2024年8月14日水曜日

こういう時代を生きていくために(1)

こういう時代に生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書き続ける予定です)



「これからどうなるのだろう」

不安な思いを抱くこと、これは人間として当然のことです。

しかし、幸いなのは「信仰」によってその不安を制御することです。


主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。
「立ち帰って落ち着いていれば救われる。
静かにして信頼していることにこそ
あなたがたの力がある。」
しかし、あなたがたはそれを望まなかった。
イザヤ書30章15節(聖書協会共同訳)



自分の知識や力でどうにかするのではありません。
知識や力のありそうな人にたよるのでもありません。

「立ち帰って」
心から悔い改め、神さまとの契約に立ち帰り

「落ち着いていれば」

ヘブライ語でナハトと言いますが、

これは「下降」という意味を持っています。

山から谷に降ること、

山に登り、山頂に立つというような活動的な状態から、下へ下へと降っていくこと

ポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)をどんどん減らして・・・

これは創造後の神さまの休息、そして安息日のイメージにつながっていく言葉です。

静かに、
神さまに心を向けること

それが私たちの「力」になる、というのです。

「力」とはヘブライ語でゲブラーと言います。
全能であられる神さまの絶対的な御力や、
人間の身体的な強さと精神的な強さ
つまり、勇気や、道徳的な意味における不屈を表す言葉でもあります。

そういう「力」が与えられる。



ところで、

どうして神さま以外の人や物を頼りにしたり期待してはいけないのでしょうか。

それは、
まことの神さま以外
いつなんどき何が起こるのか、そしてそれをきっかけにどんな変化が起こるのかということについて知る者は無いからです。

わずか数秒先のことであれ、人間にはわからない。そして、そのあとに続く未来もわからない。


けれども
永遠の昔から永遠の未来まで途切れることなく存在され、
すべてのことをご存じである神さまが
共にいて下さり守ってくださるならば
一体何を心配する必要があるでしょうか。



絶望の夜を希望の朝の前夜と変えてくださる唯一のお方に心を向けて休もうではありませんか。