神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
創世記1章26~28節(口語訳)
創世記1章26~28節を読みました。
神さまが人に求められていたことは何だったのか
ヘブライ語の単語を一つ一つチェックしながらゆっくり読み進めていく中で
治める רָדָה raw-baw'
従わせる כָּבַשׁ kaw-bash'
という二つの言葉が心に留まりました。
私たち人間が神さまから命じられていたことは אֶרֶץ eh'-rets=「地」 を従わせること、そして海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物を治めることだった・・・
そして思いました。
果たして人間は地を従わせているのだろうか、そして、生き物を治めているのだろうか、と。
もちろん、やってはいるのです。
しかし完全にはできていない。
というか、科学技術の発展によっていろいろ出来ているような気はしていたのにだんだん出来なくなっているような気がする今日この頃。
創世記で神さまは一つ一つクリエイトし、それぞれに秩序を与え役割を与えられました。その創造という行動は「茫漠」、「混沌」としていたものに「界面」を与えて「分けて」いくこと。曖昧なものにくっきりと境界を定めていくことでした。そして神さまは創世記2章19節で、人にこんなことをさせます。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
創世記2章19節
名を付けるという行為。名を付けるという行為の土台は「分ける 分類する」ということです。神さまのつくられたこの動物とその動物は似ているかもしれないが別物なのだ、こちらの動物にはこういうかたちや性質があって、そちらの動物とは異なるのだ、ということを人が気付き名を付ける、つまり神さまのつくられたこの地球הָרֶץ eh'-rets における秩序を実体物により学習させる第一歩です。
そして、やがて人は実体物に名をつけて分けることから、目に見えないものを分けることを神さまによって教えられ学んでいくわけです。良いこと、悪いこと。これはして良いこと、そしてこれはしてはいけないこと。創造のはじめに神さまのつくりあげられた秩序とは、くっきりと定められた境界とはこうである、と。しかし・・・
地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
創世記1章2節(聖書協会共同訳)
烏とふくろうがその地を住みかとし
森ふくろうと烏が住み着く。
主はその上に混沌の測り縄を張り
空虚の重りを下げる。
イザヤ書34章11節(聖書協会共同訳)
私は地を見た。
そこは混沌であり
天には光がなかった。
エレミヤ書4章23節(聖書協会共同訳)
引用聖句中の「混沌」という語には
בֹּהוּ bo'-hoo
というヘブライ語がつかわれています。
聖書の中にこの語のこの形はこの3か所だけに使われています。
すなわち、創世記1章2節が表現している神さまが諸々をクリエイトする以前の「地」אָ֗רֶץ eh'-retsの状態を表現する1か所、そしてほかの2か所は神の裁きにかかわる箇所です。
創造の真逆が裁きによる姿、またはこう言えるかもしれません、創造の始めに定められた秩序の破壊は反キリスト。くっきりと明確に線引きされ、これはこれ、あれはあれ、光と闇がきっちりと区別されるように、神さまがクリエイトされた秩序や分類は絶対であって、「これ」と「あれ」は相容れないもの、しかしその境界面を崩して曖昧にするものすることこそが反キリスト。
מ֥וֹתתָּמֽוּת
創世記2章17節で、「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」と「死ぬ」という言葉を2度繰り返して教えられた神さまの言葉を
פֶּן־ תְּמֻתֽוּן
エバは「פֶּן」とか言って・・・פֶּןとはlestつまり「~するといけないから」という言葉を「死ぬ」という語にくっつけてくっきりクリアな神さまのみことばを曖昧にしてしまったわけですが、そう、これこそが罪、これこそが神への反逆、反キリスト!
そして、このエバのlestという語に類した行動の積み重ねが、創造の真逆つまり「裁きの混沌」に至る道です。
教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。彼らは虐げられ、飢えて、この地を通る。
飢えて、憤り、その王と神を呪い、顔を天に向ける。
地を見渡すと、見よ、苦難と闇
苦悩に満ちた暗黒、そして追放の暗闇。
しかし、抑圧された地から闇は消える。
先に、ゼブルンの地とナフタリの地は
辱められたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう
異邦人のガリラヤに栄光が与えられる。闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。
イザヤ書8章20~9章1節(聖書協会共同訳)
教えと証しの書にこそ尋ねよ、とイザヤは語ります。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない、と。
教えとはトーラーתּוֹרָה to-raw'
です。そして人となって来られた真のトーラーである御子。
創世記1章26節には「われわれにかたどって人を造り・・・」という不思議な言葉がありますが、「われわれは造る」という言葉は נַֽעֲשֶׂ֥ה na-‘ă-śeh
という語で、この語はこの箇所以外では
出エジプト記19:8、24:3、24:7などで使われていて、複数の人々の心が完全に一致して語っている様子が見てとれます。
それ以外で使われている箇所について詳細はこちら↓
https://biblehub.com/hebrew/naaseh_6213.htm
「われわれ」という複数人が言ってはいるけれどもその複数の人格は完全に一致してそれを行うと語る時にנַֽעֲשֶׂ֥הという語は使われるのかな?という印象を持ちました。
御子は神ご自身、御霊も神ご自身です。
ויקח יהוה אלהים את האדם וינחהו בגן עדן לעבדה ולשמרה׃
神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。
創世記2章15節
創世記2章15節というわずか一節の中から、私たちクリスチャンはとてもとても大切なことを教えられるような気がします。
ひとつは、
神さまがエデンの園に人を連れてこられたのだ、ということ。
エデンの園の外でつくられ、エデンの園の外にいた人間がエデンの園に神さまご自身によって連れてこられました。
そして蛇の誘惑の言葉を選び、自らの行動をその言葉に従って行い=罪を犯して エデンの園から追放されてしまった後、
神さまは御子によって再びエデンの園に人間を入れてくださった。
つまり、エデンの園גן עדןは神の国天の国。
だとしたら、神さまは私たちに何を求められるのか、と言えば、エデンの園に住んでいた当時と変わらぬ「そこを耕し、守る」ことですね。
2章15節から教えられるふたつめの大切なことはそれです。
「耕す」というところに使われているヘブライ語はעבד。
Strong's Hebrew 5647. עָבַד (abad)
https://biblehub.com/hebrew/strongs_5647.htm
働くという意味があるようですが、この語がつかわれている箇所を確認してみると、所属する国であるとか、王であるとか、その人のために働くという意味があるようです。
たとえば我が家と我は主に仕えんでおなじみヨシュア記24章15節の「仕える」がこの言葉で、また、士師記2章11節などの「バアルに仕える」ところにもこの言葉が、そして、出エジプト記6章5節のようなところでは「エジプト人の奴隷となる」というように翻訳されていますがここでもעָבַד (abad)が使われています。
創世記ではこの2章15節の箇所の前に、2章5節の新共同訳では「土を耕す人もいなかった」と言う箇所の「耕す」というところで使われていますが
創世記2章5節の時代で考えれば農耕をするということが神さまの下で働くという意味であったのでしょうけれども、要するに仕えている相手や所属する場所それぞれで変わってくるやるべきことのそれぞれを行うことがעָבַד (abad)なのだと思います。
そして「守る」というところに使われているヘブライ語はשָׁמַר
Strong's Hebrew8104. שָׁמַר (shamar)
https://biblehub.com/hebrew/strongs_8104.htm
何かをずっと失われないように「保存」するという方向性で守ったり、何かをじっと「注意深く見る」ことで守るという意味があるようです。
創世記3章24節にある「命の木に至る道を守るために」であったり、創世記17章9節「契約を守る」の「守る」がこの単語です。あと、創世記の30章31節にある「(羊の群れの)世話をする」英語で言うところのfeed and keepのkeepがこの שָׁמַר (shamar)にあたります。
だとすると、現代に生きる私たち「クリスチャン」は神さまから何を求められているのか、ということになります。
神さまに仕える者として神さまの命により働く。神さまの下でみこころを行うべく働く。
そして、神さまの国が失われないように守る、神さまの御言葉が法として及ぶ国が失われないように、そして、הארץをそれぞれが置かれた場所で注意深く見て、守る。
地の塩、世の光 ですね。