2015年10月29日木曜日

高祖父の祈り

2011年の夏に書いた「私の高祖父」という記事の続きです。

血のつながりのあるところで発見した唯一のクリスチャンについて、興味がふくらんだということについては言うまでもなく、あの夏の日以来私は高祖父について調べていました。


調べると言っても、有名人ではありませんし、高祖父と接点のあった人は既に生存しておりませんから、母からの情報から推理していくことしかできませんでしたが。

あらためて母から「祖母」の言葉や行いにおける「キリスト教」にかかわるものを聞いてみて分かったのは

まず、
祖母が「自分のおじいさんはクリスチャンで、云々」と言っていたこと。
ここからわかるのは、自分のことをクリスチャンと名乗る宗教であるということです。
私の知人にはプロテスタント、カトリック、そのほか(そのほかってなんだ(;´Д`A ```
の信者がいますが、たまたまなのか、私がプロテスタントだからなのかわかりませんけれどもカトリックの知人たちはご自身のことを「私はカトリック」とおっしゃるので、カトリックではない宗教なのか、という印象を受けました。でも情報としてはかなり弱い。

次に、
2011年の記事にも書きましたが、祖母の口ずさんでいた賛美歌に「主われを愛す」があったということは何か手掛かりになるかも、と思いました。
便利な時代になりこういうことはすぐにネットで検索すれば何かが出てくるわけですが

ウィキペディアに「主われを愛す」という項目がありました。

どうやらプロテスタントの賛美歌のようです。

さらに母の記憶として、

小さい頃、家の近所に救世軍の教会があり、そこの人たちが歌っている賛美歌にあわせて祖母が懐かしそうに小さな声で口ずさんでいたのを聞いたことがある、
また、
祖母がほかの家族とは違う何かキリスト教について肯定的な事を言って、娘である母を教会の日曜学校に行かせるようにした
ということもあったようでした。
母が幼少期を過ごした場所の近くにはカトリック教会もあるので、祖母がもしもカトリックに慣れ親しんでいたのであればそちらに行かせたはずで、そういう点からもおそらくカトリックではないどこか、と推測しました。
 
それにしても、私の母はキリスト教が大嫌いなので、日曜学校に通った経験があったということにはとてもとても驚きました。


 
さて、
高祖父が元気であった当時というのは、世界遺産となった富岡製糸場をはじめとするシルク関連の産業が群馬県各地で盛んだったころです。外国の技術とともにキリスト教が入ってきた、そういう時代でした。
いろいろな書物やインターネットで当時の群馬県に存在していたキリスト教会について調べたところ、同志社の新島襄先生でおなじみの安中教会やハリストス正教会、天主公教会、日本聖公会など、短期間にものすごい数の教会が誕生していたのだということを知りました。

これではまったく「高祖父の教会」にたどり着くことができない…と一瞬あきらめかけましたが、

重要な手がかりがあることに気付きました。

家族親族とゴタゴタしながらもクリスチャンが教会堂を建てるという場合、そのクリスチャンはいったいどこに教会堂を建てようとしているのか、ということです。
ゴタゴタの原因は結局金銭的な問題だったらしいのですが、同居する孫(私の祖母)に賛美歌を教えているような高祖父が、どこか遠方に教会堂をつくるとは考えにくいものがあります。とすれば、この近辺…。

「この近辺」というのは、私が今住んでいるわが家の近辺という意味でありますが、
それは以前書いた記事にあるとおりでありまして、
私はずっと知らなかったのですが、今自分が住んでいるところからそれほど遠くないところに祖母と高祖父が住んでいたとされる場所があったのですね。

…だとすると、まさか、あれか!?




本当にそうであったら、すごいというか、ここまで来ると面白いとしか言いようがなくなるのでありますが、


実は、我が子が通っていた幼稚園はキリスト教会によって建てられたとても古い幼稚園でありまして、昔はその場所に会堂もあったということでした。幼稚園が作られたきっかけは、近所の忙しい農家の子供たちを預かるようになったことだったらしく、
現在その場所は教会としての活動は行われていませんが幼稚園の建物の中のお遊戯室のようなところがチャペルのようにしつらえてあるのです。



我が子にとっての幼稚園の3年間というのは、アトピーが最もひどい時期で、親子ともどもつらいことばかりでしたが、幼稚園に行けば先生たちがとても優しく、お友だちやママ友も優しく、とても楽しく過ごさせていただきました。
そして、この幼稚園の主任先生と知り合っていなかったら、
私を心の病にまで追い込んだ「小学校入学」について、登校班や子供会育成会への加入だのという細かい話が絶対にうまくいかなかったであろうということもわかっており、
未来に起こることの全てを見通しておられた
神さまが用意してくださった幼稚園だった、と私は確信しているのですが

もしこの幼稚園が高祖父が建てた教会と関係のあるところであったら・・・



まるで小説のようです。

毎日幼稚園に楽しそうに出かけ、小さな手を合わせてお祈りをし、聖書のお話を聴き、賛美歌を歌い、
そう、「しゅわれをあいす」も歌っていた娘
そこが?高祖父の??

飛び跳ねたくなる気持ちご理解いただけるでしょうか。
 

そしてもし本当にこの幼稚園が高祖父が建てた教会と関係のあるところであったら・・・

母はもしかしたら、彼女のひいおじいさんが深くかかわった教会の幼稚園に知らないうちに行って聖書のお話を聴いていたということになるのかもしれないわけです。


キリスト教なんか大嫌いだしクリスチャンの娘も気に入らないと言っていながら、なぜか孫の「キリスト教」行事に何度何度も楽しそうに足を運んでいた母のことを思い出すわけですが、
そこが高祖父の、と思ったら・・・




そして


高祖父と一緒に楽しそうに賛美歌を歌っている幼い祖母と、楽しそうに賛美歌を歌っていた幼かった日のわが子の姿が重なって見え

目頭が熱くなるのでありました。

晩年、脳の病気のために、人の言うことはわかるけれども自分の言葉を発することが出来なくなってしまった祖母に福音を語りつづけていた私。
その頃の私は祖母の幼い頃のことなど全く知らなかったのでありますが、
祖母は、私の言葉を聴きながら心の中で何を思っていたのでしょうか。

(じいちゃん。私、希望が湧いてきたよ!)






やがて来るべき時が来て、
母が信じている占い師が言ったとおりに成仏していない、
成仏なんてしているはずのない高祖父と会えること

とても楽しみです。




「やだあーじいちゃん?アタシ??孫の孫だよ~~(^O^)
で、あれが孫の孫の子。わかるぅ~??」




(どんな会話するつもりだ)


 
 
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 2019年1月 追記


国立国会図書館デジタルコレクションで大正期の基督教年鑑を数冊調べましたところ、
幼稚園のところに作られた教会の土台となった古い教会の住所が番地までわかりまして、私の推理でほぼ間違いない、という結論に至りました。
また、私の祖母が歌っていた「主われを愛す」につきましては、祖母が5歳の時に発行されたその教会が所属する宗派の「こどもせいか集36番」に収録されていました。

2015年10月19日月曜日

「羊のおり」って何?

新改訳聖書第三版で詩篇を読んでいたところ意味の分からない単語に出くわしました。
「羊のおり」
68篇13節、78篇70節に登場する言葉です。


あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、
銀でおおわれた、鳩の翼。
その羽はきらめく黄金でおおわれている。
全能者が王たちをかしこで散らされたとき、
ツァルモンには雪が降っていた。
詩篇68篇13,14節

主はまた、しもべダビデを選び、
羊のおりから彼を召し、
乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れてきて、
御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを
牧するようにされた。
詩篇78篇70,71節


次に新共同訳聖書で同じ辺りを引用します。

主は約束をお与えになり、
大勢の女たちが良い知らせを告げる
「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。
家にいる美しい女も戦利品を分けている。
あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。
鳩の翼は銀に、羽は黄金に覆われている。
詩編68篇12~14節

僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り
乳を飲ませている羊の後ろから取って
御自分の民ヤコブを
御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。
詩編78編70,71節


そしてNIVからも同じ所を引用


Even while you sleep among the sheep pens,[e] the wings of my dove are sheathed with silver,
its feathers with shining gold.” When the Almighty[f] scattered the kings in the land, it was like snow fallen on Mount Zalmon.
Psalm68:13,14
Psalm 68:13[e]Or the campfires; or the saddlebags
Psalm 68:14[f]Hebrew Shaddai



He chose David his servant and took him from the sheep pens;from tending the sheep he brought him to be the shepherd of his people Jacob, of Israel his inheritance.Psalm 78:70,71



まず、68篇のところ
新共同訳では「羊のおり」と訳さず鞍袋と訳してあります。
これについてはNIVの方に注が付いていまして
Or the campfires; or the saddlebagsということで、「キャンプファイアー」または「鞍袋」

引照付きの新改訳聖書第二版では、「羊のおりの間」の「間」の所に小さく(1)とあって参照すると創世記49:14と士師記5:16節とあります。
なのでそれぞれを開いて見たところ「鞍袋の間に伏す」とか「鞍袋の間に座って」という表現がありました。



次に78編ですが、3つの訳とも全て「羊のおり」です。

ところで、「羊のおり」って何度も何度も読んでいると「ひつじ・のおり」なのかも、とか、「おり」という名前の羊なのか、という妙な気分になってきたのですが、(^_^;)
NIVを見ると the sheep pens となっていますので「羊の」だということがわかりました。




68篇の方は創世記と士師記を参照しながら、そして書かれた時代背景を考えながら新共同訳とあわせて読んでみると、戦いに勝った人々の様子ということで、なんとなく雰囲気がつかめるような感じがしました。

また、78篇の方ですが、ダビデが、「おり」、または「囲い」に入っている「本物の羊」を飼っている立場であって、その「おり」の中では雌羊が赤ちゃん羊にお乳を飲ませているという、
そういうところにいたダビデを
神さまが取り(召し)出して、羊ではなく神さまの御民を、羊を牧するかのように養うようにされたという意味でしょうか。

これまで私にとって羊飼いというのは
「大量の羊を広い緑のまきばに放している」
イメージなのでありますが、
「羊のおり」から召されたダビデということになると、
他の羊たちから取り分けられた囲いの中で赤ちゃんにお乳を与えている雌羊のようなデリケートな羊たちを取り扱っていたというわけで羊飼いの印象が違う感じがしました。
そういう部分を強調するための「羊のおり」なのでしょうか?
というか、羊飼い自体についてもほぼわかっていない自分に気付きました。

イエスさまが語られる良い羊飼いというのはもしかしたらこの詩篇のイメージなのかしら。
だからこそ、迷子になった一匹を探しに行くのかな。


2015年10月9日金曜日

「乳幼児から放射性セシウム検出されず」ってさ(怒)

毎日新聞のサイトで記事を読んで頭に血がのぼってしまいました。


何を怒っているのかというと、

1.近ごろでは、関東に在住の、しかも食品にとても気をつかっている方々の尿からも放射性セシウムが検出されているということを知っている。


2.甲状腺がんや甲状腺の疾患は確実に増えていることを肌で感じている。(甲状腺の問題に関する新しい看板を作って宣伝を始めた医院が高崎と伊勢崎にあることを知っている。)


3.特徴的な重い病にかかる方が周りでも確実に増え、また、突然死も増えている。(親族や知人)
そして近所では心臓の奇形を持つ赤ちゃんが2名(2軒)心臓検診で引っかかった小学生が2名(前述の赤ちゃんの家とは別の2軒の家の子どもたち)


という体感の中にあるが


1.原発事故は遠い過去のもの、終わったこと、だと考えるようにマスコミが旅番組やワイドショーで人々を誘導。そして人々が、「確実に放射能汚染のある場所」に観光で出かけ、ほこりを立てながら歩き、土や植物に触れ、海水に身体や顔をつけ、もしくは基準値をわずかに下回る魚を捕って食べて喜んでいる姿を積極的に報道したり、「食べて応援」することが美徳であり健康に何も悪いことはないと言わんばかりに城島くんに24時間マラソンを走らせるようなことをしている。


2.そして、「鼻血」の問題。2011年の事故直後にそれは新聞記事にもなっていたし、自民党の議員も取り上げていたのに、なぜかほとんどのマスコミが沈黙してしまった。


というような中にあり、今回のこの記事がまた新たに

「放射能ってけっこう安全でしょ」アピールをしていると感じたのではらわたが煮えくり返ってしまったのです。

人は皆、自分に都合の良いことを聴きたがるものです。

大手メディアがああいう断定的な見出しで報道することの害悪に気付いてほしいと思います。

論文の紹介をするというような時には、目新しさだけでなく、落としてはいけないポイント、というものがあることを忘れないでほしい。多くの人はソースにあたらず記事を読むだけなのですから。





それでは
祈りつつ、引用文(太字黒い文字)に併記する形で
思うことを紺色の文字で書いておきたいと思います。






「東京大などの研究グループは8日、東京電力福島第1原発事故を受け0〜11歳の子ども2707人の内部被ばくを調査した結果、体内から放射性セシウムは検出されなかったと発表した。乳幼児などを対象にした内部被ばくの大規模な調査結果が公表されたのは初めて。論文は9日、日本学士院の科学雑誌の電子版に掲載される。」

・0〜11歳の子ども2707人の内部被ばくを調査をしたのは住民の要望によるものなのか研究グループの「被ばく予想」に対する答を求めるためなのか。それとも研究者の興味ではなく国の命令による調査なのかこの記事からはわからない。主体者が誰であるかによって設定条件が変わると考えられ、また、結論の表現の仕方が変わるはずなので毎日の記者さんにはここをきちんと書いてほしいと思う。

・体内から放射性セシウムは検出されなかったという結論らしいが、何故セシウムだけを問題にするのか。セシウム以外の放射性物質について調査はしなかったのか。それとも、検出されなかったのがセシウムだけだったという意味かこの記事ではわからない。

「乳幼児などを対象にした内部被ばくの大規模な調査結果が公表されたのは初めて。論文は9日、日本学士院の科学雑誌の電子版に掲載される。」…そりゃ、今どきこのネタ関連は何をしても初めてだからね、学者は楽しくて仕方がないだろう。



「研究グループによると、検査は福島県内の病院3カ所で乳幼児用に開発したホールボディーカウンターを使い2013年12月〜15年3月に実施。約7割が福島県在住で、宮城や茨城県などの在住者もいた。装置の検出限界値は成人用の5分の1以下の50ベクレルに設定し、すべての子どもで検出されなかった。」

・調査に参加した子どもたちはどういう基準で選んだのかこの記事ではわからない。県名だけではなく論文には詳細が記録されているのだろうか。また、原発事故当時の行動の詳細もわかっているのだろうか。身長、体重、生活パターン、体質(便秘しがちとかそうでないかとか)、病気服薬の有無とか、いったいどういう基準で2707人選んだのだろうか。
・ホールボディカウンターだけでの結論?
・50ベクレルを検出限界値に設定したと言っているが、セシウム137が1ベクレルあればセシウム137の原子が約14億個も存在しているっていうことだからね、「すべての子どもで検出されなかった。」とするこういう発表の仕方は素人相手に汚いんじゃないかと私は思う。



「不検出の場合、年間の内部被ばく量は16マイクロシーベルト以下と推計され、外部被ばくを含めた追加被ばく線量の国際的な限度値年1ミリシーベルトを大きく下回るという。
 また、検査対象の保護者に福島県産のコメや野菜、水道水を避けているかアンケートしたところ、内陸部の福島県三春町では「すべて避けている」と回答したのは362人のうち4%にとどまった。研究グループは「福島産の食材を口にしている子どもも、内部被ばくの健康リスクは低いことが確認された」と指摘している。」


 「また、検査対象の保護者に福島県産のコメや野菜、水道水を避けているかアンケートしたところ、内陸部の福島県三春町では「すべて避けている」と回答したのは362人のうち4%にとどまった。」と言うが、なぜ全体の平均ではなく唐突に三春町の4%という数値だけを取り上げるのか。他の自治体では何%の保護者がすべて避けていたと解答したのか。この記事を読む限りにおいては三春町以外は90%以上だったのではないかと想像することだって可能だ。
たまたま三春町が4%という低い数値であったからというので、印象操作をする目的でこれを利用したのではないのかと想像することだって可能だ。
調査対象の約7割が福島で残り3割は宮城、茨城などだということで、「など」がどこの県かわからないが、わざわざこのような検査を受けに来るということは、被ばくを心配している保護者であるだろうということが予想されるので、そうそう無防備な生活をしているとは思えないのだが。

・…それに、だ。あえてお尋ねするが、そもそも市場に出まわっている食品は安全なんだろう?検査していない高汚染地の家庭菜園のものを食べ続けていた群が内部被ばくの健康リスクが低かったというのならニュースだろうが、福島県産を避けていた避けていないとはどういう意味なのか。福島県産はやはり危険であるかもしれないと予想した上で相関を調べるためそういう調査を行ったとしか聞こえないが。




「内部被ばくを巡っては、福島県が成人や子どもを対象に2011年6月から今年8月まで延べ約26万5000人を対象に検査を実施し、大多数について放射性セシウムは検出されなかった。」


・大多数とは何人なのか。この調査でも子どもから放射性セシウムは検出されなかったのか。のべ人数で表されているが、検出された人は常に同じ人々だったのか。それとも後になって検出されるようになったり逆に不検出になった事例はあったのか。最近の健康状態と放射性セシウム検出の有無には相関関係があったのか無かったのか。
論文についての記事だったはずなのに関連事項として福島県の検査結果をここに加えることの意味は、原発事故によって放射性物質が比較的多くまかれてしまったとされる地域の人々からとにかく「放射性セシウムが検出されなかった」と言いたいだけなので、私が指摘したようなことはここに書く必要はないし興味があるんなら自分で調べろ、と記者さんは思うかもしれないが、



「放射性セシウムが検出されなかった」という調査結果がニュースだというのなら

そもそも、そんな内部被ばくするかもしれないけどよくわからない、一か八かという食べ方飲み方は当初から禁止すべきだった。
それどころか、全ての国民が憲法で言うところの健康で文化的な生活を営むために、汚染地から人々を強制的に引き離し、汚染地での経済活動を国が一切禁止すべきだったのではないのかとさえ思う。



福島産を食べていた人も大丈夫でした、っていう結論がもし今回出されたというのなら、このデータをもって初めて大丈夫だったという結論なのだ。
(検出限界は50ベクレルでちょっとアレだけど…。)

つまりこれまではわからなかったのだ。
大丈夫なのかどうかわからなかった。
わからないのに大丈夫だと言われていたので
調査対象者はそして多くの人々はずーっと食べたり飲んだりしていたって事だ。


…人体実験だよね。






そして、
重要なことは
50ベクレル出たとか出ないとかというよりも、
それによって身体に異常が起こるのか起こらないのか、ということ。

…そして、言うまでもないことだが
このことによる異常は絶対出してはいけないのだ。

ただ、

ツイッターを見ていたらどこかの方が、
どんなに気をつけていたって何をしていたって病気にもガンにもなる
と言っておられたのを読んで

…そう、病気の因果関係なんて絶対わからないって言うんだよみんな。
特徴的で因果関係が明白なものまでも
本当はわかっていてもわからないことにされる。
BCGを打ってBCGの形に腫れていてもBCGとの因果関係は不明だと言ってのける事が出来る、煙にまくのがうまい高学歴高偏差値の学者と医者と役人でまわしている国だから。



ああ、放射能。

いやな国になったものだ。








追記

メディアが、

弱者の立場に立たず

為政者側に立った報道をするようになる


これが「戦争」の始まりです。





論文に出会えたので、リンクを貼っておきます



三春の4%の話、362人の子どもたちのうち105人はbottled waterを飲んでいるんです。46人が福島産米を避け、50人は福島産の野菜を避けている。

で、4%って言うのは、それら3つ、水も米も野菜も全部避けていた人の割合なんですね。全部避けていた人の割合だけを取り上げるっていうのはやはり印象操作が否めない。


そして、南相馬に本籍があり南相馬に現在も居住している人に至っては

638人中507人が水を避け、492人が米を避け、465人が野菜を避けている。で、それら全てを避けているのは全体の57%。だそうです。

ベン図もあってわかりやすかった。

2015年10月3日土曜日

当然と言えば当然の流れだが

以前NHKのクローズアップ現代で、公式確認から50年が経った新潟水俣病の話題を取り上げていた。
50年経ったところでまだ終わりが見えず、否、見えないどころか胎内で影響を受けたと考えられる患者さんの苦しみを…当然そういうことはあるだろうと思ってはいたが、改めて恐怖を感じながら知ることとなった。


これまでのこうした有害物質によって引き起こされてきた病は発生源である企業の工場を中心とする周辺地域に特徴的に見ることができるものであり、原因物質との因果関係を動物実験で示すことが可能であった。しかし、それであっても最小限の「支出」で自らの傷を小さく済ませたい企業や国の思惑によって、被害者は十分な償いをしてもらうことが出来ぬまま時は流れていく。

公害病、薬害、予防接種被害、etc.
すべてがそうだ。
原因が明らかであってもそう簡単に「はい、そうですか」なんて認めるところを見たり聞いたりしたためしはないし、実際に被害にあって得た経験から言えることは、医者や役人がよってたかって苦しむ被害者をこれでもかこれでもかと傷口に塩を塗り込み、否、それどころかじりじりじりじりと、落ちたら死んでしまうであろう断崖絶壁に追いつめていくということだ。



だから、原発事故はいったいどうなることだろうかと、いったい国はどうするつもりなのだろうかと眺め続けてきたが、
…これだけ広範囲に放射能がぶっ飛んでいるわけだから、
公害病の先例から考えれば企業も国も補償しようなどとは考えていない事は明白で

しかも、人体を突き抜けていく放射線が引き起こす病なんていくらでも考えられる、つまり、病と放射能との因果関係なんてとことん否定できるから

補償不必要な自覚無き「実は被害者」かもしれない病人だらけという暗黒の状態に入り込んでいくのだろうと嫌な確信を得た今日この頃。



日本の名医を検索できるサイトに「治療数・手術実績数からみる病院ランキング」という資料が公開されていた。
(問題があると困るのでリンクははりませんから、興味のある方は「」内をキーワードとして検索をかけてみてください。)

具体的な病名は書かないが、20種類くらい最近3年間の県別データを比較してみたところ、明らかに患者が増加していることがわかる。

まあ、深刻な疾病の増加は東日本だけにとどまってはいないので、それをどうとらえるかという事も考えなければいけないが、
…「食べて応援」の「成果」が出ているのだと取ることもかもしれないし、放射能だけではなく著しい環境の悪化、何らかの原因による日本人の体質の悪化…いろんな事は考えられる。
しかし我が県とその周辺県で治療数がかなり増加している子どもたちの身体に起こった「たちの悪い疾病」について
…おそらくは病院の小児科の医師たちは口に出さぬまでも何か感じていることがあるのではないだろうかと思う。…はっきり言えないのだろうが。

それとも彼らも言うのだろうか。甲状腺の腫瘍がたくさん発見されるのは検査数が増えたからなのだと言うのと同じように心配性の母ちゃんが増加していて検査数が増えたために悪性の疾患が多数発見されたのだと。




東日本に住む「私」の親戚5軒の中で起こったここ2年くらいの病。
川崎病1名
紫斑病1名
橋本病1名(成人男性)
バセドウ病1名(成人男性)
白血球数の異常1名
膀胱ガン1名

親族ではない近所の人にまで範囲を広げると、心疾患による突然死、またはガンによる闘病を開始した人、心臓に異常のある赤ちゃんをそれぞれ複数名挙げることが出来る。

もちろん因果関係なんてわからない。
そして本人達に自覚がないように全く関係なんか無いのかもしれない。
それにわかったとしてもいまさらどうしようもないだろう。
原因がどうであれ…要するに闘病生活が始まってしまった
彼らにとってはそういうことなのだ。


もしも因果関係があり補償があるとしても、
病気が治るわけではなく、
治療費の負担が少なくなるというだけのこと。
それでもそれはそれでありがたいのかもしれないが、


…むなしい。




2015年9月8日火曜日

主のことばを聞くことのききん

平日朝5時台、家事をしながら日テレを見ていると、「あいことば」というコーナーがあり、キャスターが短い「言葉」を読んでくれます。朝のひととき、心に残る言葉もあり、ちょっと手を休めて聞くこともあるのですが、

それを見ながらいつも思うことは「人は言葉によって生かされている」ということです。
人はパンのみにて生くるにあらず、と聖書にありますが、私たち人間はもちろん食べなければ命がありませんが、満腹したとしてもそれだけでは今日の歩みを進める気力と言いましょうか意欲といいましょうか、心に力を得ることが出来ないのであります。


母の胎を出て、保育園幼稚園に通い始めた瞬間から、私たちは毎日外に出て、より高いもの高いものをと頑張らされてきました。
それでも、小さな頃はおりこうだね^^なんて褒めてくれた人が一人くらいはいたのかもしれません。
しかし、成長するにしたがって親の目はつり上がり、優しい幼稚園のときの先生みたいな先生は中学校のどこをさがしてもいやしない。私が中学生の頃などはまだ体罰も日常的にありまして、何時間も正座させられたり頭を平手やスリッパでひっぱたかれたこともありますし、竹刀をぶらぶらさせながら歩いている教師もおりました。
そして、もはや誰もほめてなんかくれません。ダメ出しばかりです。
順位が下がった偏差値が下がったこんなんじゃだめだ

…そしてそれは学校を卒業し社会に出てからも形を変えてずーっと続くのでありました。


人間ってどうしてこんなに疲れるのでしょうか。
栄養ドリンクを飲んでももつのはわずかな時間

朝起きてだるくて重いのはもちろん肉体の疲れもありましょう。
しかし、もし心に力があったらもうちょっと変わるのではないのかしら。


ならば、心にはどうやって栄養を届けるのか。

で、おそらく日テレさんは「あいことば」っていうコーナーを作ったのではないかと。
朝、出かける前のひととき
せわしさと、今日の予定と不安でいっぱいいっぱいになっている心に
ふわっとした安らぎのひとときっていう感じで。


「言葉」ってね、嫌な言葉は人を死に追いやってしまうこともありますけれども
「生きよう」「もう少しだけ頑張ってみよう」という力を与えることもありますよね。



なぜでしょうかね。


「いのち」って、一般的には命ではない物質が劇的に化学変化して出来たってことになってますが、物理的に割り切れないふしぎなものですね。
単なる物質であるならば、車のようにカロリーさえあれば元気が出るはずなのにそうではない。
(ビタミンが必要とかそう言う意味ではありませんよ(^O^)
なぜ、快とか不快とか気力とかそういうデリケートなものがあるのか。


人間だけのことではありませんけれども、脳を持つ動物はやはり何か単純な物質とは違う部分があるのですよね。偶然の産物とは思えない、クリエイトも出来、死をも思い企てさえする「脳」。



やはり、生き物というものは、どなたかの設計で作られた作品であるとしか私には思えないのです。



そしてそれこそが
私たち人間が「言葉」によって力を得ることが出来る理由でもあると思うのです。

聖書を読むと一つのヒントが与えられます。


初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。新約聖書ヨハネの福音書1章1~5節

旧約聖書の創世記を併せてお読みいただくとおわかりいただけると思いますが、
私たちは、神さまと親しい関係にある時にベストが尽くせるよう神さまによって設計され神さまのことばよって造られた者です。
闇に打ち勝つ光である神さまの、「愛あることば」をしっかり心に受け取って初めて本来の、「設計された通り」の力を発揮できるように造られているのです。

だから、そこに至るまで私たちには何かが足らない
それで何かを探し求め続けるわけです。


良い言葉を聴きたい、
良い言葉を聴いてパワーを得たい
良い言葉を聴くと元気が出る



しかし、この似て非なるもの、
この世の与える「水」は飲んでも飲んでも渇くのです。
名言であろうと、励ましの言葉であろうと
いただいたときには元気が出ますし
時には座右の銘などと言って人生の指針にしたりしますけれども、

究極的な力にはならない。
どん底に落ちておかしくなってしまった自分に力を与えたのは誰の言葉でもありませんでした。
神さまのことば、聖書のことばでした。
死に打ち勝つ力がそこにあり、神さまのことばは私に道を示してくれました。



あなたを造られた私を造られた神さまのことばは
永遠のいのちを与えます
渇くことのない水、命の水となるのです。






さて、


そう言っておきながら最後にオソロシイ言葉を付け加えておきましょう

旧約聖書のアモス書8章11~13節
見よ。その日が来る。
―神である主の御告げ―
その日、わたしは、この地にききんを送る。
パンのききんではない。
水に渇くのでもない。
実にの言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へとさまよい歩き、
北から東へと、
のことばを捜し求めて、行き巡る。
しかしこれを見いだせない。
その日には、美しい若い女も、若い男も、
渇きのために衰え果てる。

ひとつの聖書のことばに近景と遠景を見るという読み方をするならば、
これはこれから本当に恐ろしいことが起こるという風に読めます。



を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。イザヤ55章6節



2015年9月4日金曜日

それは今私が知らないだけ

ああ、私が前に進んでも、神はおられず、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。ヨブ記23章8,9節
ヨブの苦しみ、
それは彼自身の身体に起こっている問題や愛するものとの悲しい別れ、そして財産を失うことにとどまらず 、その苦しみを親しい友人にも理解してもらえないということであったと思います。
しかしそれ以上であったのは、神さまがわからなくなってしまったことなのだ、とつくづく思います。愛なる神さま、恵みに富みあわれみに富み豊かに与えてくださるはずの神さまがいったいどこに行ってしまわれたのか、
「ああ、私が前に進んでも、神はおられず、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。」

クリスチャンにとっても、正直言って、こう感じざるを得ない、大いなる失望でも申しましょうか、そんなときが無くはない。



しかしです。
このヨブの言葉はそのまま真実なのでしょうか。
神さまはおられないのでしょうか。神さまは休暇を取っておいででしょうか。

そんなことはないのです。
聖書をまるまる一冊読むことの出来る現代の私たちには、ヨブがこのようにつぶやいた瞬間に、
神さまがいったいどこにおられたのかよくわかっています。

神さまは私の言葉の一部始終を聴いておられる方。
神さまは私の言葉を無視されない方。
神さまは共にいてくださり私を背負ってくださる方。
です。

そして私たちはヨブ記の最後をよく知っておりますから
ヨブよ、そうではないのだよ、と私たちは彼に語る事が出来るのであります。



今は山が微動だにせず、
事態はひたすら悪い方に行っているようであり、
まるで神さまがいらっしゃらないように感ずる時、


しかし、私たちはみ言葉を読み、
み言葉にそう書いてあるのだから、「信じる」。
神さまがそう言われたのだから、「信じる」。
それが「信仰」と呼ばれるものです。



ヨブさん、あなたには今はわからないと思いますが、
あなたのどん底のつらさと
あなたの人生の一部始終は
私たちの聖書に書いてあるんで私知ってるんですが、
もう少しで終わるから
そして、最後いい感じだから
もう、ちょっと、もうちょっとだけ耐えてください。
しかもあなたの苦しみによって私たちは、相当ななぐさめをうけております。
あなたの苦しみは世界中の人々を生かす深い意味のあるとてつもない価値のある苦しみなのですよ。

絶対さいごいい感じに終わるからね。(^O^)


そう。
だから私も

信じます。

2015年9月1日火曜日

甲状腺がん「疑い含め137人」という話

Our Planet-TVのニュースを見ました。

甲状腺がん疑い含め137人へ、2巡目は25人〜福島健康調査

https://www.ourplanet-tv.org/38251/

 

福島県は31日、東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて実施している福島県民健康調査の専門家会議を開催し、新たな甲状腺がんデータなどを公表。甲状腺がんと疑われる子どもは検査対象の38万人のうち、137人となった。すでに手術を終えたのは105人。病理診断により1人は良性結節、残りの104人が甲状腺がんと確定した。


ただただ悲しい結果であると思いました。

38万人のうちの幾人

と表現されますけれども、

人生を歩み始めたばかりの子どもたちに病が見つかり
しかもそれがガンであったとき

保護者の方々、ご家族の方々の悲しみはそして不安はいかばかりでありましょうか。




数字の遙か向こうに

病院の診察室で涙を浮かべる人々の姿が
私には見えてきます。

心のうちを想像すると涙は止まりません。





しかし
そう、
「あの人たち」には関係ないし、
「あの人たち」に理解など出来るまい。

単なる数字
厄介な数字

そう思っていればいい。


137人の子どもたちの家族の苦しみは
神さまのノートにきちんと記録されているのだ。
決して消されることなどない。
忘れられることなどない。


「復讐するは我にあり」だと


私はそう信じています。


小さき者、弱い者をないがしろにする者は
決してゆるされません。






2015年8月30日日曜日

モミの木の形態変化の話に研究者の良心を見た

帰宅困難区域のモミの木について、主幹が欠損した二股様の形態変化が多く観察されたという研究結果を報道していました。




47newsによれば
http://www.47news.jp/CN/201508/CN2015082801002062.html


「調査は環境省の依頼で実施。環境省は事故後、約80種類の野生動植物で放射線の影響を調査しているが、実際に影響がうかがわれる事例が確認されたのは初めて。」


何故その80種類を調べようと思ったのかという調査対象生物の選定行動、そして、同一種であっても私たちの顔が異なるように生物の形態にはある程度の多様性があるのでどの程度の変化を異常と判断するのかという基準によって結論は大きく変わりますが、このような公的な情報は少ないものなので、貴重なデータとして頭に叩き入れなければなりません。
…ただ、裁判等で何かの因果関係を証明する資料とはなりえないとは思いますが。




朝日新聞の記事を読むと
http://www.asahi.com/articles/ASH8X55ZLH8XULBJ00M.html?ref=chiezou

「空間線量が最も高い大熊町で9割以上が変化、浪江町では4割強、3割弱と変化率が減少するものの、北茨城市でも1割弱で変化があった」

ということで


まずは調査の大前提を確認しましょう。


放射線は生物の形態変化を起こしうる


そう思っていたからこそ時間とお金をかけて調査をしたわけですね。
原発事故以来この辺りまでが揺らいでいるような錯覚を一般人はおこさせられていますのでね、ここはきちんと押さえなければいけません。

放射線は形態変化を起こしうるという言葉は言い換えれば、

放射線は細胞内の小器官を破壊し細胞を破壊しうるものであり
(だからそもそもガンの放射線治療というものがある)
遺伝子の変化を起こしうるということです。



遺伝子は動物も植物も人間もみんな同じ「DNA」というものから出来ています。
生き物の種類によって持っている遺伝子の量というか数は異なりますが、
DNAには違いない。DNAという「物質」ですね。
DNAというものはデオキシリボ核酸という「物質」ですから
人間のDNAだけが特別だとか、頑丈に出来ているとか、変化を起こしにくいというものではありませんよ、念のため。

ですから人間の遺伝子も放射線によって壊れるのです。

遺伝子は大切なものですから「修復」能力を持っておりますけれども(スゴイですよね、良くできてますよね、神のみわざですね。)
しかしその能力を上回れば
その破壊された遺伝子の指示によって合成されるはずであったものは作れなくなり、
それによって私たちの身体には異常が起こることになります。


きちんと管理された上で治療に使う放射線であればまだしも
ばらまかれた放射能から出される放射線は、私たちの身体のどこをどのタイミングでどれだけ貫通しているか全くわかりませんし避けることが出来ないので危険。
さらに、呼吸や飲食によって体内に放射能を取り込んでしまった場合、排出できないかぎり自分の身体のなかで放射線が出され続けているわけですからよりいっそう危険なのです。

したがって、ごく少量であっても放射性物質を含むものは体内に入れるべきではありません。




さて、この結果についてですが、
まず
「大熊町で9割以上が変化」

こういう状況の時、普通は
ほぼ全ての個体に異常が見られた
と表現してかまわないと思いますが
原発事故後、同じモノをこういう表現に言い換える方が多くなった気がします。

・先端の異常があるというだけで枯死はしていない
(死んでないよ、ちょっとの異常だよ、という安全アピール)

・このような環境であっても異常のない個体が約10パーセントもあった。
(1割ではなく10という数字を使って数を多めに感じさせる印象操作。かつ「このような環境であっても」という言葉を加え放射線なんてチョロいもんよ的な印象を与える)

・木は家の中に入れないが人間は家の中に入れるので人間は大丈夫
(人間は特別な生き物であるのだ、と強調することで不安を与えない)




…って
生徒の模試の結果見て励ますのとはワケが違いますのでね
ただちに命に直結することですから「危険」はまっすぐに「危険である」と伝達しなければいけません。


そして次
「浪江町では4割強、3割弱」というこの結果。

なーんだあの浪江町であっても10本のうち6本は全然異常がないし、もうちょっと線量が低いと7本くらいは大丈夫なんだよかったあ。
と思うのか、
この「割合」だと1万本あると4000本以上に異常が見られることになるのだ…困ったなあ、と思うのか。

何らかの意図を持つといくらでも印象の操作はできるものですね。





しかし、最後のこれは強烈です。ごまかせない話。
「北茨城市でも1割弱で変化があった」
これには研究者の良心を感じました。

遠い遠い場所のモミの木を論ずるのではなく、
0.13μSv/hという微妙な空間線量である場所のモミの木。
つまり、ひどい汚染でなないがゼロではない、しかも除染はしない場所を選ぶという行動によってメッセージを発信しているような気が私にはいたします。

考えすぎでしょうかね。

しかしね、この場所を取り上げることによって、いろいろな問題が起こるであろうことは容易に想像できるわけです。正直言って研究者にとっては今後の生活を考えたらリスクだと思います。それでもなぜこの場所のデータをあえて選んだのか。



研究者の心の内側にあるものを想像してみたいと思います。
想像ですから的はずれかもしれません。が、想像は自由ですから。

以下想像

研究者は新しい発見が大好きだろうと思います。
しかもそれを自分の手で論文にまとめ上げるということは誇りであろうかと思います。

福島原発事故による放射線の動植物への影響というテーマは、日本にとって重要なものであり、未知なものでありますから研究者の心をくすぐるものがないと言ったらウソになると思います。勇んで調査を始めた彼らは、おそらく最初のうちは新しいおもちゃを手に入れた子どものようにデータを集め続けたに違いありません。

しかしです。9割という恐ろしい変化を目の当たりにしたとき、ハッと我に返り、事の重大さに打ちのめされたのではないでしょうか。

生き物を相手にする分野を志す方々はその生き物に対する愛情と言いましょうか、そのようなものに近いものを持っていらっしゃる事が多いと察します。
美しい野山が、目に見えない恐ろしいものに汚され、愛する動植物に異常をもたらしたという現実。取り返しの付かない現実。実験室やテキストの上では理解していたかもしれないけれど、現実の世界の中で見てしまった恐怖、そして怒り。




学問は本来自由であります。
しかし、研究者が置かれている立場は決して自由ではない。
御用学者なるものが存在することをみればわかります。
それでも、人間として、伝えなければならないことがあると思った時…


以上、研究とは全く関係ない素人のおばさんの想像でした。





「北茨城市でも1割弱で変化があった」という発表に、そこまで察しなくてもいいのかもしれません。しかし、私はこの結果を重く重く大切な言葉としてうけとめようと思います。
研究者が伝えたいと思った精一杯のメッセージを。


私の想像は完全なる勘違いなのかもしれませんが、

でも、だったとすればこれは神さまのメッセージに違いありません。
真摯に自然と向き合う科学者に与えた神さまの言葉
「放射線は安全なものなんかじゃない」
その事実を、研究者の言葉を通して私たちに教えているのです。

聴く耳のある者は聴きなさい、と。



いずれにしても、地球に住む人類としてこの結果はしっかり受け止めなければなりません。


postscript

汚染地区に入っての調査については相当のご苦労があったことと思います。
ありがとうございました。
調査をされた先生方、学生の皆さん、健康にはご留意下さい。

2015年8月24日月曜日

刈り取るべき実を刈り取ることになる

 以前、どこかで書いたような気がしますが、
「苦しみ」の原因やきっかけはこのヨブのようなケースもありましょうが、たいていの場合は「自分の罪がもたらした結果の刈り取り」もしくは「他人の罪に巻き込まれたゆえ」そして「両者の混合」なのではないかと思っています。
しかし、私は全てのことに神さまのご計画があり、神さまがご存じないところで物事が勝手に起こってしまうことはないという信仰を持っていますから、苦しみの中にある方に対して、もしくは苦しみを得た方の周辺の方々に対する「神さまからの期待」が込められた教育、訓練としての苦難、つまりは意味のあることであると思っています。

 しかし、いずれにしても、苦しみの渦中にあるときに「なぜ」と問うたところでわかることはほぼ無く、数年から数十年という時を経て、それぞれの苦難の持つ意味を「ふと」気付くことになると思いますし、ヨブのように徹底的に苦しんだからこそ、砕かれ、主と真に出会う事が出来る、そんなふうにも思います。



 ただ、黙示録を読んでいると、もはや後々になって意味がわかるということもない「手遅れな」苦しみというものがあるのだと知ります。もうそれは最後の最後でありますから「その後」はない。
だからその一歩手前にあるこんな場面にも私たちは気付かねばなりません。
すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b
 黙示録には、人々がその罪のゆえにどうなっていくのかということがたくさん記述されています。読んだことのない方に豆知識としてお伝えしておくならば、聖書には、この書だけでなくあちこちにそのような類の預言とでも申しましょうか、厳しいことが書かれているのです。いつどこでどうなるのかという具体的なことは伏せられてはいますが。
しかし、伏せられているとは言え、神さまは偽りのないお方であるという信仰を持っている自分は、いつどういうかたちであったとしても「そういうことが起こる」のだという、現実に直結した問題であるととらえています。



 さて、このみ言葉には悪性のはれものが出来るという苦しみが書かれております。御使いが鉢を地に向けてぶちまけた結果こうなるというふうに書かれているだけでありますから、天使がいったい何をぶちまけるのか、とか、いつそんなことになるのかということは神のみぞ知ることとして今日は脇に置いておきたいと思います。そういうことではなくて、このみ言葉を読んでどんなメッセージが聞こえてきたのかということを今日は少し書いてみようと思います。


 なぜ、「獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々」には悪性のはれものが出来るのでしょうか?

 獣の像を拝むという人々は、聖書で言うところの獣という語の意味を踏まえて考えるならば、ざっくり言って天地をつくられた創造主たる神さまの存在を認めない人々です。
人はその一生の中で、「この世界は偶然生まれた」という科学っぽいことがらに「本当かなあ?」という疑問や不思議を感ずることが一度くらいはあるのではないでしょうか。この世界という広いモノを考えられなくとも、自分自身とは何なのか、生きているとはどういう事なのか、とか、そんなことを考えることがあるかもしれません。
 そんなとき、神さまはこの自然界にあるいろいろな素晴らしいものやシステムを私たちに示し、よく考えるようにし向けられる事が多いのですが、中にはそうした機会によく「考えない人」というのがいるのですね。

 タマネギとにんじんとジャガイモと肉と水とカレールーを鍋に入れ火にかけたら知らぬ間においしいカレーができあがるわけではなく、それぞれを適切な形に切り、適切な量用い、適切なタイミングと調理時間という、作ろうという意志を持って思考して作らなければ作れないということを知っていながら、どういうわけか、生物に備わった複雑な免疫系はたまたま出来たのだと言い切る人々。
 また、一見するとよく考えている風であって本当は一つも考えてなんかいない、他人の言説によって世の中の全ての事象が理解できた気になっている人々。

 その「いい加減さ適当さ愚かさ」に気付かず創造主に対する信仰を馬鹿げたことだと言って遠ざけ、「偶然」という創造よりも想像しにくいものを「科学」と呼んで正しいとする。
本来「科学」とは、既にある自然をよく知ろうとすることであり謙虚で地道な実験と観察の積み重ねでしかないのに、アンチ創造こそ「絶対神」であるとしていっこうに自然を見ようともしない。


目の前に示されたところで、見ない。開いていても見えない目。
聞かされたところで、聞かない。儲け話は聞こえるのに神の言葉を聴かない耳。

それが獣の像を拝む人々です。



蚊の針のデザインが優れていることも、ミツバチの巣のデザインが優れていることも知りながら、
創造主を認めない

それが獣の像を拝む人々です。



すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b

 万能であるはずの神さまが、天地創造に6日間もかけて私たちが理解できるように教えて下さったように、イエスさまが病む方の身体に触れてお癒しくださったように、
ここでも神さまは「御使いに鉢をぶちまけさせる」という私たちが理解しやすい方法によって悪性のはれものをもたらされます。
獣の刻印を受けている人々や獣の像を拝む人々と、神さまを信じる人々とを分ける
そのためにぶちまける何か。

 鉢をぶちまけるという行為によってひどい悪性のはれものが出来る原因がもたらされるのですから、たとえば獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々は結果その原因物質を摂取し、神さまを信じる人々は摂取しないというような、ちょうど旧約聖書の食物規定のような情報が神さまを信じる人々だけが知りうる情報がもたらされるのかもしれません。
そして、その結果与えられる苦しみ。

 人間の身体が本来の姿をとどめず悪性のはれものができるようになるのは遺伝子が傷付いてしまったときです。遺伝子には修復能力がありますが、その限度をこえてしまったとき、その生物がもともと持っていたオリジナルな自己形成のための遺伝子、そして子孫に伝えうる遺伝子はもともと備わっていたものとは異なるものとなってしまいます。生物にとっての究極的な苦しみ!

 情報はあったのに、自分の頭でよく考えず、悪い結果を刈りとらざるを得ない人は自己責任であって仕方がないことでしょうが、世の中には他人を苦しみに巻き込んだり地の底に突き落とそうとする邪悪な人がいます。目先の利益を重視し小さな子どもたちや弱い人々の命をないがしろにする人、お金のために情報を操作したり隠蔽する人!

 聖書は、目先よりも少し先、邪悪な人の最後について教えます。
真実から目を背け、自然に謙虚に向き合わず、小さき者をないがしろにする者がどういう結果を見ることになるのか。獣の像を拝み、創造主を無視し続ける者の未来がどうなっていくのか、
旧約の時代から新約聖書ヨハネの黙示録に至るまで聖書は繰り返し繰り返し警告しています。


 あなたはどう思うのか。
神さまはあなた自身に問うておられます。
 あなたはどうするのか。
良心に背を向け聞かなかったふりをして身を隠し続けるつもりなのかと問うておられます。





いつまでも何も起こらないさ。
聖書?神?そんなくだらない!
自分は関係ない!



持っているはずの良心に従うことはなく
自分の頭で考えない獣側の人々。




やがて、あなた自身があなた自身の刈り取るべき実を刈り取ることになります。




2015年7月23日木曜日

振り返らない

「そういえば、練り物をしばらく食べてないねえ」と昨日主人と話しました。

ずいぶん長い間口にしていません。材料を吟味してごくたまに購入することはあるのですが、三度の食事のこと、確認作業が面倒なので、特別なとき以外は確認不要な食品だけで生活を送っています。

まあ考えてみれば、日本で生まれ育ち日本で所帯を持っておりますから、手に入って当たり前食べて当たり前なものというものがいろいろあって、それが無いというのはなんとなーくつまらないことではあります。そして、いったん「無い」と気付くと無性に欲しくなるというのが人間の本能なのかもしれませんが

「肉が食べたーい」と荒れ野でつぶやいたイスラエルを思い出しました。
何も食べられずに餓死しそうだというのではない。要は舌から喉ごしまでの欲求!なのです。しかし、「どうしてもあれがが食べたい」という思いになる人間。そして、食べ物のことだけではありません。「あの頃は良かった」そういう思いは自制しないで放っておくといくらでもわき上がってくるのです。



戻すことの出来る過去を振り返り、自分や世界を過去のよりよかった一瞬に戻そうと努力することは価値のあることでしょう。しかし、いくら振り返ったところで、変えることの出来ない過去は振り返ったところで不幸しか生まないと思います。
(ただし、加害者と被害者がいる「過去」はきちんと精算する時を経て、振り返ることと決別すべきですね)





「振り返る」ということを考えていましたら、創世記に登場するロトの妻のことを思い出しました。せっかく神さまが救いの手をさしのべて下さったのに、「振り返るな」とのことばを守りきらず、塩の柱になってしまった。ロトの妻は、神さまによる救い、「差し迫った生死に関わること」=「命」よりも、生活していたあの土地に残してきた財産に未練を持って振り返ったのではないかと私には思えるんですが、とにかく振り返ったために塩の柱になってしまったわけです。
まあ、場所が場所だけに塩の柱なのか、とも思いますしよくはわかりませんが、要するに彼女は命を失ってしまったわけです。肉体の命だけでなくそれ以上のものも失ってしまった。


「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マタイ16:26(新共同訳)


それでも振り返るのが人間なのでしょうか。それが人間の罪深さなのでしょうか。両手にぎゅっと握りしめたものを手放さない、手放してこそ握ることの出来るもっと良いものがあっても手放さず前に進まない。そして手放したかと思えたのにじーっと来し方を見つめている。


最も大切なわけでもない握りしめたものは放さねば。

2015年7月17日金曜日

役割

今日の聖書通読はⅠ歴代誌23,24章でした。
心に残ったのは以下のみことば。
「取り分けられた」23:13
「彼らの役目は」23:28
「任務」23:32
「任命」24:3
「登録」24:19


昨日は重症アトピーを患っている小さなモーガン君のことを一日中思いめぐらしておりました。
彼は私の娘の小さな頃と似た顔立ちだったので(痩せていて"ヘルトーヘ"と炎症、まぶたのむくみ、粉ふきがあれば民族問わずみな似た顔立ちになるわね)彼の写真を見た瞬間にフラッシュバック、涙が止まらず呼吸が困難になった私。そのうちにはカーッとして頭がガンガン痛くなり

…そして少し落ち着いた頃震える手をおさえながらキーボードを叩き始めたのであります。
ただ、ただ悲しくて、彼と彼のお母さんが気の毒で、しかし絶対にあきらめてはいけないこと、絶対に解決の糸口はあるはずだと伝えなければいけない。5歳の小さな少年に死にたいなどと言わせるわけにはいかないという怒りにも似た気持ちがこみあげてきました。


"God has special program for YOU."

そうキーを打ち終えたとき、
special programとは何なんだろう…と
自分で言った言葉なのに具体的にどういうことなのか
彼にとって、彼のお母さんにとって、そして自分自身にとってのspecial programとは…
日本語でも語れない自分に気がつきました。
死のうと思うほどしんどかったあの日々に何の意味があったというのか
意味はあるのだと理性でそして信仰で理解していても
ああいうことがあって良かったとは言えない、どこかにそんな思いの自分がおりました。



そして今朝
聖書通読。

ひとつのことが思い出されました。






東日本大震災の少しあとのことでした、当時娘が通っていた学校の後輩にあたる生徒さんが登校途中大型車のタイヤに巻き込まれるというとんでもない事故に遭いました。その年に学校が始めたばかりの「お知らせメール」で初めて送信されてきたお知らせはよりによって彼の悲報でありました。
ご両親の思い、痛みを察すると私自身も全身に痛みが走るのでした。
そして半日くらい泣き続けたあと、私は心に浮かんだ言葉を書き留めたのでした。

人は、使命を持って生まれ
役割を果たして天に帰る。
存在を始めたことに意味があり
存在を続けて意味があり
死にゆくことにも意味がある。
あなただけに語れる言葉があり、
その言葉を心に刻んだ者がいる。
あなただけに語れる人生があり、
その人生を心に刻んだ者がいる。

 

「みことば」なる神さま、
「光よあれ」と仰せられて光を創造される神さまは私たち一人ひとりに特別なことばを下さいます。

生き、動き、存在し、毎日毎日一歩一歩一つ一つ
いろいろな出来事に出会い、経験を積み重ねて得ることば。
そして目の前に時々現れる「少し高い山」を乗り越えていく人生の中で得ることば。

そうやって得た「ことば」は心の中にひとつひとつ収納され、
ある日それを私たちは「声にして」「文字にして」外に出します。
知恵として。愛として。

あのことがあって良かったとか悪かったとかそういうことではない、
評価し感想を持つために出来事があったのではなく
全てがまるまるその人自身となる。

経験を積み重ねて得た一つ一つのことばは
神さまの特別なプログラムを生きた者のことば。



同じことばは誰にも語れない




2015年7月16日木曜日

Dear Morgan Bishop with eczema so severe

http://www.dailymail.co.uk/health/article-3159036/Please-let-die-begs-boy-5-eczema-severe-barely-sleep-walk.html

Dear  Morgan

I have a daughter. She is 21 years old now.She had severe eczema when she was 4 years old. Your photos reminds me of my daughter's severe eczema and the way to cure. Yes,the way to "cure".

Your mom said" since 4 months old"and"When it gets really bad, it almost looks like an acid burn."
Mom's words contain several important information about your eczema. 

1.Your severe eczema started when you were 4 months old.Not soon after birth. 
What happened to you when you were 4 months old?  move anywhere?eat something new? 

2.Your  mom said"When it gets really bad"
So your eczema is sometimes little bit well and sometimes bad and...
Sudden changes in the condition bring you to find a causal substance.
What make your skin worse than before?
What did you do or where did you go or ...
somebody polish a floor with wax or somebody spread pesticide or ....got new shoes?


3.Acid Burn! I think it is an important keyword.
Shape of eczema is very important to identify the reason.
My daughter's eczema was also look like acid burn.

I looked carefully my daughter's eczema every day and at last I found.
My daughter 's severe "face eczema" caused by some antihistamine drugs and anti-allergic drugs! Severe eczema of her face looks like acid burn was side effect of these drugs.
She took these drugs for several years because of  asthma .At first they were OK but after several years her body was changed.They brought her light-sensitive drug eruption.
I think it is a particular case but it's a fact. 


Dear  Morgan and  Mrs.Bishop
Eczema is not easy but please don't give up!
The time will really come. 
God has special program for YOU.
I pray for You from Japan.

God be with you!



P.S.
I think about your eczema of sole.
Do you remember when you get  eczema of sole for the first time?
and what do you think about the area " arch of a foot"
"first toe side"?
I think if you get some idea about them you will have the way to cure.

And how about using "Moist Wound Healing"for your sole?