娘よ、
あなたの首のなわを解きすてよ。
イザヤ書52章1、2節
エルサレムの荒れすたれた所よ、
声を放って共に歌え。
主はその民を慰め、
エルサレムをあがなわれたからだ。
イザヤ書52章9節
あなたを造られた者はあなたの夫であって、
その名は万軍の主。
あなたをあがなわれる者は、
イスラエルの聖者であって、
全地の神ととなえられる。
捨てられて心悲しむ妻、
また若い時にとついで出された妻を招くように
主はあなたを招かれた」と
あなたの神は言われる。
イザヤ書54章5、6節
「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費し、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。
見よ、わたしは彼を立てて、
もろもろの民への証人とし、
また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
見よ、あなたは知らない国民を招く、
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
悪しき者はその道を捨て、
正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
イザヤ書55章1~7節
主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、
さきに荒れすたれた所を興し、
荒れた町々を新たにし、
世々すたれた所を再び建てる。
外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、
異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、
ぶどうを作る者となる。
しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、
われわれの神の役者と呼ばれ、
もろもろの国の富を食べ、
彼らの宝を得て喜ぶ。
あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、
二倍の賜物を受け、
はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。
それゆえ、あなたがたはその地にあって、
二倍の賜物を獲、
とこしえの喜びを得る。
主なるわたしは公平を愛し、
強奪と邪悪を憎み、
真実をもって彼らに報いを与え、
彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、
彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。
すべてこれを見る者は
これが主の祝福された民であることを認める。
わたしは主を大いに喜び、
わが魂はわが神を楽しむ。
主がわたしに救の衣を着せ、
義の上衣をまとわせて、
花婿が冠をいただき、
花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、
主なる神は義と誉とを、
もろもろの国の前に、生やされる。
イザヤ書61章
見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起すことはない。
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。
泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。
イザヤ書65章17~19節
主は火をもって、またつるぎをもって、
すべての人にさばきを行われる。
主に殺される者は多い」。
「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は
ながくとどまる」と主は言われる。
「新月ごとに、安息日ごとに、
すべての人はわが前に来て礼拝する」と
主は言われる。
「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
イザヤ書66章16~24節
花嫁は聖なる都エルサレム
そして花婿はイエスさま。
では十人のおとめは誰なのか・・・
やはり伝統的な解釈の通りクリスチャンなのでしょうか。
とすると10人中5人は・・・
たしかに、律法は終わったと思っているクリスチャンはたくさんいます。
しかし実際には律法は終わっていないからこそ罪が明らかになるわけです。
律法があるからこそ罪のあるなしが分かるわけで、
律法がないならば罪は明らかにはならないのですからイエスさまによる救いも必要ないのです。
そして、
上の「1.律法について」というところに書きましたが
「ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20」
「天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48」
ということであるからこそ、律法を努力して守ったところで到底無理であるので、イエスさまに救っていただくしかないわけです。
マタイによる福音書10章5~7節において
「イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。」
異邦人ではなくイスラエルという律法を与えられた人々に対して御言葉を述べ伝えるように語っておられますから、
律法を知らない異邦人クリスチャンに律法を守るように言っているわけではないということを聞きますが、
だとしたらこの福音書の言葉はイスラエルの人々へのものであって私たちには何のかかわりもないことになるはずです。
マタイによる福音書を正典として読み、自分への教えとして戒めとしてここにある主の言葉を適用させるということであれば、私たちは主の御言葉をその通りに受け取らなければならないのだろうと思います。しかし、イスラエルの人々のものなのであれば、異邦人用の聖書から除外すればいいことです。聖書は誤りなき神の言葉であるという教えを土台に据えてこの聖書を読むのであれば、律法は守らなければいけないのです。
ローマ人への手紙2章でパウロはこのように言っていますが、
「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。」
日本に生まれ育った人の心には「天と地をお造りになられた全能なる神さま」はありません。神さまを求める空虚な部分があったとしても、美しい桜の花の咲く場所にはほとんど異教の施設があるようなそういう国にあってまことの神さまを知るということはふつうのことではありません。「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。とパウロは言いますが、律法の一丁目一番地を持たない異邦人は教えられてまことの神さまを知るのです。
パウロがここで言っていることだけを表面的にとらえて論ずるならば、まことの神さまを教えられなかった多くの日本人は、律法の一丁目一番地であるまことの神さまの存在がわからないけれどもそれでよいということになり、いわゆるキリスト教の教義は成立しないこととなります。
日本人であってもまことの神さまを知らずに済ませることは出来ないうえ、十字架による救いが必要なのは神さまがイスラエルに与えられた律法を私たちがパンくずをいただくごとく知ったからで、当初、イスラエルのものであったメシアによる王国が異邦人にまで拡大された段階で神さまの支配がおよぶところではどこでもその律法は有効になったのです。だからこそマタイによる福音書が正典となり得るし私たち異邦人もまことの神さまに聞き従わなければならないのであり、ゆえにイエスさまによる救いが必要ということになります。
まことの神さまは永遠から永遠まで変わらぬお方ですから、話が途中で変わるはずはないのです。
ならばなぜ食物規定を守らずに済むのかと言えば、守らずに済むように変わったということではなく、人間は結局律法を完璧には守れない者であるというところによるのだ私は思っています。
「ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20」
「天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48」
ファリサイ人のように厳格にやっている人よりももっと正しく、
そう、天の父のようにパーフェクトになりなさい!
と言われてできる人はいないということをイエスさまはよくご存知であったからです。
食物規定について私はいろいろな意味や根拠があると感じています。たとえばブタ。日本人は大好きですけれども、豚という動物は与えれば何でも食べちゃいますよね。まずは信仰者としてそういう「態度」はだめなわけです。教えはよく吟味しないと。そして、アトピーの子供を育てた経験から言わせていただくと動物の肉を食べる場合その動物がどんなものを食べて育ってきたのかということがとても重要で、そう視点からは、「素性のわからない豚」はちょっと怖いと感じます。
イエスさまが罪の身代わりになってくださったのですが、それは借金の肩代わりをしてくださったようなもので、人間自体の性質は全く変わらないのです。
白い衣を着ているか着ていないかという話がありますが、
着ているか着ていないかということであって、身体自体は何も変わっていないわけです。
変わっていないからこそ、クリスチャンなのに平気で人の悪口を言い、理想的な教会は作れず、聖職者が犯罪を犯すような事態までが起こるわけです。私たちはロボットではありませんので、自由に選べますからね。
律法は神さまの御心を理解するための土台です。律法なしに神さまの御心を理解することはできません。しかし律法はどんなに努力しても完璧には守れないから律法自体によってエデンの園からの追放がなかったことにできないわけです。守ろうとすればするほど自分のダメさが明らかになり、そして、ダメな人ですから神さまとの交わりは絶対に回復できないわけです。神さまが聖すぎて人は死んでしまう!
だからこそイエスさまの十字架が必要だった。神さまと親しく交わることのできるエデンの園のような世界というものはイエスさまの十字架で「完成」されたのですね。罪のない聖い御子の血潮によって私たちはきよめられ、預言者を介さずともイエスさまのお名前(権威)によって神さまとお話(お祈り)ができるようになった。
預言されていたメシアがついに来られ、神さまの御心である律法の本質が示された。
ですから今も律法はあるのです。
律法は一点一画も失われることはないのです。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
マタイによる福音書5章17節~19節」
ま、いろいろなクリスチャンはいるのだと思います。
黙示録の7つの教会というのが真実であるならば。
イエスさまを閉めだしてドアをノックさせている教会すらあるようですから。