2023年6月15日木曜日

マルコ1章15節(6)コヘレト3章、そしてギリシャ語「時」の調べ学習

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳聖書)
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904
時は満ちた、という言葉を聞くと思い浮かぶのはקֹהֶלֶתコヘレト3章です。
 
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。 口語訳聖書 伝道の書3章1~8節
 
クリスチャンになったかならないかという中学生のころ、リビングバイブルか何かで伝道の書を読んだのですが
どこを読んでもわかったようなわからないような、いや、さらっと読み流すのならば人生訓のようで読みやすいのですが、なんとなくキリスト教的ではないような
小さいころ強制的に読まされていた新宗教の教えの言葉にも似ているような変な書だなあ、と思っていました。
 
しかし年齢を重ねた今この書を読むと、
いや、年齢の問題だけではなく、まっとうなキリスト教信者として終わることができなかった自分には、
若いころには感じえなかった「平安」がここに見える。
 
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
と語られた言葉を読み
そのあと11節から語られる言葉を読むと
 
自分には、かつての自分が「そういうものだ」と考えていた「善良なキリスト教徒」に戻らなければ、という気持ちが一切なくなる、というか、吹っ切れるのです。
 
そう言うと、なぜ吹っ切る必要があるのか、という話になるだろうと思いますが、
 
自分の持っている「善良なキリスト教徒」という「囲い」の中に
物理的にも肉体的にも心理的にも、
いや、そのすべてではなくその中のわずか一つでさえも「まったく」手を届かせることができないと気付いたとき、
 
それは、
自分がクリスチャンではなくなること=イエスさまの十字架とかかわりがなくなるということ=絶望
でありましたが
 
しかし、
徹底的に苦しみ、そして絶望の二文字に至ったその瞬間、
 
救われたばかりの中学生時代には全く意味の分からなかったコヘレトの言葉が
ストンと心の中のおさまるべき所にインストールされ
 
「囲い」の中に戻らなければならないという「強迫観念」から解放された・・・
 
 
信仰が「強迫観念」に変わる瞬間を体験せずに一生を過ごせる人は幸いですが
全く望んでもいなかったのにそういう真っ暗などん底に迷い込み、ウン十年にわたりもがき苦しみ続けた自分にこの書は
人間が勝手に作った細かいルールによるがんじがらめの状態から解放、←新約時代の律法ww
そして
神さまご自身の受容と赦しを教えてくれたのです。
 
 
そして、それが自分にとっての「時」が
「満ちた」ということであった、と
今は思っています。
 
 
 
 
イエスさまが語られた「時」とは、まず第一として
前回の記事の最後に書いたような
選ばれた民族が渇望し続けてきた救いの「時」ということでありますが
  
 
 
神さまの御言葉と出会えぬゆえに暗黒のどん底に這いつくばう異邦の者たちが
否、御言葉に出会ったと思っていたからこそ絶望するしかなかった私のような者たちが
人間の手による偽物の教えを離れ
真っ暗な檻から外に飛び出して青空の下に入る
その「時」
その「時が満ちた」。
イエスさまによってハ・シャマイムとハ・アレツが一体となる
「神の国」が近づいた
 
 
 
 
 
 
マルコ1章15節に使われている「時」というギリシャ語は
καιρὸς です。
 Strong's Greek 2540 kairos カイロス
この言葉は86回新約聖書に登場しています。
そしてマルコによる福音書には4回登場。
マルコ 1:15
は満ちた
、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコ10:30 
必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。

マルコ11:13 
そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。

マルコ12:2
季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。 

マルコ13:33 
気をつけて、目をさましていなさい。そのがいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
 
カイロスという言葉は「最適な時期」という意味での「時」をあらわすそうです。
何かを行うにあたり、やり始めるのに最も適した最初に来た、というニュアンスを含む「時」というのがもともとの意味のようです。(最初=先頭=頭=κάραカラ→カイロス)
 
コヘレト3章1節の
「季節」はזְמָן Strong's Hebrew 2165 zeman です。
2165番は、コヘレト3章のほか以下の3か所に登場します。トーラーには無い言葉です。
ネヘミヤ2章6節
時に王妃もかたわらに座していたが、王はわたしに言われた、「あなたの旅の期間はどれほどですか。いつごろ帰ってきますか」。こうして王がわたしをつかわすことをよしとされたので、わたしは期間を定めて王に申しあげた。

エステル9章27節
ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、

エステル9章31節
断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。 
 
また、コヘレト3章1節の「時」という言葉は
עֵת Strong's Hebrew 6256 eth という言葉です。
これは294回登場する言葉でトーラーにもたくさん出てきます。
普通に「時、時間」と訳されることは多い単語ですが、詩篇やコヘレトなどで「適切な時期」という意味で使われたり
預言書で「約束の時」という意味で使われたりします。
 



 
【調べ学習】
新約聖書に登場するカイロス以外の「時」
 
 
日本聖書協会の聖書検索を使って「時」という言葉を検索してみると、口語訳聖書のマルコによる福音書には25回登場していまして、カイロスに該当する箇所を除いて書き出してみると25箇所あり
 
1章23節 ちょうどその時
2章26節 大祭司アビアタルの時
4章10節 イエスがひとりになられた時
4章29節 刈入れ時
4章31節 地にまかれる時には
6章35節 時もおそくなったので
      もう時もおそくなりました。
6章48節    四時ごろ
8章12節    今の時代
                 今の時代
8章38節    時代
9章19節    時代
9章21節    幼い時から
10章20節  小さい時から
11章1節    きた時
11章11節   時もおそくなっていたので
13章30節  この時代
13章32節  その時は
14章35節  この時を
14章37節  ひと時も
14章41節  時がきた
15章25節  九時
15章33節  十二時
                 三時
15章34節  三時
 
 
 
 
 
それぞれの箇所がどういうギリシャ語になっているか調べてみますと
 
1章23節
日本語で「ちょうどその」と訳されているのは、ちょうどというよりはsoonとかat once、immediatelyということで、いわゆる「時」という意味の言葉はありませんでした。
2章26節
「大祭司アビアタルの」 というところにはἐπὶという前置詞があり、英語で言うとat アビアタルのような書き方になっていました。
4章10節 
「イエスがひとりになられた」 これはὅτεで、英語で言うとwhenにあたる言葉がありました。
4章29節 
「刈入れ時」 これはθερισμόςで、一つの単語で刈入れ時という意味です。
4章31節 
「地にまかれる時には」 ここにはὅτανがあり、これも英語で言うとwhenにあたる言葉です。
 
6章35節 
「時もおそくなったので」
「 もう時もおそくなりました。」
ここにはὥραςὥραがあり、両方ともStrong's Greek 5610でὥρα hóraという名詞でした。
特定の明確な時間または季節、 昼間(日の出と日の入りによって区切られる)、一日、昼の 12 分の 1、1 時間、明確な時刻、時点、瞬間、その人にとって適切な、または適切な時期、臨終の時、死の時を指すこともある、ということで、
マルコによる福音書ではほかに
11章11節「 時もおそくなっていたので」
そして上にはありませんが13章11節 「引きわたすとき」
13章32節 「その時は」
14章35節 「この時を」
14章37節 「ひと時も」
14章41節 「時がきた」
15章25節 九時
15章33節 十二時
                 三時
15章34節 三時
 
6章48節 四時ごろ これも時刻を表しているので5610番かと思いきや、全然違う言葉  Strong's Greek 5438 φυλακήでした。刑務所の看守とか、見張りとか、そういう意味があり、例えばマルコ6章27節には「そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、」とあるのですが、この御言葉の中の「獄」にあたる言葉が5438番です。6章48節は直訳すると「夜の見張りの四番目の時」と書かれていて、そういう言葉で時刻を表していたのです。27節の「獄」と何らかのつながりを持たせているのかしら、と一瞬思ったのですが、マタイによる福音書の 14章25節「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。」というところでも 5438番が使われていたり
同じくマタイによる福音書24章43節「このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。」というみ言葉で「盗賊がいつごろ来るか」というのは「盗賊は夜の何時に来るか」というのが直訳で、その「夜の時」をあらわしているのも5438番であることがわかりました。というわけで、夜の時間帯をあらわす専用の言葉がギリシャ語聖書にはあるわけですね。
 
 
8章12節 今の時代
              今の時代
ここは γενεάジェネアというジェネレーションという意味の言葉が用いられています。ジェネアはジェノスという人種、種類、国家、子孫から派生した言葉で、 8章12節は「同時に生きている大勢の人たち」「この世代の人々」というものを表現していて、それを「時代」と表現したようです。8章38節と9章19節の「時代」もジェネアが使われています。
 
9章21節 幼い時から これは Strong's Greek 3812 παιδιόθεν paidiothenという単語で表されていて、この単語は新約聖書の中でこの箇所にしか出てこない単語だそうです。これ一語でfrom childhoodと訳すようです。
ならば10章20節 小さい時からはどういう言葉なのかというと、英語で言うとchildではなくyouthだそうで、youthからという表現となっており「時」ということばはみあたりません。
 
11章1節 きた時 の時という言葉はὅτεで、英語で言うとwhenにあたる言葉でした。
 
 
 
さて、よく聞く話として、
 
ギリシア語では、「時」を表す言葉として καιρός (カイロス)と χρόνος (クロノス)の2つがある。前者は「時刻」を、後者は「時間」を指している。
                      ウィキペディアより
というのがありますが、ここまでのところクロノスが出てきていませんのでBible Hub でクロノスを検索してみることにしました。
 Strong's Greek 5550 χρόνος chronos
 
マルコによる福音書ではどこにクロノスが使われているのかというと以下の二か所です。
 
マルコによる福音書 2:19
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς Μὴ δύνανται οἱ υἱοὶ τοῦ νυμφῶνος ἐν ᾧ ὁ νυμφίος μετ’ αὐτῶν ἐστιν νηστεύειν; ὅσον χρόνον ἔχουσιν τὸν νυμφίον μετ’ αὐτῶν, οὐ δύνανται νηστεύειν.
英語の御言葉を引用し、そこに補足してクロノスを示しますと
New American Standard Bible
And Jesus said to them, "While the bridegroom is with them, the attendants of the bridegroom cannot fast, can they? So long as they have the bridegroom with them, they cannot fast.
So long asのあとに「time」を入れてその「time」がクロノス
 
マルコによる福音書 9:21
そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
καὶ ἐπηρώτησεν τὸν πατέρα αὐτοῦ Πόσος χρόνος ἐστὶν ὡς τοῦτο γέγονεν αὐτῷ; ὁ δὲ εἶπεν Ἐκ παιδιόθεν·
9章21節の日本語からはクロノスに該当するものを選びにくいので
英語の御言葉を引用し、そこに補足してクロノスを示しますと
New American Standard Bibleより
And He asked his father, "How long has this been happening to him?" And he said, "From childhood.
How long のあとに「a time」を入れて、その「a time」がクロノス