この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。
歩きぶりの堂々たる者が三つある、いや、四つあって、みな堂々と歩く。
すなわち獣のうちでもっとも強く、何ものの前にも退かない、しし、
尾を立てて歩くおんどり、雄やぎ、その民の前をいばって歩く王がそれである。
箴言30章24~31節(口語訳)
「いなごは王がないけれども」
という言葉を読んだときにハッとしました。
王がないわけではない。lawgiverがあり、lawがあるからこそ彼らは生きている。
いや、生きることができるのであって、そのようにふるまうのだ、と思ったのです。
そしてサムエル記を思い出しました。
サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。
サムエル記上8章1~3節しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
サムエル記上8章6,7節ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
サムエル記上8章19節~22節
サムエル記8章のところ、
人々が見当違いなことをしているということには気付いておりましたが
あれれ?それは自分と何が違うのか、と思ったのです。
主よ来てください主よ来てくださいと祈り続けている自分
イエスさまは既に来たよ?
聖霊さまはともにおられるよ?
父なる神さまはずっと変わらず王だよ!
トーラーを与えてくださった王だよ!
虫たちは神さまを王として
神さまの与えてくださったルールで生き、動いている。
そして獣たちも神さまを王として
神さまの与えてくださったルールで生き、動いている。
地球も宇宙も神さまの与えてくださったルールがずーっと昔から今に至るまで変わらずに適用されていますが?
人間だけがそうではない?
まあ、そうではなくなっちゃったから神さまとの断絶を終わらせることが必要で
そのため預言されていたメシアが地上に来られ
十字架で血を流されて
神さまとの断絶が終わった。
神さまはもともと王さまなので、
人として地上を歩まれた間も王さまで、
ただ、人間の身体を持つ王さまだと世界中の人と一度に話す事が出来ないという不便さがあり
で、イエスさまが天に昇られた後約束通り聖霊さまが与えられ
聖霊さまが来られて以来人間は自由に神さまと交わる事が出来て
ついにエデンの園と同じ状態に!
だとしたらね、
もう一度キリストがあの頃と同じ姿で
すなわち「人間として」やってこなくたって
ヨイノデハ?