2023年6月28日水曜日

マルコ1章15節(8)神の国とは

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳)
日本聖書協会の聖書本文検索で「神の国」という言葉を検索すると新約聖書だけにしか存在していないことがわかります。ちなみに「天の国」や「天の御国」「御国」という表現も新約聖書だけにある表現です。
が、もしも聴衆が「神の国」という言葉を知らないのであれば「神の国は近づいた」というメッセージは何の意味もないことになります。

したがって当然のこととして「神の国」という概念は旧約聖書にもある、
というか、概念どころか
聖書(トーラー)の一丁目一番地は分断無きハ・シャマイム(天)とハ・アレツ(地)。
一体のものである天と地が創造されたということであり、
天におられる神さまが地を支配している、そして「人」を置いて管理させることにしたという、そこから始まっているわけです。

そう、創世記の初めに描かれる創造された「天と地」はヴァヴでつながっているのです。天は天であり地は地でありそこには秩序がありそれぞれは別のものでありますがヴァヴという文字で結合している。結婚する男女と似ています。それぞれは別のものであるけれども結合して一体となる。
天と地はヴァヴにより一つのものとなっている。それが創造された当初のものです。
「神さま」がハ・アレツ(地)の王であったのです。

にもかかわらず・・・・な歴史を経て
いよいよ本来の姿に戻るというのが新約で語られるところの「神の国」。

詩編を読むと神の国のイメージがしっかりとつかめます。
(いくつかの箇所を聖書協会共同訳聖書から引用します)

わが王、わが神よ。5編
主こそ王 10編
王権は主にあり主こそ国々を治める方。22編
栄光の王 24編
全地に君臨する偉大な王 47編
まことに神は全地の王 47編


כי יהוה עליון נורא מלך גדול על כל הארץ׃

神聖四文字のお名前を持つ方がいと高き方恐るべき方で偉大な全地の王であると47編には書いてあります。





さて、神の国という言葉は口語訳聖書のマルコによる福音書には14回登場します。
まずは1章15節ですが、次に出てくるのは4章11節で「神の国の奥義」という話題での登場です。
4章11節
そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
 
「奥義」という、分かったようなわからないような言葉とともに登場です。
まずは日本語としてこの熟語をオクギと読むのかオウギと読むのか、そのあたりからいろいろあるわけですが、私は教会で「オクギ」と習いました。
 
オクギという言葉はギリシャ語聖書ではμυστήριον mystērion です。英語ではミステリーと訳されています。
 
で、このオクギという言葉は福音書に限って言うと、この「神の国の奥義」という話題に関する場面でのみ使われている言葉です。
 
マタイ13章11節
そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
ルカ8章10節
そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
マタイとルカでは複数形なのでμυστήρια mystēria という形になっています。
 

マルコ4章11節の次に「神の国」という言葉が登場するのはマルコの4章26節で、そこでは「神の国」についての譬(たとえ)が二つ語られます。

 
マルコによる福音書4章26節~32節
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。
それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、
まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

この二つの譬を一度だけサラッと読んで、「ミステリーだわ~」という感想を持つ人は少ないと思います。なぜそう思うかというと、ここに書かれていることは単なる植物の成長と収穫のストーリーで、特に理解しにくいことは何も書かれていないからです。これを聴いた当時の人もそして現代人の私たちも、おそらく何の疑問も持たずに聞き流すことはできます。

しかし、「立ち止まって」よく考えてみると、いったい何の話をされているのかよくわからなくなる。
まあ、後半の譬においては神の国が大きくなりそうだというイメージくらいはつかめるかもしれませんが。

本当は、何もわかっていないのです。
種(たね)とはなにか、なぜ種(たね)ができるのか、
なぜ種をまけばいいというシステムになっているのか、
そして夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くのはなぜなのか。

もちろん、私たち人間はそんなことを一切理解していなくても、暮らし続けられるわけです。
「地」がおのずから実を結ばせる、本当にそうです。現代の農業では土を酷使しすぎていろいろなことをしなければならないかもしれませんが、そもそも「土」というものがなぜ大地に存在しているのか等々
全ては神さまの「創造」にまでさかのぼるわけですよね。
そして人間はそんなことを全く知らなかったとしても
神さまが作られた天と地と、そこにある神さまがつくられた諸々のルールとシステムのなかで生かされている。

そして、トーラーを持つ民であれば、「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」という種まきから収穫までその一連の流れを聴けば「定められた祭り」を思い起こせるはずです。小麦の刈り入れを祝う「シャブオット」
また、ネビーイームに親しんでいるならば「収穫」という言葉を聞けば「ああ」となるはずだけれども
しかし、だからなんなのか、
そんなことを考えることもなく、何の疑問も持たず「そういうもんだ」と繰り返してきたのかもしれないわけです。

そして主は、創造の初めに、やがて訪れるであろうこの瞬間のためにデザインされたのではないかとすら思われる「小さな小さなからし種」を示し、弟子たちの心に「希望」を与えてくださるわけです。
どんな種よりも小さい種が鳥の住むほどに成長するというミラクル。
小さい種なのに、という不思議さとそれを生長させる大地の力とはなんなのか、
そして、「小さい種」をお用いになる神さま、
神さまが命の息を吹き込まれ驚くべき成長を遂げる奇跡!





 
 
二つの譬が語られた後、「神の国」という言葉は9章まで出てきません。
で、9章では二か所「神の国」という言葉があり、
 
 
9章1節
また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
9章47節
もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
 
まず1節ではイエスさまが「また、彼らに言われた」ということで、8章の続きとして「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と言っておられるので、
この言葉だけをもとに、また、ここでいう「死」を肉体の死であるととらえた上で「神の国」について考えるなら
私たちが暮らしているこの時代について言えば
「神の国」はすでに力を持って来た、ということになります。
 
47節では「神の国」に入ることの価値というか、神の国に入るということに徹底的にこだわって生きるべきというか、また、「片目が罪を犯させるなら、それを抜き出せ」というほどの聖さ、厳しさが語られ、
次に登場する10章では「神の国」入るための資格と「神の国」を構成する者について語っておられます。
 
 
 
10章14節
それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
10章15節
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
10章23節
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
10章24節
弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
10章25節
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 
「神の国」とは
幼な子のような者の国であり
幼な子のように神の国を受け入れなければ入れない。
財産のある者が神の国に入るのはむずかしく、ラクダが針の穴を通る方が簡単である。
 
そして、12章28節からの律法学者との対話の中で
ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
イエスさまから「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者が述べたことは、
『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 
なので、彼のこの理解は大切なのだろうと思いますが、
しかしそれは「あなたは神の国から遠くない」ということだけなのであって、神の国に入れることと同義ではないという事になります。
 
そして、次に「神の国」という言葉が登場するのは最後の晩餐の場面で、
14章25節
あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
 
9章1節の言葉を併せて考えると
また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
「神の国」は現代ではすでに到来しているわけですから
神の国で新しく飲むその日に至っていないということになります。
そして、神の国で新しく飲むその日とおっしゃっているので、
その日にイエスさまは肉体を持っておられるということになります。
 
 
そして、マルコによる福音書に登場する「神の国」という言葉の最後は15章43節です。
 
アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。
 
 
神の国を待ち望んでいるという人の登場です。
つまりこの段階で神の国が到来していなかった。
 
 
 
ではもう一度9章1節のこの部分に戻りましょう。
 
「神の国が力をもって来るのを見る」
 
神の国が到来したということを弟子たちが自覚した瞬間がいつどのようなときであるか、
 
それは間違いなくヨエル書2章28節の成就を見た瞬間。
 
五旬節です。
שבועות シャブオット。小麦の刈り入れを祝うシャブオット。
律法が与えられた記念でもあるその日。
神さまの御言葉を受け取り御言葉を聴く者となった。
 
そしてシャブオット(五旬節)には
聖霊さまが降臨され
世界中の人々が
神さまの御言葉を聴く事ができるようになった!
 
神さまの御言葉を聴いて生きる聴いて行う人々=神さまの御言葉によって治められている国民
 
人間が、神の国の国民となることのできる世界が到来した
すなわち、「神の国」が力をもって到来したのをお弟子さんたちは見ることができたのです。