「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳)
前回の「マルコ1章15節(2)時は満ちた」という記事の最後に
時が満ちるという表現はヘブライ語聖書にもあります。
出産の時が満ちると、胎内には、果たして双子がいた。創世記25章24節(以下聖書協会共同訳)
「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。イザヤ書40章2節
主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。エレミヤ書29章10節
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא (maw-lay')という言葉が使われています。
ということを書きました。
よく言われることとして、イエスさまは「アラム語」を話されていたというのがあります。
イエスが使った言語(ウィキペディア)
実際にイエスさまが何語を話されていたのかわかりませんが、
もしもイエスさまが日本に来られたら日本の人とコミュニケーションをとる必要から日本語を話されたのではないか、と思っています。
使徒行伝2章4節には(以下口語訳聖書から引用します)
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
という記録がありますが
ここに記されているいろいろな他国の言葉がどんな言葉であったかと言えば、使徒行伝2章5節6節に記されているように、
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
エルサレムに住んでいたあらゆる国々出身の方々が理解できる言葉であったわけです。
言葉というものは、重要なコミュニケーションの道具です。
二人以上の人間同士が情報や感情を伝達しあうためにはいろいろな方法がありますが、
言葉というものによる理解、情報共有は最も効果的であり、きめ細かな意思疎通ができます。
聖書の神さまは「言葉(文字)」によって人間とコミュニケーションを取ろうとされるお方です。
神さまは、石の板そして律法、預言者を通し、私たち一人一人が理解できる「言葉」によってご自身のお考えを伝え続けてくださいます。
神さまは、石の板そして律法、預言者を通し、私たち一人一人が理解できる「言葉」によってご自身のお考えを伝え続けてくださいます。
そして、ついには御子イエスを私たちに与えてくださいました。
先日書いた(1)の記事の中で私は創世記とマルコによる福音書の表現の類似性について述べましたが、その事実はとりもなおさずこのマルコによる福音書の著者がトーラーに親しみトーラーを信ずる人であった証しであり、そして、永遠の昔から一瞬たりとも途切れることなく続いてきた創造主のあわれみ、イスラエルに向けられたあたたかいまなざしをイエシュア(ヘブライ語ではイエスをイエシュアという)の中に外に「見たのだ」、という証しなのだと思います。
それは以前書きましたがイザヤ書8章20節のתְּעוּדָה 英語ではtestimony, attestationと訳される言葉であるתְּעוּדָהを思い起こさせてくれます
教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節 聖書協会共同訳
教えと証し、トーラーとテウダー、
(1)に書きましたが、
神さまは語るのです。人となられた神さまは語る。
トーラーの神さまは語る。人となられたトーラー!
そして、人となられたトーラーであると「見て」気付いた者たちは証言をする。
証言、証し、テウダー!
マルコによる福音書もテウダー、新約聖書はテウダー、私たちの証言、証しと言われるものもイザヤの語るテウダー
絶え間なく切れ目なく語り続けられる証し、
トーラーとテウダー この言葉に従って語るところに「夜明け」がやってくる!
ところで
תּוֹרָהトーラーという語を日本語の聖書は「律法」と訳しています。
それはトーラーという言葉をギリシャ語にするときνόμοςノモスと訳したからです。
νόμοςノモスは法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範をあらわす言葉だったため、「律法」という日本語が充てられたわけですが
この翻訳に従うと「人となられたトーラー」であるイエスは「人となられた律法」であるイエス、ということになります。
何かおかしな印象を受けるのは、
クリスチャンたちが「律法」という言葉によいイメージを持っていないからです。
クリスチャンたちが「律法」という言葉によいイメージを持っていないからです。
「人をがんじがらめに縛り付ける律法は終わったんだ!」と確信を持って語っているクリスチャンが多いからです。
律法は本当に終わったのでしょうか?
まずは、時が満ちて来られたイエスさま=神さまご自身 の言葉を引用してみます。
マタイ5章18節
ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν, ἕως ἂν παρέλθῃ ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ, ἰῶτα ἓν ἢ μία κεραία οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου, ἕως ἂν πάντα γένηται.
ἀμὴν amen
γὰρ for
λέγω I say
ὑμῖν, to you
ἕως until
ἂν 通常は翻訳不可能、一般的に推測、願望、可能性、または不確実性を意味
παρέλθῃ shall pass away
ὁ the
οὐρανὸς heaven
καὶ and
ἡ the
γῆ, earth
ἰῶτα iota(イオタ=ギリシャ語の文字で最も小さい)
ἓν one
ἢ or
μία one
κεραία a little horn(小さな「角」、つまり「アルファベットの文字にある、他の同様の文字と区別するための『小さなフック、アポストロフィ』)
οὐ no
μὴ not
παρέλθῃ pass away
ἀπὸ from
τοῦ the
νόμου, law
ἕως until
ἂν 通常は翻訳不可能、一般的に推測、願望、可能性、または不確実性を意味
πάντα all, the whole, every kind of
γένηται. to come into being, to happen, to become, should happen
「まことにあなたがたに告げます 天と地が滅びるまで すべてのことが起こるまでは 一点も一角もけっしてノモスからなくならない」
そもそも、私たちはなぜイエスさまを信じないと「罪」に定められるのでしょうか。
雰囲気とか成り行きとか伝統的にそういうものだから、ということで罪に定められるわけではありません。
個人の問題ではなく原罪ゆえだ、ということにしたとしても何が原罪なのか、と言えば
蛇の誘惑に負けて「神さまの言葉に背いた」、というところにあるわけです。
誘惑されようがされまいがとにかく人が「神さまの教えに従わなかったこと」これが罪です。
ルールに背いた事が罪なのです。罪刑法定主義と考え方は同じです。「法律なくして刑罰なし」。法律があるからそれに違反すれば罪に定められ罰もある。
もしもノモスがすでに終了したというのであれば、
私たちはそもそも神さまに従う必要は無いことになります。
石の板に書かれていた十戒の第一戒も無いのですから
「わたしはある」と語られた神さま以外に神さまがいてもよいということになるからです。
それだけは例外だ、とか、道徳律は現代法にも通ずるから例外だ、とするクリスチャンがいますが
人間が神さまの決められたルールを選んだり捨てたりすることはできません。
もちろん、イスラエルと異邦人は立場が違いますから、
神さまがイスラエルに与えたルールはそのまま私たちには適用されません。だから弟子たちはこう言いました。
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」使徒言行録15:28-29 新共同訳
姦淫を犯した女がイエスさまのところに連れて来られた時、イエスさまはこうおっしゃいました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
イエスさまはここでも律法の存在を否定してはいません。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
と言っておられることから「姦淫は石打ち刑である」という規則の存在を認めておられるということがわかります。
ただ、イエスさまはこの法に定められた刑を執行するにあたり、条件を付けました。「あなたがたのうちで罪のない者が」という条件です。
神さまが作られ人間にお与えになった律法をイエスさまがご自身の御言葉によって条件を付け「変更」された
この事実は、イエスさまが神さまご自身であることを示されたのと同時に、人が人を裁くという行為の重さ、そして、人の命を奪うことを許されるのは人に命を与えることのできる神さまただおひとりなのだという律法の根底にある「神のみこころ」をはっきりと示されたのです。
そして人々が一人去り二人去り
そこにイエスさまと姦淫の現場でとらえられた女性だけが残った時、
律法は厳然とそこにあり
律法に違反した者が
裁く神の前に立っていた
はずでありました。
しかし、女性の前にいたのは
神ではあるが「救い主」であるイエスさまでありました。
そして神のひとり子であるメシアは、否、神ご自身はこう語られたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
つまり、
律法はあるのです。
律法があるからそれに違反すれば罪である。今後も罪を犯す可能性もあるわけです。
イエスさまがおっしゃったのは「あなたを罪に定めない」ということであって、「あなたには罪がない」ということではないのです。
神さまは律法であらかじめ示された通りに私たちに罪があれば裁き、刑罰を与えられるというところに全く変更はないのです。
ただ、大きく大きく変更されたのは、御子イエスの十字架によって、神さまは罪を赦してくださるということなのです。
罪があるからこそ赦す必要があるのです。律法がないなら罪はないのです。制限速度が定められていないなら、速度超過の反則がありえないのと同じです。
罪がないなら悔い改める必要はないし罪がないのなら福音はいらないのです。
これも以前書いた事ですが
イエスさまが語られた「律法の一点一画」というのは
ギリシャ語聖書ではイオタとケライアとなっていますが
ヘブライ文字で考えると
一点に当たるのはיヨッド
一画に当たるのはוヴァヴのようです。
この二つの文字は神聖四文字のうちの二文字です。
これらが無くなってしまうと神聖四文字に残るのはהヘーが二つ。
創造主であられる神さま、あってあられるお方の存在が消えてしまうということになります。
トーラー(モーセ五書)を素直に読めばわかることですが、トーラーの中に含まれるルールとは「屋上には手すりをつけろ」とか感染する皮膚病の判別法とか治ったかどうか見極める方法とか、
そこには人間が個人としても集団としても健康にそして上手に生活していくためのルールです。
そしてこれはトーラーをギリシア語のノモス=法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範と訳してしまったがゆえに見落とされていることですが
神さまの創造とは「混沌」にルールを与えたことにほかなりません。(創世記もトーラーです。)
だとすると、日本語で言うところの「律法」を廃するとか終了するというのは、
言っている方々としてはそんなつもりはないかもしれませんが、
自然界のすべてのルール、法則を廃すると言っているのと同じことになります。
まあ、だからこそ、平気で原子核をいじったり、DNAをいじったりできるのでしょうけれども。
さて、
新約聖書はギリシャ語で書かれている、のでありますが、
聖書ヘブライ語を意識して、可能ならば聖書ヘブライ語に置き換えて読んでみることで、それまで見えなかったなにかが見えてくるような気がします。
イエスさまがたとえアラム語で日常生活を送られていたのだとしても、
イエスさまが読んでおられたトーラーやネイビームは聖なる文字で書かれていたはずですし
トーラーとノモスという言葉の間に見えた差異のようなものがほかにもあったら大変です。
危険な時代です。
注意深く読んでいきたいものです。