2023年6月21日水曜日

マルコ1章15節(7)神の国は近づいた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコ1章15節(口語訳)
 
イエスさまは「時は満ちた」という宣言をされました。
それは、神さまの定められた「時」に至ったということですから
イエスさまが神さまと等しいお立場であるということがわかります。
 
そしてつぎにイエスさまは「神の国は近づいた」と宣言されました。
今日はこの御言葉について考えを巡らせてみたいと思います。
 
 
実はこの「神の国は近づいた」という表現が以前からとても分かりにくいと思っていました。
 
 
 
「神の国」をディズニーランドのような「場所」であるととらえた場合、
例えば「ディズニーランドは近づいた」と言われると、「場所」は動きませんから話者側がディズニーランドに向かって移動している状況をあらわしているように読めます。
ただ、ディズニーランドという言葉が日本語でありがちな「ディズニーランドに行く日」の省略形であると考えた場合、時間の経過に伴う心理的な変化(わくわくしたよろこび)を表現しているのかもしれず、その場合には話者とディズニーランドとの物理的な距離が語られているわけではないということになりますが、
たぶん聖書にはそのような省略形を使うことはないでしょう。
 
次に「神の国」が場所ではなく「移動することのできる物体」のようなものであるととらえた場合、
「神の国」という物体が向こうからこちらへ意思を持って物理的に近づいてきているとも考えられます。
また、話者自体も移動可能だということも考えるなら両者が同時に移動して近づいていく可能性は生まれますが、
このケースでは「時は満ちた」「神の国は近づいた」と並列されているので、「時が満ちた」という文が完了の意味として受け止められるから「近づいた」という言葉も完了したこととして読むのが適当だと思えるので、話者は静止状態で「神の国」というものがすでに近くに来ているのを「見ている」
 
そのほか
何か個人的な悩みや問題を抱えた読者が読んだ場合や、
直前になにか衝撃的な出来事を見聞きした人が読んだ場合には、さらに別の視点が与えられるのかもしれませんし、
なんらかの宗教的な背景を持っておられる方が読んだ場合にはその「教え」に合わせた解釈をしてしまう。
 
 
最近よく思うのは、
教会や集会に通っていた時には「疑問」なんて一切持ったことがなかったなあ、ということです。
疑問を持ってはいけないという環境ではなかったはずなのですが
疑問を持つという発想がありませんでした。
聖書という本は日本語に翻訳された聖書であったとしても、
少なくとも自分の教会が採用している聖書に関しては
原典に忠実であり、批判する余地のないものだと思っていたからです。
そしてその本をもとに作られた注解書や講解説教、諸集会であれば兄弟方の語られるメッセージを注意深く聴いていれば
もちろんそこには聖霊さまの働きがあるからですが
すべてのことは理解できると信じていましたし、
牧師資格を持っている知人によれば、「今や聖書など研究しつくされているからわざわざ聖書自体を読む必要などない」ということだそうですので
学もない平信徒はうけたまわっていればよいのだという、
「学術」という権威がもたらす安心感の下、それっぽい顔をしてそれっぽい言葉を発しながら教会集会等々で穏やかに暮らしていたわけです。
波風のない穏やかさの中にある朗らかさというものこそが伝統ある正統派らしさであるとも思っておりました。
 
しかし群れから落ちこぼれひとりになった時
いろいろな疑問がわき上がってきました。
「それは悪魔の誘惑だ」とも言われましたけれど
どう考えてもレフトビハインドなんてありえない。
 
 
 
話を戻します。
とにかく、日本語で書いてある聖書は難しいわけです。
半世紀以上日本語のネイティブスピーカーとして生きてきた自分であっても
きちんと意味が分からないわけです。
神の国云々という専門用語が使われていなかったとしても
例えば今私の手元にある新改訳聖書第三版でマルコの福音書2章9節を速読した場合、すんなり意味が分かる人がいるならば↓
中風の人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。
良くも悪くも宗教と信仰のゆえです。
「やさしいか」が「優しいか」なのか「易しいか」なのか
宗教的な背景を持っていなければ判別はつかないような気がします。
 
 
 
「神の国は近づいた」という言葉
 
ギリシャ語の聖書から該当箇所を引用します。
ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ·
ἤγγικενというのはBible Hub によれば
Strong's Greek 1448 ἐγγίζω eggizó の完了時制 (直接法)?で
has come nigh, is at hand「非常に近い、差し迫った」状態を表すようです。
また、
で対訳を確認すると
ἤγγικεν ēngikenは has drawn near となっています。
 
has drawnという英語の現在完了形がいったいどういう意味なのかと言えば
drawという言葉は中学英語だと「描く」というような意味で覚えるわけですけれども、
しかしもう少し成長したころに習うのは
文献を「引用する」とか災害を「招く」とか、お金を「引き出す」とか、「引っ張って手元に持ってくる」ような意味があるわけです。
 
draw (v.)
引くことによって動きを与える」という意味の「drauen」は、紀元前1200年頃に、古英語「dragan」(クラスVIの強い動詞。過去形「drog」、過去分詞「dragen」)の綴りの変更から生まれました。Proto-Germanicの「*draganan」(「引く、引っ張る」という意味。Old Norse「draga」(「引く、引っ張る、引っ張る」)、Old Saxon「dragan」(「運ぶ」)、Old Frisian「drega」、「draga」、Middle Dutch「draghen」(「運ぶ、持ってくる、投げる」)、Old High German「tragan」(「運ぶ、持ってくる、導く」)、German「tragen」(「運ぶ、持つ」)も同じ語源です。PIEルート「*dhregh-」(「drag」(v.)を参照)から派生しました。
「鉛筆を紙に引いて線や図形を作る」という意味は、紀元前1200年頃から存在します。「(武器を)引いて取り出す」という意味は、12世紀後半に剣について初めて使われました。「(弓の弦を)引く」という意味は、紀元前1200年頃から存在します。犯罪者を引っ張って処刑場所まで連れて行くことを「draw a criminal」と言います。これは、1300年頃から使われています。
 
ということなので、
has drawn nearという言葉は引っ張って近くにたぐり寄せた(完了した)というようなイメージ?ではないかと思われます。
 
対訳だけではなくἐγγίζωという言葉は
Thayer's Greek Lexiconによると
STRONGS NT 1448: ἐγγίζω
自動詞では to draw or come near, to approach; とあって、一番初めに提示される意味としてto drawというものがありますから、引っ張った結果として近くに来るというのが本来の意味で、そういうことが行われた結果を見ると近くにあることから、come nighとかbe at handとかapproachという意味にもなっていったのではないかと。
 
とすると、神の国が近くにあるという話は
イエスさまご自身=神さまご自身 が「神の国」を引っ張って、かなり近い距離のところまで引き寄せて完了させて「神の国は近づいた」と言っているという段取り?になるような気がします。
 
そう考えると「時は満ちた」というみ言葉が真っ先に宣言された気分的なものについて説明がつくかもしれません。
と同時に、上の方に書いた「神の国は近づいた」という言葉を日本語ネイティブとしていかに読むべきかと書き連ねた諸々が全く見当外れだったということもはっきりしました。