「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。マルコによる福音書1章15節(以下引用は断りがないかぎり口語訳です)
「満ちた」という意味に該当すると考えられるヘブライ語の単語は
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא male or mala
ではないか、と私は考えます。
4390番は253回登場する言葉です。
一番初めに現れるのは創造の時。
創世記1章22節
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
創世記1章28節
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
しかし現実の世界は神さまの御言葉からどんどん離れた方向に行っています。
海に網を降ろしても魚は取れず、
地に目を向けてみても、
干上がるイラクの大湿地帯、地元漁師ら「大量脱出」
という6月11日付のニュース
2022年8月22日のAFPでも
干上がる「エデンの園」 イラク・メソポタミア湿地帯 という記事に衝撃的な動画がアップされていました。
「エデンの園」のモデルとなった土地だと、一部では信じられてきた場所のこうした事態。
「満ちる」の真逆の姿に至ってしまったようにすら見える「地」。
もっとも、ヘブライ語の「満ちる」という言葉は、
日本語の「満ちる」という言葉と同じように必ずしも良いことや良い物が「満ちる」というときだけに用いられる言葉ではありません。
創世記6章11節
時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
この箇所にある「満ちた」という言葉も4390番です。
そして、ヘブライ語の מָלֵא 「満ちる」という言葉は
マルコ1章15節の「時は満ちた」のような
「時間を積み重ねてその時を迎える」
というような意味でも使われています。
例えば創世記29章27節
ラケルとレアの件で、ヤコブがラバンから
まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。
と言われているところ、
ここに4390番が使われています。
口語訳聖書だとちょっとわかりにくいような気もしますが
KJVでは
Fulfil her week 彼女の(ための)週を満たす ということで
4390番の存在に気付けるような英訳がされています。
ヘブライ語は自然な日本語に翻訳するのは難しいようで、
出エジプト記7章25節、ここにも4390番が使われているのですが
口語訳聖書ではこう書かれています。
主がナイル川を打たれてのち七日を経た。
新しい聖書協会共同訳聖書でもこう書いてあって
主がナイルを打たれてから、七日がたった。
日本語を読んでいるだけでは4390番が含まれていることに気づけないような気がします。
ヘブライ語聖書の出エジプト記7章25節を引用します。
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
ヘブライ語は日本語と異なり、動詞が先頭に来る言語のようです。
「言語のよう」と言ったのは、私は聖書を読んでいるだけで文法書は見たことがないからですが、ここまで読んだ経験として、いつもいつもそう書いてあるのでそう思っています。
で、「動詞」が先頭に来るということを考えた場合
「主がナイルを打たれてから、七日がたった。」聖書協会共同訳
という日本語の文には二つの動詞「打たれて」と「たった」があり
日本語ではまず「打たれた」という過去の話題を提示して、
そこから七日がたった、と、七日が経った話は後に持ってくるわけですが、
ヘブライ語の御言葉は日本語の御言葉と話題の順序も逆になっています。
つまり「七日がたった」が先に来て、「ナイルを打たれた」のは後にあるということです。
どうしてそんなふうになってしまうのか、
日本語を母語とする我々にはその気分的なものを完全に理解することはできませんが、
我々の言語でも「倒置法」がありますから
「七日が経ったよ、主がナイルを打たれてから」
と語る人がどのような思いであるのかは
なんとなくは、わかるわけで、
おそらく、著者がもっとも言いたいことは、先に書いてある「七日がたった」ということなのだろうと思うわけです。
もう一度ヘブライ語の御言葉を引用します。
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
ヘブライ語は右から読みますので、
この文は文頭にまずוヴァヴがあり
その次にיヨッドがあり
そのつぎに4390番מלאマレがあります。
そしてその言葉のあとに「七」にあたるשבעתシブアトが置かれ
そのあとに「日」という言葉の複数形であろう ימיםヤミムが置かれているわけです。
ヴァヴは
神聖四文字神さまのお名前の3文字目の文字です。
これは一点一画の「一画」にあたる文字で英語ではandということですが、
聖書の神さまの時間は一瞬も途切れない永遠から永遠であるということを表現しているように見える文字です。
そして
ヨッドは
神聖四文字の1文字目の文字です。
一点一画の「一点」に当たる文字です。
小さな小さな文字ですが、
これは神さまの右の手、救いの右の手です。
その二つの大切な文字の次に4390番「満ちる」が置かれ
そこまで述べた後で「七日」と言っているわけです。
つまり、「七日がたった」と書かれているこの箇所には
7という数字の意味を意識することのできるクリスチャンが意識する以上に
完全な「満ちた」が存在している、私にはそう思えるのです。
(読んでみればわかることですが、ヘブライ語聖書は、ヘブライ語に触れることのない異邦人が思っている以上に
聖なる書物である印象を受けます。)
そして「七日がたった」と語ったそのあとに「主がナイルを打たれてから」という部分が続くわけですが
もう一度ヘブライ語聖書の出エジプト記7章25節を引用します。
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
אחרי とはafterのことです
הכות 打った
この「打った」という言葉は創世記4章15節にも全く同じ形で登場する言葉で
「カインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。」
「打ち殺す」という訳がこの言葉に該当しています。
また、申命記25章2節の「むちで打つ」
これも同じ言葉です。なのでそういうニュアンスを含んだ「打った」という意味だと思います。
そしてそのあとに神聖四文字、神さまのお名前があります。
יהוה
お名前のあとには
את היאר׃
אתは超大量にあるのに翻訳できない言葉だとされていますが
これについて考えていることについては以前書きましたのでご覧ください。
これについて考えていることについては以前書きましたのでご覧ください。
そしてהיאר これはstream (of the Nile), stream, canal と英訳されています。
ところで、英語に翻訳された聖書ではここはどう書いてあるのか
Bible Hubに収録されている範囲で調べてみると
New King James Version以外は意訳も含めて「満ちた」感じというか、
4390番を感じさせる訳し方となっています。
King James Bible
And seven days were fulfilled, after that the LORD had smitten the river.
New King James Version
And seven days passed after the LORD had struck the river.
American Standard Version
And seven days were fulfilled, after that Jehovah had smitten the river.
Berean Study Bible
And seven full days passed after the LORD had struck the Nile.
Douay-Rheims Bible
And seven days were fully ended, after that the Lord struck the river.
English Revised Version
And seven days were fulfilled, after that the LORD had smitten the river.
World English Bible
Seven days were fulfilled, after Yahweh had struck the river.
Young's Literal Translation
And seven days are completed after Jehovah's smiting the River,
というところでマルコ1章15節の「満ちた」に戻ります。ギリシャ語の聖書を引用します。
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
ギリシャ語は左から読みます。
καὶ λέγων ヘブライ語のヴァヴとよく似たκαὶが先頭にあり、それに続いて動詞。
「そして」言われた
神さまであるイエスさまは、創世記で神さまがいつもそう記録されていたのと同じように「そして、言われた」
ὅτι Πεπλήρωται (ὅτιはthatの意) 「満ちた」
ὁ καιρὸς 「the time = 時」
出エジプト記7章25節の「満ちた」がそうであったように
マルコ1章15節の「満ちた」も聖なるお方のみこころが完璧にあらわされた「満ちた」という言葉だったに違いありません。
そして、福音書の記者がイエスさまの語られた第一声としてまず「満ちた」と記録しているのは
イエス様ご自身だけではなく記録した人も「満ちた」と考えた、ということなのだろうと思います。
長い長い長い時間を積み重ねついにに到達した、万感胸に迫る、というようなものが
この「満ちた」という言葉から読み取れるような気がします。
マルコによる福音書の「満ちた」そしてマタイによる福音書にあらわされた系図、
本当に本当に長い間待ち焦がれていた人々にとっての「時」がついにやってきた!
そして思いました
私たち異邦人クリスチャンは
永遠に変わることのない神さまの「イスラエルに対する」愛、永遠に変わることのない御契約を絶対に忘れてはならない
ということを。