2023年6月28日水曜日

マルコ1章15節(8)神の国とは

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳)
日本聖書協会の聖書本文検索で「神の国」という言葉を検索すると新約聖書だけにしか存在していないことがわかります。ちなみに「天の国」や「天の御国」「御国」という表現も新約聖書だけにある表現です。
が、もしも聴衆が「神の国」という言葉を知らないのであれば「神の国は近づいた」というメッセージは何の意味もないことになります。

したがって当然のこととして「神の国」という概念は旧約聖書にもある、
というか、概念どころか
聖書(トーラー)の一丁目一番地は分断無きハ・シャマイム(天)とハ・アレツ(地)。
一体のものである天と地が創造されたということであり、
天におられる神さまが地を支配している、そして「人」を置いて管理させることにしたという、そこから始まっているわけです。

そう、創世記の初めに描かれる創造された「天と地」はヴァヴでつながっているのです。天は天であり地は地でありそこには秩序がありそれぞれは別のものでありますがヴァヴという文字で結合している。結婚する男女と似ています。それぞれは別のものであるけれども結合して一体となる。
天と地はヴァヴにより一つのものとなっている。それが創造された当初のものです。
「神さま」がハ・アレツ(地)の王であったのです。

にもかかわらず・・・・な歴史を経て
いよいよ本来の姿に戻るというのが新約で語られるところの「神の国」。

詩編を読むと神の国のイメージがしっかりとつかめます。
(いくつかの箇所を聖書協会共同訳聖書から引用します)

わが王、わが神よ。5編
主こそ王 10編
王権は主にあり主こそ国々を治める方。22編
栄光の王 24編
全地に君臨する偉大な王 47編
まことに神は全地の王 47編


כי יהוה עליון נורא מלך גדול על כל הארץ׃

神聖四文字のお名前を持つ方がいと高き方恐るべき方で偉大な全地の王であると47編には書いてあります。





さて、神の国という言葉は口語訳聖書のマルコによる福音書には14回登場します。
まずは1章15節ですが、次に出てくるのは4章11節で「神の国の奥義」という話題での登場です。
4章11節
そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
 
「奥義」という、分かったようなわからないような言葉とともに登場です。
まずは日本語としてこの熟語をオクギと読むのかオウギと読むのか、そのあたりからいろいろあるわけですが、私は教会で「オクギ」と習いました。
 
オクギという言葉はギリシャ語聖書ではμυστήριον mystērion です。英語ではミステリーと訳されています。
 
で、このオクギという言葉は福音書に限って言うと、この「神の国の奥義」という話題に関する場面でのみ使われている言葉です。
 
マタイ13章11節
そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
ルカ8章10節
そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
マタイとルカでは複数形なのでμυστήρια mystēria という形になっています。
 

マルコ4章11節の次に「神の国」という言葉が登場するのはマルコの4章26節で、そこでは「神の国」についての譬(たとえ)が二つ語られます。

 
マルコによる福音書4章26節~32節
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。
それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、
まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

この二つの譬を一度だけサラッと読んで、「ミステリーだわ~」という感想を持つ人は少ないと思います。なぜそう思うかというと、ここに書かれていることは単なる植物の成長と収穫のストーリーで、特に理解しにくいことは何も書かれていないからです。これを聴いた当時の人もそして現代人の私たちも、おそらく何の疑問も持たずに聞き流すことはできます。

しかし、「立ち止まって」よく考えてみると、いったい何の話をされているのかよくわからなくなる。
まあ、後半の譬においては神の国が大きくなりそうだというイメージくらいはつかめるかもしれませんが。

本当は、何もわかっていないのです。
種(たね)とはなにか、なぜ種(たね)ができるのか、
なぜ種をまけばいいというシステムになっているのか、
そして夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くのはなぜなのか。

もちろん、私たち人間はそんなことを一切理解していなくても、暮らし続けられるわけです。
「地」がおのずから実を結ばせる、本当にそうです。現代の農業では土を酷使しすぎていろいろなことをしなければならないかもしれませんが、そもそも「土」というものがなぜ大地に存在しているのか等々
全ては神さまの「創造」にまでさかのぼるわけですよね。
そして人間はそんなことを全く知らなかったとしても
神さまが作られた天と地と、そこにある神さまがつくられた諸々のルールとシステムのなかで生かされている。

そして、トーラーを持つ民であれば、「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」という種まきから収穫までその一連の流れを聴けば「定められた祭り」を思い起こせるはずです。小麦の刈り入れを祝う「シャブオット」
また、ネビーイームに親しんでいるならば「収穫」という言葉を聞けば「ああ」となるはずだけれども
しかし、だからなんなのか、
そんなことを考えることもなく、何の疑問も持たず「そういうもんだ」と繰り返してきたのかもしれないわけです。

そして主は、創造の初めに、やがて訪れるであろうこの瞬間のためにデザインされたのではないかとすら思われる「小さな小さなからし種」を示し、弟子たちの心に「希望」を与えてくださるわけです。
どんな種よりも小さい種が鳥の住むほどに成長するというミラクル。
小さい種なのに、という不思議さとそれを生長させる大地の力とはなんなのか、
そして、「小さい種」をお用いになる神さま、
神さまが命の息を吹き込まれ驚くべき成長を遂げる奇跡!





 
 
二つの譬が語られた後、「神の国」という言葉は9章まで出てきません。
で、9章では二か所「神の国」という言葉があり、
 
 
9章1節
また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
9章47節
もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
 
まず1節ではイエスさまが「また、彼らに言われた」ということで、8章の続きとして「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と言っておられるので、
この言葉だけをもとに、また、ここでいう「死」を肉体の死であるととらえた上で「神の国」について考えるなら
私たちが暮らしているこの時代について言えば
「神の国」はすでに力を持って来た、ということになります。
 
47節では「神の国」に入ることの価値というか、神の国に入るということに徹底的にこだわって生きるべきというか、また、「片目が罪を犯させるなら、それを抜き出せ」というほどの聖さ、厳しさが語られ、
次に登場する10章では「神の国」入るための資格と「神の国」を構成する者について語っておられます。
 
 
 
10章14節
それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
10章15節
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
10章23節
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
10章24節
弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
10章25節
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 
「神の国」とは
幼な子のような者の国であり
幼な子のように神の国を受け入れなければ入れない。
財産のある者が神の国に入るのはむずかしく、ラクダが針の穴を通る方が簡単である。
 
そして、12章28節からの律法学者との対話の中で
ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
イエスさまから「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者が述べたことは、
『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 
なので、彼のこの理解は大切なのだろうと思いますが、
しかしそれは「あなたは神の国から遠くない」ということだけなのであって、神の国に入れることと同義ではないという事になります。
 
そして、次に「神の国」という言葉が登場するのは最後の晩餐の場面で、
14章25節
あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
 
9章1節の言葉を併せて考えると
また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
「神の国」は現代ではすでに到来しているわけですから
神の国で新しく飲むその日に至っていないということになります。
そして、神の国で新しく飲むその日とおっしゃっているので、
その日にイエスさまは肉体を持っておられるということになります。
 
 
そして、マルコによる福音書に登場する「神の国」という言葉の最後は15章43節です。
 
アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。
 
 
神の国を待ち望んでいるという人の登場です。
つまりこの段階で神の国が到来していなかった。
 
 
 
ではもう一度9章1節のこの部分に戻りましょう。
 
「神の国が力をもって来るのを見る」
 
神の国が到来したということを弟子たちが自覚した瞬間がいつどのようなときであるか、
 
それは間違いなくヨエル書2章28節の成就を見た瞬間。
 
五旬節です。
שבועות シャブオット。小麦の刈り入れを祝うシャブオット。
律法が与えられた記念でもあるその日。
神さまの御言葉を受け取り御言葉を聴く者となった。
 
そしてシャブオット(五旬節)には
聖霊さまが降臨され
世界中の人々が
神さまの御言葉を聴く事ができるようになった!
 
神さまの御言葉を聴いて生きる聴いて行う人々=神さまの御言葉によって治められている国民
 
人間が、神の国の国民となることのできる世界が到来した
すなわち、「神の国」が力をもって到来したのをお弟子さんたちは見ることができたのです。

2023年6月21日水曜日

マルコ1章15節(7)神の国は近づいた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコ1章15節(口語訳)
 
イエスさまは「時は満ちた」という宣言をされました。
それは、神さまの定められた「時」に至ったということですから
イエスさまが神さまと等しいお立場であるということがわかります。
 
そしてつぎにイエスさまは「神の国は近づいた」と宣言されました。
今日はこの御言葉について考えを巡らせてみたいと思います。
 
 
実はこの「神の国は近づいた」という表現が以前からとても分かりにくいと思っていました。
 
 
 
「神の国」をディズニーランドのような「場所」であるととらえた場合、
例えば「ディズニーランドは近づいた」と言われると、「場所」は動きませんから話者側がディズニーランドに向かって移動している状況をあらわしているように読めます。
ただ、ディズニーランドという言葉が日本語でありがちな「ディズニーランドに行く日」の省略形であると考えた場合、時間の経過に伴う心理的な変化(わくわくしたよろこび)を表現しているのかもしれず、その場合には話者とディズニーランドとの物理的な距離が語られているわけではないということになりますが、
たぶん聖書にはそのような省略形を使うことはないでしょう。
 
次に「神の国」が場所ではなく「移動することのできる物体」のようなものであるととらえた場合、
「神の国」という物体が向こうからこちらへ意思を持って物理的に近づいてきているとも考えられます。
また、話者自体も移動可能だということも考えるなら両者が同時に移動して近づいていく可能性は生まれますが、
このケースでは「時は満ちた」「神の国は近づいた」と並列されているので、「時が満ちた」という文が完了の意味として受け止められるから「近づいた」という言葉も完了したこととして読むのが適当だと思えるので、話者は静止状態で「神の国」というものがすでに近くに来ているのを「見ている」
 
そのほか
何か個人的な悩みや問題を抱えた読者が読んだ場合や、
直前になにか衝撃的な出来事を見聞きした人が読んだ場合には、さらに別の視点が与えられるのかもしれませんし、
なんらかの宗教的な背景を持っておられる方が読んだ場合にはその「教え」に合わせた解釈をしてしまう。
 
 
最近よく思うのは、
教会や集会に通っていた時には「疑問」なんて一切持ったことがなかったなあ、ということです。
疑問を持ってはいけないという環境ではなかったはずなのですが
疑問を持つという発想がありませんでした。
聖書という本は日本語に翻訳された聖書であったとしても、
少なくとも自分の教会が採用している聖書に関しては
原典に忠実であり、批判する余地のないものだと思っていたからです。
そしてその本をもとに作られた注解書や講解説教、諸集会であれば兄弟方の語られるメッセージを注意深く聴いていれば
もちろんそこには聖霊さまの働きがあるからですが
すべてのことは理解できると信じていましたし、
牧師資格を持っている知人によれば、「今や聖書など研究しつくされているからわざわざ聖書自体を読む必要などない」ということだそうですので
学もない平信徒はうけたまわっていればよいのだという、
「学術」という権威がもたらす安心感の下、それっぽい顔をしてそれっぽい言葉を発しながら教会集会等々で穏やかに暮らしていたわけです。
波風のない穏やかさの中にある朗らかさというものこそが伝統ある正統派らしさであるとも思っておりました。
 
しかし群れから落ちこぼれひとりになった時
いろいろな疑問がわき上がってきました。
「それは悪魔の誘惑だ」とも言われましたけれど
どう考えてもレフトビハインドなんてありえない。
 
 
 
話を戻します。
とにかく、日本語で書いてある聖書は難しいわけです。
半世紀以上日本語のネイティブスピーカーとして生きてきた自分であっても
きちんと意味が分からないわけです。
神の国云々という専門用語が使われていなかったとしても
例えば今私の手元にある新改訳聖書第三版でマルコの福音書2章9節を速読した場合、すんなり意味が分かる人がいるならば↓
中風の人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。
良くも悪くも宗教と信仰のゆえです。
「やさしいか」が「優しいか」なのか「易しいか」なのか
宗教的な背景を持っていなければ判別はつかないような気がします。
 
 
 
「神の国は近づいた」という言葉
 
ギリシャ語の聖書から該当箇所を引用します。
ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ·
ἤγγικενというのはBible Hub によれば
Strong's Greek 1448 ἐγγίζω eggizó の完了時制 (直接法)?で
has come nigh, is at hand「非常に近い、差し迫った」状態を表すようです。
また、
で対訳を確認すると
ἤγγικεν ēngikenは has drawn near となっています。
 
has drawnという英語の現在完了形がいったいどういう意味なのかと言えば
drawという言葉は中学英語だと「描く」というような意味で覚えるわけですけれども、
しかしもう少し成長したころに習うのは
文献を「引用する」とか災害を「招く」とか、お金を「引き出す」とか、「引っ張って手元に持ってくる」ような意味があるわけです。
 
draw (v.)
引くことによって動きを与える」という意味の「drauen」は、紀元前1200年頃に、古英語「dragan」(クラスVIの強い動詞。過去形「drog」、過去分詞「dragen」)の綴りの変更から生まれました。Proto-Germanicの「*draganan」(「引く、引っ張る」という意味。Old Norse「draga」(「引く、引っ張る、引っ張る」)、Old Saxon「dragan」(「運ぶ」)、Old Frisian「drega」、「draga」、Middle Dutch「draghen」(「運ぶ、持ってくる、投げる」)、Old High German「tragan」(「運ぶ、持ってくる、導く」)、German「tragen」(「運ぶ、持つ」)も同じ語源です。PIEルート「*dhregh-」(「drag」(v.)を参照)から派生しました。
「鉛筆を紙に引いて線や図形を作る」という意味は、紀元前1200年頃から存在します。「(武器を)引いて取り出す」という意味は、12世紀後半に剣について初めて使われました。「(弓の弦を)引く」という意味は、紀元前1200年頃から存在します。犯罪者を引っ張って処刑場所まで連れて行くことを「draw a criminal」と言います。これは、1300年頃から使われています。
 
ということなので、
has drawn nearという言葉は引っ張って近くにたぐり寄せた(完了した)というようなイメージ?ではないかと思われます。
 
対訳だけではなくἐγγίζωという言葉は
Thayer's Greek Lexiconによると
STRONGS NT 1448: ἐγγίζω
自動詞では to draw or come near, to approach; とあって、一番初めに提示される意味としてto drawというものがありますから、引っ張った結果として近くに来るというのが本来の意味で、そういうことが行われた結果を見ると近くにあることから、come nighとかbe at handとかapproachという意味にもなっていったのではないかと。
 
とすると、神の国が近くにあるという話は
イエスさまご自身=神さまご自身 が「神の国」を引っ張って、かなり近い距離のところまで引き寄せて完了させて「神の国は近づいた」と言っているという段取り?になるような気がします。
 
そう考えると「時は満ちた」というみ言葉が真っ先に宣言された気分的なものについて説明がつくかもしれません。
と同時に、上の方に書いた「神の国は近づいた」という言葉を日本語ネイティブとしていかに読むべきかと書き連ねた諸々が全く見当外れだったということもはっきりしました。
 

2023年6月15日木曜日

マルコ1章15節(6)コヘレト3章、そしてギリシャ語「時」の調べ学習

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳聖書)
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904
時は満ちた、という言葉を聞くと思い浮かぶのはקֹהֶלֶתコヘレト3章です。
 
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。 口語訳聖書 伝道の書3章1~8節
 
クリスチャンになったかならないかという中学生のころ、リビングバイブルか何かで伝道の書を読んだのですが
どこを読んでもわかったようなわからないような、いや、さらっと読み流すのならば人生訓のようで読みやすいのですが、なんとなくキリスト教的ではないような
小さいころ強制的に読まされていた新宗教の教えの言葉にも似ているような変な書だなあ、と思っていました。
 
しかし年齢を重ねた今この書を読むと、
いや、年齢の問題だけではなく、まっとうなキリスト教信者として終わることができなかった自分には、
若いころには感じえなかった「平安」がここに見える。
 
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
と語られた言葉を読み
そのあと11節から語られる言葉を読むと
 
自分には、かつての自分が「そういうものだ」と考えていた「善良なキリスト教徒」に戻らなければ、という気持ちが一切なくなる、というか、吹っ切れるのです。
 
そう言うと、なぜ吹っ切る必要があるのか、という話になるだろうと思いますが、
 
自分の持っている「善良なキリスト教徒」という「囲い」の中に
物理的にも肉体的にも心理的にも、
いや、そのすべてではなくその中のわずか一つでさえも「まったく」手を届かせることができないと気付いたとき、
 
それは、
自分がクリスチャンではなくなること=イエスさまの十字架とかかわりがなくなるということ=絶望
でありましたが
 
しかし、
徹底的に苦しみ、そして絶望の二文字に至ったその瞬間、
 
救われたばかりの中学生時代には全く意味の分からなかったコヘレトの言葉が
ストンと心の中のおさまるべき所にインストールされ
 
「囲い」の中に戻らなければならないという「強迫観念」から解放された・・・
 
 
信仰が「強迫観念」に変わる瞬間を体験せずに一生を過ごせる人は幸いですが
全く望んでもいなかったのにそういう真っ暗などん底に迷い込み、ウン十年にわたりもがき苦しみ続けた自分にこの書は
人間が勝手に作った細かいルールによるがんじがらめの状態から解放、←新約時代の律法ww
そして
神さまご自身の受容と赦しを教えてくれたのです。
 
 
そして、それが自分にとっての「時」が
「満ちた」ということであった、と
今は思っています。
 
 
 
 
イエスさまが語られた「時」とは、まず第一として
前回の記事の最後に書いたような
選ばれた民族が渇望し続けてきた救いの「時」ということでありますが
  
 
 
神さまの御言葉と出会えぬゆえに暗黒のどん底に這いつくばう異邦の者たちが
否、御言葉に出会ったと思っていたからこそ絶望するしかなかった私のような者たちが
人間の手による偽物の教えを離れ
真っ暗な檻から外に飛び出して青空の下に入る
その「時」
その「時が満ちた」。
イエスさまによってハ・シャマイムとハ・アレツが一体となる
「神の国」が近づいた
 
 
 
 
 
 
マルコ1章15節に使われている「時」というギリシャ語は
καιρὸς です。
 Strong's Greek 2540 kairos カイロス
この言葉は86回新約聖書に登場しています。
そしてマルコによる福音書には4回登場。
マルコ 1:15
は満ちた
、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコ10:30 
必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。

マルコ11:13 
そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。

マルコ12:2
季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。 

マルコ13:33 
気をつけて、目をさましていなさい。そのがいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
 
カイロスという言葉は「最適な時期」という意味での「時」をあらわすそうです。
何かを行うにあたり、やり始めるのに最も適した最初に来た、というニュアンスを含む「時」というのがもともとの意味のようです。(最初=先頭=頭=κάραカラ→カイロス)
 
コヘレト3章1節の
「季節」はזְמָן Strong's Hebrew 2165 zeman です。
2165番は、コヘレト3章のほか以下の3か所に登場します。トーラーには無い言葉です。
ネヘミヤ2章6節
時に王妃もかたわらに座していたが、王はわたしに言われた、「あなたの旅の期間はどれほどですか。いつごろ帰ってきますか」。こうして王がわたしをつかわすことをよしとされたので、わたしは期間を定めて王に申しあげた。

エステル9章27節
ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、

エステル9章31節
断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。 
 
また、コヘレト3章1節の「時」という言葉は
עֵת Strong's Hebrew 6256 eth という言葉です。
これは294回登場する言葉でトーラーにもたくさん出てきます。
普通に「時、時間」と訳されることは多い単語ですが、詩篇やコヘレトなどで「適切な時期」という意味で使われたり
預言書で「約束の時」という意味で使われたりします。
 



 
【調べ学習】
新約聖書に登場するカイロス以外の「時」
 
 
日本聖書協会の聖書検索を使って「時」という言葉を検索してみると、口語訳聖書のマルコによる福音書には25回登場していまして、カイロスに該当する箇所を除いて書き出してみると25箇所あり
 
1章23節 ちょうどその時
2章26節 大祭司アビアタルの時
4章10節 イエスがひとりになられた時
4章29節 刈入れ時
4章31節 地にまかれる時には
6章35節 時もおそくなったので
      もう時もおそくなりました。
6章48節    四時ごろ
8章12節    今の時代
                 今の時代
8章38節    時代
9章19節    時代
9章21節    幼い時から
10章20節  小さい時から
11章1節    きた時
11章11節   時もおそくなっていたので
13章30節  この時代
13章32節  その時は
14章35節  この時を
14章37節  ひと時も
14章41節  時がきた
15章25節  九時
15章33節  十二時
                 三時
15章34節  三時
 
 
 
 
 
それぞれの箇所がどういうギリシャ語になっているか調べてみますと
 
1章23節
日本語で「ちょうどその」と訳されているのは、ちょうどというよりはsoonとかat once、immediatelyということで、いわゆる「時」という意味の言葉はありませんでした。
2章26節
「大祭司アビアタルの」 というところにはἐπὶという前置詞があり、英語で言うとat アビアタルのような書き方になっていました。
4章10節 
「イエスがひとりになられた」 これはὅτεで、英語で言うとwhenにあたる言葉がありました。
4章29節 
「刈入れ時」 これはθερισμόςで、一つの単語で刈入れ時という意味です。
4章31節 
「地にまかれる時には」 ここにはὅτανがあり、これも英語で言うとwhenにあたる言葉です。
 
6章35節 
「時もおそくなったので」
「 もう時もおそくなりました。」
ここにはὥραςὥραがあり、両方ともStrong's Greek 5610でὥρα hóraという名詞でした。
特定の明確な時間または季節、 昼間(日の出と日の入りによって区切られる)、一日、昼の 12 分の 1、1 時間、明確な時刻、時点、瞬間、その人にとって適切な、または適切な時期、臨終の時、死の時を指すこともある、ということで、
マルコによる福音書ではほかに
11章11節「 時もおそくなっていたので」
そして上にはありませんが13章11節 「引きわたすとき」
13章32節 「その時は」
14章35節 「この時を」
14章37節 「ひと時も」
14章41節 「時がきた」
15章25節 九時
15章33節 十二時
                 三時
15章34節 三時
 
6章48節 四時ごろ これも時刻を表しているので5610番かと思いきや、全然違う言葉  Strong's Greek 5438 φυλακήでした。刑務所の看守とか、見張りとか、そういう意味があり、例えばマルコ6章27節には「そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、」とあるのですが、この御言葉の中の「獄」にあたる言葉が5438番です。6章48節は直訳すると「夜の見張りの四番目の時」と書かれていて、そういう言葉で時刻を表していたのです。27節の「獄」と何らかのつながりを持たせているのかしら、と一瞬思ったのですが、マタイによる福音書の 14章25節「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。」というところでも 5438番が使われていたり
同じくマタイによる福音書24章43節「このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。」というみ言葉で「盗賊がいつごろ来るか」というのは「盗賊は夜の何時に来るか」というのが直訳で、その「夜の時」をあらわしているのも5438番であることがわかりました。というわけで、夜の時間帯をあらわす専用の言葉がギリシャ語聖書にはあるわけですね。
 
 
8章12節 今の時代
              今の時代
ここは γενεάジェネアというジェネレーションという意味の言葉が用いられています。ジェネアはジェノスという人種、種類、国家、子孫から派生した言葉で、 8章12節は「同時に生きている大勢の人たち」「この世代の人々」というものを表現していて、それを「時代」と表現したようです。8章38節と9章19節の「時代」もジェネアが使われています。
 
9章21節 幼い時から これは Strong's Greek 3812 παιδιόθεν paidiothenという単語で表されていて、この単語は新約聖書の中でこの箇所にしか出てこない単語だそうです。これ一語でfrom childhoodと訳すようです。
ならば10章20節 小さい時からはどういう言葉なのかというと、英語で言うとchildではなくyouthだそうで、youthからという表現となっており「時」ということばはみあたりません。
 
11章1節 きた時 の時という言葉はὅτεで、英語で言うとwhenにあたる言葉でした。
 
 
 
さて、よく聞く話として、
 
ギリシア語では、「時」を表す言葉として καιρός (カイロス)と χρόνος (クロノス)の2つがある。前者は「時刻」を、後者は「時間」を指している。
                      ウィキペディアより
というのがありますが、ここまでのところクロノスが出てきていませんのでBible Hub でクロノスを検索してみることにしました。
 Strong's Greek 5550 χρόνος chronos
 
マルコによる福音書ではどこにクロノスが使われているのかというと以下の二か所です。
 
マルコによる福音書 2:19
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς Μὴ δύνανται οἱ υἱοὶ τοῦ νυμφῶνος ἐν ᾧ ὁ νυμφίος μετ’ αὐτῶν ἐστιν νηστεύειν; ὅσον χρόνον ἔχουσιν τὸν νυμφίον μετ’ αὐτῶν, οὐ δύνανται νηστεύειν.
英語の御言葉を引用し、そこに補足してクロノスを示しますと
New American Standard Bible
And Jesus said to them, "While the bridegroom is with them, the attendants of the bridegroom cannot fast, can they? So long as they have the bridegroom with them, they cannot fast.
So long asのあとに「time」を入れてその「time」がクロノス
 
マルコによる福音書 9:21
そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
καὶ ἐπηρώτησεν τὸν πατέρα αὐτοῦ Πόσος χρόνος ἐστὶν ὡς τοῦτο γέγονεν αὐτῷ; ὁ δὲ εἶπεν Ἐκ παιδιόθεν·
9章21節の日本語からはクロノスに該当するものを選びにくいので
英語の御言葉を引用し、そこに補足してクロノスを示しますと
New American Standard Bibleより
And He asked his father, "How long has this been happening to him?" And he said, "From childhood.
How long のあとに「a time」を入れて、その「a time」がクロノス
 

2023年6月12日月曜日

マルコ1章15節(5)ヘブライ語の「満ちた」からギリシャ語の「満ちた」へ

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。マルコによる福音書1章15節(以下引用は断りがないかぎり口語訳です)
 
 
「満ちた」という意味に該当すると考えられるヘブライ語の単語は
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא male or mala
ではないか、と私は考えます。
 
 
4390番は253回登場する言葉です。
 
一番初めに現れるのは創造の時。
 
創世記1章22節
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 
創世記1章28節
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

しかし現実の世界は神さまの御言葉からどんどん離れた方向に行っています。
海に網を降ろしても魚は取れず、
地に目を向けてみても、
 
干上がるイラクの大湿地帯、地元漁師ら「大量脱出」
という6月11日付のニュース
 
 
2022年8月22日のAFPでも
干上がる「エデンの園」 イラク・メソポタミア湿地帯 という記事に衝撃的な動画がアップされていました。
 
 
「エデンの園」のモデルとなった土地だと、一部では信じられてきた場所のこうした事態。
「満ちる」の真逆の姿に至ってしまったようにすら見える「地」。
 
 
 
 
もっとも、ヘブライ語の「満ちる」という言葉は、
日本語の「満ちる」という言葉と同じように必ずしも良いことや良い物が「満ちる」というときだけに用いられる言葉ではありません。
 
創世記6章11節
時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた
この箇所にある「満ちた」という言葉も4390番です。
 
 
そして、ヘブライ語の מָלֵא 「満ちる」という言葉は
 
マルコ1章15節の「時は満ちた」のような
「時間を積み重ねてその時を迎える」
というような意味でも使われています。
 
例えば創世記29章27節
ラケルとレアの件で、ヤコブがラバンから
まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。
と言われているところ、
ここに4390番が使われています。
 
口語訳聖書だとちょっとわかりにくいような気もしますが
KJVでは
Fulfil her week 彼女の(ための)週を満たす ということで
4390番の存在に気付けるような英訳がされています。
 
ヘブライ語は自然な日本語に翻訳するのは難しいようで、
出エジプト記7章25節、ここにも4390番が使われているのですが
 
口語訳聖書ではこう書かれています。
主がナイル川を打たれてのち七日を経た。
新しい聖書協会共同訳聖書でもこう書いてあって
主がナイルを打たれてから、七日がたった。
日本語を読んでいるだけでは4390番が含まれていることに気づけないような気がします。
 
 
 
ヘブライ語聖書の出エジプト記7章25節を引用します。
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
 
ヘブライ語は日本語と異なり、動詞が先頭に来る言語のようです。
「言語のよう」と言ったのは、私は聖書を読んでいるだけで文法書は見たことがないからですが、ここまで読んだ経験として、いつもいつもそう書いてあるのでそう思っています。
で、「動詞」が先頭に来るということを考えた場合
「主がナイルを打たれてから、七日がたった。」聖書協会共同訳
という日本語の文には二つの動詞「打たれて」と「たった」があり
日本語ではまず「打たれた」という過去の話題を提示して、
そこから七日がたった、と、七日が経った話は後に持ってくるわけですが、
ヘブライ語の御言葉は日本語の御言葉と話題の順序も逆になっています。
つまり「七日がたった」が先に来て、「ナイルを打たれた」のは後にあるということです。
 
どうしてそんなふうになってしまうのか、
日本語を母語とする我々にはその気分的なものを完全に理解することはできませんが、
我々の言語でも「倒置法」がありますから
「七日が経ったよ、主がナイルを打たれてから」
と語る人がどのような思いであるのかは
なんとなくは、わかるわけで、
おそらく、著者がもっとも言いたいことは、先に書いてある「七日がたった」ということなのだろうと思うわけです。
 
 
もう一度ヘブライ語の御言葉を引用します。
 
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
 
ヘブライ語は右から読みますので、
この文は文頭にまずוヴァヴがあり
その次にיヨッドがあり
そのつぎに4390番מלאマレがあります。
そしてその言葉のあとに「七」にあたるשבעתシブアトが置かれ
そのあとに「日」という言葉の複数形であろう ימיםヤミムが置かれているわけです。
 
 
ヴァヴは
神聖四文字神さまのお名前の3文字目の文字です。
これは一点一画の「一画」にあたる文字で英語ではandということですが、
聖書の神さまの時間は一瞬も途切れない永遠から永遠であるということを表現しているように見える文字です。
そして
ヨッドは
神聖四文字の1文字目の文字です。
一点一画の「一点」に当たる文字です。
小さな小さな文字ですが、
これは神さまの右の手、救いの右の手です。
 
その二つの大切な文字の次に4390番「満ちる」が置かれ
 
そこまで述べた後で「七日」と言っているわけです。
 
 
つまり、「七日がたった」と書かれているこの箇所には
7という数字の意味を意識することのできるクリスチャンが意識する以上に
完全な「満ちた」が存在している、私にはそう思えるのです。
 
 
(読んでみればわかることですが、ヘブライ語聖書は、ヘブライ語に触れることのない異邦人が思っている以上に
聖なる書物である印象を受けます。)
 
 
そして「七日がたった」と語ったそのあとに「主がナイルを打たれてから」という部分が続くわけですが
もう一度ヘブライ語聖書の出エジプト記7章25節を引用します。
 
וימלא שבעת ימים אחרי הכות יהוה את היאר׃
 
אחרי とはafterのことです
הכות 打った
この「打った」という言葉は創世記4章15節にも全く同じ形で登場する言葉で
「カインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。」
「打ち殺す」という訳がこの言葉に該当しています。
また、申命記25章2節の「むちで打つ
これも同じ言葉です。なのでそういうニュアンスを含んだ「打った」という意味だと思います。
 
そしてそのあとに神聖四文字、神さまのお名前があります。
יהוה
 
お名前のあとには
 
את היאר׃
אתは超大量にあるのに翻訳できない言葉だとされていますが
これについて考えていることについては以前書きましたのでご覧ください。

ヨハネの黙示録22章とאת 


そしてהיאר これはstream (of the Nile), stream, canal と英訳されています。
 
 
ところで、英語に翻訳された聖書ではここはどう書いてあるのか
Bible Hubに収録されている範囲で調べてみると
New King James Version以外は意訳も含めて「満ちた」感じというか、
4390番を感じさせる訳し方となっています。
 
King James Bible
And seven days were fulfilled, after that the LORD had smitten the river.
New King James Version
And seven days passed after the LORD had struck the river.
American Standard Version
And seven days were fulfilled, after that Jehovah had smitten the river.
Berean Study Bible
And seven full days passed after the LORD had struck the Nile.
Douay-Rheims Bible
And seven days were fully ended, after that the Lord struck the river.
English Revised Version
And seven days were fulfilled, after that the LORD had smitten the river.
World English Bible
Seven days were fulfilled, after Yahweh had struck the river.
Young's Literal Translation
And seven days are completed after Jehovah's smiting the River,
 
 
というところでマルコ1章15節の「満ちた」に戻ります。ギリシャ語の聖書を引用します。
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
 
 
ギリシャ語は左から読みます。
καὶ λέγων ヘブライ語のヴァヴとよく似たκαὶが先頭にあり、それに続いて動詞。
「そして」言われた
神さまであるイエスさまは、創世記で神さまがいつもそう記録されていたのと同じように「そして、言われた」
ὅτι Πεπλήρωται (ὅτιはthatの意) 「満ちた」
ὁ καιρὸς 「the time = 時」
 
出エジプト記7章25節の「満ちた」がそうであったように
マルコ1章15節の「満ちた」も聖なるお方のみこころが完璧にあらわされた「満ちた」という言葉だったに違いありません。
 
そして、福音書の記者がイエスさまの語られた第一声としてまず「満ちた」と記録しているのは
イエス様ご自身だけではなく記録した人も「満ちた」と考えた、ということなのだろうと思います。
長い長い長い時間を積み重ねついにに到達した、万感胸に迫る、というようなものが
この「満ちた」という言葉から読み取れるような気がします。
 
マルコによる福音書の「満ちた」そしてマタイによる福音書にあらわされた系図、
本当に本当に長い間待ち焦がれていた人々にとっての「時」がついにやってきた!
 
そして思いました
 
私たち異邦人クリスチャンは
永遠に変わることのない神さまの「イスラエルに対する」愛、永遠に変わることのない御契約を絶対に忘れてはならない
 ということを。

 

2023年6月9日金曜日

マルコ1章15節(4)律法

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳)
前回の「マルコ1章15節(2)時は満ちた」という記事の最後に
 
時が満ちるという表現はヘブライ語聖書にもあります。
出産の時が満ちると、胎内には、果たして双子がいた。創世記25章24節(以下聖書協会共同訳)
「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。イザヤ書40章2節
主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。エレミヤ書29章10節
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא  (maw-lay')という言葉が使われています。
ということを書きました。
 
よく言われることとして、イエスさまは「アラム語」を話されていたというのがあります。
イエスが使った言語(ウィキペディア)
 
実際にイエスさまが何語を話されていたのかわかりませんが、
もしもイエスさまが日本に来られたら日本の人とコミュニケーションをとる必要から日本語を話されたのではないか、と思っています。
 
使徒行伝2章4節には(以下口語訳聖書から引用します)
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
という記録がありますが
ここに記されているいろいろな他国の言葉がどんな言葉であったかと言えば、使徒行伝2章5節6節に記されているように、
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
エルサレムに住んでいたあらゆる国々出身の方々が理解できる言葉であったわけです。
 
 
言葉というものは、重要なコミュニケーションの道具です。
二人以上の人間同士が情報や感情を伝達しあうためにはいろいろな方法がありますが、
言葉というものによる理解、情報共有は最も効果的であり、きめ細かな意思疎通ができます。
聖書の神さまは「言葉(文字)」によって人間とコミュニケーションを取ろうとされるお方です。
神さまは、石の板そして律法、預言者を通し、私たち一人一人が理解できる「言葉」によってご自身のお考えを伝え続けてくださいます。
そして、ついには御子イエスを私たちに与えてくださいました。
先日書いた(1)の記事の中で私は創世記とマルコによる福音書の表現の類似性について述べましたが、その事実はとりもなおさずこのマルコによる福音書の著者がトーラーに親しみトーラーを信ずる人であった証しであり、そして、永遠の昔から一瞬たりとも途切れることなく続いてきた創造主のあわれみ、イスラエルに向けられたあたたかいまなざしをイエシュア(ヘブライ語ではイエスをイエシュアという)の中に外に「見たのだ」、という証しなのだと思います。
それは以前書きましたがイザヤ書8章20節のתְּעוּדָה 英語ではtestimony, attestationと訳される言葉であるתְּעוּדָהを思い起こさせてくれます

教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。
イザヤ書8章20節 聖書協会共同訳
教えと証し、トーラーとテウダー、

(1)に書きましたが、
神さまは語るのです。人となられた神さまは語る。
トーラーの神さまは語る。人となられたトーラー!

そして、人となられたトーラーであると「見て」気付いた者たちは証言をする。
証言、証し、テウダー!

マルコによる福音書もテウダー、新約聖書はテウダー、私たちの証言、証しと言われるものもイザヤの語るテウダー
絶え間なく切れ目なく語り続けられる証し、

トーラーとテウダー この言葉に従って語るところに「夜明け」がやってくる!


 ところで
תּוֹרָהトーラーという語を日本語の聖書は「律法」と訳しています。
それはトーラーという言葉をギリシャ語にするときνόμοςノモスと訳したからです。
νόμοςノモスは法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範をあらわす言葉だったため、「律法」という日本語が充てられたわけですが
この翻訳に従うと「人となられたトーラー」であるイエスは「人となられた律法」であるイエス、ということになります。
 
何かおかしな印象を受けるのは、
クリスチャンたちが「律法」という言葉によいイメージを持っていないからです。
「人をがんじがらめに縛り付ける律法は終わったんだ!」と確信を持って語っているクリスチャンが多いからです。

律法は本当に終わったのでしょうか?

まずは、時が満ちて来られたイエスさま=神さまご自身 の言葉を引用してみます。
マタイ5章18節
ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν, ἕως ἂν παρέλθῃ ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ, ἰῶτα ἓν ἢ μία κεραία οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου, ἕως ἂν πάντα γένηται.
 
ἀμὴν amen
γὰρ for
λέγω I say
ὑμῖν, to you
 
ἕως  until
ἂν 通常は翻訳不可能、一般的に推測、願望、可能性、または不確実性を意味
παρέλθῃ  shall pass away
the
οὐρανὸς heaven
καὶ  and
  the
γῆ, earth
 
ἰῶτα iota(イオタ=ギリシャ語の文字で最も小さい)
ἓν  one
  or
μία  one
κεραία  a little horn(小さな「角」、つまり「アルファベットの文字にある、他の同様の文字と区別するための『小さなフック、アポストロフィ』)
οὐ no
μὴ  not
παρέλθῃ   pass away
ἀπὸ  from
τοῦ  the
νόμου,  law
 
ἕως  until
ἂν 通常は翻訳不可能、一般的に推測、願望、可能性、または不確実性を意味
πάντα  all, the whole, every kind of
γένηται. to come into being, to happen, to become,      should happen
 
「まことにあなたがたに告げます 天と地が滅びるまで すべてのことが起こるまでは 一点も一角もけっしてノモスからなくならない」


 
そもそも、私たちはなぜイエスさまを信じないと「罪」に定められるのでしょうか。
雰囲気とか成り行きとか伝統的にそういうものだから、ということで罪に定められるわけではありません。
個人の問題ではなく原罪ゆえだ、ということにしたとしても何が原罪なのか、と言えば
蛇の誘惑に負けて「神さまの言葉に背いた」、というところにあるわけです。
誘惑されようがされまいがとにかく人が「神さまの教えに従わなかったこと」これが罪です。
ルールに背いた事が罪なのです。罪刑法定主義と考え方は同じです。「法律なくして刑罰なし」。法律があるからそれに違反すれば罪に定められ罰もある。
 
もしもノモスがすでに終了したというのであれば、
私たちはそもそも神さまに従う必要は無いことになります。
石の板に書かれていた十戒の第一戒も無いのですから
「わたしはある」と語られた神さま以外に神さまがいてもよいということになるからです。
それだけは例外だ、とか、道徳律は現代法にも通ずるから例外だ、とするクリスチャンがいますが
人間が神さまの決められたルールを選んだり捨てたりすることはできません。
もちろん、イスラエルと異邦人は立場が違いますから、
神さまがイスラエルに与えたルールはそのまま私たちには適用されません。だから弟子たちはこう言いました。
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」使徒言行録15:28-29 新共同訳
 
 
姦淫を犯した女がイエスさまのところに連れて来られた時、イエスさまはこうおっしゃいました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 
 
 
イエスさまはここでも律法の存在を否定してはいません。
 
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
と言っておられることから「姦淫は石打ち刑である」という規則の存在を認めておられるということがわかります。
ただ、イエスさまはこの法に定められた刑を執行するにあたり、条件を付けました。「あなたがたのうちで罪のない者が」という条件です。
神さまが作られ人間にお与えになった律法をイエスさまがご自身の御言葉によって条件を付け「変更」された
この事実は、イエスさまが神さまご自身であることを示されたのと同時に、人が人を裁くという行為の重さ、そして、人の命を奪うことを許されるのは人に命を与えることのできる神さまただおひとりなのだという律法の根底にある「神のみこころ」をはっきりと示されたのです。
 
そして人々が一人去り二人去り
そこにイエスさまと姦淫の現場でとらえられた女性だけが残った時、
 
律法は厳然とそこにあり
律法に違反した者が
裁く神の前に立っていた
 
はずでありました。
 
しかし、女性の前にいたのは
神ではあるが「救い主」であるイエスさまでありました。
 
そして神のひとり子であるメシアは、否、神ご自身はこう語られたのです。
 
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 
つまり、
律法はあるのです。
律法があるからそれに違反すれば罪である。今後も罪を犯す可能性もあるわけです。
イエスさまがおっしゃったのは「あなたを罪に定めない」ということであって、「あなたには罪がない」ということではないのです。
神さまは律法であらかじめ示された通りに私たちに罪があれば裁き、刑罰を与えられるというところに全く変更はないのです。
ただ、大きく大きく変更されたのは、御子イエスの十字架によって、神さまは罪を赦してくださるということなのです。
罪があるからこそ赦す必要があるのです。律法がないなら罪はないのです。制限速度が定められていないなら、速度超過の反則がありえないのと同じです。
罪がないなら悔い改める必要はないし罪がないのなら福音はいらないのです。
 
 
 
 
これも以前書いた事ですが
イエスさまが語られた「律法の一点一画」というのは
ギリシャ語聖書ではイオタとケライアとなっていますが
ヘブライ文字で考えると
一点に当たるのはיヨッド
一画に当たるのはוヴァヴのようです。
この二つの文字は神聖四文字のうちの二文字です。
これらが無くなってしまうと神聖四文字に残るのはהヘーが二つ。
創造主であられる神さま、あってあられるお方の存在が消えてしまうということになります。
 
 
 
トーラー(モーセ五書)を素直に読めばわかることですが、トーラーの中に含まれるルールとは「屋上には手すりをつけろ」とか感染する皮膚病の判別法とか治ったかどうか見極める方法とか、
そこには人間が個人としても集団としても健康にそして上手に生活していくためのルールです。
そしてこれはトーラーをギリシア語のノモス=法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範と訳してしまったがゆえに見落とされていることですが
神さまの創造とは「混沌」にルールを与えたことにほかなりません。(創世記もトーラーです。)
だとすると、日本語で言うところの「律法」を廃するとか終了するというのは、
言っている方々としてはそんなつもりはないかもしれませんが、
自然界のすべてのルール、法則を廃すると言っているのと同じことになります。
 
まあ、だからこそ、平気で原子核をいじったり、DNAをいじったりできるのでしょうけれども。
 

さて、

新約聖書はギリシャ語で書かれている、のでありますが、
聖書ヘブライ語を意識して、可能ならば聖書ヘブライ語に置き換えて読んでみることで、それまで見えなかったなにかが見えてくるような気がします。

イエスさまがたとえアラム語で日常生活を送られていたのだとしても、
イエスさまが読んでおられたトーラーやネイビームは聖なる文字で書かれていたはずですし
トーラーとノモスという言葉の間に見えた差異のようなものがほかにもあったら大変です。
 
危険な時代です。
注意深く読んでいきたいものです。

2023年6月8日木曜日

マルコ1章15節(3)日本語の聖書における「満ちた」という言葉についての詳細

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節
にある「満ちた」というところに使われているギリシャ語は 
Strong's Greek 4137 πληρόω で、
Englishman's Concordanceによると、これは88回使われているということなのですが
なぜかヨハネの黙示録ではわずか2度、3章2節と6章11節にしか出てこないのです。
3章2節
目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
6章11節
すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。
黙示録なら満ちるものはもうちょっとあるような気がしたのですが
 
で、調べてみましたら
まずは Strong's Greek 1073 γέμω (ghem'-o) 動詞 が使われているというのがあり、
 
4:6 一面に目がついていた
4:8内側も目で満ちていた 
5:8香の満ちている金の鉢
15:7神の激しい怒りの満ちた七つの金の鉢 
17:3 その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ
17:4憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯 
21:9最後の七つの災害が満ちている七つの鉢
 
 
 
そして、1073番の言葉を起源とする、これも動詞ですが
Strong's Greek 1072 γεμίζω  (ghem-id'-zo) が使われているものというのもありました。
 
8:5 祭壇の火を満たして
15:8 聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ
 
 
以上引用したのは口語訳聖書です。
 
ところで、
ここまでの3つの言葉が使われていない「満ちる」という日本語がいくつも聖書協会共同訳の黙示録にはありまして
 
例えば1章10節
主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた。
 
「満たされ」とありますけれども、ギリシャ語では
ἐγενόμην ἐν Πνεύματι ἐν τῇ κυριακῇ ἡμέρᾳ, καὶ ἤκουσα ὀπίσω μου φωνὴν μεγάλην ὡς σάλπιγγος
と書いてあるので
ἐγενόμην I became または I was
ἐν  in
Πνεύματι  (the)spirit
ἐν  in または on
τῇ  the
κυριακῇ  Lord’s
ἡμέρᾳ,  day
 
ということで「満たされ」という日本語は、クリスチャンにわかりやすいように?補われた言葉のようでした。
 
 
 
さて、話を戻します。
そんなわけで、「満ちる」という言葉は、昨日登場した「満ちる」のギリシャ語の
Strong's Greek 4137 πληρόω ではないとされた
 
Strong's Greek 1073 γέμω そして
Strong's Greek 1072 γεμίζω という 
合計3種類が登場したわけですが
 
それぞれの特徴とすると
4137番が88回という登場頻度で最も多く、
しかし黙示録に関して言うとわずか2回で
3章2節
目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
6章11節
すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。
1073番は新約聖書中で11回登場し
内訳はマタイが2回、ルカが1回、ローマ書が1回で
黙示録が7回
マタイ23:25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている
マタイ23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである
ルカ11:39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている
ローマ3:14彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている
 
 
ということで、上に引用した黙示録の言葉とあわせて考えると
なんだか悪い物に満ちている(;´Д`A ```
 
そして1072番は全部で8回登場し
 
マルコが2回、ルカが1回、ヨハネ福音書が3回、黙示録が2回
マルコ4:37すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
マルコ15:36ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
ルカ14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
ヨハネ2:7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、
ヨハネ2:7 彼らは口のところまでいっぱいに入れた
ヨハネ6:13そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
上で引用したの黙示録の言葉とあわせて考えると
良いも悪いもなく物理的にいっぱいにするということなのでしょうか
 
 
というようなことを確認した後、もう一度
Strong's Greek 4137 πληρόω に戻り、
88箇所の御言葉を確認したのですが、
実現するとか成就するとか完成するとか
そういう意味を持つ「満たす、満ちる、いっぱいにする」という言葉なのだ、と実感しました。
単なる「いっぱい」ではなく完成する完全になるということ
そういうことを思いながら
 
今後はそういう気持ちで味わいたいと思います。
 
 
 
 
マタイ 1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。
マタイ 2:15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
マタイ 2:17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
マタイ 2:23 ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
マタイ 3:15 
マタイ 4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
マタイ 5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
マタイ 8:17 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
マタイ 12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである
マタイ 13:35 これは預言者によって言われたことが、成就するためである
マタイ 13:48 
マタイ 21:4こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
マタイ 23:32
マタイ 26:54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。
マタイ 26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。
マタイ 27:9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。
マタイ 27:35 
マルコ 1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコ 14:49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」
マルコ 15:28 こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。
ルカ 1:20時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、
ルカ 2:40
ルカ 3:5 すべての谷は埋められ
すべての山と丘とは、平らにされ、
曲ったところはまっすぐに、
わるい道はならされ、
ルカ 4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 
ルカ 7:1
ルカ 9:31栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。
ルカ 21:24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
ルカ 22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」
ルカ 24:44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 
ヨハネ 3:29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
ヨハネ 7:8 
ヨハネ 12:3その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
ヨハネ 12:38 
ヨハネ 13:18 
ヨハネ 15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
ヨハネ 15:25
ヨハネ 16:6かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。
ヨハネ 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
ヨハネ 17:12わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。
ヨハネ 17:13 今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
ヨハネ 18:9それは、「あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉が、成就するためである。
ヨハネ 18:32 これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。
ヨハネ 19:24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。
ヨハネ 19:36 これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。
使徒 1:16「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。
使徒 2:2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
使徒 2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、
み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。
使徒 3:18神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
使徒 5:3
使徒 5:28 
使徒 7:23
使徒 7:30四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。
使徒 9:23 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。
使徒 12:25バルナバとサウロとは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。
使徒 13:25
使徒 13:27
使徒 13:52弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。(喜びに満たされ) 
使徒 14:26 
使徒 19:21
使徒 24:27
ローマ人への手紙 1:29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
ローマ人への手紙 8:4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
ローマ人への手紙 13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 
ローマ人への手紙 15:13 どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
ローマ人への手紙 15:14さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。
ローマ人への手紙 15:19しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。 
2 コリント 7:4 
2 コリント 10:6 
ガラテヤ人への手紙 5:14律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
エペソ人への手紙 1:23 
エペソ人への手紙 3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
エペソ人への手紙 4:10 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。
エペソ人への手紙 5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 
ピリピ人への手紙 1:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
ピリピ人への手紙 2:2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
ピリピ人への手紙 4:18 
ピリピ人への手紙 4:19 
コロサイ1:9 
コロサイ 1:25 
コロサイ 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
(ギリシャ語ではキリストの中で完全にされということが書かれている。・・・ちょっと口語訳のコロサイ人への手紙は私にはわかりにくい・・・)
コロサイ 4:17 
2 テサロニケ 1:11 
2 テモテ 1:4 
ヤコブ 2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
1 ヨハネ 1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
2 ヨハネ 1:12
黙示録 3:2 
黙示録 6:11 
 

2023年6月7日水曜日

マルコ1章15節(2)時は満ちた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコによる福音書1章15節
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
今日は口語訳聖書で言うところの「満ちた」という言葉に注目します。
 
日本語で何かが「満ちる」というとき、私たちはどういうものをイメージするかというと
カップが水でいっぱいになりこれ以上は注げない状況
つまり、何か一定の大きさのものがあり、それが少しの隙間もなく入っている状況です。
 
では、マルコの福音書の著者が書くイエスさまの第一声「時は満ちた」とはどういう意味でしょう。
 
トーラーを持たない異邦人、聖書に触れたことのない方々にとって、この言葉は本当は意味不明であるはずなのですが、
通常の読書のような気分でこの箇所を読んでしまうと、「満期」だとか「任期満了」とかいう日本語を知っているがゆえになんの疑問も持たずに通り過ぎることができる。
そして、もしかしたらThe Time has comeと脳内で変換して納得しているかもしれません。もっともNIVの翻訳ではここはThe time has comeとなっているのですが、しかしここはThe time is fulfilledなのであって、has comeだと意味が変わってしまいます。「時が来た」ではないのです。「時が来た」と言ってしまうと、ある「時」という一点が存在し、時の流れに身をまかせているうちにその瞬間が向こうからやってきて到達した、ということで、
「時が満ちる」というのは定められた「時」に向かって、ずーっとずーっと物事を積み上げてきて、絶え間なく積んで積んで・・・ようやくそこに到達することができたということだからです。
 
マルコ1章15節の「満ちた」という表現は
ギリシャ語の聖書ではΠεπλήρωταιと書かれています。
 
Πεπλήρωται (Peplērōtai) という形の言葉は聖書の中に5回登場していて
その一番目がこのマルコ1章15節です。
そして後の4回は以下の箇所で、口語訳聖書では太字のような日本語に訳されています。
ルカ4章21節
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
 
ヨハネ7章8節
あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。

ガラテヤ5章14節 
律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
まず、ガラテヤ5章14節の「一句に尽きる」という訳を見ると、このギリシャ語の言わんとしていることがよくわかります。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という御言葉ひとつで律法の全体が「不足なく十分に」語られているということです。
それをを踏まえてルカ4章21節の言葉を読むならば「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に『不足なく十分』になった、ということで、これが聖書で言うところのいわゆる預言の「成就」という意味です。
 
同様にヨハネ7章8節を読むならば「あらかじめ定められたある時」はあるが「その時」だと言うにはまだ足りないのだ、ということをイエスさまはおっしゃっている。
 
そして、マルコ1章15節で語られたその「時」とは、
トーラーを人類に与えたもうた神さまがあらかじめ定めておられたその「時」
トーラーを持つ民がずーっとずーっと待ち焦がれていたその「時」
神さまが預言者によって語り続けておられたその「時」
「神の国」がキリストによって設立される前に必ず経過しなければならないその「時」に至るために
不足なく十分に整った
 
 
時が満ちるという表現はヘブライ語聖書にもあります。
 
出産の時が満ちると、胎内には、果たして双子がいた。創世記25章24節(以下聖書協会共同訳)

「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。イザヤ書40章2節

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。エレミヤ書29章10節
 
 
 
Strong's Hebrew 4390 מָלֵא  (maw-lay')という言葉が使われています。
 

2023年6月6日火曜日

マルコ1章15節(1)人となられた神~創世記とマルコによる福音書

マルコによる福音書1章15節「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
 
口語訳聖書とΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904から引用しました。
 
日本語の口語訳聖書では、ギリシャ語聖書の冒頭にある
 
καὶ λέγων 英訳するとand saying
 
という言葉が前節に含まれたような形になっていますが、このκαὶ λέγων and sayingという言葉は
ヘブライ語の創世記における特徴的な表現です。
創世記1章の3、6、9、11、14、20、24、26、29節の冒頭に見られる
וַיֹּ֥אמֶר 
という言葉がκαὶ λέγωνに該当すると私は考えます。
 
 
 
そういうことを意識して
ギリシャ語のマルコによる福音書1章の冒頭から読んでみると
この福音書はヘブライ語聖書の創世記に似ているのです。
何を持って似ていると思ったのか、と言いますと、
ヘブライ文字וヴァヴに該当するような語が各節の文頭に来ているということ。
ヘブライ語聖書の御言葉は、例えば創世記1章を見ると、2節以降文頭がみんなヴァヴ、英訳すればandなのです。
創世記1章の各節の冒頭を引用してみますのでご覧ください。1節は先頭なので2節から引用します。ヘブライ語は右側から読みます。ピンク色の文字がוヴァヴです。
2節 וְהָאָ֗רֶץ
3節 וַיֹּ֥אמֶר
4節 וַיַּ֧רְא
5節 וַיִּקְרָ֨א
6節 וַיֹּ֣אמֶר
7節 וַיַּ֣עַשׂ
8節  וַיִּקְרָ֧א
9節 וַיֹּ֣אמֶר
10節 וַיִּקְרָ֨א
11節 וַיֹּ֣אמֶר
12節 וַתּוֹצֵ֨א
13節 וַֽיְהִי־
14節 וַיֹּ֣אמֶר
15節 וְהָי֤וּ
16節 וַיַּ֣עַשׂ
17節 וַיִּתֵּ֥ן
18節 וְלִמְשֹׁל֙
19節 וַֽיְהִי־
20節 וַיֹּ֣אמֶר
21節 וַיִּבְרָ֣א
22節 וַיְבָ֧רֶךְ
23節 וַֽיְהִי־
24節 וַיֹּ֣אמֶר
25節 וַיַּ֣עַשׂ
26節 וַיֹּ֣אמֶר
27節 וַיִּבְרָ֨א
28節 וַיְבָ֣רֶךְ
29節 וַיֹּ֣אמֶר
30節 וּֽלְכָל־
31節 וַיַּ֤רְא
2章1節  וַיְכֻלּ֛וּ




以上のことを踏まえて今度はギリシャ語聖書でマルコによる福音書を眺めてみましょう
マルコの1章では、5,6,7,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,25,26,27,28,29,31,33,34,35,36,37,38,39,40,41,42,43,44,の各節の文頭がκαίであり、英訳すればand であり、ヘブライ語で言えばוヴァヴなのです。
 
καίではないものをピックアップした方がよいようなκαίづくしです。καίでなくとも別のandと訳せそうな言葉が文頭に来ていたりして、創世記のような調子で書かれた聖書ヘブライ語の文章をギリシャ語に訳したのではないかと考えたくなるくらいκαίだらけ。
ほかの福音書でもκαίは少なからず登場しますがマルコによる福音書の文頭のκαίは徹底しています。

ヴァヴ。つまり文頭はいつも「そして」
日本語の作文では悪文とされるような書き方です。
しかし、このこだわりと言うかこの徹底ぶりを見ていると
著者の強いメッセージが聞こえてくるのです。
絶対に途切れることのない永遠から永遠、絶対途切れることのない神さまの国、
神さまはおひとり、唯一の神の創造そして支配。
 

 
そしてマルコの福音書のはじめのはじめは
 
Ἀρχὴ  Strong's Greek 746で
これはar-khay'と読む単語ですが
Definitionは beginning, originで
創世記1章1節の書き出しבְּרֵאשִׁ֖ית   in the beginningを思い起こさせるような始まり方。
 
聖なる文字で書かれた聖なる書物の冒頭が
בראשיתであると知ったあとにマルコによる福音書を読むと、

その言葉を熟知している著者が
בראשית すなわち創世記における「天と地を創造されたお方ご自身の地上における歩み」を記そうとして
その冒頭にἈρχὴ  Strong's Greek 746という言葉を置いたのではないか、と思えてくるのです。
アドナイが人となって
人と同じように仮庵に住まわれ荒れ野を歩まれたというその事実
エデンの園を追い出された人類として
また、民族としての長い長い苦難の歴史を思いながら
そして、
イザヤが、そしてマラキが語っていた
あのお方がとうとう来られたのだという喜びを
マルコの福音書の著者は
トーラーを愛する者らしく
冒頭で書き綴ろうとしたのではないか、と「私は」思いました。
 
 
そういうマルコの福音書に書かれている
一番初めのイエスさまの「御言葉」が冒頭に引用した
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」です。
 
この御言葉をギリシャ語の聖書で見ると、上に書いたように
καὶ λέγων 「そして(イエスは)言われた」という言葉から始まります。
創世記で「そして(父なる神は)言われた」と書かれていたように。

神さまは語るのです。人となられた神さまは語る。
トーラーの神さまは語る。人となられたトーラー!




 
καὶ λέγων (and saying)
ὅτι(that) 
πεπλήρωται (Has been fulfilled)
(the)
καιρὸς(time)
καὶ(and)
ἤγγικεν (has come near)
(the)
βασιλεία(kingdom)
τοῦ(of)
Θεοῦ· (GOD)
μετανοεῖτε(repent you)
καὶ(and)
πιστεύετε(believe)
ἐν (in)
τῷ(the)
εὐαγγελίῳ.(gospel)
 
 
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
 
主が
この地上に来られて発した言葉としてマルコの福音書に最初に記録されているこの言葉
いったいこれは何をおっしゃったのかどういう意味なのか
 
 
味わっていきたいと思います。