主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
イザヤ書40章27~31節(口語訳)
ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
イザヤ書の30章と40章に「主を待ち望む」という訳が充てられている言葉があります。
いつも特に気にすることなく読んでいましたが、昨日Bible Hubのサイトを眺めていたらこの二つは異なるヘブライ語であるということを知りました。
はじめに、
30章の茶色の文字の部分の「待っていて」「待ち望む」は
Strong's 2442. chakah חָכָה
この言葉が最初に現れるのは列王記下の7章9節
列王記下7章9節
そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。
そして同じイザヤ書では
8章17節
主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。
64章4節
いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
次に、
40章の青い文字の部分の「待ち望む」は
Strong's 6960. qavah קָוָה
qavahという言葉がいちばん初めに登場するのは創世記1章9節のところで神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。ここでは「集まり」という訳が充てられています。
また、イザヤ書のほかの箇所では5章2節4節のところの良いぶどうの結ぶのを「待ち望む」という言葉や
彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
8章17節では「望み」この箇所で「待ち」と訳されてるのは上の2442. chakah
なので、6960. qavahの方には単に待っているだけではなく期待する意味があるのでしょうか。
主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。25章9節では「待ち望んだ」という言葉で二回繰り返されています。
その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。
26章8節では「待ち望む」
主よ、あなたがさばきをなさる道で、われわれはあなたを待ち望む。われわれの魂の慕うものは、あなたの記念の名である。
33章2節でも「待ち望む」
主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。
49章23節も「待ち望む」
もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。
51章5節「待ち望み」
59章9節「望んでも」わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める。海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕に寄り頼む。
それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
60章9節
海沿いの国々はわたしを待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげ、イスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。
64章3節
あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事をなされた時に下られたので、山々は震い動いた。
qavahが創世記1章9節で「集まり」という訳を充てられていると上に書きましたが、もう一か所「集まる」という訳の充てられている箇所がエレミヤ書にあります。
エレミヤ書 3章17節
そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。
ここを最新の聖書協会共同訳聖書から引用しますとこうなっています。
その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国民は皆そこに、主の名のためにエルサレムに集められる。もはや、かたくなで悪い心に従って歩むことはない。
ちなみにここで「呼ばれ」と訳されている言葉の原語はStrong's 7121. qaraです。
קָרָא
呼ばれるという言葉を聞くと、ギリシャ語のエクレシアを思い出すわけですが、
あ、もちろんここでは「エルサレムが主の王座と呼ばれ」という話でエクレシアには何も関係ないのですが、「呼ぶ」という行為は召し出されたエクレシアのごとく、何かを特にピックアップして命名したり定義することですね。(ここではエルサレムが主の王座と呼ばれ、と特に取り上げて説明している)
だから、創世記には一章のところにはこのqara「呼ぶ」という言葉がたくさん登場するわけです。
だから、創世記には一章のところにはこのqara「呼ぶ」という言葉がたくさん登場するわけです。
この「呼ばれ」というヘブライ語の qaraのはじめに使われている文字は
קクフ(コフ)なんですが、
これはウィキペディアとかを見るとサルの頭の形からできたというようなことが書いてあるのですが、創世記1章のqaraを頻度高く目にすると、サルなんかではなく、とても聖い特別な文字のような気がするわけです。
קクフ(コフ)なんですが、
これはウィキペディアとかを見るとサルの頭の形からできたというようなことが書いてあるのですが、創世記1章のqaraを頻度高く目にすると、サルなんかではなく、とても聖い特別な文字のような気がするわけです。
で、その文字がちょうどqavahにも使われていて、しかもqavahはקのあとに神さまのお名前の一部分が入っているわけですから、קָוָהqavahというヘブライ語であらわされている「待ち望む」ということばはchakahで表現されている「待つ」とは異なり神さまとの深い関係性を表しているのではないか、などと思いました。(個人の感想です)
「待ち望む」と「集まる」が同じqavahという表現であるということにも何かしら特別な意味がありそうな・・・(集まる・・・エクレシア?またエクレシアにつながる気分)
・・・(2)に続く