今日は「神の国」に関して、わかったようなわからないような状態で放置している御言葉について考えたいと思います。
(本日も口語訳聖書からの引用です)
マタイによる福音書11:12
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
ルカによる福音書16:16律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
たぶん、ここの箇所について教わることがないまま教会という場所を離れてしまったのだと思いますが、いったいこの二つの御言葉はどういうことを表現しているのでしょうか。
トーラーを持つ民が長い長い間待ち望んでいた「神の国」がすぐそこにあると知ったなら襲ってでも奪おうとする気持ちになるのは当然でしょうし、入れるとわかっているのなら当然突入していく・・・のかもしれませんが。
この二つの御言葉は、日本語に翻訳された聖書で読むとわかりにくいのですが、ギリシャ語の聖書で読んでみると内容的にとても近いことを語っているのだということに気付きます。
Strong's Greek 971 βίαζομαι ビアゾ
この言葉がこの二つの御言葉両方に使われています。
力を使って攻撃をして強制的に何かを掴むというような「強制する」という意味なのだそうですが
マタイ11:21「激しく襲われている」とルカ16:16「突入している」が、この言葉で表現されています。
そして、興味深いことに、この言葉は聖書の中でこの二か所だけに使われているのです。
さて、この二か所には同じ言葉が使われているのだとすると
「激しく襲われている」ということと、「突入している」という日本語は交換可能である、ということになります。
「天国は激しく襲われている」というマタイの言葉は「天国に突入している」と言い換えられ、
「人々は皆これに突入している」というルカの言葉は「人々は皆神の国を襲っている」と訳しても構わないということです。
ちなみにマタイの「激しく襲う者たち」という表現は971番ビアゾの派生語で
Strong's Greek 973 βιαστής です。
これはこれ一語で「暴力的な男」という意味があるようです。そして、この言葉は聖書の中ではここだけの登場という言葉です。
ところで、ヘブライ語にはギリシャ語のビアゾに似た意味合いの言葉があります。
それはStrong's Hebrew 6555 פרַץ パラッツという言葉です。
「強制する」という意味があります。
口語訳聖書の創世記38章29節では「子の名前」として「ペレヅ」と音訳(表音)されています。
創世記38:29
そして、その子が手をひっこめると、その弟が出たので、「どうしてあなたは自分で破って出るのか」と言った。これによって名はペレヅと呼ばれた。
ギリシャ語のビアゾとヘブライ語のパラッツが似ている、と考えると、少々気になることがあります。
それはミカ書2章13節
6555番のパラッツはミカ書2章13節に使われている言葉なのです。
ミカ書2:13
打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、
彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。
彼らの王はその前に進み、
主はその先頭に立たれる。
打ち破る者、打ち破り、というところが6555番です。
ミカ書2章13節は単独で読むと何を言っているのかよくわかりませんが
12節から続けて読むとどういう状況なのかがわかります。
2章12節 ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、
イスラエルの残れる者を集める。
わたしはこれをおりの羊のように、
牧場の中の群れのように共におく。
これは人の多きによって騒がしくなる。
2章13節 打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、
彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。
彼らの王はその前に進み、
主はその先頭に立たれる。
羊飼いは夜の間、石を積んで作った囲い(おり)の中に羊たちを入れ、外敵や盗人から守るため夜通し見張っています。
そして朝がやってくると、羊飼いは囲いの戸を開けて羊たちを外に出すわけですが
そのような状況がイスラエルの「残りの者」たち
つまり、聖書の神さま、まことの神さまを信じ、「神の国」を待ち望んでいた人々にもたらされるのだ、というのです。
「打ち破る者」門を打ち破り、羊たちは外に出ていく。そして、王さまが来られ、先頭に立ってイスラエルの「残りの者たち」を導いてくださる、というのがミカ書2章12、13節の預言です。
だとすると、
ミカ書2章13節も「神の国」が到来したときについての描写であり
また「破壊的」なことが行われているという点で
マタイ11:21とルカ16:16のところとの類似性があるような気がする、
というのが「少々気になる」わけです。
ただ、
類似性はあるのだけれど、新約聖書の方は
しかし、ミカ書の方は
ただ、これは「突入」という言葉に
たとえば「犯人が立てこもっている部屋に突入した」というような
広々とした外から囲いのある家の中に入っていくというようなニュアンスを感じているゆえに持ってしまっている私の勝手な印象かもしれず、
境界面を壊して突破し、境界面の向こう側に行くという意味であると考えるならば、
・・・実際、ルカの「突入」という言葉をただの破壊ではなく強制でもなく「突入」にならしめるにあたるギリシャ語はεἰςであって、この言葉は英語でいうところの to または intoですから
場所の進入点と到達点を示すわけです。つまり、この言葉の前後にある進入点と到達点には大きさの差があるわけではないのです。
そう考えるとマタイとルカの御言葉はこう読めるのかもしれません。
いずれにしても、何らかの暴力、破壊行為が行われて神の国との境界面が壊され、神の国に突入、・・・「侵入」という言葉の方がふさわしいのかもしれない「無理やり」な様子が感じ取れるような気がします。
だから人々はメシアに「強い王」のイメージをもっていたのかもしれませんが
しかし、実際は全くそうではなかった。
そういう、人々がイメージするような破壊は起こらなかったけれども、
そこに起こったのはもっと恐ろしい、最も激しい破壊でした。
ミカ書2章13節で語られる 羊のおり=囲い は石でつくられていました。
画像を持っていないのでここに示すことができませんが、
羊のおり、羊の囲いというものをもしもご覧になったことがないようでしたら、是非とも画像検索をしてみてください。
たくさんの石を積み上げた石垣のようなものです。
ヘブライ語で「石」はאֶבֶן エベンと言います。
そしてエベンによく似た言葉として「息子」という言葉があります。
「息子」はבֵּן ベン です。
神さまを「岩」とたとえると知っているならば「石」とは何でしょうか。
そして、その「石」で作られた囲い、良き羊飼いが羊を守るために作った、石でできた囲いを、激しく強制的暴力的に破壊する!
神さまとの間にあった隔て、仕切り、
越えることのできないもの
絶望的な断絶!
主の十字架の場面で、神殿の幕が上から下まで避けたことが福音書に描かれていますが
神さまの御子=神さまご自身 の「十字架上の死」という
これ以上はない暴力的な破壊行為によって
エデンの園以来の絶望的な断絶は終わりを迎えたのでした。
その瞬間に至るまで
イエスさまは「神の国は近づいた」という言葉を持って
迷子になった羊を探し求め、
一匹一匹大切に羊の囲いの中に集めました。
みな羊飼いのいない羊のようであり、
暗闇の中、どうすることもできないまま道に倒れ、苦しみもがいていたのです。
そして、苦しむ人々は、我も我もとイエスさまの癒しと奇蹟を求め
イエスさまの行くところ行くところ、追いかけていくのでした。
マタイによる福音書11:12
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
ルカによる福音書16:16
律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
このマタイとルカの御言葉はミカ書2章13節の預言が成就したことを示すとともに
イエスさまがご覧になった人々の様子を描写した言葉であるような気が(今日の学びによって)しています。