你放心吧という言葉が好きで괜찮아はほぼ口癖となりつつある今日この頃
何年か前、近所で火災が発生し、消火活動の関係で道路が封鎖され自宅に戻れないという経験をしたことがあります。
消防団の方と思しき人に声をかけて話を聞いたところ、現場には引火性の物質が多くあり爆発の危険もある、とのことでした。しかもその日はかなり強い風が吹いており、風向きを考えると我が家に火の粉が飛んでくる可能性がないわけではなかったので、最悪の事態を想定しての対応を考え始めました。
消防団の方と思しき人に声をかけて話を聞いたところ、現場には引火性の物質が多くあり爆発の危険もある、とのことでした。しかもその日はかなり強い風が吹いており、風向きを考えると我が家に火の粉が飛んでくる可能性がないわけではなかったので、最悪の事態を想定しての対応を考え始めました。
子供はすでに独立しているから子供のものが燃えるとすれば「思い出」のものだけで、今生きていくのには特に問題はない、
夫婦二人の荷物は年相応にいろいろあるにはあるけれども、季節は冬なので、明日同じ服を着ていてもどうにかなりそうなのと、少なくともスマホとマイナンバーカードは携帯した状態でそれぞれが自家用車に乗って出ているから、そのままビジネスホテルにでも泊まれれば、いや、車中泊すれば・・・。
夫婦二人の荷物は年相応にいろいろあるにはあるけれども、季節は冬なので、明日同じ服を着ていてもどうにかなりそうなのと、少なくともスマホとマイナンバーカードは携帯した状態でそれぞれが自家用車に乗って出ているから、そのままビジネスホテルにでも泊まれれば、いや、車中泊すれば・・・。
結果、そうする必要はなかったのですが、
家に戻って周りを見回した時、難病である夫のための薬以外、家屋を含めどうしても必要なものは特にないな、という感想を持ったのでした。
さて、そんなことを考えたということすら忘れていた昨年のこと、
仕事が忙しくて薬を取りに行けないと言う夫の代わりに薬局に行った私は、薬剤師さんから突然、不穏な宣告をされました。「ご主人の薬、手に入らなくなるかもしれません」
夫が「その薬」を飲み始めてからおよそ20年。
夫の持つ疾患に対する「その薬」(新薬ではなく既存薬でした)の効果が知られる前、その疾患の5年生存率はおよそ40%〜50%程度でした。が、「その薬」による治療法が確立されて以降 、5年生存率は 約91%〜93% となり、難病と分類されることもなくなり、「コントロールできる病」になったはずでした。
しかしそれはつまり、その薬が無ければコントロールは不可能であるというわけです。
治療を始めて10年くらいたったころ、発症当初と比較して「だいぶよくなった」という評価を得、薬をやめたことがあったのですが、やめると症状が重くなる。また、代替薬として別の薬が処方されたことがあるのですが、連用すると肝機能に影響が出てしまうことも分かったので、今に至るまでずっと同じ薬を一日も欠かさず服用しています。
そんなことを考えていたら、いい加減忘れてもいいくらいな遠い記憶がよみがえってきました。
昭和48年から49年にかけての記憶です。
昭和48年、私は小学校1年生、火星が大接近とは言わぬまでもかなり近づいてきていたと報道されていたあのころ、私の父は腎不全で入院しておりました。父にとって初めての入院でした。子供は病棟に入らぬ方が良いということで、父が入院している間は父に会わせてもらえなかったので、私は父の病室の窓の下に立ち、「お父さんに買ってもらった天体望遠鏡でぜったい火星を見るからねー!!」と叫んでおりました。…結局操作が難しすぎて見られなかったんだけど…。
父は小さな町工場を経営していました。私が幼稚園に通っていたころぐらいから子供の目で見ても体調がずっと悪いように見えましたが、近所の診療所で的外れな診断をされてしまい、必要ではない薬を投与され続けている間に腎臓がかなり悪くなってしまったという話でした。
昭和とはいえ、48年49年当時は既に人工腎臓、つまり透析による治療が可能になっていました。群馬でも、富岡市の七日市にあった富岡厚生病院なら治療が受けられるという話でした。
両親がその富岡市の病院に出かけたあの日、
私はこれで父の病気は治るのだ、と信じてひとり伊勢崎市の自宅で留守番をしていたのですが、私が予想していた展開とは異なり、両親はともに帰宅。そして、がっかりした表情でこう言ったのです。「治療はしないことになった。」聞けば月に7万円の手取りがせいぜいだった我が家の家計では到底手が出せない月に30万円もする治療だったそうで、無理だ、という結論を出して帰宅したのだ、ということでした。そして、翌日にはこれまでと同じ病院に再入院ということになりました。
父は翌年の11月、亡くなりました。透析が受けられなかったということもありますが、父の母親と姉、そして父の妻であった私の母の信じていた宗教のせいで死期をはやめてしまったと私は考えています。父の兄二人が戦争で亡くなったあとに残された大事な跡取り息子の病、透析をすればどうにかなりそうだったのにさせてあげられないというそのことが彼らを宗教にのめりこませたのです。
・・・亡くなった11月のはじめには、彼らは病院に無断で、そして本人の意向も無視して父を宗教施設に拉致、監禁。ちなみに当時小学校2年生だった私は自宅に放置されたため、家の黒電話から母の実家に助けを求め、祖母が駆けつけてくれたことを覚えています。
透析さえできれば(でもできなかった)
薬さえあれば(なくなるかもしれない)
ああ、またこれか!!!と、
私の頭の中は、悔しさと悲しさとそして怒りでいっぱいになってしまいました。
ただ、
小学校一年生の時よりもたくさんの経験を積み、そして聖書の神さまを信ずる信仰を持っている者として、
聖書から一つの言葉を引用したいと思います。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」ヨブ記1章21節(口語訳)
この言葉はヨブ記でも「1章」だからこそあり得た言葉なのかもしれません。これでもかこれでもかと苦しみが続き、追い込まれていったらこの「真実」も、信心深さを装う人々の語るきれいごと、うっせえわ、と思う日が来るかもしれない。
ですが、
まだ落ち着いて語れる今だからこそ書いておこうと思います。
このヨブ記のみ言葉こそが本当の聖書信仰、信仰を告白する言葉である、と。
聖書は、人が人としての「快」を手に入れたり感じたりすることを否定するわけではないけれども、それよりも先に人はどうあるべきかということを語っています。
人は
まず「自分」ではなく
まず「神」とすべきである、と。
つまり、ダビデがそうであったように、人は自分よりも神さまを前に置くべきである、ということです。
すべてこの地上で起こることは神さまのお許しがあってのことです。
しかしそれは必ずしも「自分にとって」都合の良いことばかりが起こるわけではありません。
しかし、決しておどろきあやしむことなく、
落ち着いて静かに「神さまは愛であること」を信じ続ける。
たとえどんなことになろうとも我々の主に信頼し続ける。
結局おまえも父を拉致し監禁した祖母や伯母や母のようだと言われるかもしれません。宗教宗教といって狂っていると言われるのかもしれません。
しかし、たぶん、
薄情だから、夫に対する愛情が少ないからそういうことが言える、と言われるかもしれませんが、
私は祖母や伯母や母のように、自分の願いを神に突き付けて無理にでもかなえてもらおうなどとは全く思っていません。
主が与え、主が取られる、それだけのこと。
主によって存在し始め、主によって命を終える。
主が主であるというのなら、主を主としてあがめるのは当然のことです。
箴言3章5,6節にはこうあります。
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
主を信じる、主に信頼するというのは、すべての道で主を認めるということです。すべての道、つまりどんなところを歩いていたとしてもです、例外はないということです。すべての道において主を認めなさい そうすれば、人の目で見てまっすぐな道ではなく、
神さまの目からご覧になってまっすぐな、正しい、すばらしい、良い道が歩めると。
では「主を認める」とはどうすることなのか。
主を認めるとは、単なる知識としてではなく、親密な関係性の中で、主と呼んでいるお方と交わるということです。
そこにはアブラハムがイサクをささげようとしたときのような信頼関係がある、ということです。
ありますよね、信頼関係、
素晴らしいですね、クリスチャンとしての経験の数々ね、あの日々ね、思い出せますよね、主の良くしてくださったこと、覚えていますね、
ああ、なんと素晴らしい経験をさせていただいたことでしょうか。
すばらしい喜びの日々味わうことができた、感謝ですね。
そういう関係性、「主は私を知り、主を私は知っている」という夫婦のような関係性に基づいて私たちは
「主は与え、主は取られる」と告白するのです。
まだ静けさを保っていられる『いま』
書き残しておこうと思いました。
今私は大丈夫。괜찮아요
あなたは大丈夫ですか?
世界中がひっちゃかめっちゃかな今、
大丈夫だと言える人がだんだん少なくなってきているかもしれませんが
心配しないで。你放心吧
主はすべてをご覧になっています。
主はともにおられます。ね。
中国語の「放心」、心を放すって信仰的な表現だなあと勝手に思っております。「安心」ってことばも好きです。