2023年6月7日水曜日

マルコ1章15節(2)時は満ちた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコによる福音書1章15節
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
今日は口語訳聖書で言うところの「満ちた」という言葉に注目します。
 
日本語で何かが「満ちる」というとき、私たちはどういうものをイメージするかというと
カップが水でいっぱいになりこれ以上は注げない状況
つまり、何か一定の大きさのものがあり、それが少しの隙間もなく入っている状況です。
 
では、マルコの福音書の著者が書くイエスさまの第一声「時は満ちた」とはどういう意味でしょう。
 
トーラーを持たない異邦人、聖書に触れたことのない方々にとって、この言葉は本当は意味不明であるはずなのですが、
通常の読書のような気分でこの箇所を読んでしまうと、「満期」だとか「任期満了」とかいう日本語を知っているがゆえになんの疑問も持たずに通り過ぎることができる。
そして、もしかしたらThe Time has comeと脳内で変換して納得しているかもしれません。もっともNIVの翻訳ではここはThe time has comeとなっているのですが、しかしここはThe time is fulfilledなのであって、has comeだと意味が変わってしまいます。「時が来た」ではないのです。「時が来た」と言ってしまうと、ある「時」という一点が存在し、時の流れに身をまかせているうちにその瞬間が向こうからやってきて到達した、ということで、
「時が満ちる」というのは定められた「時」に向かって、ずーっとずーっと物事を積み上げてきて、絶え間なく積んで積んで・・・ようやくそこに到達することができたということだからです。
 
マルコ1章15節の「満ちた」という表現は
ギリシャ語の聖書ではΠεπλήρωταιと書かれています。
 
Πεπλήρωται (Peplērōtai) という形の言葉は聖書の中に5回登場していて
その一番目がこのマルコ1章15節です。
そして後の4回は以下の箇所で、口語訳聖書では太字のような日本語に訳されています。
ルカ4章21節
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
 
ヨハネ7章8節
あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。

ガラテヤ5章14節 
律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
まず、ガラテヤ5章14節の「一句に尽きる」という訳を見ると、このギリシャ語の言わんとしていることがよくわかります。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という御言葉ひとつで律法の全体が「不足なく十分に」語られているということです。
それをを踏まえてルカ4章21節の言葉を読むならば「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に『不足なく十分』になった、ということで、これが聖書で言うところのいわゆる預言の「成就」という意味です。
 
同様にヨハネ7章8節を読むならば「あらかじめ定められたある時」はあるが「その時」だと言うにはまだ足りないのだ、ということをイエスさまはおっしゃっている。
 
そして、マルコ1章15節で語られたその「時」とは、
トーラーを人類に与えたもうた神さまがあらかじめ定めておられたその「時」
トーラーを持つ民がずーっとずーっと待ち焦がれていたその「時」
神さまが預言者によって語り続けておられたその「時」
「神の国」がキリストによって設立される前に必ず経過しなければならないその「時」に至るために
不足なく十分に整った
 
 
時が満ちるという表現はヘブライ語聖書にもあります。
 
出産の時が満ちると、胎内には、果たして双子がいた。創世記25章24節(以下聖書協会共同訳)

「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。イザヤ書40章2節

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。エレミヤ書29章10節
 
 
 
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא  (maw-lay')という言葉が使われています。