2017年9月19日火曜日

律法が終わっていないからこそメシアが必要

昨日は申命記の23章を読みました。どんな箇所を読んだのか「日本語の聖書」サイト様より口語訳聖書で引用してみたいと思います。

23:1すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。
23:2私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。
23:3アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。 23:4これはあなたがたがエジプトから出てきた時に、彼らがパンと水を携えてあなたがたを道に迎えず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたをのろわせようとしたからである。 23:5しかし、あなたの神、主はバラムの言うことを聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである。 23:6あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。

今ここには口語訳聖書で引用しましたが、私は新共同訳聖書で読んでいますので、1節の「去勢」ということばや2節の「私生児」ということばは別の表現となっており、なんだかとても不快な気分になりました。
しかし、神さまがそうおっしゃるわけですからそれには意味があるわけで、考えなければいけないな、と思いたちどまったわけです。
おそらく、以前ならば、「だからこそ律法は終わったわけよ」と自分に言い聞かせて通り過ぎて行ったと思うわけですが、律法は終わったわけではないと思うようになったからには通り過ぎて知らん顔をしているわけにはいかないのです。


では1節のところから順にみていきたいと思います。
なぜ去勢した男子は主の会衆に加わってはならないのでしょうか。
新共同訳で読んでいると、ここは「去勢」とは書いておらず「睾丸のつぶれた者」「陰茎を切断されている者」と書かれているので、私は最初それが「去勢」であるとは読み取れず、「病気や事故によるハンディキャップ?」と思ってしまったわけですが、口語訳聖書を読むと「去勢」とありますので、これはやむを得ない事情ではなく何らかの意志をもって行った行為であるということになります。
ウィキペディアに「性器切断」という項目があったので読んでみました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E6%96%AD
律法で神さまが語られるのだとすれば「宗教的目的での性器切断」というケースをさしているような気もしましたが、そうでなかったとしても、おそらくは
当時この申命記の言葉を聴ける範囲で暮らす人々にとって、神さまがそう語られることに納得できる何か「周辺事情」があったのだと思います。

そして2節「私生児」。新改訳聖書では「不倫の子」と表現され、新共同訳聖書では「混血の人」と表現されていますが、これはどういうことでしょうか。そして3節には「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。」とありますがこれもどういうことでしょうか。
アンモンびととモアブびとについてはどうしてダメなのかという理由が書いてはありますが、「私生児」にしても「アンモンびととモアブびと」にしても、「子ども」の立場で言わせてもらえば、「私に何の罪があるのでしょうか?」ということになりませんか?私生児であろうが不倫の子であろうが混血の子であろうが、生まれてきた子供に何の罪がありましょうか。親の責任ですよね。アンモンびととモアブびとにしたって、別に好きでそんなところに生まれてくるわけではないわけです。でも律法にはそういう人はダメだ、と書いてある。

ダメなのです。絶対にダメ。主の会衆には加われないのです、そういう人たちは。主の会衆つまり神さまの前に集まるイベント(例祭や出陣の際の集まり)には出られない。
直後の23章10節からのところを読むと

23:10あなたがたのうちに、夜の思いがけない事によって身の汚れた人があるならば、陣営の外に出なければならない。陣営の内に、はいってはならない。 23:11しかし、夕方になって、水で身を洗い、日が没して後、陣営の内に、はいることができる。
23:12あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。 23:13また武器と共に、くわを備え、外に出て、かがむ時、それをもって土を掘り、向きをかえて、出た物をおおわなければならない。 23:14あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。

とあって、改めて神さまの「聖さ清さ浄さ」というものを知らされるわけでありますけれど、神さま求めておられる「きよさ」のレベルの高さと「きよさ」の内容は私たちの想像をはるかに超えているわけです。
除菌という意味でのきよさなら水で洗ったりエタノールや塩素で消毒すれば良いわけです。しかし神さまの求めておられるきよさとは、そういう部分に加えて頭の中で考えることまでに求められるきよさ、無意識のうちにやってしまうことにも求められるきよさであるわけです。新共同訳で23章10節11節のところは「夜、夢精によって汚れた者は」という話になっているわけですから、こうなってしまうと、もう人間にはどうしようもできないでしょう?意志でコントロールなんてできない部分の話なのですから。


そういう「神さま」とそういう「人間」の関係である、ということが申命記23章を読むと思い知らされるわけです。選ぶことなんてできない血筋や家系。そしてコントロールしようがない睡眠中のこと。この神さまと人間の間にある大きな大きな隔たりが律法によって示されるわけです。何度水で洗っても何度動物を犠牲にしても消えることのない高い高い大きな大きな壁。

だからこそのメシア。だからこそ救い主が必要なのだ、となるわけですよね。

まだメシアが来られる前、つまりエデンから追放されたままの人類であったころ、神さまは特別な存在としてイスラエルを選び律法という特別なものを与えました。
律法は人々の暮らしを守り、また、創造主である神さまのことを力ある神さまのことを忘れないようにさせるためには不可欠なものでありました。
そして律法は、イエスさまが「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 とマタイによる福音書で語っておられる通り、本来は自由があり、温かみのある
それに、そもそも、神さまが与えてくださったものに悪いものがあるわけはないのですから、悪いものなどではなかったのです。
ところが、人間というやつはさすがにエデンの園から追放しなくてはならなかっただけのことはあり?
時の経過とともに律法を「ややこしく」してしまった上、まもれない無理な話=重荷と呼びたくなるようなものにしてしまったわけです。
で、ついにメシアが来られ、全人類のために血を流されたので、預言されていた通り、全人類の罪に終止符が打たれたわけですが、
・・・ここで、
かつての自分がそうでしたが、クリスチャンの中のある人々はこの瞬間に律法が終了したと考えている!

でもそれは大いなる勘違いだ、と今の私は考えています。

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 」とマタイ5章でイエスさまが言っておられるではありませんか。
福音書のイエスさまの言動を見てわかるのは、イエスさまという方はあの時代に来られ、律法を誤解曲解している人々の思考や行動を正しい方向に向かせ、整理しているということです。パッと見、律法の専門家と対決しているのでなんとなく律法と対決しているような気がしてしまうわけですが、律法と対決しているのではなく、律法の解釈を間違えている人間と対決しているのです。
しかもあえて、「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」とおっしゃっているのですから、
律法は無効になんかなっていないわけですよね。
やるんですよ、律法は守るの!守らなければいけないの!何も変わっていないの!

でも、そう、肉体があるし、守りたくても守れないんですよ、昔も今も。でもそれが大切、守れないんだということをわかることが大切、それほどに神さまは聖いんだということを知ることが大切だし、まもれない、どうしよう…となった瞬間に、ほらちょうどエデンの園で誘惑されたエバのようになるわけですよ。で、どうするか、ということなのですね。
私たちはメシアが来られ、メシアの血によって贖われた現在、
つまり、あの創世記の3章よりも前のエデンの園で神さまと親しく交わることができていたあの時代と同じような立場においていただいたわけなんですから、あの時のアダムとエバのように生きているわけです。
蛇の誘惑もあるし、この世の中に生きているといろいろあるじゃないですか。でどうするのか、ということなのです。どうするんですか?また誘惑に負けて黙って食べてこそこそするんですか?っていうことです。
「たべるのかたべないのか」
どうしてそんな葛藤が生まれるかと言えば神さまとの約束事があるからでしょう?神さまとの約束事それが律法ですよね?
食べるんですか?食べないんですか?
…食べないんでしょう?
どうしても食べたかったら神さまに報告連絡相談できるんでしょう?だって神さまとお話しできる立場(エデンの園)に戻ったんだから。
「神さま~蛇が誘惑するんですぅ~おいしそうなんです~」って訴えることができるでしょう?
もちろん失敗してもいいんです、追放は終了したんですから。
わざと悪意をもって神さまに挑むようなことするのはダメですけれども。そんなことをする人は完全追放!


マタイによる福音書5章から新共同訳聖書を引用します。

「・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。


「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」
とここで言われている立派な行いとは何でしょうか。立派であるとかそうでないという基準は律法からくるのではありませんか?まことの神さま以外を拝んではいけないというまずはそこに立ち、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」というイエスさまから習った言葉に基づいて行動しようとしているのではありませんか?

イエスさまが、昔預言されていた通りに神さまのご計画である救いを完成してくださったので律法を守って救われる救われないとかという議論はもはや必要ないし終了したのです。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言っておられる通りで、律法学者やファリサイ派とは比べ物にならない「義」を主はその血をもって私たちに与えてくださいました。
しかしだからと言って律法が終わったわけではないのです。律法が終了したなら、キリストの十字架は私たちには関係がないということになるからです。律法がなければ罪が何であるのかわからないのです。神さまの聖さとはどういうものなのか、そして神さまの一切について私たちは知ることができなくなるのです。聖書を読んだとしても神さまの聖さは過去のものであり、悔い改める必要なんてなくなるわけです。

「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 」からこそ、私たちには主の十字架が必要なのです。律法が今も有効であるからこそ守れない自分を知り、神さまとの断絶の理由も知ることができる。そしてそれゆえにイエスさまが必要であると、渇望するのです。そしてイエスさまの血によってすっかり洗われて神さまとの交わりを回復する喜びを味わうことができるわけです。


「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」


聖書、マタイによる福音書を聖書である、聖書は神のことばであるとする者ならば
このみことばにアーメンと言えないはずはありません。

このみことばにアーメンと言うのなら
律法は終了したとか廃棄されたとか言えないでしょう?
律法を守り、そうするように教えなさいと命じておられるのは、
わたしたちの主イエスなのですから!