2024年8月25日日曜日

【調べ学習】静かに

 心穏やかに居るということが、本当に難しい世の中です。

政治の問題にしても経済の問題にしても公衆衛生の問題にしても食糧問題にしても

そして、天変地異にしても

しかし、聖書は、私たちがこれらすべてのことにどう向き合えばよいのかということを、悠か昔から教えてくれています。

それは極めて単純なことです。

「静かに」している

ただそれだけのことです。


そんなことを心の片隅に置きながら

今日はヘブライ語聖書とギリシャ語聖書に登場する「静かに」と訳されている単語について学習しようと思います。





出エジプト記14章14節

主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。(新共同訳)

Strong's Hebrew 2790  חָרַשׁ  charash

Definition: to cut in, engrave, plow, devise

聖書中に74回登場
一番初めに登場するのは創世記24章21節

その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。(新共同訳)






申命記27章9節

モーセは、レビ人である祭司と共に全イスラエルに向かって告げた。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。(新共同訳)

Strong's Hebrew 5535    סָכַת   sakath

Definition: to be silent  

5535番はこの箇所にのみ登場する単語



列王記上19章12節

地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(新共同訳)

Strong's Hebrew 1851 דַּק daq

Definition: thin, small, fine

聖書中に15回登場

一番初めに登場するのは創世記41章3節

すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。(新共同訳)




ネヘミヤ記8章11節(1)

レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」(新共同訳)

Strong's Hebrew  2814 חָשָׁה chashah

Definition: to be silent, inactive, or still

聖書中に15回登場

一番初めに登場するのは士師記18章9節

五人は答えた。「彼らに向かって攻め上ろう。我々はその土地を見たが、それは非常に優れていた。あなたたちは黙っているが、ためらわずに出発し、あの土地を手に入れて来るべきだ。(新共同訳)




ネヘミヤ記8章11節(2)

レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」(新共同訳)

Strong's Hebrew 2013 הָסָה has

Definition: hush! keep silence!

聖書中に8回登場

一番初めに登場するのは民数記13章30節

カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」(新共同訳)




詩編94編13節

その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。(新共同訳)

Strong's Hebrew 8252 שָׁקַט shaqat

Definition: to be quiet or undisturbed

聖書中に8回登場

一番初めに登場するのはヨシュア記11章23節

ヨシュアはこうして、この地方全域を獲得し、すべて主がモーセに仰せになったとおりになった。ヨシュアは、それをイスラエルに各部族の配分に従って嗣業の土地として与えた。この地方の戦いは、こうして終わった。(新共同訳)

ヨシュア記の「戦いは・・・終わった」という日本語表現は英語の聖書ではhad rest from war 


8252番に日本語の「静かに」を充てているほかの箇所としては

イザヤ書7章4節

彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。(新共同訳)





イザヤ書30章15節

まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。(新共同訳)

Strong's Hebrew 5183 נַחַת Nachath 

Definition: quietness, rest

聖書中に8回登場

一番初めに登場するのはヨブ記17章16節

それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。

新共同訳のヨブ記17章16節・・・・用例としてよくわからないのでもう二箇所5183番を使っている箇所を引用します。

主は威厳ある声を聞かせ 荒れ狂う怒り、焼き尽くす火の炎 打ちつける雨と石のような雹と共に 御腕を振り下ろし、それを示される。イザヤ書30章30節(新共同訳)

知恵ある人が無知な者と裁きの座で対すると 無知な者は怒り、嘲笑い、静まることがない。箴言29章9節(新共同訳)

あれでしょうか、基本的には上から下に下すとか落ちるというニュアンスがあり、英語で考えると、highからlow down・・・あ、日本語でも「落ち」着くという言葉がありました。。。ハイテンションであるのをクールダウンさせる、鎮静させるということでしょうか




エゼキエル書32章14節

そのとき、わたしはその水を澄ませ 流れを油のように静かに流れさせると 主なる神は言われる。(新共同訳)

Strong's Hebrew 8257 שָׁקַע shaqa

Definition: to sink, sink down

聖書中に6回登場

一番初めに登場するのは民数記11章2節

民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった。(新共同訳)


エゼキエル書32章14節はヘブライ語聖書では「(水を)澄ませ」という言葉と「静かに」という言葉がそれぞれ独立してあるわけではなく、水と川を油のように流した結果としてsink downすると表現していて、つまり、油のようにとろりとゆっくりとしたスピードで流れた結果水が澄むというと表現している。…嵐のときの濁流が清流になるようなイメージでしょうか




ハバクク書3章16節

それを聞いて、わたしの内臓は震え その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ 我々に攻めかかる民に 苦しみの日が臨むのを。(新共同訳)

Strong's Hebrew 5117 נוּחַ nuach

Definition: to rest

聖書中には67回登場

一番初めに登場するのは創世記8章4節

第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。(新共同訳)






「静かにするという言葉をいろいろ調べながら思い出されたのは

安息日

Strong's Hebrew 7673 שָׁבַת shabath 

Definition: to cease, desist, rest

シンプルであるけれども非常に奥深い「教え」の一丁目一番地。

そして、とてもとても容易であるはずなのになぜか守ることが難しいという不思議。

止まれない止まらない休まない落ち着かない人間。

止まって休んで落ち着けば良いものを。







続いて新約聖書



使徒言行録21章40節

千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。(新共同訳)

Strong's Greek 4602 σιγή sigé

Definition: silence 

4602番は聖書に2回登場します。

もう一回はヨハネの黙示録8章1節

小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。(新共同訳)







使徒言行録22章2節

パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。(新共同訳)

Strong's Greek 2271 ἡσυχία hésuchia

Definition: stillness

2271番は聖書に4回登場します。

他には
テサロニケの信徒への手紙二3章12節

そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(新共同訳)

テモテへの手紙一2章11節

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。(新共同訳)

テモテへの手紙一2章12節

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。(新共同訳)





ヨハネの黙示録6章11節

すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。(新共同訳)

Strong's Greek 373 ἀναπαύω anapauó

Definition: to give rest, give intermission from labor, by implication refresh

373番は聖書に12回登場します。

マタイによる福音書11章28節

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(新共同訳)

マタイによる福音書26章45節

それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。(新共同訳)

マルコによる福音書6章31節

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(新共同訳)

マルコによる福音書14章41節

イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。(新共同訳)

ルカによる福音書12章19節

こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。(新共同訳)

コリントの信徒への手紙一16章18節

わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。(新共同訳)

コリントの信徒への手紙二7章13節

こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。(新共同訳)

フィレモンへの手紙7節

兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。(新共同訳)

フィレモンへの手紙20節

そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。(新共同訳)

ペトロの手紙一4章14節

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(新共同訳)

(新共同訳聖書における該当箇所がよくわからないのでNASBも引用します↓)

If you are reviled for the name of Christ, you are blessed, because the Spirit of glory and of God rests on you.1 Peter 4:14NASB


ヨハネの黙示録14章13節

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(新共同訳)




2024年8月18日日曜日

あの時代の追体験

「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界」という
ユダヤ史の研究者として著名なשמואל ספראי S サフライ先生の講演集
(カトリック聖書委員会監修 出版社:サンパウロ)
を読みました。
講演集ということもあり、読みやすさと面白さでどんどん読める本でした。

ただ、
今朝、
不意に、

心の中にマルコによる福音書1章34節が思い浮かび、

・・・この箇所と講演集につながるところは全くないのですが

立ち止まることを促されたような気がしました。

「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。」(口語訳)

 この節の中の「悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。」という箇所が、突然私の心の中に響いてきたのです。


イエスさまはいったいどうして悪霊どもに物を語らせなかったのでしょうか。

昔教わった通りのことも思い浮かびはしたのですが、今朝私の心に思い浮かんだのは別のことでした。

「物を語ってよい、物を語るべきなのは、イエスさまと個人的に出会った『人』であるべきだとイエスさまが期待しておられたから」



イエスさまとは誰なのか

つまり、それは
「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」とバプテスマのヨハネが弟子を遣わして尋ねた問いであり、
また、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたそのことについて
ということになりますが、

「誰かが目撃した客観的事実」や「一般論」と呼ばれるようなたぐいのものではなく、

イエスさまと個人的に出会った人自身が
イエスさまとはいったい誰なのか、イエスさまはあなたにとってどのようなお方なのか、と、「証言する」ことをイエスさまは期待しておられるのだ、と

思ったのです。


イエスさまが地上を歩いておられた時代に、
地上を歩むイエスさまと出会った人、
そして現代ならば、聖霊さまの働きによってイエスさまと出会った人々が
イエスさまとはどのようなお方で、誰であるのか、と語ることを
主は期待しておられるのだ、と。

と同時に詩編8編でダビデが歌っていた言葉とイザヤ書8章20節が思い出されました。


主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。
あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。
敵対する者に備え
敵と報復する者を鎮めるために。
詩編8編2,3節(聖書協会共同訳)



教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節(聖書協会共同訳)



「私は歴史上のイエスを小さく評価しようというのではありません」

159ページ「第十講演 イエスと敬虔派運動」の終わりのあたりでサフライ先生はそのように語られました。

この第十講演ではまず、紀元一世紀のユダヤ教について語られたのです。きちんと当時の文献に基づいたお話しで、当時のユダヤ教には3つの大きな流れがあったのだ、と。

三つのうちの一つである「エッセネ派」の人々は一般社会から離れ、自分たちとは異なる人々を避けて暮らしていて、もう一つの「サドカイ派」の人々は永遠の命を信じていなかった、と。
つまり、イエスさまは少なくともエッセネ派とサドカイ派とは異なる考え方をしておられた、と。
そして、引用はしませんが
ユダヤ人でありユダヤ教徒であるサフライ先生は、
イエスさまがどのような界隈におられた方なのかということについて論理的に語られたのです。


 


本を読んでいるときには、全く何も思うことはなく、文字を追うだけというかフラットな気持ちであり、今日も別に内容を反芻しようなどと思ってはいなかったのですが

今朝、
不意に、

聖書を開いていたわけでもないのに
マルコによる福音書1章34節から始まる3つの御言葉を思い

そして最後
Via Dolorosaを思い

涙を止めることが出来なくなったのでした。

「歴史上のイエス」と語られる人物ではない
私を救われたメシア
「私」には証言しうる言葉がある、と強く思いながら



行ったことも見たこともない

あの時代のあの道に立つ自分であるかのように感じた朝でした。


2024年8月15日木曜日

こういう時代を生きていくために(2)

こういう時代に 生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書き続ける予定です)


「これからどうなるのだろう」

人々はあなたがたに必ず言う。「ささやきつぶやく霊媒や口寄せに伺いを立てよ。民は、自分の神々に伺いを立てるべきではないか。生きている者たちのために、死者たちに伺いを立てるべきではないか。」
イザヤ書8章19節 聖書協会共同訳


予見、予言、予防、

不安な時代に「偶像」のようになりがちな三つの言葉です。
人を神さまから引き離す「誘惑」の言葉とも言えます。

人は誰でも、未来を見通す力が欲しいのです。未来を見通すことができれば安全が確保できると考えるからです。
自分に予見する力がないなら、その力を持っていると考えられる人々に「伺いを立てよう」と考えるのです。
そして、最新の科学の力によって万全な対策をし、命の安全を確保しようとするのです。

しかしイザヤは語ります。「教えと証しの書にこそ尋ねよ。」と。

教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節 聖書協会共同訳


ここでイザヤの言う「教え」とは
ヘブライ語聖書ではתורה トーラーと書かれています。

トーラーとは何でしょうか。
直接的にはモーセ五書のことを指します。
モーセ五書、つまり、創造主である神さまがモーセを介してイスラエルに与えた御言葉のことです。
そして、現代に生きる私たち異邦人とってトーラーとは、
ヨハネが福音書で語っているように「イエスさまご自身」のことです。


初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
ヨハネによる福音書1章2~4節 聖書協会共同訳


ただ、そう簡単ではないのが「こういう時代」です。



「偽物」 

イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。ルカによる福音書21章8節 


「自分がそれ」つまり「我こそが再臨のキリストである(自分こそ「わたしはある」というものである)」と名乗る人が現れたら、

おそらく簡単にスルー出来ると思います。が、


「わたしの名を名のって現れ」・・・これが本当に厄介です。

ギリシャ語の聖書では

ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου 私の名前で

と書かれています。

つまり、イエスさまの御名によって語っている人の中に偽物がまぎれこんでいるわけです。

義人の中にいる悪人 https://kyudochu.blogspot.com/2019/09/25_25.html


イエスさまの御名によって語る事が出来る立場にある者が
「時が近づいた」などと語って聞かせるけれども
「ついて行くな」とイエスさまはおっしゃっているのです。

大丈夫でしょうか。


・・・という話になった時に、

30年前には

教会の仲間が使っているのと同じ(異端宗教が発行しているものとは異なる)「正しい聖書」をしっかり読んで、
欠かさず「正しい教会」の礼拝に通い、
教会でお話を聞いていれば
どんなに困難で、ややこしい時代になったとしても見分けられます!

と笑顔で回答していた自分ですが


翻訳聖書に対して、特に新約聖書について問題意識を持つようになってしまった今
秋の夜長に聖書の比較 https://kyudochu.blogspot.com/2022/11/blog-post_2.html

ぶどう園に行ったのは誰? https://kyudochu.blogspot.com/2022/12/blog-post_7.html


そう断言するのが難しいと感じています。

ではどうしたらよいか。


以前「新しいのか古いのか」という記事で言及したことでありますが

キリスト教会では「イエスさまの教え」はパリサイ人や律法学者が信じているユダヤ教に対して「新しい教え」だと言われるわけですが

よくよく考えてみると、
メシアとして来られたナザレのイエスの教えは決して新しい教えではなかったわけです。

そもそも論として、
イエスさまが父なる神さまと等しいお方であるという信仰を持っているのなら、

神さまはご自身の言葉を否定したり変更したりされることはないのですから、
イエスさまの教えとは、旧約時代の教えと全く変わらないはずです。
したがってイエスさまの教えは古い古い教え、創造の初めから存在する「神さまの御言葉」です。

というあたりのことを考えるとき、

たとえ新約聖書がハチャメチャであったとしても

(ハチャメチャではないと思いますし、そんなことを言ってはいけないとも思うのですが、一箇所でもおかしなところはないはずだとずーっと信じていたものですから私自身の心の中はこんな表現を使いたくなるような荒れ方をしています)


トーラーをしっかり押さえておけば

「偽物」を判別する事が出来るのだと思います。

偽物とは、トーラーに合致していない教えだと私は思います。

2024年8月14日水曜日

こういう時代を生きていくために(1)

こういう時代に生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書き続ける予定です)



「これからどうなるのだろう」

不安な思いを抱くこと、これは人間として当然のことです。

しかし、幸いなのは「信仰」によってその不安を制御することです。


主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。
「立ち帰って落ち着いていれば救われる。
静かにして信頼していることにこそ
あなたがたの力がある。」
しかし、あなたがたはそれを望まなかった。
イザヤ書30章15節(聖書協会共同訳)



自分の知識や力でどうにかするのではありません。
知識や力のありそうな人にたよるのでもありません。

「立ち帰って」
心から悔い改め、神さまとの契約に立ち帰り

「落ち着いていれば」

ヘブライ語でナハトと言いますが、

これは「下降」という意味を持っています。

山から谷に降ること、

山に登り、山頂に立つというような活動的な状態から、下へ下へと降っていくこと

ポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)をどんどん減らして・・・

これは創造後の神さまの休息、そして安息日のイメージにつながっていく言葉です。

静かに、
神さまに心を向けること

それが私たちの「力」になる、というのです。

「力」とはヘブライ語でゲブラーと言います。
全能であられる神さまの絶対的な御力や、
人間の身体的な強さと精神的な強さ
つまり、勇気や、道徳的な意味における不屈を表す言葉でもあります。

そういう「力」が与えられる。



ところで、

どうして神さま以外の人や物を頼りにしたり期待してはいけないのでしょうか。

それは、
まことの神さま以外
いつなんどき何が起こるのか、そしてそれをきっかけにどんな変化が起こるのかということについて知る者は無いからです。

わずか数秒先のことであれ、人間にはわからない。そして、そのあとに続く未来もわからない。


けれども
永遠の昔から永遠の未来まで途切れることなく存在され、
すべてのことをご存じである神さまが
共にいて下さり守ってくださるならば
一体何を心配する必要があるでしょうか。



絶望の夜を希望の朝の前夜と変えてくださる唯一のお方に心を向けて休もうではありませんか。


王を持たないばった

王を持たないばった
それはそろって隊列を組んで進み行く。
箴言30章27節(聖書協会共同訳)

箴言にはこうありますが
本当にバッタには王がいないのでしょうか。


主こそ私たちを裁く方。
主は私たちを指揮される方。
主は私たちの王。
この方が私たちを救われる。
イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)

この箇所はKJVではこうなっています

For the LORD is our judge the LORD is our lawgiver the LORD is our king he will save us

バッタ一匹一匹DNAというlawを持っているからこそ環境に応じた行動をとるのです。
lawはどこから来るものなのかと言えばlawgiverから与えられたものです。

ならば私たち人間はどうなのか。

私たちにもトーラーを与えてくださった王がいます。

そしてその方は地上に来られ私たちを救ってくださいました。

そして今私たちは聖霊さまとともにいます。

父なる神、子なる神、御霊なる神は同一のお方です。



「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書14章16~20節(聖書協会共同訳)


2024年8月8日木曜日

箴言30章1節 イティエル

イティエルという言葉について、興味深い記述を見つけました。

一つは

 https://www.mgketer.org/

というサイトにあったラビ・メナヘム・ハメイリという方の文章です。

Ityel - つまり、Itay Elは、私が彼(神さま)の真ん中に立っていると言いたいのです。そして私は食べる、名前に「イスラエル」を付ける問題のように、「あなたは神と人々に仕えてきたから、賢くなれるという目的をほのめかしている

もう一つは

https://www.hatanakh.com/

というサイトのבין אגור לאיתיאל ואוכלという項目の中にあった文章です。

アグル・ベン・ヤケとは誰ですか?イティエルとウカルとは何者ですか?
これらは、知恵というテーマに関して教える象徴的な名前である可能性があります。

これらの名前が象徴的なものであるとすれば、
この聖句は単なるタイトルではなく、次のような教訓を教えていることが理解できます。

イティエルは神が自分と共にいる、つまり自分が神さまと同じレベルにいると考える人です。ウカルは自分は何でもできると思っている男です。 どちらも人間の誇り、特に科学者の誇りを象徴しています。科学者は、自分の知恵があれば、神が世界を創造した秘密を理解し、その秘密を利用してあらゆる目的を達成できると考えています。

 一方、アグル・ベン・ヤケは、多くの知識をため込み、蓄積し、そしてそれを吐き出した人です。それは、人間があらゆる知恵と知識にもかかわらず、決して知ることのない秘密や決してできないことがあることに気づいた、プライドの後に訪れる人間の失望を象徴しています。

アグル・ベン・ヤケはイティエルを叱責し、彼らの誇りを食い荒らします。彼は彼らにこう言います。「あなたは自分がすべてを知っていると思っていますが、私は自分が何も知らないことをすでに知っています。」私は人間の知恵と理性には限界があることを認識しています。


イティエルאיתיאל
という名前について、
תを完全な者、完成された者というふうにとらえ
また、アレフאとヨッドיそしてエルאלに囲まれているととらえると

ラビ・メナヘム・ハメイリのように「(完全な)私が彼(神さま)の真ん中に立っている」という意味にとらえることになり、

さらに、hatanakh.comにあったように、「自分が神さまと同じレベルにいる」「自分は何でもできる」というような、発想をする者を表しているようにも読め、
ちょうどバベルの塔を建てようとしたニムロドのような人間がそこに見えてくるというわけですね。

そして、アグル・ベン・ヤケが「決して知ることのない秘密や決してできないことがあることに気づいた、プライドの後に訪れる人間の失望を象徴」しているのだと考えると




なるほど、箴言30章4節のこの言葉の雰囲気
天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、
風をこぶしの中に集めたのはだれか、
水を着物に包んだのはだれか、
地のすべての限界を定めた者はだれか、
その名は何か、その子の名は何か、
ヨブに語られた神さまの言葉(38章)に似ているような気がします。

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。
もしあなたが知っているなら言え。
あなたがもし知っているなら、
だれがその度量を定めたか。
だれが測りなわを地の上に張ったか。
その土台は何の上に置かれたか。
その隅の石はだれがすえたか。・・・



そして、
どうして箴言30章という箴言が、箴言という書物の最後に置かれているのかということについて、その理由にも気付く事が出来たような気がします。

イティエル,アグル・ベン・ヤケ,ヤケの子アグル,
学んだことを踏まえて再度30章を読んでみまして

世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。
世には自分の目にみずからを清い者として、
なおその汚れを洗われないものがある。
世にはまた、このような人がある――
ああ、その目のいかに高きことよ、
またそのまぶたのいかにつりあがっていることよ。
世にはまたつるぎのような歯をもち、
刀のようなきばをもって、
貧しい者を地の上から、
乏しい者を人の中から食い滅ぼすものがある。
箴言30章11節~14節

別に、誰が、とは言いませんが、既視感(;´Д`A ```


箴言30章1節 ヤケの子アグル

דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃ 


マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、

箴言30章1節(口語訳)


ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。

箴言30章1節(聖書協会共同訳)


אגור בן יקה

「ヤケの子アグル」という項目がウィキペディアにありました。
グーグル翻訳で訳された日本語の文章がいつものごとく難解だったので(笑)必死に食らいついて、こんな感じかな?という日本語にしてみました。

https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%90%D7%92%D7%95%D7%A8_%D7%91%D7%9F_%D7%99%D7%A7%D7%94

以下ウィキペディアより

冒頭で言及されているヤケは別の箇所では知られておらず、終わりの二人の人物、イティエルとウカルも同様です。アグルと彼らとの関係も明らかではありません。「イティエルに対する男の言葉」という意味は何でしょうか。

一般的な意見によれば
「アグル・ベン・ヤケ(ヤケの子アグル)」とは聖書の時代には有名であったけれども今の人々には知られていない賢者の名前です。
ラビ・アブラハム・イブン・エズラは、箴言の冒頭にある「イスラエルの王ソロモン・ベン・ダビデの箴言」という言葉に従って、ソロモンが「アグル・ベン・ヤケ(ヤケの子アグル)」の記事を自分の本(箴言)の中に取り入れたと考えています。
別の意見としては、
アグルの記事はヒゼキヤ王の時代の本に含まれており、ソロモンとは何の関係もない。イティエルとウカルはアグルの知恵の言葉を学んだか、または彼に教えた賢者である。


「マッサ(マサ)」という言葉は簡単に「預言」であると理解できます
一部の解説者は、イシュマエルの子孫である「マサ」部族のアグルの愛称として解釈しました。あるいは、まったく別の方向で、彼が神殿の詩人であるレビ人の一人であると解釈しました。

【賢者の解説】

賢者たちは、「アグル・ベン・ヤケ(ヤケの子アグル)」はソロモン王自身のニックネームであると解釈しました。「アグル」は、ソロモンの別のニックネームである「ケハラット・ベン・ダビデ(ダビデの子ケハラット)"קהלת בן דוד"」と同様に、収集するという意味の言葉です。「ヤケ」は吐き出すという意味の言葉です。したがって、「アグル・ベン・ヤケ」とは、知恵の言葉を集め、それを他の人に教える人のことです。

ミドラーシュはこう言います。

彼は三つの名前で呼ばれた。「ヤディディヤ」、「ケハラット」、「ソロモン」

ラビ・イェホシュア・ベン・レヴィはこう言いました。「アグル」、「ベン・ヤケ」、「レムエル」、「イティエル」。

ラビ・シュムエル・バー・ナフマニは次のように述べました:アヴァティナーニャ(=本物の)は3つです:「ヤディディヤ」、「ケハラット」と「ソロモン」です。

アグル・・・トーラーの言葉の宝庫。
ヤケ・・・ 時間の合間に満たされ、時間の合間に空になるこの杯のように、律法の言葉を吐き出した人。 


賢者たちは彼らのやり方に従って、「イティエル」と「ウカル」もソロモン王を指していると解釈しました

一部の解説者はアグルに関して賢者に従いましたが、「イティエル」と「ウカル」はソロモン王が教えた賢者の名前であると解釈しました。


【アグルとレムエル】

箴言の次の章(第 31 章)のタイトルにも、未知の人物、マッサの王レムエルについて言及されています。


「レムエル・メレク・マッサ(マッサの王レムエル)」は、どのような解釈方法であっても、その文脈では、「王」という称号と「マッサ(重荷、預言、託宣)」の内容が、これをソロモン王のものとする方向での解釈は確立しており、これは『アグル・ベン・ヤケ』の解釈にも影響を及ぼしている。

ウィキペディアより以上


2024年8月6日火曜日

箴言30章1節 「疲れた~」とか言ってる場合じゃないと思うのですが

マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
箴言30章1節(口語訳)

ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)

דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃

31:1マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。
箴言31章1節(口語訳)

レムエル王の言葉。これは母が彼に与えた諭し。
箴言31章1節(聖書協会共同訳)

דברי למואל מלך משא אשר יסרתו אמו׃




まず「マッサ」という語について考えてみようと思います。

新改訳では「マサ」という表記になっていると思います。

聖書協会共同訳の方にはカタカナのマッサが消えているわけですが、これはどこに行ったのかというと「託宣」という翻訳になったのです。


マッサという言葉は

Strong's Hebrew 4853の מַשָּׂא (massa')

聖書の中には60回以上登場しています。

で、4853番のマッサは、「託宣」と訳されたり、「重荷」と訳される言葉なのですね。

で、口語訳聖書でマッサの人とかマッサの王と訳されているのはこの箴言の30章31章にあるマッサが創世記25章14節と歴代誌上1章30節に登場するマッサだと考えて、そう訳したのだと「察します」。

創世記25章12~18節

サラのつかえめエジプトびとハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシマエルの系図は次のとおりである。イシマエルの子らの名を世代にしたがって、その名をいえば次のとおりである。すなわちイシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマ。これはイシマエルの子らであり、村と宿営とによる名であって、その氏族による十二人の君たちである。イシマエルのよわいは百三十七年である。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。イシマエルの子らはハビラからエジプトの東、シュルまでの間に住んで、アシュルに及んだ。イシマエルはすべての兄弟の東に住んだ。


歴代誌上1章28~31節

アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。

この人名であるマッサはStrong's Hebrewでは 4854番 מַשָּׂא (Massa)とあり、創世記と歴代誌上のみに登場すると記載されています。


箴言30章1節と31章1節のマッサはBible HubのStrong's Hebrewでは4853の מַשָּׂא (massa')の方に分類されています。

ただ、人名の方にしても、マッサという文字列が表す意味、定義は、4853番の「重荷」であって、これは本当に重いものであるからこそ「託宣」という表現で訳されるわけです。

聖書協会共同訳聖書のどの箇所に「託宣」という言葉が使われているか聖書本文検索で調べると

例えばイザヤ書では13章のバビロンについての託宣に始まり、とてつもなく恐ろしい話題ばかり11回!




そういうことを踏まえつつ


次に聖書協会共同訳の箴言30章1節で「疲れた疲れた」と訳されているところについて



そこにはこういう文字列が入っています

לאיתיאל  לאיתיאל

これは口語訳では「イテエルに向かって言った、すなわちイテエルと」と訳されている箇所です。

NAS Exhaustive Concordanceによるとこのイテエルという言葉は

「perhaps from eth and el」と書いてあって

つまりこれはאתאלが起源となっている言葉だと考えられているようなのですが

まあ、一応ここでのאתは854番なので、聖書の中に数千回をはるかに超える数登場しているにもかかわらず「意味不明」としてその存在をスルーされ続けている853番のאתではないものの、

そういう放置プレーをいつまでも続けているから、こんな登場の仕方をしたら全く歯が立たないのではないかと思うわけです。

それにしても

לאיתיאל  לאיתיאל

これがいったい何を意味しているのか。

イテエルの繰り返しなのか疲れているのかその両方なのか。

今の段階で自分なりに考えたことを少しだけ記録しておこうと思います。



イテエルという箇所は文の最後にこういう形で記されています。

לאיתיאל לאיתיאל ואכל 

何かわからないイテエル的な言葉を二回繰り返し、

そのあとヴァヴでつないでウカルと書いている。



ヘブライ語の基本中の基本として二度繰り返すというのは強調するときです。

そして、ヴァヴとは、その前の話から途切れさせずにヴァヴ後の単語につなげていくものです。

だとすると、「託宣」と言った後に何かを強調して語っているのだとしたら、その次の瞬間読者に読んでほしいことが書いてあるはずです。疲れた~疲れた~飲み込まれちゃう~って書いてあるんだろうか。


לאיתיאל 

これって、右から読んでも左から読んでも同じ文字列になっているんです。

ヘブライ語文法など習ったこともなく参考書も持たない読書百遍の私にはいつものように絵画が見えてくる。

真ん中には主の御手יが抱いたתがある。

そしてその両脇に神さまのマークאがあって

右から読んでも左から読んでもלאになる。

לאאלの逆の文字列というよりもלラメドという棒でאアレフであられる方のほうに押しやって矯正するニュアンスなのだと私はとらえているのですが、その矯正のための力が右からも左からもかけられて、תを両側の御手とともにがっちりと挟んで動かせない状態にしている。

תは絶対に動かない。そして、תは中央に置かれている。


じゃあ、תとは何か、まずは文字の意味を考えると「完全」「完了」。

そしてこの文字を含むこれらの単語

תורה Strong's Hebrew 8451 תּוֹרָה (torah)  direction, instruction, law

ברית Strong's Hebrew 1285 בְּרִית (berith)  a covenant

אמת Strong's Hebrew 571 אֱמֶת (emeth) firmness, faithfulness, truth

トーラー、契約、真理、ですね。

そういうתが中央に置かれ神さまご自身がしっかりがっちりガードしておられる様子。

そういう単語が二度繰り返され、


そしてウカル


ウカルという言葉はאֻכָלで、人名ではあるようですが、

同じ文字列אכלは食べるという意味や食べ物という意味があります。

それなので、聖書協会共同訳では「呑み尽くされてしまう」という訳が充てられたのだと思います。

ただ、グーグルに翻訳してもらうと

וְאֻכָֽלとはシンプルに「そして食べます」ということになるようで




見当違いなことを書いてしまうかもしれませんが、たとえば

エレミヤ15章16節

わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました

とか、

申命記8章3節

人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

とか、そして食べる、という言葉の前に

תが真ん中に据えられた単語があって強調されていたと考えた場合に

そういった意味での「食べる」という言葉に至る可能性はないだろうかと考えたりしました。

あと、

the man「その人は」と訳されているהַ֭גֶּבֶרは語源はגָּבַרで、to be strong, mightyという意味の言葉です。確かに大きなものを表すגギメルという文字が使われていて強そうです。人ではあるのだけれど、そういう強そうな人間である、

そのあたりからアプローチしなおすという手があるかもしれないと思います。






2024年8月2日金曜日

箴言30章24~31節

この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。

ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。

岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。

いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。

やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

歩きぶりの堂々たる者が三つある、いや、四つあって、みな堂々と歩く。

すなわち獣のうちでもっとも強く、何ものの前にも退かない、しし、

尾を立てて歩くおんどり、雄やぎ、その民の前をいばって歩く王がそれである。

箴言30章24~31節(口語訳)


 「いなごは王がないけれども」

という言葉を読んだときにハッとしました。


王がないわけではない。lawgiverがあり、lawがあるからこそ彼らは生きている。

いや、生きることができるのであって、そのようにふるまうのだ、と思ったのです。

そしてサムエル記を思い出しました。


サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。
サムエル記上8章1~3節

しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
サムエル記上8章6,7節

ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
サムエル記上8章19節~22節


サムエル記8章のところ、

人々が見当違いなことをしているということには気付いておりましたが


あれれ?それは自分と何が違うのか、と思ったのです。

主よ来てください主よ来てくださいと祈り続けている自分


イエスさまは既に来たよ?

聖霊さまはともにおられるよ?

父なる神さまはずっと変わらず王だよ!

トーラーを与えてくださった王だよ!



虫たちは神さまを王として

神さまの与えてくださったルールで生き、動いている。


そして獣たちも神さまを王として

神さまの与えてくださったルールで生き、動いている。


地球も宇宙も神さまの与えてくださったルールがずーっと昔から今に至るまで変わらずに適用されていますが?


人間だけがそうではない?



まあ、そうではなくなっちゃったから神さまとの断絶を終わらせることが必要で

そのため預言されていたメシアが地上に来られ

十字架で血を流されて

神さまとの断絶が終わった。

神さまはもともと王さまなので、

人として地上を歩まれた間も王さまで、

ただ、人間の身体を持つ王さまだと世界中の人と一度に話す事が出来ないという不便さがあり

で、イエスさまが天に昇られた後約束通り聖霊さまが与えられ

聖霊さまが来られて以来人間は自由に神さまと交わる事が出来て

ついにエデンの園と同じ状態に!



だとしたらね、




もう一度キリストがあの頃と同じ姿で

すなわち「人間として」やってこなくたって


ヨイノデハ?