2024年8月18日日曜日

あの時代の追体験

「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界」という
ユダヤ史の研究者として著名なשמואל ספראי S サフライ先生の講演集
(カトリック聖書委員会監修 出版社:サンパウロ)
を読みました。
講演集ということもあり、読みやすさと面白さでどんどん読める本でした。

ただ、
今朝、
不意に、

心の中にマルコによる福音書1章34節が思い浮かび、

・・・この箇所と講演集につながるところは全くないのですが

立ち止まることを促されたような気がしました。

「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。」(口語訳)

 この節の中の「悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。」という箇所が、突然私の心の中に響いてきたのです。


イエスさまはいったいどうして悪霊どもに物を語らせなかったのでしょうか。

昔教わった通りのことも思い浮かびはしたのですが、今朝私の心に思い浮かんだのは別のことでした。

「物を語ってよい、物を語るべきなのは、イエスさまと個人的に出会った『人』であるべきだとイエスさまが期待しておられたから」



イエスさまとは誰なのか

つまり、それは
「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」とバプテスマのヨハネが弟子を遣わして尋ねた問いであり、
また、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたそのことについて
ということになりますが、

「誰かが目撃した客観的事実」や「一般論」と呼ばれるようなたぐいのものではなく、

イエスさまと個人的に出会った人自身が
イエスさまとはいったい誰なのか、イエスさまはあなたにとってどのようなお方なのか、と、「証言する」ことをイエスさまは期待しておられるのだ、と

思ったのです。


イエスさまが地上を歩いておられた時代に、
地上を歩むイエスさまと出会った人、
そして現代ならば、聖霊さまの働きによってイエスさまと出会った人々が
イエスさまとはどのようなお方で、誰であるのか、と語ることを
主は期待しておられるのだ、と。

と同時に詩編8編でダビデが歌っていた言葉とイザヤ書8章20節が思い出されました。


主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。
あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。
敵対する者に備え
敵と報復する者を鎮めるために。
詩編8編2,3節(聖書協会共同訳)



教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節(聖書協会共同訳)



「私は歴史上のイエスを小さく評価しようというのではありません」

159ページ「第十講演 イエスと敬虔派運動」の終わりのあたりでサフライ先生はそのように語られました。

この第十講演ではまず、紀元一世紀のユダヤ教について語られたのです。きちんと当時の文献に基づいたお話しで、当時のユダヤ教には3つの大きな流れがあったのだ、と。

三つのうちの一つである「エッセネ派」の人々は一般社会から離れ、自分たちとは異なる人々を避けて暮らしていて、もう一つの「サドカイ派」の人々は永遠の命を信じていなかった、と。
つまり、イエスさまは少なくともエッセネ派とサドカイ派とは異なる考え方をしておられた、と。
そして、引用はしませんが
ユダヤ人でありユダヤ教徒であるサフライ先生は、
イエスさまがどのような界隈におられた方なのかということについて論理的に語られたのです。


 


本を読んでいるときには、全く何も思うことはなく、文字を追うだけというかフラットな気持ちであり、今日も別に内容を反芻しようなどと思ってはいなかったのですが

今朝、
不意に、

聖書を開いていたわけでもないのに
マルコによる福音書1章34節から始まる3つの御言葉を思い

そして最後
Via Dolorosaを思い

涙を止めることが出来なくなったのでした。

「歴史上のイエス」と語られる人物ではない
私を救われたメシア
「私」には証言しうる言葉がある、と強く思いながら



行ったことも見たこともない

あの時代のあの道に立つ自分であるかのように感じた朝でした。