2023年9月24日日曜日

「פר」という言葉の周辺

ביום ההוא כרת יהוה את אברם ברית לאמר לזרעך נתתי את הארץ הזאת מנהר מצרים עד הנהר הגדל נהר פרת׃

引用したのはヘブライ語聖書の創世記15章18節です。

創世記15章18節には「ユーフラテス」という言葉があります。これは日本に暮らす私たちにとってもおなじみの「大きな川」であり、こういう古代のヘブライ人たちと「イメージを共有できる名詞」が出てきたらヘブライ文字の持つニュアンスを考察するチャンスだと思い、Strongのコンコルダンスで「ユーフラテス」の周辺にある言葉を眺めてみました。

 

まずユーフラテスという言葉は
Strong's Hebrew 6578 פְרָת です。

פペーとרレーシュとתタヴの3文字からできています。

文字の読み方から考えるとユーフラテスの「フラテ」という部分に該当するのだと思います。

で、ユーフラテス「川」という言葉は

נהר פרת で、つまり、נהר ナハル の部分が「川」という意味です。

נהרにはהר ハルという言葉が含まれていますが、הרはハルマゲドンでおなじみのハル「山」のことです。
山の前にנヌンがくっついているのが「川」だとするとנヌンという文字の持つニュアンスも考察することができるような気がします。

פרתに戻ります。

Strongのコンコルダンスでפרת という言葉の前後を眺めたところ、

פרというものがひとつのかたまりで、そこにいろいろな文字がくっついているという雰囲気がつかめました。

私はいつもヘブライ語の単語を「関数」を考えるときのように眺めています。
元となる「何か」に「一文字足したら」意味がどう変化していくのか、ということを調べ、文字それぞれのニュアンスを解読していくのです。

今日はפרという言葉からスタートし、一文字足された単語を調べます。

פרはコンコルダンスの6499番で、young bull と書いてありました。bullとは去勢していない雄牛ということなので、繁殖能力の旺盛なイメージを持てばいいのでしょうか。

そして、Strongコンコルダンスで6500番、つまりפרの次の単語は

פראでした。これはbe fruitfulとありますので、実り豊か、実りが多いということです。

一方、こんな単語もありました。Strongコンコルダンス6505番

פרד a mule muleとはラバのことです。ラバというのは雄のロバと雌のウマの交雑種で、繁殖力はありません。

פרה Strongコンコルダンス6509番これもbe fruitfulとありますので、実り豊か、実りが多い。同じ綴りの6510番は a heiferで、これはまだ子を産んでいない若い雌牛のことですから6499番と同じような状況の牛でこちらは雌を表しているのだと思います。

פרח Strongコンコルダンス6524番 これはto bud, sprout, shootということで、植物が芽を出すことを表しているそうです。

פרט Strongコンコルダンス6528番 これはレビ記19章10節に出てくる言葉で、ブドウ畑の「落ちた実」のことです。

פרי Strongコンコルダンス6529番 これはfruit 果実です。

פרך Strongコンコルダンス6531番 これはharshness, severityということで、きびしさということを表しています。

פרס Strongコンコルダンス6539番 これはペルシャです。

פרע Strongコンコルダンス6544番 これはlet go, let alone、ほかにact as a leaderリーダーのようにふるまうという意味があります。そしてこれにהヘーが付くと

פרעה Strongコンコルダンス6547番 Paroh 日本語の聖書ではパロまたはファラオと書かれているエジプト王の称号です。

פרץ Strongコンコルダンス6556番 これは以前の記事に取り上げたことのある単語ですが創世記 38:29に登場するペレツ 破裂という意味です。この言葉を意味が分かっているとペレツ ウザという名であったりペレツィムという山の名前だったりバアル・ペラツィムという言葉が出てきたときに言葉からなにがしかのイメージがわいてくるかと思います。

 

ちなみに、日本語の表記だと区別しにくいのでペリシテという単語も近いところにあるような感じになってしまいますがペリシテはפלשׁתと書き、פרから始まる言葉ではありません。רはRでלはLという違い、という感じです。

פלという二文字でできている言葉はStrongコンコルダンスには存在していません。פלのあとにאアレフの付いたものから登場します。

 Strong's Hebrew 6381 פָלָא 

これは動詞で、優れている、または並外れたものであるということを表すそうです。

6382番には同じ綴りで「驚くべき」という単語もあります。

 

 

話がそれました。

今日の調べ学習によって一文字一文字どういうイメージになるかという細かい考察をすべて書き記すことはしませんが、

一文字だけ、以前にも書いた事のあるדダレトについて書こうと思います。

ウィキペディアを見ると「扉」が起源である文字だということがわかりますが

この文字は、その前にある単語の意味をひっくり返す文字です。

繁殖力が旺盛な牛だとか実りが多いという意味を持つ単語の後ろについて今回は繁殖力のないラバという動物を表していました。

ほかにも父という意味のאָבアブという単語だったり

新緑という意味のאֵבエブという単語の

つまりאבという綴りの単語の後にדダレトがくっつくと

אבד これはNASBの翻訳語としては
annihilate (2), annihilated (1), been lost (1), broken (1), corrupts (1), destroy (33), destroyed (15), destroying (2), destroys (2), destruction (2), dying (2), fail (1), fails (1), give up as lost (1), lacking (1), lost (12), make vanish (1), makes to perish (1), no (2), obliterate (1), perish (61), perished (16), perishes (7), perishing (2), ruined (4), surely perish (3), take (1), utterly destroy (1), wandering (1), wastes (1), wiped (1).

破壊とか滅びるとかさんざんなことになります。

この単語を見るたびに思うのはヨハネの黙示録3章20節にあるラオデキア教会のイメージです。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(口語訳)

神さま(アバ=父)の前にドアがある、
神さまがドアの外に締め出されている

 

ヨハネの黙示録に登場するアバドンという言葉は

אֲבַדּוֹןですかね?

 

ほかにもדダレトがくっつくと意味がひっくり返る単語

251、252番のאחは「兄弟」という意味ですがこれにדダレトがくっつくと

 אֶחָד 

これは「1」という意味です。

2023年9月21日木曜日

箴言19章1節にある「完全」という言葉

今朝起きぬけに新共同訳聖書を開いたら、いつはさんだのか忘れてしまっていた栞が、箴言18章19章のところにあって、バサッとそこが開かれました。そして、そこに「完全」という言葉のあることに気が付きました。

貧乏でも、完全な道を歩む人は 唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
箴言19章1節(新共同訳)

この箇所は口語訳でも聖書協会共同訳でも「完全な」とは訳されていない箇所なのですが、この箇所をヘブライ語聖書で見ると

טוב רש הולך בתמו מעקש שפתיו והוא כסיל׃

と書いてあって

まず出だしにトーブ、そして、4つめのかたまりのところにトムという語があることがわかりました。トムというのは

Strong's Hebrew 8537 תֹּם 
Definitionとして completeness(完全), integrity(honesty より堅い語で誠実、正直、高潔、), also part of the high priest's breastplate(大祭司の胸当ての一部)とありました。

 

で、このトムという言葉は
例えば創世記20章5節や6節のあたりで「全くやましい考えなしで」とか「清い心で」というような訳語があてられているところに使われていたり、

レビ記25章29節で「その年の終わりまでは」買い戻す権利を持つという話があるのですが、そのカギカッコでくくった部分がおそらくトムを訳した語で、たしかに日本語にも「年内いっぱい」という表現がありまして、
もっとも、日本語でその言葉を使うときに「完全」というニュアンスを意識した経験はありませんでしたが、よくよく考えてみると、「いっぱい」という言葉は「あふれるギリギリ、満タン」みたいな意味で使いますから「年内いっぱい」と言っているときには無意識ではありましたけれども、「一年」というひとつのかたまりがあって、現在という位置があって、その位置から見て、一年の終わりのぎりぎりのところまでの日付までの全部、その日が来るとちょうど1年というかたまりが欠けのない満ちた一年になるという、そんなことなんですよね。

 

ところで、このトムという言葉が使われている箇所で「完全な」と訳されているものをを新共同訳聖書の箴言と詩編で拾っていったところ少々気になることがありました。

箴言2章7節
主は正しい人のために力を 完全な道を歩く人のために盾を備えて

 

箴言10章9節
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。

 

箴言13章6節
慈善は完全な道を歩む人を守り 神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。

 

箴言19章1節
貧乏でも、完全な道を歩む人は 唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。

 

箴言20章7節
主に従う人は完全な道を歩む。彼を継ぐ子らは幸い。

 

箴言28章6節
貧乏でも、完全な道を歩む人は 二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。

 

詩編26編1節
【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。

 

詩編26編11節
わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。

 

詩編101編2節
完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。

 

「完全」という意味のトムは「道」もしくは「行く」「歩む」とセットで登場するのです。

もっとも、箴言はそもそも「道」という言葉がたくさんありまして、新共同訳聖書の箴言を読みながら「道」という言葉をピンクの蛍光ペンでチェックしていたら非常に読みにくいピンク色の書になってしまったという経験があるのですが、

そういう「道」だらけのこの書特有の「道」は
「道」と言えば「完全な」だろう?というような枕詞のようには
何しろ「完全」という非常に重量のある言葉ですから、絶対読み流してはいけないと感じるわけです。

そして、その重量感を保ちつつ詩編でダビデが語る「完全な道」という言葉を読むと

ただならぬものをさらに感じ、

 

 

しかし、イエスさまの言葉を知っているクリスチャンなので、「あっ」と気付く。

(聖句は新共同訳から引用させていただきます)

マタイによる福音書5章48節
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

私たちは「完全な者」にならなくてはいけないとイエスさまが言われた、ということ。

そして完全になりたいのなら

マタイによる福音書19章21節
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

貧しい人々に施しなさい、と。
まずはこの世界で生きる間になすべきそういう行動があり、

それからイエスさまに従いなさい、とイエスさまは語られた。

 

 

「道」という言葉について語られた
イエスさまの言葉を引用して本日のまとめといたします。

マタイによる福音書7章13節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

マタイによる福音書7章14節
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

マタイによる福音書10章5節
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

マタイによる福音書15章14節
そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

ヨハネによる福音書14章6節
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

2023年9月20日水曜日

シャロームという言葉

シャロームという言葉。

これはヘブライ語で、クリスチャンの間では普通「平和」と訳されたりしている言葉だが、その「言葉自体の持つ意味の良さ」と、日本語に「しゃれた」という音の「比較的良い意味の言葉」があったからなのか、音自体の心地良さとおぼえやすさで、どこの言葉であるかは特に意識することもないままに頻度高く使っていた時代があった。

聖書のヘブライ語を少しずつ学ぶようになって、シャロームという言葉はשׁלוםと書き、Definition(定義)としては、 completeness=完全, soundness=健全, welfare幸福、繁栄、(福祉), peace=平和

であるということを知った。

 

イエスさまはこう語られた。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。マタイによる福音書5章9節(口語訳)

現在進行形で戦争が起こっている今日この頃にこの言葉を聴くと、そういった国と国との争いのない状態についてイメージする言葉であるが

シャロームの持つ「完全」という意味を考えると、
そういう「戦争をしていない」という「最低ライン」ではないもっともっと質の高いもの、アダムとエバが罪を犯す以前の「完全さ」を求められているような気がする。

創世記で、創造主たる神さまが人間を創造された後に発せられるטובトーブという言葉と同じような意味であるのかもしれない。

トーブとシャロームの違いは
文字列を見て考えるなら

トーブは空っぽの容器の中に神さまが満たして作り上げてくださる「(完璧な)良さ素晴らしさ」で、
シャロームは人間が意志を持って黙り静まり、神さまと交わりを持つことよって与えられる「完全」のような気がする。

そしてシャロームとはイエスさまがおっしゃったように、人間に「作り出せる」ことなのだとしたら、
五つのパンと二匹の魚を差し出すことで、
神さまがその場の必要量に完成してくださるというようなニュアンスを読み取れるかもしれない。

 

 

シャロームという言葉に続く単語にはどんなものがあるのか辞書で調べたところ、

綴りは全く同じשׁלוםだけれども読み方が違う(母音が違う)
シルムという単語があって、それには「報復、報い」という意味があった。

シャロームからוヴァヴを取り除いたשׁלםという単語があって
シャレムと読むものは「完全にそろっていること」を意味し、
同じ綴りだけれどもシレムと読むものには「賠償金を支払う、償う、弁償する」という意味があった。

さらに、שׁלםのあとにהヘーが付いてשׁלמהとなると
包装紙、表面を包む物、マント(ゆったりとした袖なしの外套(がいとう)のことを表すという。

 

こんなふうに辞書を眺めているとヘブライ語聖書を読んでいる世界の人々がどのように考えているのか、わずかだけれどもイメージできるような気がする。

 

そういえば、シャロームからいくつか先に行ったところにこんな単語があった。

 Strong's Hebrew 7975 שִׁלֻּחָה Shiloach 

エルサレムにある貯水池。ネヘミヤ3章15節とイザヤ書8章6節の二か所に登場する。

泉の門はミヅパの区域の知事コロホゼの子シャルンがこれを修理し、これを建て直して、おおいを施し、そのとびらと横木と貫の木とを設けた。彼はまた王の園のほとりのシラの池に沿った石がきを修理して、ダビデの町から下る階段にまで及んだ。
ネヘミヤ3章15節(口語訳)

 

主はまた重ねてわたしに言われた、「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。
イザヤ8章5~8節(口語訳)

 

今年ももうすぐ仮庵の祭りがやってくる。

 

 

祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 
ヨハネによる福音書7章38節(口語訳)

 

 

暑い暑い長い長い夏がもうすぐ終わる。

 

2023年9月19日火曜日

マルコによる福音書1章24節 ナザレのイエス

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。マルコによる福音書1章9節

「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。マルコによる福音書1章24節


ナザレのイエス

ナザレの住民のイエス、ナザレ人のイエス

マルコ1章24節におけるナザレという言葉は3479番で、

 Strong's Greek 3479 Ναζαρηνός 

3479番はほかに

ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。マルコ10:47

 ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。マルコ 14:67

 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。マルコ 16:6

 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。ルカ 4:34

 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、ルカ 24:19

 

そして、マルコによる福音書1章9節のようなナザレという地名
ΝαζαρέτはStrong's Greek 3478でマルコ1章9節のほか

ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。マタイ2:23

そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。マタイ4:13

そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。マタイ 21:11

六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。 ルカ 1:26

ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。ルカ 2:4

両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。 ルカ 2:39

それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。ルカ 2:51

それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。ルカ 4:16

このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。ヨハネ1:45

ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。ヨハネ1:46

神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。使徒 10:38


 

ヘブライ語で書かれている新約聖書を見ると、ナザレのイエスというところにはこう書いてあります。

ישוע הנצרי

日本語ではナザレと呼びますがこれはギリシャ語に由来する音で、

ヘブライ語ではザにあたる部分がツァという音になっています。

ツァという音のところにはצツァディという文字が使われています。


צツァディという文字は
メルキゼデクのゼデクのゼにあたる文字です。

メルキとは王様のこと、ゼデクというのはヘブライ語ではツェデクと発音し「義」という意味です。その「ツェ」という音の部分に使われている文字צツァディ


そのצツァディという文字がナザレのザというところに使われているので


ナザレのザの部分は本当はツァと読むのだと思います。


さて、ご承知のように、旧約聖書に地名としてのナザレは登場しません。

が、いつものように、ナザレという地名と同じנצרという文字列からその地名の意味を推測することができると私は考えておりますのでそのあたりのことを調べてみました。

נצר

読み方は違うけれども同じ文字列を持つ単語が二つありました。

一つはStrong's Hebrew 5341 נָצַר ナツァル

to watch, guard, keepという意味を持つ言葉です。

旧約聖書には61回登場します。
例えば箴言22章12節の「守る」というところに使われている言葉です。

主の目は知識ある者を守る、しかし主は不信実な者の言葉を敗られる。箴言22章12節


そしてもう一つはStrong's Hebrew 5342 נֵצֶר ネツェル

5342番のネツェルは5341番ナツァルの派生語という事になっていますが

聖書の中にはイザヤ書に3回、ダニエル書に1回 計4回登場するだけのレア語です。そしてこの言葉は「若枝、子、芽」と訳されています。

有名なイザヤ書11章1節の御言葉にある「若枝」という言葉はこのネツェルという言葉です。


エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、イザヤ11:1


しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬのように墓のそとに捨てられ、つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る。イザヤ14:19


あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。イザヤ 60:21


そのころ、この女の根から、一つのが起って彼に代り、北の王の軍勢にむかってきて、その城に討ち入り、これを攻めて勝つでしょう。ダニエル 11:7


 


 人々が「ナザレの」イエスと言ってイエスさまのことを語っているとき、


その人々は5342番のネツェルや5341番のナツァルのことなど全く考えずに単なる地名として語っているのかもしれません。

それはちょうど日本語を話す私たちが、警告メッセージのように付けられた「地名」をそうだと認識できずにいるように。

けれども、もしかすると福音書の記者たちは

私たちが思っているよりももっともっと深いところを

そしてもっともっとたくさんのメッセージを

書き残そうとしていたのかもしれません。


マルコによる福音書1章21節 カペナウム

それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。

マルコによる福音書1章21節(口語訳)


カペナウムはヘブライ語でכפר נחום‎ クファル・ナフームというそうですが、カペナウムという地名は旧約聖書では見る事が出来ません。

ただ、クファル・ナフームという地名の持つ意味については、いつものように同じ文字列の言葉を探すことによって大まかではあってもつかみ取ることができると思います。

今回もまずはそういう視点でカペナウムについて考えます。



ヘブライ語聖書にはクファルと同じ綴り(文字列)の言葉があります。

כָּפַר 

Strong's Hebrew 3722 kaphar

「覆う」とか「なだめる」という意味があります。

覆うのとなだめるのがなぜ同じ言葉で表されるのかということですが、Brown-Driver-Briggsによれば、怒っている人の顔を覆ってしまえば罪が見えなくなるのでなだめることになるという発想があるようです。

3722番は旧約聖書には104回登場する言葉で、一番初めに出てくるのはノアの箱舟のところでした。箱舟にアスファルトを塗って「覆う」という意味で3722番が登場します。
そして二回目の登場は創世記32章20節で、太字にした「なだめ」というところに3722番が使われています。

『あなたのしもべヤコブもわれわれのうしろにおります』と言いなさい」。ヤコブは、「わたしがさきに送る贈り物をもってまず彼をなだめ、それから、彼の顔を見よう。そうすれば、彼はわたしを迎えてくれるであろう」と思ったからである。」創世記32章20節

そして、3722番はレビ記1章4節にも使われていました。太字にした「あがない」というところに使われています。

彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。


次にנחוםナフームについて

この文字列を追いかけてみたところ、
ナホム書のナホムとナフームが同じ綴りנחוםでした。

ナホム書の「ナホム」という言葉(人名)はナホム書1章1節に一度だけ登場する言葉で、Strong's Hebrewでは5151番とされています。

また、נחוםという文字列を持つ単語にはほかに5150番というものがあり

Strong's Hebrew 5150 נִחוּם

「なぐさめ」という意味があります。

5150番は聖書の中に3回登場。以下太字にした部分に5150番が見られます。

わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
イザヤ書57:18


エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。
ホセア書11:8


主はわたしと語る天の使に、ねんごろな慰めの言葉をもって答えられた。
ゼカリヤ書1:13


【調べ学習】「覆う」

 カペナウムはヘブライ語で כפר נחום ‎ クファル・ナフームであり、
כפרクファルという三文字で表される言葉には「覆う」という意味があるということを知りました。そして、「覆う」ことが「なだめる」ことになるという説明をBDBで読み、興味深く思いました。

そこで今日は、日本語として「覆う」という言葉を考えるときに思い浮かぶ聖書の場面から、

その場面はヘブライ語聖書ではどのように表現されているのか調べてみることにしました。


すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。創世記3章7節


腰に巻いたとありますが覆うイメージがあったので覆ったと言っているのかな、と思いましたがここはStrong's Hebrew 2290 חֲגוֹר chagowr という単語が使われていて、「ベルト、ガードル、帯」と訳されるものでした。

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。創世記3章21節

この箇所にはStrong's Hebrew 3847 לָבַשׁ labash または labesh という単語が使われていました。これは「服を着せる」という意味の言葉が使われています。

この単語はヨブ記7章5節では虫(うじ)が覆うという具合に 服ではないものが覆う様子にも使われていましたが、基本的には「服」を着る、着せる、まとう、ということを表すようです。

かつてキリスト集会に行っていた頃、創世記3章21節を読むときには必ず「皮」であるということを大切に考える習慣がありました。動物の犠牲があっての「皮」、そしてキリストの十字架の血潮を思い出すわけです。
今改めてヘブライ語の単語を意識しながらこの箇所を読み、気付いたのは、
神さまは一枚の皮を人間に与えて覆わせたわけではなかった、ということです。
神さまは、皮で着物を造ってアダムとエバに着せられた、つまり、皮を用いて、彼らのためにデザインし、一つの着物として仕上げて、着せてくださったのですね。

そんなことを考えていたら、新約聖書の中に書かれている言葉を思い出しました。
婚礼の礼服を着ているとか、放蕩息子が帰ってきたときに最上の着物を着せるとか、黙示録のところにある白い衣だとか、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者はさいわい、だとか、

着物として仕上げられた、いい加減ではないきちんと作り上げられた上等なものを私たちは与えられ、それをまとう。


 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。創世記9章23節


裸で寝ていたノアを息子たちが着物で「覆った」あの場面です。
この場面では上の二つとはまた別の単語が使われていました。

Strong's Hebrew 3680 כָּסָה kasah です。

これは日本語では「覆う」ということになりますが、隠れるとか、秘密を隠すとかという意味で使われるようです。遊女が顔をベールで隠すとか、そういう時に使う言葉のようです。
出エジプト記にある10のわざわいのところのイナゴやカエルが地を覆う描写の時にも3680番が使われていました。
また、同じ出エジプト記において、

夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。出エジプト記16章13節

この箇所でも3680番が使われていました。

地を隠してしまうような宿営を隠してしまうような圧倒されるようなものすごい数というニュアンスがあるのでしょうか。

2023年9月18日月曜日

マルコによる福音書1章17節「人間をとる漁師」とヘブライ語「צדק」

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
マルコによる福音書1章17、18節(口語訳)

 

 

日本語に訳された聖書の創世記、詩編、ルカによる福音書、ヘブライ人への手紙に登場する「メルキゼデク」という名

メルキゼデクはヘブライ語聖書にはこう書かれています。

מַלְכִּי צֶדֶק 

この名前はメルキ(メレク)とゼデク(ツェデク)という二つの単語からできています。

 

מַלְכִּי メレクは Strong's Hebrew 4428 מלך melekで、「王さま」という意味があります。

 

צֶדֶק ツェデクはtsedeqは Strong's Hebrew 6664 צדק tsedeqで「義」と訳されることが多い言葉です。


メルキゼデクではなくツェデクという単語だけに着目すると、この言葉単独では旧約に118回も登場する言葉ですが

日本語の聖書で読んでいるとその存在に気付きにくい場合もあります。

例えばイザヤ書41章2節ヘブライ語の聖書にはこうあり6664番が含まれています。

מי העיר ממזרח צדק יקראהו לרגלו יתן לפניו גוים ומלכים ירד יתן כעפר חרבו כקש נדף קשתו׃

英語の聖書でも例えばKing James Bibleを見るとrighteousという語を見出せて

Who raised up the righteous man from the east, called him to his foot, gave the nations before him, and made him rule over kings? he gave them as the dust to his sword, and as driven stubble to his bow.

このKJBを直訳すると

誰が東から人を起こし、彼の足元に呼び寄せ、彼の前に諸国民を与え、そして彼に王たちを統治させただろうか。彼は彼らを彼の剣の塵のように、そして弓に打ち抜かれた刈り株(麦などを刈ったあとの株)のように与えた。

というように「義」を無視することはできない感じになりますが

口語訳聖書で同じ個所を見ると「義」は見いだせず

だれが東から人を起したか。
彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、
もろもろの国を征服し、
もろもろの王を足の下に踏みつけ、
そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、
その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。(イザヤ41:2 口語訳聖書)

最新の聖書協会共同訳でもこう書いてあって

誰が東から勝利を奮い起こし
足元に呼び寄せたのか。
彼の前に諸国民を渡し
王たちを踏みにじらせ
その剣で彼らを塵のように
その弓で吹き払われたわらのようにする。

Strong's Hebrew 6664 צֶדֶק tsedeq「義」がみあたらない・・・


今日ここに書きたかったのはצֶדֶקという単語の文字構成に関することです。

この単語を見ていたらマルコによる福音書1章17節の「人間をとる漁師」という言葉が思い出された、という話をしたかったのです。

צדקという単語はצツァディדダレトקクフの3文字から成る単語ですが、その1文字めのצツァディは釣り針(hook)の形からできた文字という説があるのです。
で、צדקツェデクは、צツァディとקクフの間にדダレトがあるという構成になっているわけですがדダレトは扉ですから、文字の順番として、
釣り針の向こうに扉があって、その向こうにקクフがある、というふうに考えられるような気がしたのです。

釣り針は魚を釣る道具です。だとすると、魚を釣ったら扉があって扉の向こうにקクフがあると考えられるのではないか、と。
オルブライト先生の説ではדダレトは魚を描いた文字が起源ということらしいので、オルブライト先生の説をここに導入するともっとわかりやすい。
釣り針で魚を釣ったらקクフというストーリーが見えてくる。

 

で、קクフはサンプソン先生はサルの頭を描いた文字に由来とか言っているわけですが、私はフェニキア文字の𐤒コフが「針の穴」起源であるから「קクフも針の穴」というのを勝手に採用していて、
というのは「聖別された」「神聖さ」いう意味である

קֹדֶשׁ qodesh  Strong's Hebrew 6944
という単語の先頭にあるのはקクフという文字であるということだったり

イエスさまが、ラクダが「針の穴」を通ると表現されたことを意識しているからなのですが

そういう文字であるקクフがדダレトの次に来るのだ、と考えると

 

「釣り針で魚を釣ったら聖となる」ということがצדק「義」

 

 

いつものように
素人主婦の一考察ということでお楽しみいただければ幸いですw

2023年9月1日金曜日

マルコによる福音書1章25節のλέγων

イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。
マルコによる福音書1章25節

マルコによる福音書のなかにある「イエスさまの言葉」を読んでいます。

1章17節を続けるつもりだったのですが

今朝、BIBLE HUB で次の1章25節のギリシャ語テキストを眺めていたら

Nestle 1904とTischendorf 8th Editionにλέγωνが無いことに気付き


Nestle 1904とTischendorf 8th EditionとRP Byzantine Majority Text 2005を比較のために引用します。

ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:25 Greek NT: Nestle 1904
καὶ ἐπετίμησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς Φιμώθητι καὶ ἔξελθε ἐξ αὐτοῦ.

ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:25 Greek NT: Tischendorf 8th Edition
καὶ ἐπετίμησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· φιμώθητι καὶ ἔξελθε ἐξ αὐτοῦ.

 

ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:25 Greek NT: RP Byzantine Majority Text 2005
Καὶ ἐπετίμησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, λέγων, Φιμώθητι, καὶ ἔξελθε ἐξ αὐτοῦ.

 

Καὶ        And

ἐπετίμησεν      rebuked

αὐτῷ       him

Ἰησοῦς,      Jesus,

λέγων,  saying

Φιμώθητι,         Be silent,

καὶ        and

ἔξελθε        come forth

ἐξ          out of

αὐτοῦ.        him

 

昨日ずっとλέγωνにこだわって読んでいたので、

この単語が無いということにはすぐに気付きまして

 

こんな時には明治訳ということで

一応明治訳を眺めるとこう書いてあり

イエス之(これ)を責(せめ)て曰(いひ)けるは聲(こゑ)を發(いだ)すこと勿(なか)れ其處(そこ)を出(いで)よ

日本語に訳す場合、λέγωνがあろうとなかろうと「言う」という動詞を使わないと日本語らしい日本語にはならないのかも・・・と思うに至り

でも、ギリシャ語を母語に訳さずともそのまま理解できる方が読むとλέγωνの有無というのはどういうふうに聞こえるのかとても気になったので

そうだ、こんな時はグーグル先生だ、と思い、グーグルに翻訳してもらったところ

Nestle 1904

そしてイエスがフィモテティスを叱責すると、彼は彼から出て行った。

 

Tischendorf 8th Edition

そしてイエスが彼を叱責すると、イエスは口を閉ざして彼の中から出てきた。

 

RP Byzantine Majority Text 2005

そして、イエスは彼を叱責して、「黙って出て行け」と言われた。

 

「黙れ」というところをフィモテティスと読んでしまう事態が発生したり

イエスさまが口を閉ざして彼の中から出てくるという

とんでもない事態になってしまったのでありました。

古典の翻訳だから?

ただ、翻訳された文それぞれにとても興味深いものを感じたので

キャプチャ画像を貼っておきます。