2016年8月13日土曜日

二羽の雀

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
マタイによる福音書10章29節


今日、祈っているとき、マタイ10:29のみことばがふと心に浮かびました。
私たちの天の父は小さな小さなすずめたちのいのちもこころにかけていてくださるお方なのだなあと思いました。
 
アダムによって罪が入って以来、
人はお母さんのお腹の中で存在し始めた瞬間から身体にも心にも弱さを抱えるようになりました。
それで、身体も、心も、病み、苦しまなければならなくなりました。
しかし、それは神さまがうっかり目を離したり私たちのことを忘れてしまわれたからではないのだ、ということを
マタイ10章のみことばは語ります。

あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

このみことばを読みながら同時にヨブ記の2章にある神さまとサタンのやりとりを思い出すと「なぜ」と問いたくなることもありますが、
しかし、全地全能のお方に自分のような小さな者がたずね、なにがしの回答を得たところで、レベルが違いすぎてきっと理解できないのです。
 
ただ、覚えておかなければならない忘れてはいけない間違いのない確かなことが一つ。
ヨブの件についてもそして私たちの苦しみに関することについても神さまは「許可」を出されているのだ、ということ。
 
身体を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、
心を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、
 
それは、神さまが決して無関心であったわけでも、
うっかりしていたわけでも、
失敗したわけでもない。
 

 許可を出されたから。

 
愛する者を苦しめるほどの意味と価値がそこに在ったから。
 
 
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
マタイによる福音書10章29節
 

2016年8月1日月曜日

新しいのか古いのか

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章36~39節

3日間、ルカによる福音書5章の後半部分で足踏みをしていました。

昔、「新しい服の布」「新しいぶどう酒」と言われているのは「イエスさまの教え」のことで、イエスさまの教えは力強く発酵する新しいぶどう酒のような力に満ちた教えであるから、既存の律法主義的なユダヤ教=古い革袋 の中には収められない?のだ、と教わったなあ…と思い、そうそう、そういう話だった、ということで読み終えようと思ったのですが、ふと見たら「もう一節」ありまして
 
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章39節


ずっと前からこの節もあったはずなのですが(そりゃ当然)
しかし、マタイによる福音書9章やマルコによる福音書2章には無いのと、
5章38節までのところについて昔習った「解説の印象」がとても強かったので「分かったつもりになっていて」飛ばして読んでいたような気がしてきました。

いや、読んではいたのだけれどもなんの違和感を感じなかったのだと思います。
が、今回はどうしたことかとても違和感を感じたのです。
 
で、一日中39節のことを考えていたのですが、分からないスパイラルに陥ってしまったので、ちょうど休日だった夫に久しぶりに聖書の質問をぶつけてみました。
 
すると彼は聖書を開くこともなく
「古いぶどう酒=ユダヤ教 ということで、当時のユダヤ教指導者たちが 新しいもの=イエスさまの教え を欲しがらないという意味だよ」と即答。

あまりにもあっさりと「当然」という顔で言われたのには驚きましたが、
「…たしかにそう教わったんだ」と思い、夫の言葉にとりあえず肯いたのではあります。
しかし家事を終えて一段落し、聖書を読み返すとまた違和感。

最近私は新共同訳を通読に使っているので、そのせいかもしれないと思い
じゃあ、新改訳に戻って読んでみましょうと、新改訳を数回読み返したら違和感がおさまった感じがしたのですが、
新共同訳に戻って数回読み返すとまた違和感がぶり返す。
どうしてそういう違いが出て来るのか分からないのですが、
もしかすると私の脳の中では…新改訳の御言葉についてはその一文一文が、かつて聴いたメッセージとしっかり固く結びついていて動かしようがないのかもしれません。


まあ、とにかく、違和感の原因が気になるので、新共同訳の御言葉を単なる「言語」として眺めてみることにしました。


で、気付いたのは、39節が「また、」という接続詞で始まっているということと、古いお酒を良いものとして評価しているというのが違和感の原因だ、ということです。

もしも「また」という接続詞ではなく「しかし」で始まっていれば、
前に提示された「新しいぶどう酒」に対立する「古いぶどう酒」ということになり、古いものにこだわっている人を批判してるように聞こえるのですが、
「また」で始まってしまうと、前に語ったものと同じような内容の話が追加されるだろうと予測しながら「また」以降の話を聞くことになるので、
これまで例示された二つの「新しい=イエスさまの教え=良いもの」に加え、もう一つ同様の何かが示されるのだろうと予測する。
ところが、同じことを言いかえるような付け加えの話ではなく、古いものを良いものとして評価する展開に!

うーーん

じゃあ、たとえば、
39節の話で古い物を良いと評価しているのは「イエスさま」ではなく、古いお酒を飲んだ「人」だと考えましょう。
古いお酒を飲んだらおいしかった、と。新しい物よりも古い物の方が良いと知っているから新しい物は要らないと「その人が思った」と。そういうイエスさまではない「人」の感覚的なものについて語っていると考えれば、イエスさまの教えを受け取らない人々への批判という理解に到達できるかもしれません。
でもそういう解釈はできないわけです。
なぜならイエスさまは「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。」と、かなり断定的におっしゃっているのです。断定的におっしゃっていると思えるのは「だれも~しない」という表現によるわけですが、
なので、「かたくなな一部の人が」新しいぶどう酒を拒否するというよりは一般論としてだれもが「古いものの方がよい」と思っているという話なのですよね。つまりイエスさまも古いぶどう酒の良さを認めていらっしゃる。

うーーーん

何かがおかしい。

どうも納得がいかないので、33節から39節まで通して考えなおしてみることにしました。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そしてイエスはたとえ話を話された。「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章33~39節

だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。

あれれ?
イエスさまの教えって「新しい」側に入っていますか?


「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」っていうところの「だれも」に「神さまは」という言葉を代入し…古い服がユダヤ教だと考えるなら、…古い布で継ぎを充てなければなりませんよね?







このたとえ話が語られたのはこういう指摘があったときのことでした。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」 で、この指摘の前にもイエスさまは
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
と言われていました。
また、このたとえ話のあとには有名な安息日の論争。
イエスさまはユダヤ教の指導者たちから
「律法や慣習を無視する新しい教えをひろめている」と思われていたわけですよね。

むむむ

これって

イエスさまは、「新しい教えをひろめている」わけではないよ!!と語られているのではないでしょうか?

よく考えてみれば、マタイによる福音書5章17節にあるように、
イエスさまというお方は律法を完成するために来られたわけですよね?
だとしたらイエスさまの教えは「新しい教え」ではない。
完成という言葉はもともとあるものに足りなかった最後のピースを入れて完成する、という事ではありませんか??

そうだそうだ。
道であり真理でありいのちであるお方は、
父なる神さまと同じお方であって、
一番始めにおられた方です。
そして昨日も今日もそして永遠に変わらないぶれのないお方であったはずです!

イエスさまはメシア(救い主)なのであって、新しい宗教の開祖ではありません。
イエスさまは世界の始めから存在していた生ける御言葉であって、宗教改革者ではありません。
つまり、ユダヤ教の指導者たちがイエスさまのことを「良くない新しい教えを説く者」と評価するのは間違っている、ということではありませんか?
本家本元はイエスさま。ユダヤ教の指導者たちこそが本筋からずれた人たち。
ずれているのにずれていると気付かず、行くところまで行ってしまって、でも自分たちは正しいと信じているから、
古くて正しいものを見て「新しい教え」とか、「変だ」と思っているということを
イエスさまは指摘しておられるのではないでしょうか。



エレミヤ書、いちじく、ザアカイさん

今日はエレミヤ書の7章8章が通読箇所でした。

エレミヤ8:13
「私は彼らを、刈り入れたい。
―主のみ告げ―
しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、
いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。
わたしはそれをなるがままにする。」


少し前からいちじくが気になり、


新約聖書マタイの福音書21章に出てくる葉ばかりが茂っている「いちじく」をイエスさまが枯らしてしまわれたところと、創世記3章に出てくるアダムとエバが自分たちが裸であると知ったときにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくった、というあたりが気になって仕方がないというのが気になりだしたきっかけだったのですが



今日の、「私は彼らを、刈り入れたい。」という神さまの言葉にマタイ21章で空腹を覚えられたというイエスさまを見た気がしたのです。

イエスさまが空腹を覚えたとマタイ21章のストーリーは
イエスさまのふるまいを見て「あまりにも身勝手」だと感じる人が信者にもいないわけではなく、信者ではない人に至っては「人間だもの」と嘲笑。
しかし、そんなふうに言われてしまうイエスさまが異様に思えて…絶対何か深い意味が、見落としていることがあるに違いないと長い間思っておりまして・・・そういう気持ちを持ちつつ本日に至っております。

今日エレミヤ書で8章13節のみ言葉を読んだとき、ここに至るストーリーから考えると、本当に、本当に神さまのイスラエルに対する思い、悲しみが伝わってきて、そうしたなかで「私は彼らを、刈り入れたい。」ということばにつながっていくということを感じるわけなんですが、イエスさまの空腹という話ももしかしたらここにつながってくるのではないだろうかと。

ただ、エレミヤ書のこのみ言葉では、「いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。」ということで、マタイ21章とは異なり、葉がしおれているのです。マタイ21章ののいちじくは葉が茂っていますのでちょっと違います。


そうするとまた思い出すのが創世記のいちじくの葉。


創世記では、あのあと、神さまが皮の衣をアダムとエバのために作ってくださって着せてくださったんですね。
この件について、善良なキリスト教徒であったときに繰り返し何度も教えられたことは、「皮の衣を作るためには動物の犠牲が必要だった」ということです。
裸であると知ったのは彼らが神さまの言葉に従わなかったから。そして、その結果彼らは目が開かれていちじくの葉をつづり合わせたもので覆った。しかし神さまはそのいちじくの葉ではなく皮の衣を作って着せてくださった=罪の結果を動物の犠牲をもって覆ってくださった。
なので、いちじくの葉というのは、人間的に考えて罪をごまかせそうなものということであり、神さまとしては認めることが出来ないものということになるような。


とすると、マタイの所に描かれているいちじくは葉が茂っているから、罪をごまかそうとする人間の行動がみちみちていて、エレミヤ書のいちじくは葉っぱすらしおれているからもうどうしようもないほどに、汚れ果てている??

そのあたりはまだイマイチよくわからないのですが

でも今日は、読みながらもうひとつの「いちじく」に気付きました。
それはザアカイさん。

イエスさまといちじくの話をマタイ以外の福音書でも読もうと思い「四福音書の調和」という昔々に購入した小冊子(福音書のエピソードが時系列で表になっている)を眺めていると、
イエスさまが実のないいちじくに出会った話はマタイとマルコにしかないのですが、エルサレム入城と宮きよめの記事の配置から、ルカではおそらく19章の辺りだと気付きまして、そのあたりには何かなかったかなとルカの19章を開いてみたところ、そこに現れたがあのザアカイさん。
ザアカイさんのエピソードと言うのは四福音書ではルカにしかないわけですが、
ザアカイさんと言えば「いちじく桑」にのぼってイエスさまと出会った人です。
呪われたいちじくのストーリーの代わりに登場したのかと思えてしまうザアカイさんのストーリー。
いちじく桑という植物はいちじくの木のようなおいしい立派な実をつけることはないけれども、ちゃんと食べられる実をつける樹木で
その木に生(な)っていた?ザアカイさん(笑)

いちじく桑にのぼっているザアカイさん。渇き、求める彼の姿。
その姿を見つめるイエスさまの優しい目。

「私は彼らを、刈り入れたい。」エレミヤ書のみ言葉、神さまの声が聞こえます。

葉ばかりが茂っているいちじくの木ではなく、
イエスさまに心の底から出会いたかったザアカイのいるいちじく桑。

「私は彼らを、刈り入れたい。」

イエスさまの孤独

今日の聖書通読はマルコによる福音書14章でした。
 
 

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。
マルコによる福音書14章41、42節

 
イエスさまが捕らえられる直前の様子をマルコは描きます。

 
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」
私はこの言葉を読むたびにイエスさまの深い孤独を感じます。
 
親しい仲間たち=弟子たち は眠っている。
しかも、自分を裏切って敵の手に渡すのは弟子であるユダです。
十字架は「人」の罪の身代わりです。「さばき」です。
父なる神さまとの断絶です。
 
…主は、人間となられた主イエスは、完全な孤独です。
 
しかし、

 
本当は、人間とは孤独なものです。
孤独以外のなにものでもない。
「本当は」と書いたのは、
通常は「孤独」なんて感じないことが多いからです。
でも、何かあった場合、
私のような落ちこぼれ孤羊は痛いほど感じます。
ああ、孤独だ・・・と。
もっとも、囲いの中にいても同じだったのです。
だからこそ外に出てしまったような気もします。
喜びであれ、ましてや苦しみを
真の意味で人と分かち合うことなど
出来るものではなかったのだという絶望、孤独。
 
 
東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、
悟った者のように語らせてもらえば、
どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。 
なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと
ひとりぼっちであるという事実と感覚は増幅して襲い掛かってきます。
親がいてきょうだいがいて親族がいたとしても同じ。
SNSより少し上質な「つながり」は
上質であると思えば余計に失望させられる。
 
 
人に期待し、人を頼っても、
結局人は何もしてくれないし、
逆に自分だって
精一杯行ったつもりでも
誰も満足している様子ではなく・・・
 
 
 
 
そういう孤独、そして無力感を
人間であるイエスさまは徹底的に味わってくださった。
イエスさまは神さまであられるのに、人間の絶望を知ってくださった。
 
 
 

先日、
NHKのこころの時代「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に~」
という番組を見ました。
その番組に登場された本田哲郎神父は新共同訳聖書の翻訳にもたずさわられた方でありますが、個人としても聖書を翻訳しておられ、番組では神父の個人訳聖書からいくつかのみことばが取り上げらていました。
本田神父の訳はどれをとってもとても心に残る、そして目から鱗が落ちるようなものだったのですが、特に「山上の説教」がとても心に残りました。
 
 
心底貧しい人たちは、神からの力がある。
天の国はその人たちのものである。 
死別の哀しみにある人は、神からの力がある。
その人は慰めを得る。 
抑圧にめげない人は、神からの力がある。
その人は地を受け継ぐ。 
解放に飢え渇いている人は、神からの力がある。
その人は満たされる。平和のために働く人は神からの力がある。
その人は神の子と呼ばれる。
番組で、本田神父はこう語っておられました。
神さまはイスラエルを「選ぶ」のにあたって、彼らが人数が多かったから選んだのではなく、むしろ彼らの人数が少なく貧弱だったから選んだ、つまり彼らの「弱さ」を選んだ。(申命記7章6節参照)
そして、神さまの「力」は弱さの中にあって発揮される。だから弱いときにこそ強い。
神さまの力というのは、弱さを知っている人、痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさ、怒りを知っている人に発揮されるのだ、と。
 
 
 

 
イエスさまの孤独、
それは神さまと断絶した罪人たちが、「きれいごと」という名で彼らを覆っているありとあらゆるものをはぎ取られあらわになった「孤独」の総和だったのかもしれないと今日は聖書を読みながら思いました。

私たちが孤独を深く感ずるとき、イエスさまの十字架は私たちにより近づき、
私たちが「もうだめだ」と絶望するとき、むしろその時こそが私たちに神さまの力が現れる。
 
中途半端な幸せではない神さまから与えられる究極の幸せが、小さくされた、弱くされた人々にあるのだ…と

【調べ学習】いちじくについて

「いちじく」について調べ学習をしました。
 
イエスさまが「いちじくの木を呪って枯らしてしまう話」というのが、今通読しているマルコの福音書をはじめ他の福音書にもあるわけですが、
何度読んでも変な話だとしか思えないのですよ。だってね、イエスさまはまず空腹を覚えられ→いちじくの木のところに行って実がないと知り→呪っていちじくの木を枯らす
ってね、簡単にストーリーは展開していくわけですが、でもイエスさまが荒野の試みで空腹だったときどうであったか、5000人給食のあたりの話とのからみではどう考えればいいのか、とか考えると、腹が減って食えなかったから枯らしちゃったというそんな簡単な話であるはずがない。
で、教会や集会でもこれはね、と「解釈」を習ったことはあるのですが、「解釈」ではなく、また、辞書的なものでなく、聖書のみことばをひたすら読んで読み取ったらどう読めるのか大変に興味があったのです。
 

 
今回の調べ学習の手順は、


エレミヤ書8章13節に出て来る「いちじく」という語を手がかりにおなじみBible Hubでまず原語(ヘブライ語)を検索。
http://biblehub.com/jeremiah/8-13.htm
つぎに、その言葉が聖書(旧約)のどこに使われているかを調べ、
http://biblehub.com/hebrew/8384.htm
その全ての箇所を読むことでどういう印象を持つことになるのか、やってみました。
 
原語はתְּאֵנִים Transliteration(音訳)すると 「teenah」だそうです。
で、この語は聖書の中に39回登場。
以下聖書の箇所と括弧内はその箇所のざっくりした内容です。
括弧内にA、,Bと書いてあるものは、聖書を読んでいて気になった箇所で、この下にAグループBグループ二つのグループに分類して、日本語聖書を引用しています。
 
創世記3:7(葉)
民数記13:23(エシュコルの谷)
民数記20:5(A)
申命記8:8(B)
士師記9:10(たとえ話)
士師記9:11(たとえ話)
列王記上5:5、新改訳聖書ではⅠ列王記4:25(B)
列王記下18:31(B)
列王記下20:7(B)
ネヘミヤ記13:15(安息日を汚す)
詩編105:33(A)
箴言27:18(いちじくの番人)
雅歌2:13(B)
イザヤ書34:4(A)
イザヤ書38:21(B)
エレミヤ書5:17(A)
エレミヤ書8:13(A)
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす)
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる)
ホセア書2:12(A)
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる)
ヨエル書1:7、12(A)
ヨエル書2:22(B)
アモス書4:9(A)
ミカ書4:4(B)
ナホム書3:12(ニネベの要塞)
ハバクク書3:17(A)
ハガイ書2:19(B)
ゼカリヤ書3:10(B)
 
 
Aグループ
 
民数記20:5 いちじくも、ぶどうも、飲み水さえもないではありませんか。(出エジプト時の不平)
 
詩編105:33 主はぶどうといちじくを打ち国中の木を折られた。(出エジプト前のエジプトで)
 
イザヤ書34:4 天の全軍は衰え、天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ、いちじくの葉がしおれるようにその全軍は力を失う
 
エレミヤ書 …ぶどうやいちじくを食い尽くす。お前が頼みとする砦の町々を剣を振るって破壊する。
 
エレミヤ書8:13 ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。
 
ホセア書2:14 (新改訳では2:12) いちじくとぶどうの園を荒らす
 
ヨエル書1:7 わたしのぶどうの木をあらし、わたしのいちじくの木を引き裂き
 
ヨエル書1:12 いちじくの木は衰え
 
アモス書4:9 いちじくとオリーブの木はいなごが食い荒らした。しかしお前たちはわたしに帰らなかった。
 
ハバクク書3:17 いちじくの木に花は咲かず
 
 
 
 
Bグループ
 
申命記8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地(神さまのたまわる良い地を描写)
 
列王記上5:5(新改訳ではⅠ列王記4:25)ぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。
 
列王記下18:31「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆ぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」(アッシリアの王の言った言葉)
 
列王記下20:7、イザヤ書38:21 イザヤが「干しいちじくを取ってくるように」と言うので、人々がそれを取って患部に当てるとヒゼキヤは回復した。
 
雅歌2:31 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しい人よ、さあ立って出ておいで。
 
ヨエル書2:22いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす
 
ミカ書4:4 自分のぶどうの木の下いちじくの木の下に座り脅かすものは何もない
 
ハガイ書2:19 ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。
 
ゼカリヤ書3:10 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけてぶどうといちじくの木陰に招き合う。
 
 
 
コンコルダンスに挙げられていた聖書の箇所を創世記から順番に読んでいって、まずは「そんなの当然でしょ」と言われるかもしれませんが、日本とは異なりごくごく当たり前なものとしていちじくが存在しているということが分かりました。(たとえ話等に用いることが出来るような、人々が皆その植物の名を出されると共通に理解し合えるなにかを持っている。)
ただ、当たり前な存在ではあるのですが、どうでも良いものという扱いではなく、大切な作物。
上のBグループに分類したみ言葉を読むと、
いちじくの木や実があるということが、喜びがあふれ、平安であり、つまり神さまから大いに祝福されているということを表しているのだと受け取れます。また、ヒゼキヤ王の病が干しいちじくによって癒されたことや他の預言書のみ言葉からは、いのちを得ること=回復というイメージもあるように感じます。
しかも、グループに分類しなかった以下のみ言葉を踏まえるならば、
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる
いちじく(植物名)=イスラエル(民族=ヘブライ人)
であり、したがって、いちじくに実があるとか無いとかいうことはイスラエル(民族)のことを語って実があるとか無いとか語っていると考えるのが妥当なのかと思います。
 
 
Bグループに対してAグループに分類したみ言葉は、読んでいてBグループの逆だな、と感じたものを列挙したのですが、
 
まずは出エジプト中の事として、いちじくの実がない=食べられない、食べるものがない=苦しい状態を表現している民数記のみことばが一つ。
そして次の詩編のみ言葉は、出エジプト直前のエジプトで神さまがぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られたという話。このいちじくはイスラエルのことではなく、豊かだったエジプトを表現するためにあげられているのだと考えられますが、その豊かさをその悪のゆえに神さまが打たれたということで、神さまのさばきと言いましょうか、イスラエルを守るために、そしてしるしのため、神さまが人間の営みそして自然の営みに介入されたということです。
いずれにしましても、いちじくの実が無いということは、喜びも平安もなく、神さまから見捨てられた状態を表現するときの象徴的なできごと、もしくは、実際に実は無いし木も枯れるのかもしれませんが、とにかくイスラエルを愛し選んでくださったまことの神さまと断絶した状態の表現であることがうかがえます。
 
 
マルコによる福音書11章12節から始まるいちじくの木を呪うお話は、
今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように
とイエスさまが語られてから
いちじくの木が根元から枯れているのを見た。
という記述に至る間に、実はいわゆる「宮きよめ」の出来事が書かれています。
 
「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
マルコによる福音書11章17節
 
上に書いたBグループのいちじくの記述とあわせて考えるならば、
イエスさまが見たいちじくの木には実が無く葉しかなかったという表現で
まずイスラエルが神さまと離れている断絶しているという状態を象徴的に、もしくは現実の問題として「葉しかなかった」と表し、
次に、宮きよめの様子を記述することで、イスラエルが現状でどんなに堕落しているのかが二段構えでわかるわけです。
また、あの常に穏やかなイエスさまが神殿から商人を追い出し腰掛けをひっくり返す=神さまによる実力行使=裁き ということが連想されるなか、同時に「あのいちじくの木が枯れた」ということを改めて記述することで、神さまと断絶してしまっているイスラエルへの裁きというものを、聖書をよく知る人々にはイメージできるのだと思いました。
 
 
ただ、もう一つ、
聖書をよく知る人にはイメージできることがある、と思いました。
上の方で
創世記3:7(葉)
と書いたのですが、何だよ(葉)ってwwということですが、
これは、あのアダムとエバの話のところです。罪を犯したアダムとエバ(当時はエバという名はなく女だった)がまず始めにやったことはいちじくの葉で腰を覆うということでした。
いちじくの葉で腰を覆った二人=神さまの言いつけを守らず蛇の言うことを聞き目が開け裸であると悟った二人に
 
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
創世記3章21節
いちじくの葉ではなく、動物を犠牲にし、「皮」の衣を着せてくださったのですね。
 
宮きよめ、そしていちじくを枯らすという神さまの怒りと裁きを示されたイエスさまでありますが、
そう、この後イエスさまはいよいよ十字架にかかられる。
現状として神さまと断絶しているイスラエル、というだけでなく、アダムによって人間に入った罪、その罪のゆえにエデンの園=神さまの楽園、パラダイスから追放され、
罪が罪を産み、罪は熟しに熟し、様々な問題が次から次へと発生し、苦しみ悲しむすべての人々のためにイエスさまは血を流されるのです。
いちじくの葉で腰を覆ったあの瞬間から続いた全ての問題に終止符が打たれる。本物の犠牲、神さまのおひとり子イエスさまの死、イエスさまという「衣」を神さまは私たちに着せてくださる!
 
 
ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをおゆるしにならない。)
マルコによる福音書11章21~25(26)節
 
そうするとこの箇所はどう読めるのでしょう。
何も考えずにこの箇所だけを独立させて読むならば、「何でも与えられると信じて祈れば与えられる」という御利益宗教的な話で終了しそうですが、前段の全てのことを踏まえてこの箇所に到達するとき、まずペトロの言った言葉には小さな子どもが驚いて「先生見て見て!」と報告しているのとは違うのかもしれないということに気付きます。ペトロはいちじくの木が枯れるということはどういう事なのか、イエスさまがどうしてそんなことをなさったのか、全てのことを察した上でそう語ったと想像できるのです。そして、そのいちじくが枯れたあの日、あのあと先生はこうおっしゃったのだとマルコは筆を進めるわけです。
マルコの記したイエスさまの第一声は「神を信じなさい」という言葉でした。
「…そう、先生は神を信じなさいとおっしゃったのだ。
先生はいつもそうだった。
神さまを信じること、それが最も大切だと言っておられたのだ。
神さまを信じない、神さまから離れてしまった結果、神殿は強盗の巣になってしまい、いちじくは枯れてしまったのだ。」

神さまを信じるということ、そして神さまから赦されて神さまとの交わりを回復するということがどれほどのことであるのか
神さまを信じず神さまから赦されず交わりを回復できないということがどういうことであるのか

マルコの記録してくれた言葉を通してつくづく思い知らされたような気がしました。


【調べ学習】塩について

マルコ9章49節「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」の「塩」という言葉についてギリシャ語を調べました。
いつものようにhttp://biblehub.com/です。
はじめに
Berean Study Bibleの英語の訳。
For everyone will be salted with fire.
 
will be saltedに該当するギリシャ語は
ἁλισθήσεται.
で、聖書には3回登場するそうです。
マタイ5章13節「何によって塩けをつけるのでしょう」
マルコ9章49節「塩けをつけられる」
もう一箇所も、マルコ9章49節…ん???
 
ここで、さっそく「知らなかったこと」の発見。
 マルコの9章49節は
新改訳では
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
と書いてあり、
また多くの英語の聖書も
will be salted
ἁλισθήσεται.
という言葉は1回だけ使われているのですが、
以下1回登場する聖書の聖句
New International Version
Everyone will be salted with fire.
English Standard Version
For everyone will be salted with fire.
Berean Study Bible
For everyone will be salted with fire.
New American Standard Bible 
"For everyone will be salted with fire.
以上。
 
ところが新改訳聖書や上に引用した聖書とは異なり
ἁλισθήσεται.
という言葉が2回使われているものがあるのです。
King James Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
International Standard Version
Because everyone will be salted with fire, and every sacrifice will be salted with salt.
Jubilee Bible 2000
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
King James 2000 Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
Darby Bible Translationダービー訳も入れてみました(^O^)
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
 
で、Bible Hubのギリシャ語聖書も
ἁλισθήσεται.
が2回書かれているので、この語が3回登場するというふうにカウントしているのですね。
 
will be saltedとかshall be saltedが2回書かれているみことばを読みますと、
すべての人」は火によって塩けをつけられるであろう
そして
すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられるであろう
という対句のような感じになっているのですね。
 
で、後半の「すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられる、というみことばは
レビ記2章13節とエゼキエル書43章24節を思い出させますよね。
あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味を付けなければならない。あなたの穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物にはいつでも塩を添えてささげなければならない。
レビ記2章13節
あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
エゼキエル書43章24節
 
やはり土台は旧約聖書
ヘブライ語だ!ということで、
…なにしろBible Hubならワンクリックで検索できてしまいますからヘブライ語の「塩」も調べてみました。
me·laḥって言うんだそうですよ。מֶ֔לַח
で、レビ記とエゼキエル書と同じこの言葉が使われているのは、
創世記19章26節「の柱」
レビ記2章13節 上の引用参照
民数記18章19節「永遠のの契約」
士師記9章45節「民を殺し、町を破壊して、そこにをまいた。」
Ⅱサムエル8章13節「の谷」
Ⅱ列王記2章20節「新しい皿にを盛って」
Ⅱ列王記2章21節「エリシャは水の源のところに行ってをそこに投げ込んで」
Ⅱ列王記14章7節「の谷」
Ⅱ歴代誌13章5節「の契約」
ヨブ記6章6節「味のない物はがなくて」
詩篇60篇1節(新改訳聖書では1節の前)「の谷」
エゼキエル43章24節 上の引用参照
ゼパニヤ書2章9節「の穴」
 
 
と、ここまで調べて書いて、
塩とは、聖書を読む上で、
これまで考えていた以上に重要な物、
聖書信仰を理解する上で鍵となるような物なのではないかと思うに至りました。
これまで、通読していてもあまり疑問に思ってはいなくて、
「永遠の塩の契約」???そんなのあったっけ??(゜д゜;)という…
ひどいですよね。何回聖書読んでるんだいおまえはーと怒られそうです。ヽ(;´Д`)ノ
まあ、神さまはげんこつゴツンなんてことをなさる方ではないのでね、
これを機に知ればいいこと、ということで。σ(^_^;)
まったくねえ、けっこう飛ばして読んでいるんですよね。
話の筋だけ追っている。
 
というわけで、
「永遠の塩の契約」ググりました。
そうしましたら、
B.F.P.Japan という特定非営利活動法人のサイトにものすごくわかりやすいお話がありまして、
「契約の塩」http://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=92
前編と後編があるのですが、
読ませていただきまして、感動したというか、
自分は聖書や聖書の世界についてまったく知らないのだということがあまりにもはっきりと知らされて、
しかし、読ませていただいたことで新しく知ることが出来、
何だか本当にうれしくてたまらない感じになりました。
なんでしょうねえこのワクワク感は。
 
 
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコの福音書 9章49,50節 (新改訳聖書)
 
人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩けがなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
マルコによる福音書 9章49,50節 (新共同訳聖書)
日本語の聖書二つのみ言葉とギリシャ語聖書を比較してみました。
 
πᾶς (everyone)
γὰρ(indeed)
 πυρὶ (with fire)
ἁλισθήσεται, (will be salted,)
καὶ (and)
πᾶσα(every)
 θυσία(sacrifice)
 ἁλὶ (with salt)
ἁλισθήσεται.(shall be salted.)
 
καλὸν(Good [is])
 τὸ (the)
ἅλας·(salt,)
 ἐὰν(if) 
δὲ (however)
τὸ (the)
ἅλας(salt)
 ἄναλον(unsalty)
 γένηται, (becomes,)
ἐν(with)
τίνι (what)
αὐτὸ (it)
ἀρτύσετε; (will you season?)
ἔχετε(Have)
ἐν(in)
 ἑαυτοῖς( yourselves)
ἅλας(salt,)
 καὶ (and)
εἰρηνεύετε(be at peace)
 ἐν(with)
 ἀλλήλοις.(one another.)
 
 
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。」
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」
まず、この部分についてギリシャ語の単語一つ一つを調べてみると、(上の括弧内に書いた英語は英語の聖書と対応させたものですが、それとは別に単語の一つ一つを辞書で確認してみると)新共同訳の方がより直訳に近いという印象を受けました。
καλὸνを新改訳では「ききめがある」と訳していますが、辞書的な言葉の定義としては beautiful, as an outward sign of the inward good, noble, honorable character; good, worthy, honorable, noble, and seen to be so.で、マルコ9章50節については
καλόν τό ἅλας (is an excellent thing)だそうです。 
 
しかし、それにしても、「塩」について調べてみて、
特に初めて「塩の契約」という言葉を意識するようになった結果、
これまで自分が思い描いていた「塩と言えば腐敗防止」というだけの塩についての認識では足らない、と思うに至りました。

神がともにいてくださるということ

新共同訳をメインの聖書として読むことにしました。

で、
今日はマルコによる福音書の11章1~7節を読みました。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
マルコによる福音書11章3~6節(新共同訳)

 
聖書を読み慣れている人にとって、そして聖書の神さまを既に信じている人にとってこの箇所は、取り立てて違和感を覚える場所ではないかもしれません。
しかし、初めて聖書を読む人にとっては、とても不思議な感覚を覚える箇所なのではないか、と思うのです。
 
イエスさまが二人の弟子をいま使いに出そうとしておられます。
イエスさまは弟子にまだだれも乗ったことのない子ろばを連れてきてほしいのです。
で、イエスさまは言うのです。「向こうの村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかるから、それをほどいて持ってきてね」と。
ほどいて持ってきてね??勝手にほどいて持ってきたら泥棒じゃん、と思うわけですが、そういう読者や、おつかいに行く弟子たちのために、イエスさまは持ってきちゃうにあたっての注意点をあらかじめ伝えて下さるわけです。
 
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)
 
この箇所を読むといつも同時に思い出す箇所があります。
イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
マルコによる福音書14章13~16節
 
現代ならば、スマホを使い、予約サイトで予約したのだろうと考えられるわけですが
そんなのがある時代ではありませんのでね、
もちろん電電公社時代の黒電話だってありませんよ。
じゃあ、いったいどういうからくりなんだ、と思うわけです。
 
 
 
最近思うのは、

この子ろばの件や席の整った二階の広間の件に、弟子たちは「葦の海の奇跡(出エジプト記14章)」を思いだしたかもしれないということです。
 
海辺に宿営しているイスラエルに襲いかかろうとするエジプト軍。
恐れて主に向かって叫ぶイスラエルの人々。
恐れてはならないと語るモーセ。
そしてモーセに語られる神さま。
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。…わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。…」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。
出エジプト記14章19,20節
常にイスラエルの先を行ってくださった神さま。まさにあの時と同じように神さまは自分たちの先を行き整えてくださるのだ。だから、そこに子ろばがあり、二階の広間は整っていた——
 
イエスさまが十字架にかかられた後、きっと彼らは思い出したに違いありません。いつもイエスさまといっしょにいたころのことを。
ああ、いろんな不思議なことがあったよなあ…と。いろいろ不思議ではあったのだけれど、記憶に新しいあのこと、子ろばのこと、二階の広間のことって・・・
 
ああ、主は、自分たちが全く知らない間に準備しておいてくださる方なのだ。あの時、主はずーっと私たちといっしょに、目と目を合わせてお話しできる距離にいたはずなのに、いつの間にか遠くの子ろばも二階の広間も準備してくださった。小さな日常の様々なことを主は心にかけ、私たちの先を行き、備え、私たちを導いてくださった。
そして小さな事だけではない。すべてにおいて、そう、思い出すべきは葦の海の奇跡だ。だから、歴史として記録されるような大きな問題が起こるような時であっても主は間違いなく信じる私たちの前を先立っていかれる。そして、主は先に立つだけではなく
先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、(19節)
私たちを敵の手から守ってくださる!
 
 
 
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ルカによる福音書22章31.32節
 
いまふと、聖書に目を落としましたら、扇風機の風にふかれたせいでしょうかマルコではなくルカの福音書の22章が開かれてありました。
あ、イエスさまはペトロのために、あらかじめ祈ってくださっていましたね、そういえば。
イエスさまがあまりにも先に行き過ぎたお話をなさるので
ペトロは「え゛~~~~!!先生どうしてそんなことおっしゃるんですかー!!私は信仰捨てませんよぉ!!」という具合でありましたが、
イエスさまは弱い私たちが途方に暮れることのないようにあらゆる場面で先に行ってくださる方なのですね。先に行き、今ここで共にあり、そして移動して後ろにも立ってくださる方。
 
神さまがともにいて下さるというのはそのような鉄壁の守りの中にいるということなのですね。
三次元空間に立つ私たちはそのことに気がつかないで、不信仰で、叫びがちですが
 
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
…感謝ですね。

偶像(1)

今朝は通読箇所の他に黙示録の七つの教会のところを読みました。

で、ちょっと気になった「ニコライ派」という言葉。どんな教えのことなのかと検索してみましたら、中学生の頃ほぼ毎日聴いていたラジオ番組のサイトにとてもわかりやすい説明があり感謝でした。
http://www.jesus-web.org/radioprg09/prg_box190_20090325.htm

…偶像。



一瞬、「偶像かあ。じゃあ私には関係ないこと」という思いになりました。
しかし次の瞬間、いや、待てよ、偶像って…



クリスチャンは、おそらく偶像なんて拝まないでしょう。金メッキされた像とか、石を削った物とかその手の物など聖書の言葉を知っているクリスチャンが「通常は」そんな物を拝むはずなんて無いと思います。
しかし、
「偶像」が文字通りの「像」でなかったならば、偶像を避けることは難しいかもしれません。









先日、私は一本の動画を見ました。それは以前所属していた集会で人気のあった伝道者の方の動画でありました。
しかし、視聴し始めてそれほど経たないうちに、私はその動画を見なければよかったと後悔しました。
https://youtu.be/FBtiC7m4GS4?t=11m56s

実はそのメッセージには、原発に関連した内容が含まれていました。
伝道者の彼は軽い調子で「福島でがんは増えていない」と語りました。

医師でも研究者でもない、ご自分で調査をしたわけでもないはずの彼がなぜそんなことを断言できるのか知りませんが、彼は「福音」を語るために上がった壇の上からそう聴衆に語りました。





しかし私は、岡山大学の津田敏秀教授の論文により福島では少なくとも甲状腺がんは増加していると認識しています。
もっと言うとそれは福島だけの問題ではなく、群馬県内に住む私の親族でも成人の一人が膀胱がん、別の一人が心疾患、別の三人に謎の大きな腫瘤(ピンポン玉大)がそれぞれ身体の数か所にでき、そしてさらに別の二人の「男性」は甲状腺の疾患を発症しました。
申し添えるなら、がんについては家系的にそういう疾患が多いわけではなく、腫瘤についても甲状腺疾患についても初めてそういう病名を親族から聴いたので驚いているのと、彼らに共通する考え方や生活習慣がこういう文章を書いている私自身とは真逆・・・というかそれ以上の積極性を感ずるものであったので、悲しみと恐怖を覚えているわけであります。
また、甲状腺専門を標榜する医院の新しい看板を高崎市や伊勢崎市で目にしました。

甲状腺がんの発生と原発事故の因果関係を否定する学者がいることは知っていますが、これは公害病をはじめ、私も経験しましたが薬害や予防接種による健康被害などが起こるたびに必ず繰り返される「被害自体の存在の有無と被害者と認定するか否かの問題」ということと同じなのだろうと思っています。
そういう将来を見据えて、今は国の持てる力を結集して「因果関係はなかった」ことにしようとしているのでしょう。研究者や医療者も、国がつぶれない限りにおいては国に恩をっておく方が得でしょうから、一生懸命ですよね。
放射線による被害は、きわめて特異的である「甲状腺がん」でさえこれほどもめるのだとすれば、それ以外のことについては、
なにしろ現代社会における人体のことです、有害な化学物質の影響だって山ほどある上に心の問題もあるわけですから、誰が見ても明らかだと言えるような直接的な因果関係の証明はできないのかもしれません。

被害に遭われた方は本当に悲惨だと思います。こういうことによる被害は、被害自体の悲惨さだけでなく、信頼していたものに次々と裏切られる大きな悲しみが伴うものだからです。








さて、

伝道者である彼の話は続きます。

節電でエアコンがなくて暑かった→電気要るよね→原発要るよね 
放射能を怖がる人々は「感情的」だと批判。
「原発が事故を起こす確率はきわめて低い」と、
嘲笑うかのごとく語る伝道者

共に笑う聴衆


本当にこれは神さまからのメッセージ動画ですか?

この地球を造られた主は、人間が排出し続ける処理することのできない猛毒についてどう思っていらっしゃると思いますか?

もちろん、罪人のなす事だからこのことに限らず所詮何をやったって完ぺきではない、たとえ原発を動かさなかったとしても、生きて動いているということ自体が害悪だ、というような発想が罪を自覚した者としてないとは申しませんけれども、

だから仕方ないんだ、だから何をやったって良いんだ、人間が生きていくためには仕方ないんだ、今生きている我々が快適に生活ができればいいんだ、あとは野となれ山となれだ、
で良いのですか。

そう言うと…ナルドの香油の話が出てくるのかな。
そして、「身体の弱い人々にエアコンは必要なのだ」とか「福音集会を快適にすることを主は喜ばれる」とか言うのかな。


しかし、事故から5年経ってもまだまだ放射性物質を放出し続けている、全然アンダーコントロールなんかじゃない福島、収束なんてしていない福島、作業員の方々が連日とてつもない被ばくを強いられている福島を抱えているこの国で、「次の事故が起こる確率は低いんだよ」と言って原子力発電を推奨することが、本当に、本当に御心なんでしょうか。
いや、次の事故などという遠い未来のことを語るような口調で言っていられる状況ではありません。余震だけでも年がら年中揺れ続けている福島のことです。再びとんでもない事態があそこで起こるかしれません。
そして、もしそうなったら

日本は終わりです。


そもそも、この狭っ苦しい島国で、世界の活火山の約1割がある日本で、世界の地震の2割が日本周辺で発生しているのに原子力という選択肢があるということ自体がおかしかったのです。そのことに早くから気付いていた人々は以前からいろいろな事態を想定して指摘をなさっていたわけですが、
原子力は資源の乏しい日本を救うクリーンなエネルギー、
安心安全、
プルトニウムは飲んでも大丈夫!
みたいなキャンペーンによって洗脳された「私のような馬鹿」は全く分からなかったのです!痛い目に遭ってみなければ分からない馬鹿!
本当は福島の事故を引き起こす前に気付くべきだったのです!
そして気付いたら角笛を吹くべきだった!
しかしそれが出来なかったから取り返しの付かない大きな事故を起こしてしまった!!


動画の一時停止ボタンを押しました。

クリスチャンなのだから土台は一緒だろうと思って動画を見始めたわけですが土台が違っていることに気付いたからです。

彼が土台としていたのは「科学的」と呼ばれる「非科学」なものでした。
「科学的に」云々と人が語るとき、語っている人はたいてい科学者ではありません。
自分の言葉に箔をつけるために「科学的」という言葉を使うのです。
そして、「科学」とは絶対的なものでないことを「科学的に」と語る人は知りません。
だから「科学的に」という言葉に絶対的な力があるような論調になるのです。
「科学」とは日々刻々と変化しているものであり、謙虚なものです。
機会のある方はぜひ本物の科学者の語る言葉をお聞きください。
大きな大きな不思議な不思議な「自然」を見続け、聴き続け、考察し続けている科学者たちは人間の小ささを良く知っています。
「経験的にはこうであり、これまで90パーセント以上の確率でこうであったが・・・」
ある日突然「そうではなくなることがある」と彼らはよく知っているからです。
そして、まだまだすべてのことが分かっているわけではないからこそ研究者は研究を続けているわけです。研究者が存在しているのは研究のネタが尽きていないからであって、ネタが尽きていないということであればすべてのことをわかっているわけではないということ。



私は彼の姿が大きく映っていたテレビのスイッチを切りました。






厳しい基準をクリアして記者を集めてスイッチ入れたら警報機鳴って赤っ恥。
最高水準の科学が聞いてあきれた。









あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行い、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。
エゼキエル書13章19節




唯一の被爆国であり、どこの国の人々よりも核の恐ろしさを知っていたはずなのに、福島第一原発事故後、この罪深い国は「放射性物質の取り扱いのイロハのイ」すら完全に無視し、汚染された地域の経済活動を止めず放射能を全国に拡散させてしまいました。

ひとつかみの大麦のために
あることはないことにされ、
オリンピックの誘致までし、
真実を語れば風評被害だと大声で封じ込められ、
少しばかりのパンのために死んではならない者たちを死なせる道を選びました。

さらにこの国は、国防のためになにがなんでも核を手放したくはなく、
この国の一流大学の研究者や評論家に、巧みな言葉を語らせて
大丈夫ではないのに大丈夫だと信じさせ
無条件に安全ではないのに無条件に安全であるかのごとく語り
民の心を偽りの言葉で満たしてしまったのです。

そして、ついには伝道者さえも
主の御言葉を取り次ぐべき講壇で・・・
ああ、その瞬間「科学」はまぎれもなく偶像となり、
彼は神さまの権威を引きずり下ろした。




主にある者にとっての「科学」とは、
大前提として、主の造られた秩序をそして被造物を破壊してはならないのです。
破壊するのは破壊者が成すことです。
破壊者=悪魔とかサタンとか言われているもの の思いは「罪」です。
罪とは、先々のことを考えず、今ここに生きる自分さえエアコンにスイッチを入れられればいいという身勝手なものです。

もちろんクリスチャンは禁欲主義になれなどと神さまから言われてはいません。しかし、私たちに与えられている自由は神さまの定められた秩序の中でのものです。エデンの園は楽園でありましたがそこにも創造主である神さまの定められたルールがありました。そのルールは人間に命を与えゆたかに守り、保つものでありました。逆に言えばそのルールを破る者は命を失い、楽園から放り出される。
また、人間は神さまに似たものとして造られましたから創造力に富み、他の被造物とは比べものにならない極めて高い能力を持っています。しかし、その能力を行使するにあたってもルールがあるのです。「バベルの塔」を作ってはいけない、それが主の教えです。

ですから、世の人の言う「科学」によって何か一つの結論が得られたとしても、それが神さまの御心からずれているならば、例えば被造物を破壊するものであったり、
弱い者を苦しめるものであるなら、どんなに素晴らしい技術であれ、それは用いない。
もしも、当初はそういう危険が分からず、悪意はなく、良かれと思って利用していたら大きな失敗を犯してしまったというのなら、
…人間は不完全ですからそう言うことは多々あるわけですけれども、そういう場合には方向転換をする。すなわち悔い改める。
これが聖書を土台とする者の「行い」ではないでしょうか。






ところで、伝道者の彼は動画の中で放射能は見えないし云々と語っておられましたが
そうですね、たしかに放射能自体は肉眼では見えません。
しかし本当は、神さまはしっかりと肉眼でも見えるようにしてくださっているんですよ。
神さまが造られた声なき弱き小さな被造物を通して。

放射能により突然変異したムラサキツユクサ




この小さな被造物から
神さまの声が聞こえませんか?

自分は人間
これは植物

ではありませんよ。遺伝子はいっしょですよ。
中学生にも高校生にも授業で教えますよ。
デオキシリボ核酸ね。塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンね。
DNAはとっても大切なものですから
神さまは、素敵な二重らせんというデザインにして、傷付いても修復する力を生き物にお与え下さったのですよ。
これも高校で教えますよね。どうやって修復するのかということもね。

しかし、そのような素晴らしいシステムを備えていたにもかかわらず
植物たちはこのような姿になってしまった!
彼らは神さまの定められた姿を保つこと、
神さまが与えてくださった美しい姿を発現することが出来なくなった!

・・・伝道者の方がよく知る群馬県でのことですよ。


そして、容易に観察できる形質に異常は起こっていないように見えたとしても、生殖細胞のDNAに異常が起こっているならば子孫に何を伝えることとなるのか

ばらまかれた放射性物質から出る放射線による害とは、そういうものです。

がんが増えたの増えないのという一点において断定的にものを語り人々を間違った方向に導いてはいけない。
しかも実際にはがんは増えている。それも子どもたちのがんが。
高齢者ががんになるのはアダムによってもたらされた事情による身体のシステム上それはそれほど稀なことではありません。しかし、子どもががんになるというのは全く日常的なことではない。それは誰もが心に置いておくべき事です。

子どもの甲状腺がん。
…そんな幼いがん患者が
そんな特異的ながん患者が
あんなにたくさんいるという事態が
あるわけなんかないのですよ。

甲状腺ホルモンの材料として必要なヨウ素として放射性ヨウ素を取り込んでしまった幼い命。代謝が活発な幼い命。
ああ!






それにしても、がんを患う人の数が増えたとか増えていないとかそういう言い方を彼はされましたが、
闘病中の患者さんとご家族の方たちの存在を無視するその言葉
…がんで愛する方を亡くされた方の言葉とはとても思えませんでした。
その点でも私は大きな大きなショックを受けましたし、

本当に、がっかりいたしました。











科学もそうですが、伝道者も偶像化されがちです。

この時代、皆さま本当にお気を付けください。
100パーセント間違っていることを言っているならだれでもわかるのです。
そうではないから・・・

主の教会を傷つけるような場所でこの言葉を発することにならなかったことに感謝いたします。