2024年8月15日木曜日

こういう時代を生きていくために(2)

こういう時代に 生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書き続ける予定です)


「これからどうなるのだろう」

人々はあなたがたに必ず言う。「ささやきつぶやく霊媒や口寄せに伺いを立てよ。民は、自分の神々に伺いを立てるべきではないか。生きている者たちのために、死者たちに伺いを立てるべきではないか。」
イザヤ書8章19節 聖書協会共同訳


予見、予言、予防、

不安な時代に「偶像」のようになりがちな三つの言葉です。
人を神さまから引き離す「誘惑」の言葉とも言えます。

人は誰でも、未来を見通す力が欲しいのです。未来を見通すことができれば安全が確保できると考えるからです。
自分に予見する力がないなら、その力を持っていると考えられる人々に「伺いを立てよう」と考えるのです。
そして、最新の科学の力によって万全な対策をし、命の安全を確保しようとするのです。

しかしイザヤは語ります。「教えと証しの書にこそ尋ねよ。」と。

教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節 聖書協会共同訳


ここでイザヤの言う「教え」とは
ヘブライ語聖書ではתורה トーラーと書かれています。

トーラーとは何でしょうか。
直接的にはモーセ五書のことを指します。
モーセ五書、つまり、創造主である神さまがモーセを介してイスラエルに与えた御言葉のことです。
そして、現代に生きる私たち異邦人とってトーラーとは、
ヨハネが福音書で語っているように「イエスさまご自身」のことです。


初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
ヨハネによる福音書1章2~4節 聖書協会共同訳


ただ、そう簡単ではないのが「こういう時代」です。



「偽物」 

イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。ルカによる福音書21章8節 


「自分がそれ」つまり「我こそが再臨のキリストである(自分こそ「わたしはある」というものである)」と名乗る人が現れたら、

おそらく簡単にスルー出来ると思います。が、


「わたしの名を名のって現れ」・・・これが本当に厄介です。

ギリシャ語の聖書では

ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου 私の名前で

と書かれています。

つまり、イエスさまの御名によって語っている人の中に偽物がまぎれこんでいるわけです。

義人の中にいる悪人 https://kyudochu.blogspot.com/2019/09/25_25.html


イエスさまの御名によって語る事が出来る立場にある者が
「時が近づいた」などと語って聞かせるけれども
「ついて行くな」とイエスさまはおっしゃっているのです。

大丈夫でしょうか。


・・・という話になった時に、

30年前には

教会の仲間が使っているのと同じ(異端宗教が発行しているものとは異なる)「正しい聖書」をしっかり読んで、
欠かさず「正しい教会」の礼拝に通い、
教会でお話を聞いていれば
どんなに困難で、ややこしい時代になったとしても見分けられます!

と笑顔で回答していた自分ですが


翻訳聖書に対して、特に新約聖書について問題意識を持つようになってしまった今
秋の夜長に聖書の比較 https://kyudochu.blogspot.com/2022/11/blog-post_2.html

ぶどう園に行ったのは誰? https://kyudochu.blogspot.com/2022/12/blog-post_7.html


そう断言するのが難しいと感じています。

ではどうしたらよいか。


以前「新しいのか古いのか」という記事で言及したことでありますが

キリスト教会では「イエスさまの教え」はパリサイ人や律法学者が信じているユダヤ教に対して「新しい教え」だと言われるわけですが

よくよく考えてみると、
メシアとして来られたナザレのイエスの教えは決して新しい教えではなかったわけです。

そもそも論として、
イエスさまが父なる神さまと等しいお方であるという信仰を持っているのなら、

神さまはご自身の言葉を否定したり変更したりされることはないのですから、
イエスさまの教えとは、旧約時代の教えと全く変わらないはずです。
したがってイエスさまの教えは古い古い教え、創造の初めから存在する「神さまの御言葉」です。

というあたりのことを考えるとき、

たとえ新約聖書がハチャメチャであったとしても

(ハチャメチャではないと思いますし、そんなことを言ってはいけないとも思うのですが、一箇所でもおかしなところはないはずだとずーっと信じていたものですから私自身の心の中はこんな表現を使いたくなるような荒れ方をしています)


トーラーをしっかり押さえておけば

「偽物」を判別する事が出来るのだと思います。

偽物とは、トーラーに合致していない教えだと私は思います。