2017年9月19日火曜日

律法が終わっていないからこそメシアが必要

昨日は申命記の23章を読みました。どんな箇所を読んだのか「日本語の聖書」サイト様より口語訳聖書で引用してみたいと思います。

23:1すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。
23:2私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。
23:3アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。 23:4これはあなたがたがエジプトから出てきた時に、彼らがパンと水を携えてあなたがたを道に迎えず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたをのろわせようとしたからである。 23:5しかし、あなたの神、主はバラムの言うことを聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである。 23:6あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。

今ここには口語訳聖書で引用しましたが、私は新共同訳聖書で読んでいますので、1節の「去勢」ということばや2節の「私生児」ということばは別の表現となっており、なんだかとても不快な気分になりました。
しかし、神さまがそうおっしゃるわけですからそれには意味があるわけで、考えなければいけないな、と思いたちどまったわけです。
おそらく、以前ならば、「だからこそ律法は終わったわけよ」と自分に言い聞かせて通り過ぎて行ったと思うわけですが、律法は終わったわけではないと思うようになったからには通り過ぎて知らん顔をしているわけにはいかないのです。


では1節のところから順にみていきたいと思います。
なぜ去勢した男子は主の会衆に加わってはならないのでしょうか。
新共同訳で読んでいると、ここは「去勢」とは書いておらず「睾丸のつぶれた者」「陰茎を切断されている者」と書かれているので、私は最初それが「去勢」であるとは読み取れず、「病気や事故によるハンディキャップ?」と思ってしまったわけですが、口語訳聖書を読むと「去勢」とありますので、これはやむを得ない事情ではなく何らかの意志をもって行った行為であるということになります。
ウィキペディアに「性器切断」という項目があったので読んでみました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E6%96%AD
律法で神さまが語られるのだとすれば「宗教的目的での性器切断」というケースをさしているような気もしましたが、そうでなかったとしても、おそらくは
当時この申命記の言葉を聴ける範囲で暮らす人々にとって、神さまがそう語られることに納得できる何か「周辺事情」があったのだと思います。

そして2節「私生児」。新改訳聖書では「不倫の子」と表現され、新共同訳聖書では「混血の人」と表現されていますが、これはどういうことでしょうか。そして3節には「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。」とありますがこれもどういうことでしょうか。
アンモンびととモアブびとについてはどうしてダメなのかという理由が書いてはありますが、「私生児」にしても「アンモンびととモアブびと」にしても、「子ども」の立場で言わせてもらえば、「私に何の罪があるのでしょうか?」ということになりませんか?私生児であろうが不倫の子であろうが混血の子であろうが、生まれてきた子供に何の罪がありましょうか。親の責任ですよね。アンモンびととモアブびとにしたって、別に好きでそんなところに生まれてくるわけではないわけです。でも律法にはそういう人はダメだ、と書いてある。

ダメなのです。絶対にダメ。主の会衆には加われないのです、そういう人たちは。主の会衆つまり神さまの前に集まるイベント(例祭や出陣の際の集まり)には出られない。
直後の23章10節からのところを読むと

23:10あなたがたのうちに、夜の思いがけない事によって身の汚れた人があるならば、陣営の外に出なければならない。陣営の内に、はいってはならない。 23:11しかし、夕方になって、水で身を洗い、日が没して後、陣営の内に、はいることができる。
23:12あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。 23:13また武器と共に、くわを備え、外に出て、かがむ時、それをもって土を掘り、向きをかえて、出た物をおおわなければならない。 23:14あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。

とあって、改めて神さまの「聖さ清さ浄さ」というものを知らされるわけでありますけれど、神さま求めておられる「きよさ」のレベルの高さと「きよさ」の内容は私たちの想像をはるかに超えているわけです。
除菌という意味でのきよさなら水で洗ったりエタノールや塩素で消毒すれば良いわけです。しかし神さまの求めておられるきよさとは、そういう部分に加えて頭の中で考えることまでに求められるきよさ、無意識のうちにやってしまうことにも求められるきよさであるわけです。新共同訳で23章10節11節のところは「夜、夢精によって汚れた者は」という話になっているわけですから、こうなってしまうと、もう人間にはどうしようもできないでしょう?意志でコントロールなんてできない部分の話なのですから。


そういう「神さま」とそういう「人間」の関係である、ということが申命記23章を読むと思い知らされるわけです。選ぶことなんてできない血筋や家系。そしてコントロールしようがない睡眠中のこと。この神さまと人間の間にある大きな大きな隔たりが律法によって示されるわけです。何度水で洗っても何度動物を犠牲にしても消えることのない高い高い大きな大きな壁。

だからこそのメシア。だからこそ救い主が必要なのだ、となるわけですよね。

まだメシアが来られる前、つまりエデンから追放されたままの人類であったころ、神さまは特別な存在としてイスラエルを選び律法という特別なものを与えました。
律法は人々の暮らしを守り、また、創造主である神さまのことを力ある神さまのことを忘れないようにさせるためには不可欠なものでありました。
そして律法は、イエスさまが「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 とマタイによる福音書で語っておられる通り、本来は自由があり、温かみのある
それに、そもそも、神さまが与えてくださったものに悪いものがあるわけはないのですから、悪いものなどではなかったのです。
ところが、人間というやつはさすがにエデンの園から追放しなくてはならなかっただけのことはあり?
時の経過とともに律法を「ややこしく」してしまった上、まもれない無理な話=重荷と呼びたくなるようなものにしてしまったわけです。
で、ついにメシアが来られ、全人類のために血を流されたので、預言されていた通り、全人類の罪に終止符が打たれたわけですが、
・・・ここで、
かつての自分がそうでしたが、クリスチャンの中のある人々はこの瞬間に律法が終了したと考えている!

でもそれは大いなる勘違いだ、と今の私は考えています。

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 」とマタイ5章でイエスさまが言っておられるではありませんか。
福音書のイエスさまの言動を見てわかるのは、イエスさまという方はあの時代に来られ、律法を誤解曲解している人々の思考や行動を正しい方向に向かせ、整理しているということです。パッと見、律法の専門家と対決しているのでなんとなく律法と対決しているような気がしてしまうわけですが、律法と対決しているのではなく、律法の解釈を間違えている人間と対決しているのです。
しかもあえて、「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」とおっしゃっているのですから、
律法は無効になんかなっていないわけですよね。
やるんですよ、律法は守るの!守らなければいけないの!何も変わっていないの!

でも、そう、肉体があるし、守りたくても守れないんですよ、昔も今も。でもそれが大切、守れないんだということをわかることが大切、それほどに神さまは聖いんだということを知ることが大切だし、まもれない、どうしよう…となった瞬間に、ほらちょうどエデンの園で誘惑されたエバのようになるわけですよ。で、どうするか、ということなのですね。
私たちはメシアが来られ、メシアの血によって贖われた現在、
つまり、あの創世記の3章よりも前のエデンの園で神さまと親しく交わることができていたあの時代と同じような立場においていただいたわけなんですから、あの時のアダムとエバのように生きているわけです。
蛇の誘惑もあるし、この世の中に生きているといろいろあるじゃないですか。でどうするのか、ということなのです。どうするんですか?また誘惑に負けて黙って食べてこそこそするんですか?っていうことです。
「たべるのかたべないのか」
どうしてそんな葛藤が生まれるかと言えば神さまとの約束事があるからでしょう?神さまとの約束事それが律法ですよね?
食べるんですか?食べないんですか?
…食べないんでしょう?
どうしても食べたかったら神さまに報告連絡相談できるんでしょう?だって神さまとお話しできる立場(エデンの園)に戻ったんだから。
「神さま~蛇が誘惑するんですぅ~おいしそうなんです~」って訴えることができるでしょう?
もちろん失敗してもいいんです、追放は終了したんですから。
わざと悪意をもって神さまに挑むようなことするのはダメですけれども。そんなことをする人は完全追放!


マタイによる福音書5章から新共同訳聖書を引用します。

「・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。


「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」
とここで言われている立派な行いとは何でしょうか。立派であるとかそうでないという基準は律法からくるのではありませんか?まことの神さま以外を拝んではいけないというまずはそこに立ち、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」というイエスさまから習った言葉に基づいて行動しようとしているのではありませんか?

イエスさまが、昔預言されていた通りに神さまのご計画である救いを完成してくださったので律法を守って救われる救われないとかという議論はもはや必要ないし終了したのです。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言っておられる通りで、律法学者やファリサイ派とは比べ物にならない「義」を主はその血をもって私たちに与えてくださいました。
しかしだからと言って律法が終わったわけではないのです。律法が終了したなら、キリストの十字架は私たちには関係がないということになるからです。律法がなければ罪が何であるのかわからないのです。神さまの聖さとはどういうものなのか、そして神さまの一切について私たちは知ることができなくなるのです。聖書を読んだとしても神さまの聖さは過去のものであり、悔い改める必要なんてなくなるわけです。

「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 」からこそ、私たちには主の十字架が必要なのです。律法が今も有効であるからこそ守れない自分を知り、神さまとの断絶の理由も知ることができる。そしてそれゆえにイエスさまが必要であると、渇望するのです。そしてイエスさまの血によってすっかり洗われて神さまとの交わりを回復する喜びを味わうことができるわけです。


「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」


聖書、マタイによる福音書を聖書である、聖書は神のことばであるとする者ならば
このみことばにアーメンと言えないはずはありません。

このみことばにアーメンと言うのなら
律法は終了したとか廃棄されたとか言えないでしょう?
律法を守り、そうするように教えなさいと命じておられるのは、
わたしたちの主イエスなのですから!

2017年9月17日日曜日

【調べ学習】新共同訳の詩編119編に律法という言葉は何回あるか

新共同訳の詩編119編に律法という言葉は何回あるか調べてみました。

アレフ 1回
いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
ベト 0回
ギメル 1回
わたしの目の覆いを払ってください あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎます。
ダレト 1回
偽りの道をわたしから遠ざけ 憐れんで、あなたの律法をお与えください。
ヘー 1回
あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。
ワウ 1回
わたしがあなたの律法を守る者でありますように 常に、そしてとこしえに。
ザイン 3回
傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが わたしはあなたの律法から離れません。
神に逆らう者に対する燃える怒りが わたしを捕えています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です。
主よ、夜ともなれば御名を唱え あなたの律法を守ります。
ヘト 1回
神に逆らう者の縄が わたしをからめとろうとしますが わたしはあなたの律法を決して忘れません。
テト 2回
彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。
あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にまさる恵みです。
ヨド 1回
御憐れみがわたしに届き 命を得させてくださいますように。あなたの律法はわたしの楽しみです。
カフ 1回
傲慢な者はわたしに対して落とし穴を掘りました。彼らはあなたの律法に従わない者です。
ラメド 1回
あなたの律法を楽しみとしていなければ/この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。
メム 1回
わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。
ヌン 1回
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。
サメク 1回
心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。
アイン 1回
主の働かれるときです。人々はあなたの律法を破棄しています。
ペー 1回
わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。
ツァデ 1回
恵みの御業はとこしえに正しく あなたの律法はまことです。
コフ 1回
悪だくみをもって迫害する者が近づきます。彼らはあなたの律法に遠いのです。
レシュ 1回
わたしの苦しみを顧みて助け出してください。わたしはあなたの律法を 決して忘れたことはありません。
シン 2回
わたしは偽りを忌むべきこととして憎み あなたの律法を愛します。
あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり つまずかせるものはありません。
タウ 1回
主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。 

合計25回

 





次に、新共同訳の旧約聖書に登場する「律法」という言葉から興味深いものだけを拾いました。



申命記に登場する律法という言葉

あなたが川を渡ったとき、その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。こうしてあなたは、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主が与えられる乳と蜜の流れる土地に入ることができる。 申命記27章3節

「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。 申命記27章26節

もし、この書に記されているこの律法の言葉をすべて忠実に守らず、この尊く畏るべき御名、あなたの神、主を畏れないならば、
主は更に、この律法の書に記されていない病気や災害をことごとくあなたに臨ませ、あなたを滅びに至らせる。 申命記28章58節、61節

主は、この律法の書に記されている契約のすべての呪いの誓いに従ってその者をイスラエルの全部族の中からえり分けて、災いをくだされる。申命記29章20節

隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。
申命記29章28節


ヨシュア記に登場する律法という言葉

ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
ヨシュア記1章7節、8節



イザヤ書に登場する律法という言葉

地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り 永遠の契約を棄てたからだ。 イザヤ書24章5節




さらに、新共同訳の新約聖書に登場する律法という言葉のうち興味深いものを拾ってみました。



「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 マタイによる福音書5章17節18節

しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
ルカによる福音書16章16節17節

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 マタイによる福音書7章12節


イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」ルカによる福音書24章44節

フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
ヨハネによる福音書1章45節


婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
コリントの信徒への手紙一14章34節





最後に、私にとってずーっと謎である律法に関する御言葉を引用して終わります。

規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、エフェソの信徒への手紙2章15節



律法って本当に廃棄されたのですか?パウロさん?
マタイ5章でイエスさまがおっしゃっていることはどうなっちゃいますか?

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 マタイによる福音書5章17節18節


廃棄されたのなら、一コリント14章34節の「律法も言っているように」という言葉は無効ですよね?

2017年9月8日金曜日

中身は何も変わらない、着ているだけ

今朝デボーションをしながらふと思いました。

黙示録3章にあるサルディス教会のところに(新共同訳聖書を読んでいます)
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」
と書いてあるわけですが

白い衣を着せられているこの人自身は何も変わっていないんだなあ、と。

マタイ22章の婚宴のたとえにおいても、
その人自体が善であるか悪であるかということではなく
問われているのは「婚礼の礼服」を着ているか着ていないのかということ。


創世記3章にさかのぼると
罪を犯したアダムと女(エバ)に
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあり
神さまは彼ら自身の状態はそのままに
動物に血を流させて皮を取り衣をつくって着せてくださったわけです。


つまり、人は衣を着せられるだけであって本質的には何も変わっているわけではない。


ルカ15章の放蕩息子のたとえにおいて、父親は、放蕩の限りを尽くした息子が、
しかし、どん底まで落ちた後に悔いて父親のもとに帰ってきた時、
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、…」と語るわけですが、
神さまはまず良い服を着せてくださるわけです。
放蕩息子に着せられる「良い服」を「拡張自我」というような解釈をすれば、そういう方法での癒しがある可能性ということを考えたりしなくはないのですが、

信仰を持ったからといって本質が変わることはないのだ、と改めて思いました。


まずはボロボロの状態で神さま所に行って、すると、神さまは私たちを愛してくださったゆえの良い服を着せてくださるので、着せていただいた後は着せていただいたものをしっかりと身にまとい続けている これが信仰生活なのですね。



「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」ヨハネの黙示録16章15節

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
ローマ人への手紙13章12~14節

2017年8月1日火曜日

オリーブ山について

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

長い間新改訳聖書に慣れ親しんだ私にとってこの新共同訳のみ言葉にはちょっと驚きました。この箇所の始めのところは新改訳ではこう書かれているのです。
 

だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、

この箇所を新改訳聖書で読んでいた私が長い間頭の中に思っていたことは、動かない山(難題)でさえ強い信仰によって動く(解決する)ということです。しかし、「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い」ということになると何だか話が変わってしまう。まあ、ずっと新共同訳を読んでいて「信仰によって難題は解決するのだ」と思ってきた方もいると思うので、「話が変わってしまう」というのは私個人の印象かと思いますが、この二つの訳(新改訳と新共同訳)の間には共通していない「別の思想」があるような気がするのです。
 
新改訳を読んで、自分が頭の中で描いていた絵は sink mountain into the sea というイメージで、わりと静かに、山が命令を聞いて自ら意志を持ってずれて沈んでいくような感じ。一方、新共同訳のみ言葉にはかなり激しさがあって、山に命令をしているのだけれど、山が自らどうこうするというよりも、葦の海を分けたような神さまの大いなる力が急激に働いてどっかーんとなる感じ。山が海に飛び込んだら爆弾どころの騒ぎじゃなくなりますから。
(と、イメージを今書きながらふと思ったのですが、これって、どのみち海を埋め立ててるってこと?ちがうね、ちがうちがう。埋め立て工事の祈りであるわけがない)
 
そうそう、この山が何山であるか一応確認しておくと、マルコ11章1節より、「オリーブ山」ですよね。
あっ、オリーブ山がどっかーんとなる聖書の箇所を思い出した!
ゼカリヤ書14章!
 

その日、主は御足をもって
エルサレムの東にある
オリーブ山の上に立たれる。
オリーブ山は東と西に半分に裂け
非常に大きな谷が出来る。
山の半分は北に退き、半分は南に退く。
あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。
山間の谷はアツァルにまで達している。
ユダの王ウジヤの時代に
地震を避けて逃れたように逃げるがよい。
わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に
あなたのもとに来られる。
ゼカリヤ書14章4、5節

とするとミカ書のこれもオリーブ山かな
 

見よ。主はその住まいを出て、降り
地の聖なる高台を踏まれる。
山々はその足もとに溶け、平地は裂ける。
火の前の蠟のように
斜面を流れ下る水のように。
ミカ書1章3、4節

そんなふうに考えていたら、オリーブ山と言えば
マタイ24章の終末の教えを語られた場所(マタイ24:3)
ですし、イエスさまが天に上げられたところもオリーブ山でした。(使徒1章)
 
そのオリーブ山に向かって、

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

 
 
 
 
ここでもう一度ここに至る文脈を確認します。
「いちじく」についての調べ学習
という記事の所で書きましたが、
いちじくの実が無いということは、旧約聖書のあちこちを読んで検証した結果、喜びも平安もなく、神さまから見捨てられた状態を表現するときの象徴的なできごと、もしくは、実際に実は無いし木も枯れるのかもしれませんが、とにかくイスラエルを愛し選んでくださったまことの神さまと断絶した状態の表現であることがうかがえ、
また、宮きよめについても、あの常に穏やかなイエスさまが神殿から商人を追い出し腰掛けをひっくり返す=神さまによる実力行使=裁き ということが連想される。
とすると、
いちじくが枯れました、とイエスさまに報告をするペトロの言葉を受けて展開していくこの箇所は、「信じて祈れば与えられる」という事を教えるために山が動くということを単純に「例えに引いた」だけの教えではないように思えるのです。
 
新共同訳聖書の訳によってイメージが破壊される前にも実は

また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

この箇所について、どうして「ここで」こんなことをイエスさまは言われるんだろうとずーっと思っておりました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」で終わりにすれば良いじゃないですか。しかし「いかにも」という感じに付け加えられている言葉。
ひねくれ者の私は、「祈った結果として自分ばかりがスゴイ物もらっちゃってばかりでは申し訳ないから、とりあえず、もらった分のお返しとして誰かを赦せってことなんだろうか」とか、
「強い信仰=祈りを聞いてもらえる条件 として、人を赦せってことなんだろうか」
そんなふうに思いもしました。でも何だか不自然で。
 
でも、もしもこの箇所が、単なる「信じて祈れば与えられる」ということを教えた箇所ではなく、いちじくが枯れた話に続く「さばき」を視野に入れた話であったならば、
 
マタイによる福音書16章19節

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

を併せて考えることにより
「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。」
というみことばは恐ろしいまでに重い責任のある、ここに不可欠なみことばとなる気がするのです。
 
すると

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

このみことばは
 
信じる者はだれでも、わたし(イエスさま)が行ったようにいちじくを枯らす=さばくこと=山を海に飛び込ませること が出来るんだよ。
でも、わたし(イエスさま)はさばかない。
なぜなら、わたし(イエスさま)は十字架にかかり、苦しみ、罪を背負ってわたし(イエスさま)を信じる者にいのちを得させるために来たのだから。
だからあなたがた(クリスチャン)もさばかず赦しなさい。あなたがたも今は信ずるものに変えられたかもしれないが、罪を赦されてその立場をいただいたのだからね。だから、だれかを恨んでいるようなことがあるならば、その人を呪うのではなく。むしろ、とりなして、救いを求めてやりなさい。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるのだから。
 
こんなふうにも聞こえてくるのでした。
 

2017年7月8日土曜日

仮庵

このところ詩編を新共同訳で読んでいます。

新改訳だけをウン十年間読み続けたのち、突然通読用の聖書を新共同訳聖書に替えてヨハネによる福音書を読んだとき、それまで全くその存在に気づきもしなかった「わたしはある」ということばが何度も登場していて衝撃を受けたわけですが、このところ読んでいる詩編の箇所でも「仮庵」ということばが登場し、驚いています。

まず、詩編27編5節のところにこういう御言葉があります。
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。」
で、ここは、新改訳では
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい」
となっているわけです。
まあ、「幕屋」ということばが登場するのだから、どちらの訳で読んでも出エジプト記の一連の出来事を思い起こせるのかもしれませんが、新改訳でこの箇所を読んでいたころの私の脳内では、まず「隠れ場」という何らかの場所というものをイメージするわけです。洞窟だか木の陰だか岩の陰だか、そういう身をひそめるにふさわしい何かがそこにあることを想像するわけです。で、続いて登場する言葉「その幕屋のひそかな所」をどう関連付けるのか一瞬迷うのです。また、「その幕屋」の「その」は「主の」という意味なのか「隠れ場の中の」という意味なのか、もしくは「隠れ場に隠し」と「ひそかな所に私をかくまい」は同義であって単なる言いかえなのか・・・とか。
で、わからないから私の脳内ではこう考えることにしていました。
「要するに、大変な時には守ってくれるということ」
もちろん、そうなのかもしれません。それでよいのかもしれません。ダビデと私は文化的背景が違うわけですから、「要するに」どうであるのか、それさえわかればよいのかもしれません。
しかし、です。新共同訳で読んだこの節に「仮庵」ということばを見つけたとき、私の「要するに」という理解と「ダビデの言いたいこと」は違うのかもしれない、と思ったのですね。

「仮庵」と聞くと「仮庵の祭」を思い出すわけですが、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがモーセに率いられてエジプトを出、荒野で過ごしたときの天幕、それが「仮庵」ですよね。
つまり、「仮庵」ということばによってあの時のあの主、あの神さまが、あの時と同じように今の自分にもしてくださるのだ、と、ダビデは信じ告白している。すべてはあそこから始まっている、根拠はそこにあり、自分はそれを信じているのだ、と。
私が脳内変換したような「要するに」「神さまは守ってくださる」のではない。
私がもしダビデの詩を読みアーメンと言うのなら、私自身もあの「ユダヤ人たちをエジプトから脱出させてくださった」神さまであるというところまでを考えるべきなのではないか、と細かいことがとても気になる今日この頃。



いけにえよりも

しかし神は悪しき者に言われる、
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、
わたしの契約を口にするのか。
あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。詩篇50篇16、17節

日本語の聖書サイト様から口語訳聖書を引用させていただきます。 

このところずっと新共同訳で詩編を読んでいます。
冒頭に引用した聖句は口語訳詩篇50篇16、17節のところですが
神さまが悪い者に向かって語られる言葉、とても恐ろしく思いました。
なぜならば悪しき者が口にしているのは神さまの定めと契約だからです。
神さまの教えを憎み、神さまの御言葉を捨て去ったにもかかわらず
悪しき者は神さまの定めと契約を口にしているのです。
『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るわけではないとは福音書でも聞いているところですけれども、本当に怖い。

しかし神は悪しき者に言われる、
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、
わたしの契約を口にするのか。
あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。

神さまがあえて
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、わたしの契約を口にするのか」
と問われていることを考えれば、きっとこの人は御言葉を取り次ぐような働きをしているのです。一般人がことわざのように御言葉を語るのではなく、権威があるような顔をして、「これが神さまの御言葉だ!」と偉そうに語っているのかもしれません。
新共同訳でここを読むとこうなっています。

神は背く者に言われる。
「お前はわたしの掟を片端から唱え
わたしの契約を口にする。
どういうつもりか。
お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。

新共同訳の翻訳では、この人は掟を片端から唱えている!というのです。
今の日本で考えてみてください。御言葉を片端から唱えているような人がいた場合、私たちはどういう印象を持つでしょう。少なくとも、普通のクリスチャンの見立てとして、御言葉を片端から唱えているような人に対して抱く印象は、
このひとはおそらく御言葉をよく知っている=熱心なクリスチャン=交わりを持っても安心安全!
ではありませんか?
ところが、人の内側をご覧になる神さまにはそう見えないわけです。
パッと見、聖書に詳しいのであろう、神学に明るいのであろうこの人のことを
悪しき者、背く者と呼ばれる。そして
「あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。
お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。」
とおっしゃるのです。
そして、18節以下で具体的な問題点を指摘されます。


50:18あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、
姦淫を行う者と交わる。
50:19あなたはその口を悪にわたし、
あなたの舌はたばかりを仕組む。
50:20あなたは座してその兄弟をそしり、
自分の母の子をののしる。





50篇の18節~20節を引用したところで、
ふと詩編1編が思い出されました。

1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。

これは口語訳聖書の詩篇からの引用になりますが、
新共同訳によると詩編1編2節のところはこう訳してあります。

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。

詩編1編で描写されている人も新共同訳によれば御言葉を口ずさんでいるのです。おそらく私たちの目には詩編50編の悪しき者との区別はつけにくいのです。
しかし結ぶ実が決定的に違う。

50:18あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、
姦淫を行う者と交わる。
50:19あなたはその口を悪にわたし、
あなたの舌はたばかりを仕組む。
50:20あなたは座してその兄弟をそしり、
自分の母の子をののしる。



 1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。





そして神さまはこう語られます。

50:21あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、
あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。
しかしわたしはあなたを責め、
あなたの目の前にその罪をならべる。
50:22神を忘れる者よ、このことを思え。
さもないとわたしはあなたをかき裂く。
そのときだれも助ける者はないであろう。
50:23感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。
自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す」。


50章23節のところを新共同訳ではこう訳しています。

告白をいけにえとしてささげる人は
わたしを栄光に輝かすであろう。
道を正す人に
わたしは神の救いを示そう。


神さまを信じ、救い主を自分の救い主として受け入れた人であっても律法からずれることなく歩める人はいません。
神さまは、罪を言いあらわし悔い改める人の罪をゆるしてくださるお方です。

 50:8わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
50:9わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
50:10林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
50:11わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
50:12たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
50:13わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果せ。
50:15悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう」。


50章8節から15節のところを読むと、「感謝のいけにえ=告白=罪を悔いて言い表す」についての神さまの御思いが一層よくわかります。
 ただ、この論理の展開には爆笑してしまいました。
神さまはたとえ飢えるほどお腹が減ってもお前に要求なんかしないよーと。だって、獣だって家畜だってそもそも神さまのものなんだし、もっと言えば、神さまは雄牛の肉を食べたり雄やぎの血を飲みたいからいけにえにしなさいなんていってるわけじゃないんだからね、と。いけにえってのは、飢えた神さまの食欲を満たすためにやれと言っているわけじゃないよ、と。何ともわかりやすくユニークな説明。

神さまの御言葉を唱えるという行為は、それを語られた神さまご自身の御心に思いを巡らせるということ。
そして神さまご自身の御心に思いを巡らせるという行為は神さまと親しく語り交わるということ。
まさに御顔の救いですね。

27:7主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、
聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8あなたは仰せられました、
「わが顔をたずね求めよ」と。
あなたにむかって、わたしの心は言います、
「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
27:9み顔をわたしに隠さないでください。
怒ってあなたのしもべを退けないでください。
あなたはわたしの助けです。
わが救の神よ、わたしを追い出し、
わたしを捨てないでください。
詩篇27篇7~9節



今日のまとめ

21:2人の道は自分の目には正しく見える、
しかし主は人の心をはかられる。
21:3正義と公平を行うことは、
犠牲にもまさって主に喜ばれる。
箴言21章2、3節

2017年3月18日土曜日

【調べ学習】「名」という言葉

今朝の通読中、エペソ1章21節の「名」ὄνομαという言葉が気になったのでBIBLE HUBのコンコルダンスで調べました。
Strong's Greek: 3686. ὄνομα (onoma)

ギリシャ語の聖書では「名」という言葉が
マタイ10:41にも使われているといいます。
GRK: προφήτην εἰς ὄνομα προφήτου μισθὸν
Nestle GNT 1904のマタイ10:41全文

ὁ δεχόμενος προφήτην εἰς ὄνομα προφήτου μισθὸν προφήτου λήμψεται, καὶ ὁ δεχόμενος δίκαιον εἰς ὄνομα δικαίου μισθὸν δικαίου λήμψεται.


このNestle GNT 1904だけでなくほかのいろいろなギリシャ語聖書に「名」という言葉に相当するギリシャ語ὄνομαがありました。

英語の聖書ではKJVには「名」という言葉があり
KJV: in the name of a prophet
KJV41節全文

He that receiveth a prophet in the name of a prophet shall receive a prophet's reward; and he that receiveth a righteous man in the name of a righteous man shall receive a righteous man's reward.



ところがNIVになるとマタイ10:41ではnameという単語がなくなっているのです。

Whoever welcomes a prophet as a prophet will receive a prophet’s reward, and whoever welcomes a righteous person as a righteous person will receive a righteous person’s reward.


その代わりに「a prophet as a prophet」という表現となっていて、これは新改訳聖書や新共同訳聖書でもつかわれている表現と同じ。
新改訳「預言者を預言者だというので」新共同訳「預言者を預言者として」
ちなみに
日本語の口語訳聖書には「名」という言葉があって

預言者ののゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人ののゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。


と書かれています。

時代の移り変わりとともに「名」というものについて理解が出来なくなっている?ゆえの配慮としての意訳なのでしょうか。
直訳することが必ずしも良いことではないかもしれませんが、
「イエスさまのお名前によって」祈るクリスチャンにとって「名」という概念は重要ですし、エペソ1:21においては新改訳も新共同訳ともに(口語訳も)「すべての名」(新改訳)、「あらゆる名」(新共同訳、口語訳)、と訳しているのですから、マタイ10:41でも「名」という言葉を「名」と訳すことは問題のないことでありますし、そうやって原文に忠実に訳すことによって「名」の重要性を喚起すべきではないかと思いました。

2017年2月3日金曜日

【調べ学習】神殿について

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一3章16節

一コリントの通読をしております。3章を読んでいる中で「神殿」という言葉が気になったので今日は神殿についてBIBLE HUB http://biblehub.com/を使わせていただいての調べ学習をしようと思います。

まずは英語から
NIVでは
Don't you know that you yourselves are God's temple and that God's Spirit dwells in your midst?

とあり、神殿はGod's templeという風に訳されています。
で、ほかの訳ではtemple of GodとかGod's sanctuary、sanctuary of Godなどと訳されていますが、God's templeまたはtemple of Godというのが多数派です。
 
次にギリシャ語templeに該当するところは
ναὸς (naos)という語で
新約聖書全体では
ναῷ で 8回 
ναοῖς で 1回 
ναὸν で 13回
ναὸς という形で 10回
ναοῦ で 12回
ναοὺςで 1回
 
「ναὸς」が使われている御言葉は(日本語の聖句は新共同訳から引用しています)
 
マタイ2:17「黄金を清める神殿
ヨハネ2:20「この神殿を建てるのに46年も」
一コリント3:16「自分が神の神殿であり」
一コリント3:17「神の神殿
一コリント6:19「聖霊が宿ってくださる神殿
黙示11:19「天にある神の神殿
黙示15:5「天にある証しの幕屋の神殿
黙示15:8「この神殿は、神の栄光と」
黙示21:22「主と子羊とが都の神殿
 
 
そして、
Thayer's Greek Lexicon
STRONGS NT 3485: ναός
によれば、
このギリシャ語はヘブル語の הֵיכָלに該当する言葉で、
BIBLE HUBによると
 הֵיכָלという形で登場するものだけをピックアップした場合
24箇所あって、
 
サムエル上1:9「祭司エリは主の神殿の」
列王上6:3「神殿の外陣の前にある前廊」←(注)KJVではtempleと訳しているが、ほかの英語聖書でnaveと訳しているものもある。
列王上21:1「アハブの宮殿
列王下18:16「主の神殿の扉」
歴代下26:16「主の神殿
歴代下27:2「主の神殿
エズラ3:10「神殿の基礎」
エズラ4:1「イスラエルの神、主のために聖所を」
詩編5:7(新改訳では詩篇5:8)「聖なる
詩編79:1「聖なる神殿
詩編138:2「聖なる神殿
詩編144:12「宮殿の飾り」
エレミヤ7:4「主の神殿、主の神殿、主の神殿」←(注)エレミヤ7:4については同一の節に3回「神殿」という言葉が出て来るが、24箇所のうちの3箇所とカウントされている
エレミヤ24:1「主の神殿
アモス8:3「宮殿の歌い女」←(注)KJVでは And the songs of the temple shall be howlingsとなっていて、הֵיכָלをtempleと訳している。新共同訳ではpalaceという解釈で訳している。
ヨナ2:5(新改訳ではヨナ2:4)「聖なる神殿
ヨナ2:8(新改訳ではヨナ2:7)「聖なる神殿
ハガイ2:18「主の神殿の基」
ゼカリヤ6:12「主の神殿
ゼカリヤ6:13「主の神殿
 
 
 
 
 
つぎに、新聖書辞典(1985年9月20日発行 いのちのことば社出版部)で神殿について調べてみました。
以下、興味のある所だけ抄出
 
 

エルサレム神殿

ソロモンの神殿(第1神殿)

幕屋の規定に基づいている
神殿は建物そのものが大切なのではなく、その中に納められている神の言葉としての律法(トーラー)が重要 トーラー中心主義
神殿建築の完成は、出エジプトをイスラエルに経験させられた神ご自身の御名のため(列王上8:15~21)
創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大な方(列王上8:23~27)
原則的には民は神殿に来て祈りをささげなければならない。
 
 

ゼルバベルの神殿(第2神殿)

70年間に及ぶバビロン捕囚の後に、神の主観的摂理のもと、バビロンの地に捕囚となっていたイスラエルの民が故国ユダの地に帰還し、破壊されていた神殿を再建した。
 
 

ヘロデの神殿(第3神殿とも呼ばれ得る)

その建築は前20年頃に開始され、だいたいの構造は約2年ほどでできあがったが、完成までには約50年近く要したと考えられる。(参照ヨハネ2:20)
新約聖書におけるヘロデの神殿への言及は100回あまりに及ぶ
新約聖書で一般に「神殿」「宮」と訳されている語はギリシャ語では2種類あるが、・・・明確な区別はされていない。
至聖所を含む場所で、祭司以外は入ることのできない神殿の部分を指す場合には通常ナオスが用いられている。それに対して、神殿全体を指す場合には通常ヒエロンが用いられている。
新約聖書では、イエスの教えの中などで「神殿」「宮」が用いられている場合がある(マタ12:6、ヨハ2:19)
「神の神殿」をアナロジーとして用いている場合もあるが、その場合は必ずしもヘロデの神殿を指すと考える必要はない(Ⅰコリ3:16-17、6:19、Ⅱコリ6:16等)
 
 
 
 
 
 

新約聖書で気になった神殿という言葉

 

福音書

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 マタイ21:12
 
 
「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 マタイ26:61
 
 
言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 マタイ27:40
 
 
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 マタイ27:51
 
 
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 マルコ13:3
 
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 ルカ24:53
 
 
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 ヨハネ2:21
 
 

使徒言行録

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、使徒2:46
 
 
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。使徒3:1
 
 

パウロの書簡

 
 
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリント第一3:16 
 
 
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 コリント第一3:17
 
 
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 コリント第一6:19
 
 
 
神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 コリント第二6:16
 
 
 
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 エフェソ2:21
 
 
この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。 テサロニケ第二2:4
 
 
 

ヨハネの黙示録

 
勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。 黙示3:12
 
 
それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 黙示11:5
 
 
しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。 黙示11:2
 
 
そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。 黙示11:19
 
 
すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」 黙示14:15
 
 
また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。 黙示14:17
 
この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。 黙示15:5
 
 
そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。 黙示15:6
 
 
この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。 黙示15:8
 
 
また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」 黙示16:1
 
 
第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。黙示16:17 
 
 
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 黙示21:22
 
 
 
 

旧約聖書(預言書)で気になった神殿という言葉

 
 
 
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。 イザヤ66:1


それゆえ、お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。 ヨエル3:12
 
 
その日が来ると 山々にはぶどう酒が滴り もろもろの丘には乳が流れ ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て シティムの川を潤す。 ヨエル4:18
 
 
 
エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。 ゼカリヤ14:21
 
 
 
 

神殿について考えさせられる箇所


彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。ダニエル11:31
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。ヨハネ4:21
 
 
 
 




 

 

 

コリント信徒への手紙第一の3章16節17節

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 

私は30年近く新改訳聖書だけを読んでいたので、新共同訳で「神殿」と訳されている箇所はおもに「神の宮」と訳されていまして、その言葉からイメージしていたのは家の近所の小さい神社。
しかし、上で調べて分かったのは、「神殿」というギリシャ語は王様の「宮殿」を表現する時にも使われる言葉ということで、ほんとうに驚きました。

私のような田舎在住の引きこもり日本人おばさんが、自分の人生経験だけで聖書を読みながしては絶対イカンとあらためて思いました。


パウロはコリント教会の信徒に対して何度も繰り返して「あなたがたは神の神殿」だと言っています。
さらっと読み流しているだけだと、「何度も繰り返して言っている」ということに気づきにくいのですが、書き出してみると、とてもしつこく念を押されている気分になります。



あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリント第一3:16



神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 コリント第一3:17



知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 コリント第一6:19




神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 コリント第二6:16


あなたがたは神殿、あなたがたの体は神殿、わたしたちは生ける神の神殿だ、繰り返し語るパウロの言葉に、
まずは前述の小さい神社から神殿へと言葉のイメージを改めた自分が真っ先に感じたことは、
「私ってものすごい価値がある感じ~~」ということです。


「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という御言葉がイザヤ書にあるので、セルフイメージの徹底的に低い私ではあっても「信仰によって」これまでもとりあえずは「高価だって神さまが言ってくださってるんだからとりあえず尊いと思う」と考えてはいたのですが、小さい神社から神殿に代わったことで、査定価格が一気に上昇しちゃった気がしました。( *´艸`)



そして、



パウロは一コリント3:16において、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」と語って信者個人の内に聖霊さまが住んでくださっていると確認したうえで


二コリント6:16では「神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語り、


トーラーから引用することにより
(おそらく引用された箇所はここのあたりだと思います↓)

これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。 出エジプト記29章42~46節


わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。レビ記26章11、12節


「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。」、「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き」という、
個人ではない複数の人々の「ただ中」「間」におられる神さまでもあられる、ということを教えます。
つまり、「私」の神さまであると同時に「私たち」の神さまであるのだ、と。


で、エレミヤ書31:1にもこう書かれていて、
そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる

神さまはイスラエルのすべての部族の神さまです。


イエスさまもこんなことをおっしゃっていましたね。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

ヨハネによる福音書の14章で主を愛し主の御言葉を守るもの(個人)に聖霊さまを与えてくださると約束してくださった主は、約束通り私たち一人一人の内に聖霊さまを与えてくださり、また同時に信じる者たちの集まりのただ中にいてくださる。




だからこそこうなるわけです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一12章27節


心臓や腎臓、肝臓といった体の器官がそれぞれに完成された優れた機能を持つものであるが
孤立して存在するのではなく、つながることによって大きな一つの体として完成される。
それと同じように、私たちは神さまが中に住んでいてくださる神殿で、一人一人それぞれに完成され優れた素晴らしいものであるが、同じ主を内に持つということによって一つであり、また、バラバラにあったものが主のゆえに「つながる」とき、まさにそのただ中に主は宿り、その者たちの間を主は巡り歩かれる。主を信じる者全ての者たちの神さまであるのだ、とパウロは教えてくれるのです。
そう、イエスさまも言っておられました。ヨハネによる福音書15章で主はぶどうの木でわたしたちは枝だと。また、同じくヨハネによる福音書の17章で主は祈ってくださいました、「父よ、あなたが私の内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と。
そうです、私たちは別々のようであって一つです。離れているようであって分かれているようであって、しかし私たちの中にあなたがいてくださることによって決してバラバラなものではないのです。


勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。
ヨハネの黙示録3章12節a

とヨハネが語ったように私たちはこの地上の幕屋を脱ぎ捨てた後、皆で真の主の神殿を構成するものとなるのです。



ところで、
新聖書辞典にはソロモンの作った神殿について、こんなことが書かれていました。(抜き書き)

ソロモンの神殿(第1神殿)
幕屋の規定に基づいている
神殿は建物そのものが大切なのではなく、その中に納められている神の言葉としての律法(トーラー)が重要 トーラー中心主義
神殿建築の完成は、出エジプトをイスラエルに経験させられた神ご自身の御名のため(列王上8:15~21)
創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大な方(列王上8:23~27)
原則的には民は神殿に来て祈りをささげなければならない。


で、列王記上の8章から9章のところをささっと読んでみたのですが


9章1~9節にこう書かれています。


ソロモンが主の神殿と王宮の建築を終え、造ろうと望んでいたものすべてについての念願を果たしたとき、主はかつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ、こう仰せになった。
「わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。この神殿は廃虚となり、そのそばを通る人は皆、驚いて口笛を鳴らし、『この地とこの神殿に、主はなぜこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう。そのとき人々は、『それは彼らが自分たちの先祖をエジプトの地から導き出した神、主を捨て、他の神々に付き従い、これにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らの上にこのすべての災いをもたらされたのだ』と答えるであろう。」

ソロモンの祈りを聞いていてくださった神さまは、ソロモンに対してきちんとしたお答えをくださったのですね。上の、辞書で調べた文章にも書いてありますが、創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大なお方ですよね、でもソロモンの願いを主は聞いてくださった。で、今日(こんにち)第一神殿として知られるソロモンの神殿が神殿として認められた。


しかし、神殿は…。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%A5%9E%E6%AE%BF


そしてバビロン捕囚から帰還後にできたゼルバベルの神殿(第2神殿)
…西暦70年のエルサレム包囲戦においてエルサレムと第2神殿は破壊


さらに新約聖書でたびたび言及のあるヘロデの神殿(第3神殿とも呼ばれ得る)
…今は「嘆きの壁」(ヘロデの神殿の西側の壁らしい)壁の前が礼拝の場所になっている


神さまにはわかってらしたんでしょうね…あの時から。




ところで、最近、
いや、以前からよく聞く話ですが、


新しい神殿が建つの建たないのという話があって、




まあね、
建てたい人は建てたいんだと思いますけれども
どうせそういう人は、神さまのご意向!?なんて関係ないんでしょうし
だって、すでにメシアは来たんだし
メシアを受け入れた人に神殿はいらないですからね。
だって、パウロが何回も言っている通り自分自身が神殿ですから。
コリントの信徒への手紙だけでなくエフェソの信徒への手紙でもパウロはこんなことを言っています。
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 エフェソ2:21 
また、イエスさまがこんなことをおっしゃっていたこともありました。

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。ヨハネ4:21
神殿(建築物)…ね。

建つか建たないか、
建った方がいいのか建たない方がいいのか
よくわかりませんけれど

神殿(人間)…がね

すでに建っていると言えば建っているわけで、
まあ建っちゃってるという話になると解釈がいろいろ変わるんだと思いますけれども



学問を修めた訳知り顔の人が何を言ったとしても
所詮「人」ですからね。気を付けなければ。
知りたければ直接神さまに求めていけば
時が満ちたら絶対教えていただけるはずなので
こういうことは人に期待せず直接神さまに尋ねようと思っています。


大きい小さい

コリントの信徒への手紙一1章21節

神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった


新改訳第3版でここはこう訳されています。

神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた 

「宣教という愚かな手段」、「宣教のことばの愚かさ」、というパウロの言葉を繰り返し読みながら
「神さまというお方は、いつもこうなのだ」
と思いました。

そもそも、
神さまはイスラエルを、強く大きく期待大だったから選んだのではなく、むしろ彼らが貧弱だったから選んだのでありました。(申命記7章6節参照) 
いつも神さまは、人間が好んで選びそうな「効率が良い」とか「体裁が良い」とか
そういうのとは真逆を行かれます。

主は
小さくて弱いものを
ご自身の御力によって
大きく大きく強く強くしてくださる。
そして主は、
幼子、乳飲み子の口によって力を打ち建てられる。

 



「大きく大きく」とタイピングしながら、
マグニフィカティオ」という言葉を思い出しました。
イエスさまのお母さんであるマリアが神さまをほめたたえる「マリアの賛歌(マグニフィカート)」ルカ1章46節。マリアの最初の言葉「わたしの魂は主をあがめ」というのはラテン語で、マグニフィカティオ=大きくする

神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく

賛美とは本来そういうものなのですね。

賛美とは
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
ということ。

 
 

そう書きながら
今度はミカ書6章8節が思い出されたのでありますが

人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。 



「へりくだって神と共に歩む」とは
ちょうど「神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく」と同じ意味であって
そういう中で神さまは
小さくて弱い私たちをご自身の御力によって大きく大きく強く強くしてくださる。




ところで、
聖書には「大きくて強い」と思い込んでいた教会の話が書かれていました。
黙示録に登場するラオディキア教会。

ラオディキア教会と言えばなまぬるいというイメージがありますが、
なまぬるいということだけでなく、神さまはこの教会に対してこんな指摘をされていました。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

この御言葉を読んでわかることは、
神さまの語られる豊かさというのは人間の考えている豊かさとは違うらしい、ということです。
それは、同じく黙示録に登場するスミルナ教会に対する御言葉でもわかります。

わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。


そしてそれは有名な山上の説教でもわかることです。
貧しい者は幸いだと語られ
悲しむものは幸いだと語られた主。

そしてイエスさまは
小さく貧しい人の友、罪びとの友となってくださり
小さく弱いものをご自身の力で大きく強くしてくださいました。


この世で人は強い人にすがり、金持ちに媚びて友となろうとするけれども
神さまはそうではない、
この世で人は賢い人を優れたものとし知恵ある人を称賛するけれども
神さまは人々からさげすまれるような者たちの友となられるのだ、と
人となられた神さま=イエスさま はご自身の行いをもって教えてくださったのです。



ここでもう一度「ラオディキア教会」の箇所を引用します。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 


ラオディキア教会に
主はこう語りかけられます。
クリスチャンの群れである教会に
主はこう呼びかけておられます。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 


主は教会の外におられるのです。そして教会の戸口をたたいておられる。

主は「大きくて強い」と思い込んでいる「クリスチャンたちに」こう呼びかけておられるのです。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう、と。
主を閉め出している教会
 
なんとおそろしい。
 
でもおそらく、本人たちには自覚はないのです。