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30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 3

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。 マルコの福音書9章42節   高校のクラスメートの一人に、いつも難しそうな本を読んでいる女の子がいました。彼女の親族の方が著名な思想家であったことから、彼女は宗教や思想、そして哲学についていろいろと興味を持っているようでした。 同じクラスとはいえ、一クラス45人、女子ばかりが集合しているその空間で、私たちには長い間接点はありませんでした。趣味の合う者同士、気の合う者同士、が友だちになるのは当然の流れですから、哲学なんてものに一切興味のない自分にとって、彼女と何かを分かち合うとか話そうという動機がなかったからです。   ところが、ある日。 そのころの私は、学校の近くにあった「キリスト集会」の高校生会に出席するようになっていたのですが、聖書の話が難しくて分からないので予習しようと思い、学校の図書館にあったバークレーの聖書注解を、(禁帯出だったので毎朝図書室に通って)ノートに写していたのです。で、いつものように図書室に行ってごそごそやっていたところ、そこに「彼女」がやってきて声をかけてくれたわけです。   「聖書をお読みになるの?」   お読みになるっていうレベルじゃないんだけど…まあ、ちょこっとな、ちょこっと。週に10節程度のもの…ん?なんて答えればいいんだ、こういう場合… 「ぁ、少しだけ。最近学校の近くの教会に行き始めたから。」   「ぁ、教会。あ、そうなのね。私はキリスト教を信じるつもりはないので布教とかはしていただかなくてもよろしいのですけど、それにしても聖書ね、新約聖書ですけれど一箇所どうしても腑に落ちないところがあるのよね。」   「はぁ…。腑に落ちないんですか?」   「そう。殺すな自殺はするな、っていう教えであるはずの聖書がね、そう教えていたはずなのに、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい、だとか、片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさいというような残酷なことを言い出すのよね。それまでのイエスとは明らかに様子が違うのよ。まあ、〒#¥*※◯&#℃%‰♪…(ムズカシイ言葉がいろいろあったので細かい記憶がない)」 ...

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 2

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。 マルコの福音書9章42節 このマルコの福音書9章42節の箇所というのは、他にマタイ18章とルカ17章に似ている箇所があるのですが、 実は、マタイとルカの箇所を読む時には悩まないで通り過ぎることができるのです。しかしマルコの福音書だとムムムっとなる。 なぜそうなるのか、と言いますと、ここに至るストーリーの構成が違うからなのです。   マタイはこの石臼問題の直前に「天の御国で一番偉いのは子どものように自分を低くする者」というストーリーを一本入れ、「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と結論づける。そしてすぐに「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、…」と続くから、一般論としての「漠然とした小さい子どもにつまずきを与える話」として読み流すことが出来るのです。 また、ルカは、マルコにあるような誰が偉いかとか悪霊を追い出している者を見たけれどやめさせた話というのは石臼の話よりもずーっと前の9章に出て来るのです。それで、石臼の話はずいぶんあとの17章に唐突に登場するのですね。しかも石臼の直前の話は「金持ちとラザロ」の話。というわけで、ルカのみ言葉は内容としては同一のように見えますが、マタイやマルコとは「文脈」が異なりますのでルカの17章は同列に扱ってはいけない気がします。ルカはむしろ9章が同じ「時」の話のように見えます。     最近私は聖書のストーリーを映像作品にしたものを何本か見る機会を得ました。で、素晴らしいなあ、と感謝したのでありますが、感謝しつつも実は少々の不満を感じたのです。 何が不満だったか? それは、私が聖書を読んで思っていたイメージと、役者さんの演技がかなり違うものだったからです。←生意気なことを言ってやがる まあ、そんなのは仕方のないことですけどね、ちょっと不満に思えてしまいました。   同じ小説を題材にしても監督さんによって全く別の映像作品に仕上がるということは普通にあるわけですが、それはどうしてそういうことになるかと言えば、同じ作品を読んでも理解というか解釈というかそういう...

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1

ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。 マルコの福音書9章38~40節 引用したのは新改訳聖書第3版です。 ふと疑問がわき、またマルコの9章に戻ってきてしまいました。 疑問がわいたのはこの直後の箇所だったのですが、そこを調べるために Bible Hub で検索してみたところ、今日引用した新改訳聖書の訳に?(はてなマーク)がついてしまったので、忘れないよう記録しておくことにしました。     New International Version "Teacher," said John, "we saw someone driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us." "Do not stop him," Jesus said. King James Bible And John answered him, saying, Master, we saw one casting out devils in thy name, and he followeth not us: and we forbad him, because he followeth not us. But Jesus said, Forbid him not   New American Standard Bible  John said to Him, "Teacher, we saw someone casting out demons in Your name, and we tried to prevent him because he was not following us." But Jesus said, "Do not hinder him     しかし、イエスは言われた。「やめさせるこ...

主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」 すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。 だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」 ―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。 マルコの福音書11章30~33a節     私の頭の中に現れた変な等式 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる 子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる   A=B、B=CならばA=Cで、 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる   にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、 今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。 冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。   これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。 わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。   別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。 ヨハネの福音書14章11節 これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものを 主 は与えてくださる) だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。 しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょ...

主は寛容なお方(3)「子どものように、自分を低くする者」とは

前回まではマルコの福音書10章15節の「子どものように神の国を受け入れる」 ということばを読んでいましたが、今日は関連するみ言葉としてマタイの福音書18章のみ言葉を読んでみることにしました。 マルコの福音書の10章15節に対応している箇所はマタイの福音書19章14節のところだと思うのですが、 イエスさまが「子どもたち」のことを具体的にどのようであるとお考えになっているのかがはっきり書かれているのがマタイの18章4節なので、そのことについて考えようと思いました。     そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 マタイの福音書18章1~4節 「だから、この子どものように、 自分を低くする者 が、天の御国で一番偉い人です。」 イエスさまは、子ども=自分を低くする者 だと言われています。 しかし、…子どもって自分を低くしているだろうか?? 実はずっとこの新改訳聖書の「自分を低くする者」という言葉が引っかかっているのです。 引っかかったまま放置し続け30年。(;^_^A だって、そう書いてあるんだからそうなんだよ、と納得しなくてはならないまま30年。 しかし!つい最近知ったBible Hubという素敵なサイトがあるじゃないか!そう、2016年のオバサンはついに誰かが作って下さった素敵なサイトによって、完全にあきらめていたギリシャ語で聖書を読むということが出来るようになったのでありました。 世の中が英国のEU離脱の件で大騒ぎしている最中、みんながどよーんと不安いっぱいの顔でいるのに、ひとりうきうきへらへらとパソコンに向かいマタイ18章4節をBible Hubに入力してオバサンmet Greek word at last!!! ταπεινώσειという言葉なんだそうですよ。で、マタイ18章4節の他、マタイ23章12節に出て来るらしい。 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。 というみ言葉...

主は寛容なお方(2)「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 マルコの福音書10章17~27節       前回の「主は寛容なお方」という記事で、私はこんな「変な」等式を書きました。   律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる 子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる   A=B、B=CならばA=Cで、 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる   何の話を書いていたかというと、「どんな人が神の国に入れるのか」という話です。 マタイの福音書5章には、私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさる義...

主は寛容なお方(1)「神の国は誰のものなのか」

クリスチャントゥデイを読んでいたら、「パキスタンのイスラム教徒たち、キリスト教会再建を支援」というニュースに出会いました。 http://www.christiantoday.co.jp/articles/21180/20160617/pakistan.htm   パキスタンのキリスト教徒たちが、パンジャブ州にあるゴジュラで賛美歌を歌う。ゴジュラはキリスト教徒居住地の近くにある。2009年、1人のイスラム教徒の暴徒による襲撃事件が起きた。キリスト教徒の1家族7人はじめ10人が殺され、数十の家々や四つの教会が放火された。 この記憶を癒やす異教徒間の協力が始まっている。異教徒同士の対立があまりにも頻繁に起こる国家で、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒になってキリスト教会の会堂を建築しているのだ。 (続きはクリスチャントゥデイのサイトで) 素晴らしい! 本当に感謝なことです。   このニュースを読んだとき、 マルコ9章41節にあるイエスさまのみ言葉が思い出されました。   あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。   「あなたがたがキリストの弟子だからというので」 という言葉のニュアンスとこのニュースの話は異なるかもしれませんが、 キリスト教徒を助けてくださっているパキスタンのイスラム教徒の方たちにゆたかな報いがございますように。         ところで、 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。 という イエスさまのみ言葉を読むたびに思うのは 主 は 寛容なお方である ということです。 こういう言い方をしたら怒られるかもしれませんが イエスさまはクリスチャンにはない自由さ寛容さを持っておられると感じます。 まあ、イエスさまは神さまですから、 神さまご自身ですから権威がありますからね、 ご自身のみ言葉がルールとなるわけですが、 一方クリスチャンはタダの人間でありますから、 与えられたルール内でああじゃないこうじゃないと必死に判断し、 また一生懸命聖書の行間を読んでゴチャゴチャやっておりますからね...