2022年11月24日木曜日

「祝福」という言葉について(7)ギリシャ語の単語とヘブライ語の単語の比較

日本語の新約聖書で「祝福」と翻訳されている言葉がひとつわかりました。
Strong's Greek 2127 εὐλογέω eulogeó (動詞) という言葉です。
Englishman's Concordanceによれば、この言葉は聖書中に43回登場しています。
どこにどういう翻訳で登場するのか、口語訳聖書から引用させていただきたいと思います。
 
マタイ5:44 ←うーむ・・・いきなり問題発生です。下の方であらためて書きますが、日本語の聖書には2127番に該当する言葉がありません!ギリシャ語聖書とKJV、INTには2127番の言葉があるようですが。
前に聖書の読み比べということで使徒18章21節のところの事を書きましたが、こういうことってよくあるのでしょうか?
 
マタイ14:19  そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。
 
 
マタイ21:9 「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
詩篇118篇25,26節からの引用文
 
マタイ23:39 『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』 
詩篇118篇26節からの引用文
 
 
 
マタイ25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
 
 
マタイ26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。  
 
マルコ6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
 
マルコ8:7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
 
マルコ10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された
 
マルコ11:9 「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ
マルコ11:10  今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。 
このマルコ9節10節も詩篇118篇25,26節からの引用
 
マルコ14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
 
ルカ1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています
 
ルカ1:64  すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた
 
ルカ2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
 
ルカ2:34  するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―― 
 
ルカ6:28  のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
 
ルカ9:16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
 
ルカ13:35  見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、
『主の名によってきたるものに、祝福あれ
とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。
詩篇118篇26節からの引用
 
ルカ19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。 
 
ルカ24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 
 
ルカ24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された
 
ルカ24:51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕
底本のゆえにかっこが付いている。
 
ルカ24:53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた
 
ヨハネ12:13  「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
詩篇118篇25,26節からの引用。福音書、祝福、旧約からの引用と言えば詩篇118篇26節ということが分かった。
この箇所は新共同訳では12章12節
詩篇118篇26節はברךバラクがつかわれている。
 
使徒3:26 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである
 
ローマ12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい祝福して、のろってはならない。 
 
1 コリント4:12 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 
 
1 コリント10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。 
祝福の杯の「祝福」は2129番εὐλογία eulogia (名詞)
 
 
1 コリント14:16 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。  
 
ガラテヤ3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。
ちなみにこのみ言葉の前の節であるガラテヤ3章8節の
「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」
の「祝福」は
Strong's Greek1757 ἐνευλογέω eneulogeóで、Definitionはto confer a benefit on。 
ガラテヤ3章9節のほかにもう一か所、使徒3章25節だけに使用されている。
あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。
この箇所は創世記22章18節と26章4節の引用で、神さまがアブラハムを祝福される箇所。
創世記では両方ともברךバラクがつかわれていて、両方ともוְהִתְבָּרֲכ֣וּ となっている。
 
詩篇118篇26節も踏まえると
Strong's Greek 2127 εὐλογέω eulogeó (動詞)
Strong's Greek 1757 ἐνευλογέω eneulogeó (動詞)
この二つのギリシャ語は両方ともヘブライ語ではברךバラクと同義ということになる。
1757番は2127番にenが付いた形なので、2127番eulogéō  "bless"という意味を強めるということらしい。
Strong's ConcordanceのDefinitionを見ると
2127番はto speak well of, praise、1757番は上の方に書いた通りto confer a benefit onで to blessということで
だとすると、
たたえる、賛美する=praiseという行為はベネフィットを与える行為=to blessよりも弱いということだろうか。
「たたえる」とは言葉や口先の事、相手に益を与えるのは与える側としたら身を切るということ、
しかし、両方とも同じ心持ちであることは確かですねえ。
 
 
 
エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し
エペソ1章3節は3種類の「祝福」という言葉が含まれています。ペールピンクでマークしているのがここまでずっと話題にしていた2127番の「祝福する」という言葉です。
そして、「もろもろの祝福」というところの「祝福」は名詞なので2029番。
さらに、ここに来て初めて登場するのが「ほむべきかな」というところに使われている言葉
Strong's Greek 2128 εὐλογητός eulogétos
eulogētósは、父なる神とキリスト (子なる神) についてのみ使用される言葉のようです。
神さまこそが称賛に値するということを接尾辞 (- tos ) が示している?
 
 
ヘブル6:14  「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。
この箇所は日本語では祝福という言葉が一度書かれているだけなのですが、
ギリシャ語ではεὐλογῶν εὐλογήσωという具合に2127番が繰り返されています。
 
 
ヘブル7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し
 
ヘブル7:6 ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。 
 
ヘブル7:7 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。
 
ヘブル11:20 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した
 
ヘブル11:21 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
 
ヤコブ3:9 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
 
1 ペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
一つめの「祝福」が2127番=動詞 で、後に出てくる「祝福」は2129番=名詞
 
 
 
と、ここまでひたすら2127番の言葉を追ってきて
 
「祝福」という言葉のおおもとにあるもの=心の中にあるもの、根底を流れるもの は一つだが
程度の違いや現れ方がいろいろあり、
しかし、日本語にはそれをあらわす単語がないので
一つの場面において適切だと考えられた「祝福する」もしくは「祝福」という言葉を充当したが、
祝福という日本語は「結婚を祝福します」というような「おめでとう」的な意味で使うことが多くあるため、
別の場面において、
例えば「神さまを祝福する」と言ってしまうと「神さまおめでとう!」って何だ?ということになってしまうので、
そこには別の訳語「ほめたたえる」「賛美する」というという言葉を充てたのだ
 
と、ただそれだけのことが確認できた、というような気がします。
と同時に、聖書を持たない民の言語に聖書を翻訳するということの苦労は並大抵ではないということを改めて知ることができたような気もします。
翻訳に取り組んでおられる先生方に「御祝福」をお祈りいたします。
 
ひたすら「祝福」という言葉を追い続けて、2127番については上に書いたような結論でありますが、
これまで考えてきたいろいろな仮説について、
どれもこれも瞬時に崩れていきはしましたが、
しかし、ברךバラクという言葉を持たない民としてברךバラクをどう定義し理解するのか考え続けること、探し続けることは
トーラーを持たない異邦人である自分がいかにしてトーラーを自分のことばとしていくのかという旅のようなものなのかもしれないと思えました。
ドグマではなくロゴス。
 
「祝福」という言葉を追い続けて、「祝福」という言葉を発するときの意識、頭の中に思い浮かぶものはものすご~く深く、ものすご~く細かくなった気がいたします。そして言葉を発したことに伴う責任として、自分が今後何をどう行なうことがよいことなのか、そんなことも考えたりして。
 
そうか、もしかしたらそうなることもברךバラクなのかもしれない。
アバに求めるברであり、そしてרךとなる。
 
 
 
さて、書き残したマタイ5章44節の件です。
またギリシャ語聖書の言葉が二種類あったのです。
 
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 5:44 Greek NT: Westcott and Hort 1881
Ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν, ἀγαπᾶτε τοὺς ἐχθροὺς ὑμῶν καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν διωκόντων ὑμᾶς·
 
 
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 5:44 Greek NT: RP Byzantine Majority Text 2005
ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν, Ἀγαπᾶτε τοὺς ἐχθροὺς ὑμῶν, εὐλογεῖτε τοὺς καταρωμένους ὑμᾶς, καλῶς ποιεῖτε τοῖς μισοῦσιν ὑμᾶς, καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν ἐπηρεαζόντων ὑμᾶς, καὶ διωκόντων ὑμᾶς·
 
 
短いやつと長いやつ。
水色のマーカーで塗ったところが短い方にはない。
で、水色のマーカーで塗ったところの初めに来ている単語εὐλογεῖτεが2127番です。
 
εὐλογεῖτε祝福しなさい τοὺς καταρωμένους ὑμᾶς あなたを呪うものを
καλῶς 正しいこと、良いこと、賞賛されることを ποιεῖτε行いなさい τοῖς μισοῦσιν ὑμᾶς あなたを憎むものに
ἐπηρεαζόντων ὑμᾶς,  あなたを侮辱するもの
 
 
なので、口語訳聖書の5章44節
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
と合体させてみますとこんな感じになりますか?
 
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し
祝福しなさいあなたを呪うものを。
正しい良いことを行いなさいあなたを憎むものに。
そして祈れあなたを侮辱するものと迫害する者のために。
 
 
 
 
前回の使徒18章21節のところもそうだったんですが、ウェストコット・ホートの聖書が短くなっているんですよね。
一生懸命やっていい仕事をしてくださったのだとは思うのですが
なんかアレなので(アレって何だ?)
ちょいとアレなので、検索してみたのです、そうしたらなんかヤバいうわさがあり
 
 
ただまあ、うわさはうわさだし、
私はなんだかんだずーっとこの方々の聖書を読んできたわけで
 
でもたしかに気持ち悪い感じもしないわけでもなく
 
 
 
ただ、確かなことは一つあって
 
 
教える立場の者の責任ってのは重いって聖書は言っていますから
 
わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。ヤコブ3章1節
もしもうわさが本当なら
 
それはそれなりの責任を取らされるでしょう神さまから。
 
 
 
 
 
(いつかどこかに「祝福」シリーズはつづく・・・ww いったん終わります。)

2022年11月23日水曜日

「祝福」という言葉について(6)マリヤの賛歌の「主をあがめる」はヘブライ語の「祝福」とは異なっていた

マリヤの賛歌のところにでてくる「主をあがめる」という心持ちが「祝福」という思いではないか、というようなことを前回書いたのですが、
ルカによる福音書1章46節の主をあがめるというところに使われているギリシャ語は
 Strong's Greek 3170 μεγαλύνω megalunó 動詞です。
でこの言葉は新約聖書に8回しか使われていません。
具体的にはこのルカ1章46節のほかに
前回も引用したマタイ23章5節 衣服の房を「長くしたりする」
使徒5章13節 民衆は彼らを「称賛していた」
使徒10章46節 神を「賛美している」のを
使徒19章17節 主イエスの御名は「大いにあがめられる」ようになった
二コリント10章15節 ますます「増大する」
ピリピ1章20節 キリストが「あがめられる」ように
 
というわけで、「祝福」と訳されている箇所は一か所もなく
というか、Strong's Greek 3170 μεγαλύνω megalunó の語源は
Strong's Greek 3173 μέγας megas であり
意味はlarge, great であって、直情的というか、自分を小さくして相手を大きくするような、「つつましい感じ」は無い印象を受けました。(英語の greatに対する偏見かもしれませんが)
 
例えばマタイ2章10節
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
 
「非常な」というところがμέγας megas です。
そして、完全にこれは祝福とは違う、バラクではないぞ、と断定させてくれるのは
マタイ4章16節。
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
「大いなる」というところが該当箇所ですが、ここはイザヤ書9章2節の引用ですから、その箇所のヘブライ語を調べればこのギリシャ語がバラクとイコールであるか否かわかるわけですが、ここは
Strong's Hebrew 1419 גדול gadol というヘブライ語がつかわれています。
というわけで、「大きい」のです、ラクダのように(笑)
というわけで、μεγαλύνω megalunó も μέγας megasとおなじように、物理的な大きさに圧倒される感じ、ということでしょうか。
 
 
そんなわけで、
次回、日本語の新約聖書で「祝福」と翻訳されている言葉を一つ探し、
次にそれがギリシャ語でどういう言葉になっているかをBIBLE HUBで検索し、
さらに、そのギリシャ語がほかにどんな箇所で使われているのか調べようと思います。

2022年11月20日日曜日

「祝福」という言葉について(5)「たたえる」

聖書にある「祝福」という言葉について考え続けております。
考え続けておりますったって、要は私が、年数ばっかり一丁前にもかかわらず、教会から落ちこぼれてしまった孤羊ゆえの無知だったからかもしれない、という気もしてきましたが。

さて、本日は(5)ということになりまして、
以前の話を自分でも忘れてきましたので
まずはここまでどういう話をしてきたか、ということをまとめます。


(1)では、

ユダヤ教徒は人間が神さまを「祝福」するらしいがキリスト教徒(自分)はしたことがないし滅相もない気がする。

ということを書きました。

(2)では、

ヘブライ文字の意味を考えると、「祝福」という言葉には「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスがある気がした。

ということを書きました。

(3)では、

(2)を受けて、マタイ6章33節Seek ye first the kingdom of Godを思い出した話

を書きました。

そして(4)では、

創世記で「祝福」という言葉を調べたら、祝福の対象はほとんどが「人間と動物」だったが「もの」という場合もあること、そして、神さまが第七日を祝福している事実から、祝福には「1番のものとする」という意味はないような気がする。という話、さらには、百科事典には「祝福」という言葉の意味は「人から神への賛美と同時に,神から人への恵み」とあり、そもそも(1)で抱いた自分の疑問が「常識知らず」だったようだ

という話を書きました。


で、本日は祝福という言葉が「たたえる」という意味を持つということについて調べたことを書きます。

Strong's  Hebrew 1288 בָרַךְ
https://biblehub.com/hebrew/1288.htm

バラクという単語が祝福するという意味のヘブライ語です。

あ、バラクバラクと言っていると人名のバラクを思い出す方がいると思いますが、人名のバラクは、民数記22章2節とヨシュア記24章9節、ミカ書6章5節のバラクはבלקという綴り、士師記4章6節のバラクはברק
祝福するという意味のברךとは全く異なるものです。

そうなんですよ、だからカタカナで書かない方がいいんですよね、ヘブライ語は。
いや、ヘブライ語と限らず英語もそうですね。エルの音とアールの音をラ行で書いてしまいがちですがエルとアールでは全く違うものになっちゃいますよね、ライスとかww。
ただ、カタカナでないと読みにくいしタイピングもちょこっと面倒なのでバラクと書いてしまっております。

で、祝福するという意味のバラクはEnglishman's Concordanceで330回カウントされています。


今日はまず、創世記の中でバラクがつかわれている箇所の翻訳がどうなっているのか確認してみました。

バラクという語が含まれている創世記の箇所は以下の通りでした。

そして、ペールブルーペールイエローでマークした箇所の日本語聖書には祝福以外の訳が充てられていました。
マークの色の違いについては下の方に書きます。
マークしていないものはすべて「祝福」という語が充てられています。
(2回)とか(3回)と書いてあるところは、一つの節にその回数バラクという単語が入っていた、という意味です。

(ボケ孤羊な今日この頃ゆえ、落ちがあるかもしれませんので、この件について正確に知りたい方は、上でリンクしたBIBLE HUBのサイトをご訪問いただき、是非ご自身の聖書でチェックしてみてください)

創世記

1章 22節、28節、

2章 3節、

5章 2節、

9章 1節、26節

12章 2節、3節(3回)、

14章 19節(2回)、20節

17章 16節、20節、

18章 18節、

22章 17節(2回)、18節、

24章 1節、11節27節、31節、35節、48節、60節、

25章 11節、

26章 3節、4節、12節、24節、29節、

27章 4節、7節、10節、19節、23節、25節、27節(2回)、29節(2回)、30節、31節、33節(2回)、34節、38節、41節、

28章 1節、3節、6節(2回)、14節、

30章 27節、30節、

31章 55節、

32章 26節、29節、

35章 9節、

39章 5節、

47章 7節、10節、

48章 3節、9節、15節、16節、20節(2回)、

49章 25節、28節(2回)、

マークの色の説明
ペールブルーでマークしているところは
「神さまがたたえられますように」
と訳されていたところです。
ペールイエローでマークしているところは
ラクダを休ませている
=ラクダが膝をついている と訳されています


ちなみに、創世記で「祝福」と訳されている単語はほかにもあります。

Strong's Hebrew 1293 בְּרָכָה

ベラカ です。

この単語はバラク(動詞)から派生した単語(名詞)のようです。
この言葉が初めて現れるのは創世記12章2節で、アブラムの召命のところです。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

「あなたを祝福し」の「祝福し」が1288バラクの方で、「祝福の基」の「祝福」が1293のベラカです。
その次に出てくるのはヤコブの祝福のあたりで、「祝福」が物の授受のような感じで語られているあのあたりです。

Englishman's Concordanceでは1293ベラカは69回カウントされています。
創世記では以下の箇所に登場します。

12章2節、27章12節、27章35節、27章36節(2回)、27章41節、28章4節、33章11節、39章5節、49章25節(3回)、49章26節、49章28節

33章11節では「おくりもの」というような訳が充てられていました。


さて、動詞である1288バラクの話に戻ります。

創世記以降の各書でも創世記と同様に、神さまをたたえるという翻訳が充てられていた箇所がありました。

申命記33章20節、ヨシュア記22章33節、士師記5章2節、9節、ルツ記4章14節、サムエル記上25章32節、39節など

そして、「たたえる」という翻訳になっていたのは

神さまに対する場合ではなく、人に対しても、「祝福」という言葉ではなく「たたえる」という言葉が選ばれ充てられている箇所もありました。例えば列王記上1章47節(新共同訳)


実は、「たたえる」という翻訳の部分を自分の聖書を開いてひたすらチェックするうちに、ルカによる福音書のひとつのみ言葉が心に浮かんできました。それは、以前ブログで書いた事がありましたが「マリアの賛歌」の中にある言葉「わたしの魂は主をあがめ」というものです。


記事から引用します。

イエスさまのお母さんであるマリアが神さまをほめたたえる「マリアの賛歌(マグニフィカート)」ルカ1章46節。マリアの最初の言葉「わたしの魂は主をあがめ」というのはラテン語で、マグニフィカティオ=大きくする
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
賛美とは本来そういうものなのですね。
賛美とは
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
ということ。

マリアの賛歌におけるマリアの言葉「マグニフィカティオ」こそが「祝福」と訳されるバラク本来の意味なのでは、と思ったのです。ヘブライ語の「祝福」という言葉バラクが「ひざまずく」という意味を同時に持っているということは(4)を書きながら気付かせられたわけですが、
BIBLE HUBのバラクのページみておりましたら
…なんでここでも見落としてるんでしょうか私。
Definitionとして to kneel, blessって書いてありました。
そして、上の方で書きましたが、ラクダを休ませているところにもバラクがあって、え??と思ったのですが
そう、バラクはひざまずくという意味があるからラクダが休むところにも使われるわけですね。
なにしろ、Definitionとして to kneelがblessよりも先にある、わけですから
まずはひざまずく、その意味があるわけです。
ひざまずいて自分を小さくすること、それがバラク、ひざまずき身をかがめて自分を小さくすることで
相手を高める。それが祝福の本来の意味なのかも、と思ったのです。



つまり、
「祝福する」と言うとき、
意識として、相手と対等に向かい合って「あなたは私の一番よ!」と言うような軽いものではない感じがしますね。
自分は相手の前にひざまずき、小さくなり、自分は小さく小さくなって相手を大きく大きくする。

ルカ1章46節の「あがめる」はStrong's Greek 3170 μεγαλύνω megalunó だそうです。





面白いのは、マリアの賛歌の前にこの言葉が使われてるのはマタイ23章5節
そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、 
衣のふさを「大きくし」というところだそうです






そして



「祝福」とは、
それをいただいた者は
小さな小さなものなのに大きく高くされるのですよね。すばらしい!


神さまが人間を祝福してくださるというのは
神さまが小さくなられるということですか?


あ、また昔書いた記事を思い出しました

主は寛容なお方 3「子どものように、自分を低くする者」とは
https://kyudochu.blogspot.com/2016/06/blog-post_36.html

この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
マタイによる福音書18章4節






2022年11月18日金曜日

「祝福」という言葉について(4)創世記

今日は、創世記のどういう場面「祝福」という言葉が使われているか調べてみました。
その結果、
祝福という言葉に「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスがあると考えると理解しやすいかと思います。
と前回の記事までで言っていた内容を考え直さないといけない状況になりました。


今日は、まず、「日本語の聖書」さまのサイトの口語訳聖書で創世記を開き、
ブラウザのページ内検索で「祝福」という熟語を調べまして、
77回あるということがわかりました。
で、次に、一つ一つ読み、だれが何を祝福しているのかということを調べました。

まず、天地創造の場面では、神さまがおつくりになられたものを祝福しておられるわけですが、
神さまは造られたすべてのものを祝福されたわけではなく、「動物と人間」に限られていました。
神さまは動物と人間を祝福され、生めよ増えよ満ちよという言葉と
そのほか、人間についてはその「役割」を語られ、
また、5章の人類創造の場面においては、祝福の後にアダムと「名前」をつけられたことが書かれています。
1:21神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 1:22神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
 5:2彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。

祝福の対象は動物と人間、ノアもアブラムもイサクもヤコブもヨセフも・・・
9:1神はノアとその子らとを祝福して・・・
12:2わたしはあなた(アブラム)を大いなる国民とし、あなたを祝福し・・・

と思ったわけですが、

それは間違いで、
2:2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 2:3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
これは第七日を祝福されているのです。

とすると祝福が一番にすると同義ではないということになります。第七日ですから!
第七日を一番にしたら第七でなくなってしまう。
そして、第七日は生んだり増えたりするわけないのでそんなことをお命じになるわけではなく
神さまは第七日を「祝福」し「聖別」されたわけです。
第七日を「聖」ということになさった、「聖」として分けられた、ということですよね。

この第七日の「祝福」を踏まえ、人間と動物のことも考えると、
祝福とは順位を決めるということではなく、
神さまが「これは特別なもの」と決定されるということでしょうか。
神さまが「~」を祝福する(される)、と表現するときには
神さまご自身がその「~」を数あるいろいろなものの中から選び、いろいろなものとごちゃ混ぜにしないで特別なものとして分けるというような意味で、
人間が「~」を祝福する、という場合には、神さまの代理として神さまがなさるようなことを執行すること?



そうそう、忘れないうちに書いておこうと思いますが
上で私は、口語訳聖書には「祝福」という言葉が77回あると書きましたが
24:21その間その人は主が彼の旅の祝福されるか、どうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。(口語訳)
ヘブライ語聖書で確認したところそこには「祝福」ということばはつかわれてはいませんでした。
聖書協会共同訳でこの箇所は
僕は、主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうと、黙って彼女を見ていた。
こうなっています。






さて、創世記には「第七日」のほか、もう一か所、人でも動物でもないものを
神さまが祝福された、とする箇所がありました。
 27: 27彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、「ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。
「主が祝福された野のかおり」
ここはヘブライ語でこう書かれていて、
ויגש וישק לו וירח את ריח בגדיו ויברכהו ויאמר ראה ריח בני כריח שדה אשר ברכו יהוה׃
コロン直前の二つのかたまりは神聖四文字と祝福するという意味のברכ
で、その前にある三文字אשרが関係代名詞みたいなもので、
ペールブルーでマークしてあるのが「香り」という意味の単語です。
前の方の香りריחのすぐ後にあるבני は「息子」、後の方の香りכריחのすぐ後にあるשדהが「野」
創世記の中では第七日とここだけが、祝福の対象が人や動物ではなく「物」なので、何となく気になります。



ここまでのところをまとめると
1.創世記において、祝福の対象はほとんどが人間と動物だった
2.創世記において、祝福とは受けた側に何かしらの特別なものを感ずるけれども「1番」であるとは限らない

しかし日本語の創世記を調べた限りにおいては
「祝福」という言葉について(1)
に書いたような、ユダヤ教徒の人が行う「人間が神さまを祝福する」という話がどこにも出てきていないわけです。

そんなわけで、日本語で調べるのはあきらめ、おなじみのBIBLE HUBで、上の創世記1章のところにでてくる「祝福」という言葉であるStrong's Hebrew 1288のバラクという言葉をコンコルダンスで調べ、「ユダヤ教徒は神さまを祝福する」ということに関係ありそうなみ言葉を探しました。

するといとも簡単に発見することができました。
創世記24章27節。26節から続けて引用します。
24:26その人は頭を下げ、主を拝して、 24:27言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。
ヘブライ語の聖書では人が神さまを祝福していました!




ところで、実は今
コトバンクを見ていたら目を疑うような説明が「祝福」という項目につけられていました。
祝福
しゅくふく
benedictio; blessing
祝別ともいう。広い意味では,人から神への賛美と同時に,神から人への恵み,罰の免除などの意味を含む。旧約聖書では,族長ヤコブ,占者バラム,モーセなどによる祝福について語られている。ユダヤ教では家長による祝福がある。一方,キリスト教典礼上,人や物を聖とする祈りとその儀式も祝福,または祝別と呼ばれ,それらのうえに神の恵みをもたらすものとしてとり行われる。カトリック教会では祝別者は司祭以上の聖職者で,教皇,司教に留保されている一部のものを除いてすべての司祭が祝別する権利をもつ。ローマ定式書によると,祝別は対象物を恒久化せず,人に益する使用のための場所,物もその対象となる。信徒でなくても受けられるが,規定された祝別文によることが必要である。


知りませんでした~~~賛美も「祝福」って言うんですね~~???

こんなに長くキリスト教徒やってるのに~~~
百科事典に書いてあることすら知らないとは。

祝福という言葉について(1)でこんなこと言ってましたが
「ユダヤ教徒の方からすればいったい私が何に困惑しているのかおわかりいただけないと思うのですが、
おそらくキリスト教徒の方ならば理解していただけるかと思います。
そう、クリスチャンは「神さまから祝福していただく」ことはあっても、
「神さまを祝福する」などということはないのです。
「などということはない」と書いたのは、心の中に「滅相もない!」という気分があるからです。
こんなこと思うのはもしかしたら世界中のクリスチャンの中で私だけ???

ま、でも、

これで人並みになった。

とか言いながらBIBLE HUBのバラクのページみておりましたら
Definitionとして to kneel, blessって書いてありました。
そして、人だけでなく「物も」祝福=バラクされているようです。
出エジプト記23:25あなたがたの神、主に仕えなければならない。そうすれば、わたしはあなたがたのパンと水を祝し、あなたがたのうちから病を除き去るであろう。
え、だとすると、祝福という言葉について(1)で引用した、神さまは「物」は祝福しないギリシャ語の誤訳と書かれていたあの本の記述が間違っているということでしょうか。

2022年11月13日日曜日

「祝福」という言葉について(3)マタイ6章33節

先日書いた「祝福という言葉について(1)」という記事で私はこう書きました
祝福という言葉に「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスがあると考えると理解しやすいかと思います。
一方で「のろい」とは、「頂点以外」のどこか適当なところに、ということではなく、引きずりおろされて最後尾という厳しさが見られます。
こう書いてから思い出したのは
イエスさまのみ言葉、マタイによる福音書6章33節の「歌」
まず神の国と神の義とを求めなさい。(口語訳)

日本語の聖書で読むと、多くの聖書に「まず」としか書いてないので気付きにくいのですが、
昔よく歌っていたマタイ6章33節を歌にしたものの英語歌詞、
Seek ye first the kingdom of God and his righteousness
を思い出したのです。そういえばfirstという言葉が入っていたなあ、と。

BIBLE HUBで調べてみましたところ、どうもこの歌詞はKJVのようですね。

But seek ye first the kingdom of God and his righteousness and all these things shall be added unto you
せっかくなのでギリシャ語を見ました。
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 6:33 Greek NT: Greek Orthodox Church
ζητεῖτε δὲ πρῶτον τὴν βασιλείαν τοῦ Θεοῦ καὶ τὴν δικαιοσύνην αὐτοῦ, καὶ ταῦτα πάντα προστεθήσεται ὑμῖν.
先日の読み比べで少々思うところがあったので、今日はギリシャ正教のみ言葉を引用しました。
πρῶτονという言葉がfirstにあたる言葉です。
Strong's Greek 4412 próton です。

聖書には58回登場する言葉です。
で、マタイによる福音書で、ほかにはどんなところに登場しているか、ということですが、
いつも大量すぎるので今日はいくつかにしますが

5章24節 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 

7章5節 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。

8章21節 また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。




で、Strong's Greek 4412 prótonの語源は
Strong's Greek 4413の πρῶτος prótos だそうで、マタイによる福音書ではこんな感じで使われていました。
100箇所で使われているので、詳しくはご確認ください。

10章2節 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、
12章45節 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
19章30節 しかし、多くのの者はあとになり、あとの者はになるであろう。
Strong's Greek 4413の πρῶτος prótosは、firstとかbeforeという意味だけではなく、principalとか most importantという
感じで使われるようです。
そんなことを確認しつつマタイ19:30を読むと、

「あと」にあたる言葉はStrong's Greek 2078 ἔσχατος eschatos なので、
これはlastですから、
先の者が後になるというのは単純な順番の入れ替えではなく先頭が最後尾に行ってしまうという意味なので、
やはりここでも
申命記28章と同じく、かなり極端な話だったんだなあと理解できました。

2022年11月11日金曜日

今日は、創世記11章「バベルの塔」の話に登場する「石」について思いめぐらしておりました。
 
石は אֶבֶן Strong's Hebrew 68 ebenと読みます。
א(アレフ)から始まっている言葉です。
ヘブライ文字の一番初めの文字、音のない文字、特別な文字、
父なる神さまをあらわす文字です。
その文字の後にבן
この綴りを持つ単語には
בֵּן Strong's Hebrew 1121 ben があります。
息子という意味があります。
マタイによる福音書3章9節に
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。(口語訳)
というみ言葉がありますが、日本語で読んでも何も思いませんが、
ヘブライ語を調べてみると、「石ころ」と「子」という言葉の音の近さに何か意味があるのではないかと思えてきますね。
 
 
以前、岩について調べ学習をしましたが、
「神こそが岩」であると考えると
マタイによる福音書21章42~44節のあたりの話は「神さまの子が石」?
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。(口語訳)
それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしはシオンに
一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、
堅くすえた尊い隅の石である。
『信ずる者はあわてることはない』。イザヤ書28章16節(口語訳)
 
 
 
創世記11章の石という言葉からちょっと離れますが
אבןという3文字に頭にも尾にも何もついていないאבןという単語が含まれるみ言葉をコンコルダンスで調べてみました。
全部で57箇所あるようですが、トーラーに登場するものだけここに書き写してみたいと思います。
日本語の聖書の引用は口語訳から
 
創世記 49:24
HEB: מִשָּׁ֥ם רֹעֶ֖ה אֶ֥בֶן יִשְׂרָאֵֽל׃
しかし彼の弓はなお強く、
彼の腕は素早い。
これはヤコブの全能者の手により、
イスラエルのなる牧者の名により、
NAS: is the Shepherd, the Stone of Israel),
KJV: (from thence [is] the shepherd, the stone of Israel:)
INT: there is the Shepherd the Stone Israel
 
 
出エジプト記 17:12
HEB: כְּבֵדִ֔ים וַיִּקְחוּ־ אֶ֛בֶן וַיָּשִׂ֥ימוּ תַחְתָּ֖יו
しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルがを取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。
NAS: Then they took a stone and put
KJV: and they took a stone, and put
INT: were heavy took A stone and put under
 
出エジプト記 28:11
HEB: מַעֲשֵׂ֣ה חָרַשׁ֮ אֶבֶן֒ פִּתּוּחֵ֣י חֹתָ֗ם
宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、 
KJV: of an engraver in stone, [like] the engravings
INT: the work of an engraver stones engraves A signet
 
出エジプト記 28:17
HEB: בוֹ֙ מִלֻּ֣אַת אֶ֔בֶן אַרְבָּעָ֖ה טוּרִ֣ים
またその中に宝石を四列にはめ込まなければならない。
NAS: rows of stones; the first
KJV: in it settings of stones, [even] four
INT: set settings of stones four rows
 
出エジプト記 31:5
HEB: וּבַחֲרֹ֥שֶׁת אֶ֛בֶן לְמַלֹּ֖את וּבַחֲרֹ֣שֶׁת
また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
NAS: and in the cutting of stones for settings,
KJV: And in cutting of stones, to set
INT: the cutting of stones settings the carving
 
出エジプト記 31:18
HEB: הָעֵדֻ֑ת לֻחֹ֣ת אֶ֔בֶן כְּתֻבִ֖ים בְּאֶצְבַּ֥ע
主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれたの板をモーセに授けられた。
NAS: tablets of stone, written
KJV: tables of stone, written
INT: of the testimony tablets of stone written the finger
 
出エジプト記 35:33
HEB: וּבַחֲרֹ֥שֶׁת אֶ֛בֶן לְמַלֹּ֖את וּבַחֲרֹ֣שֶׁת
また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ、
NAS: and in the cutting of stones for settings
KJV: And in the cutting of stones, to set
INT: the cutting of stones settings the carving
 
民数記 35:23
HEB: א֣וֹ בְכָל־ אֶ֜בֶן אֲשֶׁר־ יָמ֥וּת
あるいは人のいるのも見ずに、人を殺せるほどのを投げつけて死なせた場合、
NAS: deadly object of stone, and without
KJV: Or with any stone, wherewith a man may die,
INT: or any of stone him died
 
申命記 25:13
あなたの袋に大小二種の重りを入れておいてはならない。
HEB: לְךָ֛ בְּכִֽיסְךָ֖ אֶ֣בֶן וָאָ֑בֶן גְּדוֹלָ֖ה
NAS: in your bag differing weights,
INT: have your bag differing weights A large
 
申命記 25:15
HEB: אֶ֣בֶן שְׁלֵמָ֤ה וָצֶ֙דֶק֙
不足のない正しい重りを持ち、
NAS: and just weight; you shall have
KJV: and just weight, a perfect
INT: weight A full and just
 
 
現代に生きるわれわれ日本人が「石」と聞く場合と
聖書の時代に生きる人々が、その地において「石」と聞いた時に受ける印象はずいぶん違うような気がします。
モーセが授かったものが石の板、
そして「不正のない」重り石、
イスラエルの部族を表す「宝石」、ですから・・・深い!
 
 
石と聞いて石焼ビビンバと火打石・・・しばらく考えて墓石が思い浮かんだ私のような者は、やはりきちんと学ばないとだめですね。あ、ビビンバではなく비빔밥ピビムパプですっ!
 
 
バベルの塔はシナル(シンアル)の地に建設されたので、創世記10章だけの情報から探すと
10:1ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。 10:2ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。   10:3ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、トガルマ。 10:4ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシ、キッテム、ドダニムであった。 10:5これらから海沿いの地の国民が分れて、おのおのその土地におり、その言語にしたがい、その氏族にしたがって、その国々に住んだ。
10:6ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。 10:7クシの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカであり、ラアマの子孫はシバとデダンであった。 10:8クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。 10:9彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。 10:10彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。 10:11彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、 10:12およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。 10:13ミツライムからルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、 10:14パテロス族、カスル族、カフトリ族が出た。カフトリ族からペリシテ族が出た。
日本語の聖書さまサイトより創世記10章1節から14節までを引用
 
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、・・・」
と書いてあるので、
おそらくはこのニムロデ(ニムロド)がバベルの塔の建設を始めたのでしょう。
「ユダヤ古代史」にもそのような記録があるようです。(ウィキペディアほんと便利)
神にたいし[このような]思いがあった侮辱的な行為に出るよう彼らを煽動したのは、ノーコス(ノア)の子カマス(ハム)の孫で、強壮な体力を誇る鉄面皮人のネブローデース(ニムロデ)だった。彼は人びとを説得して、彼らの繁栄が神のおかげではなく、彼ら自身の剛勇(アレテー)によることを納得させた。そして神への畏れから人間を解き放す唯一の方法は、たえず[彼らを]彼自身の力に頼らせることであると考え、しだいに事態(プラグマタ)を専制的な方向へもっていった。彼はまた、もし神が再び地を洪水でおおうつもりなら、[そのときには]神に復讐してやると言った。水が達しないような[高い]塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をするというのである。人びとは、神にしたがうことは奴隷になることだと考えて、ネブローデースの勧告を熱心に実行し、疲れも忘れて塔の建設に懸命にとりくんだ。そして、人海戦術のおかげで、予想よりも[はるかに]早く塔はそびえたつことになった。しかもそれは非常に厚く頑丈にできていたので、[むしろ]高さが貧弱に見えるほどだった。素材は焼き煉瓦で、水で流されないようにアスファルトで固められていた。ところで、神は狂気の沙汰の彼らを見ても、[今度は]彼らを抹殺しようとは考えられなかった。最初の[洪水の]犠牲者たちを破滅に導いても、その体験が子孫たちに知恵を授けることにならなかったからである。しかし神は、[彼らに]いろいろ異なった言葉(アログロッソイ)をしゃべらせることによって彼らを混乱(スタシス)におとしめられた。言葉が多様になったため、互いの意志が通じなくなってしまったのである。なお彼らが塔を建てた場所は、[かつてはすべての人が]理解できた[人間の]最初の言葉に混乱(スユンキュシス)が生じたので、現在バビュローン(バビロン)と呼ばれている。というのも、ヘブル人は混乱[のこと]をバベルと呼んでいるからである。この塔[の話]と人間の言葉の混乱(アロフオーニア)に関する[話]は、次のシビュラの言葉にも記載されている。
そして、
 
ウィキペディアにはニムロドについて書かれているページもあります。
 
12月25日はニムロドの誕生日らしい。😱
 

2022年11月10日木曜日

「祝福」という言葉について(2)申命記28章 祝福と呪い

申命記28章は3つの大きな部分に分けられます。
 
そしてその3つうち最も重要なのは一つめの部分であり、
さらに言うと、この章の先頭である1節にその最も大切な中心となる言葉があります。
 
 
 
もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。申命記28章1節(口語訳)
 
「もしあなたが」という書き出しで始まっていますが「あなた」とはだれの事でしょうか。
申命記のここまでの流れ、そして直前の27章のところから考えるとイスラエルのすべての人々ということになりますが、
またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。申命記27章9、10節(口語訳)
「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。それゆえ、あなたの神、主の声に・・・」という言葉にある「主の民」という言葉に着目するならば、これは御子イエスを頂いた神の国に所属する者たち全員が28章1節の「もしあなたが」の「あなた」に該当していることになります。
 
とすると、「もしあなたが」の「あなた」とは人間全体のことであって、
なぜなら、主イエスはすべての人類の罪を背負って十字架にかかってくださったからです。
今現在この時この瞬間に主イエスをキリストであると告白しているかどうか
それをもって今私たちはその人々のことをクリスチャンと呼ぶわけですけれども、
今現在はそうでないかもしれない、しかしまだそうなる可能性が残されているすべての人々も
この「あなた」の中に入っており、「もしあなたが」と呼びかけられているわけであります。
 
そして「もしあなたが」という言葉の後にはこういう言葉が続きます。
もしあなたが「あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、」
 
「もし」という言葉は「もしも」という言葉と同じ意味でありますから「もし~なら」と、何らかの条件の提示が行われるわけです。で、ここで提示されるのは「あなたの神、主の声によく聴き従い」「わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行う」ならば、ということです。
「あなたの神、主」とはどなたの事でしょうか。
申命記の中で探すならばこの方の事です。
 
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。申命記5章6節
イスラエルをエジプトから救い出された方の事です。
また、6章4節で述べられている方の事です。
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。申命記6章4節
そして、
「わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行う」とは申命記5章1~5節に記されている契約のことです。
 
さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。われわれの神、主はホレブで、われわれと契約を結ばれた。主はこの契約をわれわれの先祖たちとは結ばず、きょう、ここに生きながらえているわれわれすべての者と結ばれた。主は山で火の中から、あなたがたと顔を合わせて語られた。その時、わたしは主とあなたがたとの間に立って主の言葉をあなたがたに伝えた。あなたがたは火のゆえに恐れて山に登ることができなかったからである。
 
 
 
そして、その契約によってどういうことがもたらされるのかということが申命記28章に書かれています。
再度28章1節を引用します。
 
もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。申命記28章1節(口語訳)
 
 
唯一の神さまである神聖四文字なるお方の声を聴いて従うこと、すなわち、モーセが唯一の神さまである「主」から預かったすべての戒めを守り行うならば、
「あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。」
という契約です。
そして申命記28章の3つのうちの一つめのまとまりの詳細、つまり契約に関する具体的な話が2節から14節で語られます。
 
以前のブログが閉鎖させられる直前の事でしたが
「祝福という言葉」
という記事を書きまして、「祝福」という言葉を考えながらちょっと混乱している様子をお伝えしたことがあるのですが、
実はここ数年ずっと「祝福」という言葉についてひたすら考え続けておりました。
 
で、この申命記28章1節から14節も何度も読んでいたわけですが
今日は、「祝福」とはこういうことじゃないかな?と、ある程度の確信を得たので書いておこうかな、と思います。
 
 
 
祝福という言葉に該当するヘブライ語は Strong's Hebrew1288 barak
 בָרַךְ
という言葉なのですが、この三文字の言葉が表しているのは、この申命記28章1節の後半部分の御言葉が語っていることなのではないかと思いついたのです。
 
もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。申命記28章1節(口語訳)
この申命記28章1節の後半部分「あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられる」これが祝福と翻訳されている言葉の元の意味なのではないかと。
もっとわかりやすく言うならば、「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスではないかと思ったのです。
 
 בָרַךְ
祝福というヘブライ語の最初の二文字は
まずはבベートですが、これは文字としたらアレフに次ぐ二番目の文字ではありますが、
アレフという文字は父なる神さまを表す特別な文字であるので、それを除くと一番初めの文字であり、
それゆえ、創世記1章1節の冒頭にある二つの単語の初めにはこのベートを使って「はじめ」という意味を表現しているように思えるわけですが、
さらに言うと בָרַךְと同じように、創世記1章1節の最初に現れる二つの単語の二文字めもともにרレーシュで、レーシュは「頭」を描いた文字ですから、祝福と翻訳される בָרַךְについても
בְּרֵאשִׁ֖ית In the beginning はじめに
בָּרָ֣א  created 創造した
というこの二つの単語と同じようなニュアンスを含んでいる言葉なのではないかと思うわけです。
また、ヤコブとエサウの祝福問題で、長子の祝福という話があるわけですが、なぜ祝福は一つしかないのかということを考えると、もしも祝福という語に「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスがあるならば、一つしかないのは当然ということになりますし、
「祝福という言葉」という記事で書いた「ユダヤ教では人間が神を祝福するらしい」というクリスチャンとしての疑問も、「あなたは私にとって一番!」というニュアンスがもしも祝福という言葉にあるならば、解決するのかなあ、と。
 
また、申命記28章13節にあるこの言葉と
 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。申命記28章13節(口語訳)
「のろい」について語る28章44節のこの言葉の対比も
彼はかしらとなり、あなたは尾となるであろう。申命記28章44節
祝福という言葉に「頂点とする」とか「1番の者とする」というニュアンスがあると考えると理解しやすいかと思います。
一方で「のろい」とは、「頂点以外」のどこか適当なところに、ということではなく、引きずりおろされて最後尾という厳しさが見られます。
 
 
 
 
28:1もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。 28:2もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。 28:3あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。 28:4またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。 28:5またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。 28:6あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
28:7敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。 28:8主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。 28:9もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。 28:10そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。 28:11主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。 28:12主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。 28:13主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。 28:14きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。
日本語の聖書 さま サイトより 28章1節から14節(口語訳聖書)を引用
祝福という言葉を、頂点となる、とか、頂点に据える、とか、最高のものとする、と言い換えてもそれほどの違和感はない・・・ですね。
 
それでは
28章二つめのまとまりと三つめのまとまりの話に飛びたいと思います。
 
 
二つめのまとまりは15節からの部分、「のろい」の話です。「戒めと定めとを守り行わない」場合に起こる事態が書かれています。
しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。申命記28章15節(口語訳)
 
そして三つめまとまりは58節からで「災い」の話です。「律法のすべての言葉を守り行わず、あなたの神、主というこの栄えある恐るべき名を恐れない」という、律法以前の問題というか
「わたしはある」と語られる主を信じることもなく、主への恐れが一切ない人について書かれています。
 
もしあなたが、この書物にしるされているこの律法のすべての言葉を守り行わず、あなたの神、主というこの栄えある恐るべき名を恐れないならば、 主はあなたとその子孫の上に激しい災を下されるであろう。その災はきびしく、かつ久しく、その病気は重く、かつ久しいであろう。申命記28章58、59節(口語訳)
「主という栄えある恐るべき名を恐れない」のはお名前を知らないわけではない人の態度でしょう。
知らなければ恐れようがないわけですから。
 
 
さて、
「のろい」という言葉はヘブライ語でStrong's Hebrew 7045 qelalah
קלָלָה
といいます。
この言葉は創世記27章の12節13節にも「のろい」として登場する言葉です。 
27:12おそらく父はわたしにさわってみるでしょう。そうすればわたしは父を欺く者と思われ、祝福を受けず、かえってのろいを受けるでしょう」。 27:13母は彼に言った、「子よ、あなたがうけるのろいはわたしが受けます。ただ、わたしの言葉に従い、行って取ってきなさい」。
日本語の聖書 さま サイトより 創世記27章12節、13節(口語訳聖書)を引用
 
そして「災い」はStrong's Hebrew 4347 makkah もしくはmakkeh
מַכָּה
です。
この言葉は民数記11章33節の疫病であったり、ヨシュア記10章10節のギベオンでの大殺戮というところに使われています。
 
「のろう」という翻訳語が充てられている
Strong's Hebrew 7045 qelalah
קלָלָה
は、
先頭の文字קクフが、以前書いた記事のように「聖なる」という意味の語で用いられるクフと同様に考えると、
(参考)「聖ということ」https://kyudochu.blogspot.com/2019/09/blog-post.html


たくさんいる中から分けるというようなニュアンスを持っていて、
また二つ並ぶלラメドは以前書いた記事でも書きましたが


לは杖や突き棒の形からできた文字でありלラメドという言葉に近い
לָמַד lamadという言葉はteachつまり教えると訳されているわけですから
そしてその文字が念を押すように強調するように二回繰り返されているので、
厳しいけれどもまだどうにか救いがあるような
教育的な印象を受けますが、
 
Strong's Hebrew 4347 makkah もしくはmakkeh
מַכָּהという言葉は
メムから始まり、メムはメギドだとかマイムとかのメムで、
二文字目はカフで、手のひらを描いた文字
勉強不足なのでまだどういうニュアンスがあるのかよくわかりませんけれども、
大殺戮という翻訳語が充てられるような
もはや救いのない状況・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
悪しき者はその道を捨て、
正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。イザヤ書55章6、7節
 
 
 

2022年11月7日月曜日

イザヤ書8章

イザヤ書8章を読んでいました。
 
1節にある「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」
 
 מַהֵר שָׁלָל חָשׁ בַּז
 
マヘルは מַהֵר Strong's Hebrew 4118 hastening, speedy,  急いでする
シャラルは שָׁלָל Strong's Hebrew 7998  plunder, booty 略奪、強奪 
ハシは חוּשׁ  Strong's Hebrew 2363  make haste 手早くする
バズは בּז  Strong's Hebrew 957  robbery, booty 強盗、強奪
 
で、新共同訳の本文にあるように、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味になる。
 
 
イザヤ書の8章という箇所は、興味をひかれる章です。固有名詞として翻訳聖書の中に「原語の音のまま」残される、「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」や「インマヌエル」という言葉がある一方、
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。」
イザヤ書8章6節 (新共同訳)
「シロア」(新改訳聖書では「シロアハ」)
この言葉はヨハネによる福音書9章7節、11節に出てくる「シロアム」でもあるわけですが、(シロアに水という意味のある文字メムが付いてシロアム?でしょうか?)
ヨハネによる福音書9章には「シロアム」という言葉について「遣わされた者」という意味だ、とわざわざ書いてあるのです。
 
旧約聖書中にはここにしか登場しない「シロア」という池、
しかしその名前が福音書に登場した時にはわざわざ意味まで書き添えられている。
 
シロアשלח は、Strong's Hebrew 7975で、
上ではここにしか登場しないと書きましたが、本当はネヘミヤ記3章15節と、このイザヤ書8章6節の二箇所に登場している言葉です。
ただ、同じ言葉ではありますが、ネヘミヤ記のところにある 口語訳でシラの池、新改訳ではシェラフの池というのはイザヤ8:6のシロア(シロアハ)の水のことではないようです。最新の翻訳聖書でもあえて別の音を充てて翻訳されていますので。
 
(新約聖書でシロアムという名前は、ヨハネによる福音書の9章7節、11節と、ルカ13章4節の「シロアムの塔」というところに登場します。)
 
さて、「遣わされた者」という意味だ、とわざわざ書きのこしたのがだれなのかは知りませんが、
BIBLE HUBで調べてみると、シロアの水はאת מי השלח と書いてあります。これは
את 通常は意味不明とされている語ですが、いつも言っているように、私個人としてこれは、「神さまの造られた付け加える必要のない完璧なものである」ということを示すと思っているエット(エト)
 מי メイ 水
השלח アブラムがアブラハムになった時につけられたה(神さまのお名前でもある)に、シロアשלחが付いたものということになります。
 
 
で、Strongの7975だけを見るとシロアとはエルサレムにある貯水池の名前ですが、
同じ綴りの単語がありまして、
例えば詩篇104篇10節
あなたは泉を谷にわき出させ、
それを山々の間に流れさせ、
・・・「わき出させ」・・・わかりにくいので英語の聖書を引用しなおしますね。
Berean Standard Bibleより
He sends forth springs in the valleys; they flow between the mountains.
He sends forth springsというところに使われているsend
これがシロアというヘブライ語の綴りと同じשׁלחになっているのですね。
彼は「送る」前方へ泉を、の「送る」これがשׁלח Strong's Hebrew 7971
 
ただ、同じ綴りということだけで見てみると、Strong's Hebrew 7973のשׁלח は、歴代誌下23章10節などで「武器」と翻訳されている言葉です。ややこしくなるので今日は引用はしませんが、そういうこともあるので?「遣わされた者」という意味であるとの注釈をわざわざ付けたのでしょうか。
 
いや、
それよりも、やはり、ヨハネによる福音書の著者は、イエスさまのご生涯を描くにあたり、イザヤ書8章の預言を強く意識していたということなのでしょう。彼こそがイザヤ書で預言されていた方である、だからこそ、シロアムの池のエピソードを書いたのでありましょう。
 
そして忘れてはいけません、シロアムの池は仮庵の祭りのための水をくむ場所ですね!
 
 
 
ゼカリヤ書14章を思い出しますね。
 

2022年11月2日水曜日

秋の夜長に聖書の比較

使徒18章21節を読み比べました。

 

ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Nestle 1904← Nestleが編集し、1904 年に英国外国聖書協会によって発行されたギリシャ語の新約聖書

ἀλλὰ ἀποταξάμενος καὶ εἰπών Πάλιν ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ Θεοῦ θέλοντος, ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Westcott and Hort 1881
ἀλλὰ ἀποταξάμενος καὶ εἰπών Πάλιν ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ θεοῦ θέλοντος ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Westcott and Hort / [NA27 and UBS4 variants]
ἀλλὰ ἀποταξάμενος καὶ εἰπών Πάλιν ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ θεοῦ θέλοντος ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: RP Byzantine Majority Text 2005
ἀλλ’ ἀπετάξατο αὐτοῖς εἰπών, Δεῖ με πάντως τὴν ἑορτὴν τὴν ἐρχομένην ποιῆσαι εἰς Ἱεροσόλυμα· πάλιν δὲ ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς, τοῦ θεοῦ θέλοντος. Ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Greek Orthodox Church←ビザンティンテキストから作成された
ἀλλὰ ἀποτάξατο αὐτοῖς εἰπών· Δεῖ με πάντως τὴν ἑορτὴν τὴν ἐρχομένην ποιῆσαι εἰς Ἱεροσόλυμα, πάλιν δὲ ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ Θεοῦ θέλοντος. καὶ ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Tischendorf 8th Edition ← Westcott-Hort-Nestle Aland のテキストから作成された新約聖書
ἀλλὰ ἀποταξάμενος καὶ εἰπών· πάλιν ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ θεοῦ θέλοντος, ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου·
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Scrivener's Textus Receptus 1894
ἀλλ’ ἀπετάξατο αὐτοῖς εἰπών, Δεῖ με πάντως τὴν ἑορτὴν τὴν ἐρχομένην ποιῆσαι εἰς Ἰεροσόλυμα· πάλιν δὲ ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς, τοῦ Θεοῦ θέλοντος. καὶ ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου
 
ΠΡΑΞΕΙΣ 18:21 Greek NT: Stephanus Textus Receptus 1550←1611 年に完成した欽定訳または正式版の基礎として最もよく知られています。
ἀλλ' ἀπετάξατο αὐτοῖς, εἰπών Δεῖ με πάντως τὴν ἑορτὴν τὴν ἐρχομενην ποιῆσαι εἰς Ἰεροσόλυμα, Πάλιν δὲ ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ θεοῦ θέλοντος καὶ ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου
 
Acts 18:21 Greek Study Bible (Apostolic / Interlinear)
ἀλλὰ ἀποταξάμενος καὶ εἶπων πάλιν ἀνακάμψω πρὸς ὑμᾶς τοῦ θεοῦ θέλοντος ἀνήχθη ἀπὸ τῆς Ἐφέσου,
 
 
ギリシャ語の意味はともかく
18章21節には長いものと短いものがあることがわかります。
で、長いものにはこれらの語が含まれています。
 
 
Strong'sGreek1163  Δεῖ      Dei  
It behooves 
 
Strong'sGreek1473  με       me  
me 
 
Strong'sGreek3843  πάντως  pantōs
 by all means 
 
Strong'sGreek3588  τὴν      tēn 
the Art
Strong'sGreek1859  ἑορτὴν   heortēn 
feast 
 
Strong'sGreek3588  τὴν      tēn
Art
 
Strong'sGreek2064  ἐρχομένην  erchomenēn
coming 
 
Strong'sGreek4160  ποιῆσαι     poiēsai 
 to keep 
 
Strong'sGreek1519  εἰς         eis 
at 
 
Strong'sGreek2414  Ἱεροσόλυμα  Hierosolyma
Jerusalem

私にとって必要なこと(当然のこと、ふさわしいこと)、何としてでも、到来する「その祭り」をエルサレムで守ること

これが入っているのが長い文の方で、入ってないのが短いもの。
つまり、入っているものと入っていないものがあるということです。
 
さて、ここで、
 
いま私の手元にある新改訳聖書(注解・索引 チェーン式引照付)1990年8月1日第6刷から使徒の働き18章21節と22節を引用します。
 
人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。
それからカイザリアに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。
 
上のギリシャ語聖書の「短い」文の方の仲間です。
 
この↓画像をクリックしてご覧ください。欄外にこう書いてあります。


22節のエルサレムという言葉は補足だそうです。

 
 
 
 
せっかくの機会なので、昔々使っていた「新約聖書略解」という本を引っ張り出してみます。
これは、日本基督教団出版局発行のもので、1955年に初版、私の持っているのは1984年4月1日増訂新版30版というもので、87年1月22日に煥乎堂で購入したものです。
 
 
まずはこの略解という本が解説している「口語訳聖書」を19節から23節まで引用します。
 
一行がエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残しておき、自分だけ会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じた。人々は、パウロにもっと長いあいだ滞在するように願ったが、彼は聞きいれないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」と言って、別れを告げ、エペソから船出した。それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてから、アンテオケに下って行った。そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた。
 
 
さてではその箇所の略解を見てみましょう。画像をクリックしてご覧ください↓




 
「なぜエルサレムにおもむいたのかは不明」と書いてあります。
 

パウロはどうしてエルサレムに行ったのですか?
それは祭りを祝うためです。
抜けている聖書もありましたが、そう書いている聖書もあるのですから、
「不明」とするより「そういう説もある」くらい書いても問題はないと思います。

 
しかも、です、エルサレムに行くと言えば、大体想像はつくわけです
詩篇にある「都上りの歌」
都に上る、エルサレムに行く、なぜ?
パウロも上っていきました。エルサレムに行きます。なぜ?
 
それは祭りを祝うためです。
 
 
で、当然と言えば当然のことですがヘブライ語に翻訳された新約聖書の使徒の働きにはこの言葉がちゃんと残されています。
Acts 18:21 Hebrew Bible
כי אם נפטר מהם באמרו מחיב אני לחג את החג הבא בירושלים ואחרי כן אשובה אליכם אם ירצה יהוה וילך לו באניה מן אפסוס׃
 
 
 
さて、本日の最後に英語の聖書では長い派と短い派がどんな感じになっているのか
Acts 18:21 https://biblehub.com/parallel/acts/18-21.htm から引用し眺めてみたいと思います。
 
 
Classic Translations
 
King James Bible
But bade them farewell, saying, I must by all means keep this feast that cometh in Jerusalem: but I will return again unto you, if God will. And he sailed from Ephesus.
New King James Version
but took leave of them, saying, “I must by all means keep this coming feast in Jerusalem; but I will return again to you, God willing.” And he sailed from Ephesus.
King James 2000 Bible
But bade them farewell, saying, I must by all means keep this feast that comes in Jerusalem: but I will return again unto you, if God wills. And he sailed from Ephesus.
New Heart English Bible
but taking his leave of them, and saying, "I will return again to you if God wills," he set sail from Ephesus.
World English Bible
but taking his leave of them, and saying, "I must by all means keep this coming feast in Jerusalem, but I will return again to you if God wills," he set sail from Ephesus.
American King James Version
But bade them farewell, saying, I must by all means keep this feast that comes in Jerusalem: but I will return again to you, if God will. And he sailed from Ephesus.
American Standard Version
but taking his leave of them, and saying, I will return again unto you if God will, he set sail from Ephesus.
 
A Faithful Version
But took leave of them, saying, "I must by all means keep the feast that is coming at Jerusalem; but I will return again to you, God willing." And he sailed from Ephesus.
Darby Bible Translation ダービー訳では【】でくくってある
but bade them farewell, saying, [I must by all means keep the coming feast at Jerusalem]; I will return to you again, if God will: and he sailed away from Ephesus.
English Revised Version
but taking his leave of them, and saying, I will return again unto you, if God will, he set sail from Ephesus.
Webster's Bible Translation
But bade them farewell, saying, I must by all means keep this feast that cometh in Jerusalem: but I will return to you, if God will. And he sailed from Ephesus.
 
 
Early Modern(近世)

Geneva Bible of 1587
But bade the farewel, saying, I must needes keepe this feast that commeth, in Hierusalem: but I will returne againe vnto you, if God will. So he sailed from Ephesus.
 
 
Bishops' Bible of 1568
But bade them farewell, saying, I must needes at this feast that commeth be in Hierusalem: but I wyll returne agayne vnto you yf God wyll. And he sayled from Ephesus.
Coverdale Bible of 1535
but bad them farwele, and sayde: I must nedes in eny wyse kepe this feast that commeth, at Ierusalem: but yf God wyl, I wil returne agayne vnto you. And he departed from Ephesus,
Tyndale Bible of 1526
but bad the fare well sayinge. I must nedes at this feast that cometh be in Ierusalem: but I will returne agayne vnto you yf God will. And he departed from Ephesus

Catholic Translations(カトリック)

Douay-Rheims Bible
But taking his leave, and saying: I will return to you again, God willing, he departed from Ephesus.
 
 
Catholic Public Domain Version
Instead, saying goodbye and telling them, “I will return to you again, God willing,” he set out from Ephesus.
 

Translations from Aramaic(アラム語からの翻訳)

Aramaic Bible in Plain English
As he said, “I must always observe the coming feast in Jerusalem, and if God wills, I shall return again to you.” And he left Aqilaus and Priscilla in Ephesaus.
 
 
Lamsa Bible
Saying, I must by all means celebrate the coming feast as is my custom at Jerusalem; but I will return to you again, God willing.
 

Modern Translations
現代の聖書はみんな短い派ですね。


New International Version
But as he left, he promised, "I will come back if it is God's will." Then he set sail from Ephesus.
 
 
New Living Translation
As he left, however, he said, “I will come back later, God willing.” Then he set sail from Ephesus.
English Standard Version
But on taking leave of them he said, “I will return to you if God wills,” and he set sail from Ephesus.
Berean Study Bible
But as he left, he said, “I will come back to you if God is willing.” And he set sail from Ephesus.
New American Standard Bible
but took leave of them and said, “I will return to you again if God wills,” and he set sail from Ephesus.
NASB 1995
but taking leave of them and saying, "I will return to you again if God wills," he set sail from Ephesus.
NASB 1977
but taking leave of them and saying, “I will return to you again if God wills,” he set sail from Ephesus.
Amplified Bible←日本語の「詳訳聖書」の英語版というか元の本です。
but after telling them goodbye and saying, “I will return again if God is willing,” he set sail from Ephesus.
Christian Standard Bible
but he said farewell and added, “I’ll come back to you again, if God wills.” Then he set sail from Ephesus.
Holman Christian Standard Bible
but he said good-bye and stated, "I'll come back to you again, if God wills." Then he set sail from Ephesus.
Contemporary English Version
He told them goodbye and said, "If God lets me, I will come back."
Good News Translation
Instead, he told them as he left, "If it is the will of God, I will come back to you." And so he sailed from Ephesus.
GOD'S WORD® Translation
As he left, he told them, "I'll come back to visit you if God wants me to." Paul took a boat from Ephesus
International Standard Version
As he told them goodbye, he said, "I will come back to you again if it is God's will." Then he set sail from Ephesus.
NET Bible
but said farewell to them and added, "I will come back to you again if God wills." Then he set sail from Ephesus,
 
 

研究の成果として「パウロは祭りを祝ってはいなかった」という動くことのない結論に至ったというのであればそれでよいとは思いますが、
パウロがユダヤ教の祭りを祝っていたことを隠したかった、とか言うわけではないでしょうね・・・?




使徒行傳18章21節(明治訳新約聖書)
暇を告て曰けるは我この來んとする節を必ずエルサレムに於て守ざるを得ず然どもし神許し給はば復び爾曹に返べしと遂に舟出してエペソを去 


大正時代にクリスチャンだった高祖父とはきっと異なるおしえを受けている私。