2021年5月19日水曜日

苦難の中で

今朝は詩編107編を読みました。

 

105編、106編と読みつづけてきて、イスラエルの歴史を考えつつ読んではおりましたけれども、同時に「人の一生」という観点で読めるような気がしてきました。
「人の一生」というふうに漠然と申し上げましたけれども、しかし実際に自分の頭の中に思い浮かんでいるのは私自身の歩んできた道です。
この世界に産み落とされ、死にそうであっても奇跡的に死ぬこともなく、
しかしそれゆえに本当にたくさんのことに耐えなければならなかったわけでありますけれど、
それは決して私だけがそうなのではなく、この世界に生きているすべての人がそういうことなのであって、
おそらく、
たとえどんなに幸せそうに暮らしていたとしても
きっと完璧な満足などはなく、
それぞれ必ず人に言えぬ苦しみや問題を抱えているものです。
そして今は悲惨な状況に置かれていない人であっても
時が来たなら必ず衰え、死にゆくのですから
少なくともそれにともなう痛みや苦しみは必ずある。



詩編107編の作者は
「主」をほめたたえます。
天地を創造された聖書の神さまである「主」。

 

彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、乾き、魂は衰え果てた。
    苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
    主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
    主に感謝せよ。主は慈しみ深く
    人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
詩編107編4~9節 

 

4節の頭で、この詩編の作者は「彼らは」と書いていますから、
この詩では詩編の作者が直接体験したことを述べているわけではありません。
そういう苦難の中にいた「彼ら」の体験を詩編の作者は知っている、
そして、彼らの経験の中に、彼らが伝え続けてきたその苦しみの中での経験を真実であると信じていて、「だから…」という強い思いが与えられ、それゆえに「主を」ほめたたえる。




以前、出エジプト記を読んでいた時、私は大変な苦難に出会っていた人を見ました。それは、エジプトの王であるファラオ(パロ)とエジプトの国民です。
出エジプト記を読むとき、たいてい私はイスラエル側に立って読んでいるので、「ファラオはいい加減にイスラエルを解放してやってよ!」と思うわけですが、
それにしても繰り返し繰り返しこれでもかこれでもかと災いがもたらされるあの場面、エジプトの側に立って考えるととんでもない話です。
「なぜ」そういう災いが起こっているのか、人は「原因は~だ」と分析をするわけでありますが、あのエジプトの災いについても原因がどこにあったのか聖書にはきちんと書いてあります。聖書信仰を持たない人が読めばきっと「災い」にしてもその後のイスラエルにもたらされたもろもろの「奇蹟」にしても「バカバカしい作り話」「都合よく改ざんされた伝承」ということになるのだろうな、とは思いますが、
しかし、世界に「もともとある」秩序(都市のオアシスのごとき木群や原子核や遺伝子の塩基配列等々)を欲のおもむくままに破壊したり、弱い人々を虐げるというような
私たちの心に書かれた「良心」だけに丁寧に問えばおそらく手を出さなかったであろう物事は、結局人類にも地球環境にも究極的な益はもたらさずむしろ害悪に通ずる道であったということは歴史に問うて納得せざるを得ないような気はします。

さて、「災い」という名の、神さまによってもたらされたたくさんの「不思議」を目にしたファラオは、困った時の神頼みはするものの喉元過ぎれば熱さを忘れ、何度人知を超えた不思議なことを見ても創造主である神を畏れるということには至りません。出エジプト記9章20節を見ると、ファラオの家臣のうちにも「主の言葉」を畏れたものがいなかったわけではないようですが、
どんなに不思議なことを見せられたとしても頑なな心の者(素直に物事を見ようとしようとしない者)は「こと」の本質に到達することはできない、神さまの言葉を信じることはできない、災いを避けることは出来ない、ということを私たちは気付かされます。


そういうことを思いながら、再び詩編の作者が語った「苦難」という言葉に戻ってみると、そこにはファラオのようではない「彼ら」の態度がありました。
「彼ら」もファラオ同様、神の仰せに反抗し(11節)背く(17節)者でしたが、
A. 苦難の中で目をさまし、
B. 自分の態度を反省して神さまに頼ります。何が悪かったのか、何が良いことなのか、「彼ら」は思い出し、良い方へと向きを変えて歩みだすのです。
C. すると「彼ら」は救われる。

A 彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、乾き、魂は衰え果てた。
    B 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
    主は彼らを苦しみから救ってくださった。
C 主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
    D 主に感謝せよ。主は慈しみ深く
    人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
E 主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
詩編107編4~9節 


D.E.その「彼ら」のストーリーを詩編の作者は知っているのです。当事者ではないけれどもそういう「事実」があったのだ、主とはそういう恵みに富み赦しに富み、豊かに憐れんでくださる愛に満ちたお方なのだ、と語る。主は驚くべき御業を成し遂げてくださるお方なのだと宣言、同時に後世に生きる私たち読者に教えてくれるわけです。
そう、主は涸れた谷にあって水を慕い求める鹿が飽き足りるほどに良い水をほとばしらせてくださるお方なのだよ、と。




さて、私は「苦難」の中で何をするべきでしょうか。

聖書に答えを求めるならおそらくたしかな答えは一つあって、

そうすれば求める以上のものが飽くほどに与えられる

 

ということなのだと思います。

2021年2月4日木曜日

稲妻がひらめき渡る

 詩編18編(新共同訳)を読んでいたら、15節に「稲妻が散乱する」という表現にあることに気付きました。

そういえば、マタイ24章27節の
「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」というイエスさまの言葉の意味が今一つはっきりわからなかったんだ・・・ということを思い出し、

いい機会なので調べ学習をしてみることにしました。

 

וישלח חציו ויפיצם וברקים רב ויהמם׃

「稲妻」はbaraq וברקים

「散乱する」はhamam ויהמם

18編と同じוברקיםという形でbaraqが登場するほかの箇所は出エジプト記の19章16節

三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。

 同じ形ではないけれどbaraqが登場するほかの箇所をいくつか拾ってみると

 

あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し
地はおののき、震えた。詩編77編19節(新共同訳)

 

 

飛び交う稲妻
うなりを上げる矢を放ってください。詩編144編6節(新共同訳)

 

 殺すためにといであり、いなずまのようにきらめくためにみがいてある。わたしたちは喜ぶことができるか。わが子よ、あなたはつえと、すべて木で作ったものとを軽んじた。
エゼキエル書21章10節(口語訳)

ということで、ברק baraqというヘブライ語はまずは出エジプト記の御言葉から考えると「神さまのご臨在」というイメージのある言葉だろうということが分かり、さらに言えば、詩編144編5節6節7節、そしてエゼキエル書の内容から、神さまがさばきのために「天を傾けて降り」てこられるときに、「稲妻」が~ということなのだと考えられます。
引用箇所だけでなくほかにもそのようなイメージのところにברק baraqが登場していますので、稲妻とはそういうものであるという共通認識が当時のユダヤ人にはあったと考えられます。だとすると、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」という言葉は、出エジプト記やダビデの詩編、そして預言書で神さまが天から地上に来られるときと同じような現象の中を来られる、ということでしょうか。

 

ちなみに、ברקのクフがアレフに代わると創世記1章1節のבראשיתの最初の三文字そしてその次の בראになります。だから何だということはありませんが、そんなことを考えながらヘブライ語聖書を読むのが好きです。

 

 

次に、「散乱する」המם hamam

これは、Strong's Concordanceによると Definitionは to make a noise, move noisily, confuse, discomfitと書いてあります。日本語聖書の印象ではこちら言葉の方が稲妻よりもキラキラしていそうなのですが、きらきらという意味は全くなく、うるさくて困惑させられ混乱してしまう、ということなので、雷のピカッにあたるのがברק baraqで、光速と音速の差の関係で光った後にちょっと遅れてゴロゴロとなる雷鳴の方がהמם hamamということでしょうか。

המם hamamが使われているほかの箇所を調べると、

 

 

朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。出エジプト記14章24節(新共同訳)

 

この御言葉の中の「かき乱された」という部分にהמם hamamが。
そしてこちらの「混乱」にも使われていて

 

 

あなたの神、主は彼らをあなたに渡して、大混乱に陥れ、ついには滅亡に至らせる。
申命記7章23節(新共同訳)

 

 

この辺りを踏まえて考えるとヨハネの黙示録16章18節の

 

そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。

 という御言葉の「さまざまな音」というのがהמם hamamで、「稲妻、さまざまな音、雷が起こり」というのが詩編18編の「稲妻が散乱する」という表現により近いのかもしれません。

ギリシャ語の聖書で調べてみるとマタイ24章のイエスさまの御言葉は
ἡ ἀστραπὴ ἐξέρχεται ἀπὸ ἀνατολῶν καὶ φαίνεται ἕως δυσμῶν
となっていて、ἀστραπὴが稲妻で、φαίνεταιが英訳聖書ではshineというような意味があるようなのですが、同じφαίνεταιはマタイ2章13節、19節にも登場していて「現れる」という意味で使われています。というか、この言葉は「現れる」という意味で使われる方が頻度としては高いようでした。

そして…余計なことかもしれませんが、雷の多い群馬に住む人間として言わせていただくと、稲妻のピカッとひかるアレ⚡は、左右(東西)に走るより上から下に降りるイメージがあります。電気がびびっと空の上から下に流れて、空にひびが入るようなイメージです。なので、もしかしたら、まず東に稲妻のように天から降りてこられ、そして西にも現れる(書きながらなにがなにやら意味が分からなくなっておりますが)聖書では「東」側が結構重要なのでこの箇所にあえて東だの西だのという方角を表す言葉があるのは単なる東西ではないような気もしたのでちょっと書いてみました。

 

さらに、今・・・今日も雷雨になるのかな、という積乱雲が発達した空を見上げて思ったのですが、

あれですかね、イエスさまが雲に乗ってこられるというあの話も稲妻関連なのでしょうか。

たとえばエレミヤ10章13節と51章16節のようなイメージ。

 

主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ稲妻を放って雨を降らせ風を倉から送り出される。

 

…積乱雲?(;´Д`A ```

まあ、基本はこちらだとは思うのですが

 

主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。出エジプト記19章9節

 

あとは噴火の煙のイメージも・・・

 

シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。出エジプト記19章18節

 

 

 

 

主よ、あなたの天を傾けて降り
山々に触れて煙を吐かせてください。
稲妻を光らせて敵を散らし
矢を放って彼らをかき乱してください。
高みから手を伸ばし
私を解き放って助け出してください
大水から、異国の子らの手から。
詩編144編5~7節

 

 

いずれにしても主はすべてを、山(噴火)も雲も雷も雨もつかさどっておられます。

 בראすべてを創造された主、素晴らしい!

2021年1月6日水曜日

ハバクク書3章を読みながら

何度も何度もハバクク書3章を読み返しておりました。

 

疫病はその前に行き、熱病はその後に従う。3章5節

 

イエスさまがもう一度来られる日。

その日を思いながら。

 

 

この御言葉の一節前にはこうあります。

 

その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。3章4節

 

 

וְנֹ֙גַהּ֙  כָּאֹ֣ור  תִּֽהְיֶ֔ה  קַרְנַ֥יִם  מִיָּדֹ֖ו  לֹ֑ו  וְשָׁ֖ם  חֶבְיֹ֥ון  עֻזֹּֽה 

 

「その輝きは光のよう」
光のようであるということは、厳密にいえば光ではない、けれども主の輝きは「光」のようである、とハバククは表現しています。
 
ヨハネの黙示録21章23節にもこのような表現があります。
都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
 
καὶ ἡ πόλις οὐ χρείαν ἔχει τοῦ ἡλίου οὐδὲ τῆς σελήνης, ἵνα φαίνωσιν αὐτῇ· ἡ γὰρ δόξα τοῦ Θεοῦ ἐφώτισεν αὐτήν, καὶ ὁ λύχνος αὐτῆς τὸ Ἀρνίον.
 
 

 

今、私たちには光が必要です。
世界中の人々にとって光が必要です。

否、厳密にいえば、それは今に始まったことではありません。
園を追い出されたあの時からずっと必要でした。

それは日や月の光ではありません。
ハバククやヨハネが語る主の輝き、
御手からほとばしる光線のような、
混沌に秩序を与える光。



 

わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。

天をあおいだが、そこには光がなかった。エレミヤ書4章23節

 

この混沌としてしまった地、
主の与えたもうた秩序は破壊され、私たちはどうやってここで生きていけばよいのか、まったくわからない。太陽が地を照らそうが、月が夜の空に輝こうが、躓いて前に進むことができません。
そして、LEDのランタンで必死に足元を照らしたとしても小石すら気付けず、
・・・所詮、ファラオの魔術師には「光」は作れない。
あたかも神さまご自身の御手から出る光を真似た「ようなもの」を作っては見るものの、
それは偽物。
人に救いを与えることなどできず、苦しめることしかできないのです!

 

光よあれと言われたお方の御手からの光とは、
聖であり、義であり、混沌としたものに秩序を与えるもの。

そしてその光が現れるとき、暗闇の存在はゆるされず、すべての闇があばかれます。

創世記2章16,17節で

 

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 

と語られた「死」。
それは単純に人間の肉体の死の由来を語っているのだ、とか「アダムだってエバだってすぐには死なないじゃないか」と、あのとぐろを巻く誘惑者の側にある者たちを増長させてきたかもしれないけれど、

御言葉は忍耐深い神さまの御手により成就させられます。

主はすべてのものに突き刺すような光を当てて、
闇の中に隠れていたものすべてをあばかれる。

逆に言えば
そのようなことを目撃したならば、
光はすぐ近くにある、ということでしょうか。

2021年1月3日日曜日

自分自身を騙すのは御心か、という問題

「聖書信仰から」という言葉を入れてこの件に関して書くことについてはためらっておりましたが、

聖書の御言葉を読み、また、子育て経験の中で遭遇した薬害被害や接種事故経験、等々による「自分自身にしか語れない言葉」があるにもかかわらず黙り続けていることが正しいのかどうか祈り続け、思案し続け、
書かなければいけないと確信いたしました。


 


1.あなたの聴いている声はどこから来ているのか 

まず申し上げたいことは、
地位を失う覚悟を持って、語り続けておられる「権力側に立っていない」研究者の方々の「危惧」というものに、まず、私たちは耳を傾けるべきだ、ということです。
なぜなら、私たちの主のおられるところは、まだ権力(この世の王)の中枢であるはずはないからです。
かすかな細い声で語られる神さまです。
神さまの弟子は、この時代の権力者の「大きな声で語られる言葉」を聴くときには十分に、いや、十二分に慎重であるべきです。


 

2.それは御心なのか

私たちがこの地上で、何かを行うべきか否かを判断しなければならない時、
第一とすべきことは

「神さまご自身がそれを行うことを望んでおられるか」

ということです。

 あるクリスチャンは、日曜礼拝を守るために*を行わなければならないと言いました。

またある方は福音宣教のため、そして人々の健康と幸せのためには*はどうしても必要だ、と言いました。

たしかにおっしゃることはクリスチャンとして正しいことのように思えます。
が、おそらく、このように語っている方々は*というものについて、私たちがこれまでに何度も何度も経験してよく知っている「従来から存在している製品と同じようなものだ」と勘違いされているのです。

従来行われてきたことは、
「疫病の病原体自体を無毒化または弱毒化して人体に感作させる」というものでした。
つまり、「起こりうる危険を具体的に」あらかじめ身体に学習させていたわけです。

それで、私たちはこの世に生を受けて少し経った頃から、国の規則に基づいて、「覚えるべきもの」を具体的に身体の中に入れて学習させるということ何度も何度も行い、恐ろしい疫病からまもられてきました。


しかし、これから行われようとしていることは、
これまで行われてきたこととは異なる「2段階システム」となっていて
 
*をすると

1.まず*の中身が自分の身体のどこかの「タンパク質製造工場」に送られて、これまでの人生で一度も作ったことがない、自分の身体ではない、変なものを作ることになる。

2.そして、そういう方法で作りだしたウイルスの一部分を、いつものように自分の身体に覚えさせる

というものです。

 私はこの2段階システムのうちの1段階めのことが、

創造主であられる神を冒涜(ぼうとく)する

非常に危険な行為である、と考えています。



3.冒涜(ぼうとく)だと考える理由 

私たちの身体にはあちこちにたくさん「タンパク質製造工場」があります。

その工場では、

神さまがお決めになった設計図(遺伝子)を読み取っていろいろなものを作っています。

お母さんのおなかの中では、お母さんの栄養を使って
小さな小さな卵の中にある「タンパク質製造工場」がフル稼働。
小さな小さな卵はその「タンパク質製造工場」の生産のおかげで、どんどん複雑な形となっていきます。


工場では、神さまがお決めになった設計図に基づいて
様々なものが作られ、
ふさわしい時にふさわしい場所に配置されていきます。

小さな小さな卵を育てる側のお母さんの身体の方でも、
赤ちゃんが気持ちよく育つような環境となるようにと、
「タンパク質製造工場」がフル稼働です。

工場では、神さまがお決めになった設計図に基づいて
様々なものが作られ、
ふさわしい時にふさわしい場所に配置されていきます。

赤ちゃんがこの世界に生まれ出て、だんだん大きくなるときにも
「タンパク質製造工場」はフル稼働。


私たちの身体は、小さな小さな卵の時から最後の時を迎えるまで、


神さまが与えてくださった設計図(遺伝子=DNA)を
神さまが与えてくださった伝令使のようなメッセンジャーRNAが読み取っては
せっせと
タンパク質製造工場に情報を与え

そして

タンパク質製造工場は
神さまの設計された通りに
ちょうど良いタイミングで
過不足なく
私たちの身体が
神さまの設計された通りに生き続ける事が出来るよう
せっせと生産を続けているのです。

そうやって私たちは
自分たちの意志とは関係なく
神さまのご計画と憐みによって
「生かされて」います。




大切なことなのでもう一度言います。


工場は勝手気ままに動いているのではありません。
私たちの身体に備えられたすべてのタンパク質製造工場は、神さまの御心の通り
神さまの御心を実現するために生産しているのです。

 

 

しかし、これから行われようとしている*は、
神さまの設計図には存在していないものを
タンパク質製造工場に作らせようとしているのです。

設計図には存在しないメッセージをタンパク質製造工場に与え
言ってみれば
タンパク質製造工場を騙してウイルスの一部分を生産させようとしているということです。




4.自分が語れる言葉

*に入っている「伝令使たち」が
その情報をどこの工場に持っていくのかは
やってみなければわからないのだそうです。

神さまの生産組織をだませるほど巧妙に作られたものを
自分の身体のどこに入り込んでしまうのかよくわからないままに
どうぞどうぞと招き入れてしまうこと


私にはエバがエデンの園の誘惑者と出会ったときのことが思い出されます。


書きながら

・・・非科学的な愚かなババアだとあざけられるんだろうな、と思っています。

しかし

私には非科学的と言われてもそうならざるを得ない忌まわしい経験が二つあります。

一つは日常的に使っていたアレルギーの内服薬の副作用による恐ろしい被害
そしてもう一つはBCGによってもたらされた被害

医師を信頼し医学を信頼し従順におこなって失敗してしまった!

我が子をあんな目に遭わせてしまった!


あの日、あのとき、どうして、私はああいう判断をしてしまったのか

どんなに後悔しても時間を戻すことはできません。


そして

つくづく実感させられたのは

何らかの被害に遭うということが
被害による苦しみ悲しみだけでは済まないということ。

被害に遭ったその日から
来る日も来る日も
目覚めれば敵ではなかった人々を敵として闘わなければならない

そして

それまでの人生で学んだことや論理的な思考をすべて否定され

そして

おまえが無知だったのだ、おまえは無力だとブレインウオッシュされ

そして

孤立、徹底的な孤独。



そして

私は

心も身体も

ぼろぼろになり


・・・今・・・



慎重に、慎重に、

自分の頭でしっかり考えて

三度目の被害には絶対遭いたくない遭わせたくないと心の底から思います。

それで今

私は書いています。


小さな小さな一錠

ごく少量の薬液

数秒間に起こったことが

人の一生をめちゃくちゃにしてしまうことがある


本当に本当に大変ですよ、被害に遭うと。





「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」  イザヤ書30章15節(口語訳)


 

エレミヤ書31章35節~37節を読みながら「アレ」を思う

太陽を置いて昼の光とし
月と星を夜の光と定め
海をかき立て、波を騒がせる方
その名を万軍の主と言う方
主はこう言われる。

もし、これらの定めが私の前から取り去られるなら
イスラエルの子孫も、永遠に
私の前で民であることはできない――主の仰せ。

主はこう言われる。
もし、上においては天が測られ
下においては地の基が究められるなら
私もイスラエルのすべての子孫を
彼らのあらゆる行いのゆえに
退けることもありえよう――主の仰せ。

エレミヤ書31章35節~37節(聖書協会共同訳)

 

創造主による天地の創造を信ずるものは、創造主が混沌としたものにルールを与え秩序を与えてすべてのものを創造されたということを創世記によって信じています。

地球に暮らしていて毎日当たり前のように感じているすべてのことは、決められたルールの下で制御されているからこそ「当たり前」だと思えるのです。
重力であったり、大気圧であったり、空気の構成成分の濃度や分圧、海水の温度や成分であったり、細胞内の成分や濃度であったり、脳によるコントロールであったりそのほかの組織や器官の連携であったり
さまざまなものにルールがなく適当であったら現在みられるような生き物は存在していないはずです。
しかもそれは大雑把なものではなく絶妙であり微妙なものです。アトピー性皮膚炎の患者や更年期障害を体験すればわかるわけですが、ごくごくわずかな量で大きな影響のある内分泌物質で知られている通り、神さまの定められたルールとは、肥杓で適当に化学物質をぶちまけるようなそんなバカげたものではないわけです。

わざわざ雑な例を挙げたとしても、温暖化だとか異常気象だとかの、そんな大きな環境の話であっても、何十度も変化しているわけではなく、ごくごくわずかの違い、そのわずかな違いであっても我々の生活には大きな問題が起こってしまう。
つまり、私たちの生活は一定の決まりのもと、大きな変動のない安定性というものの中で保障されているものです。

そしてそういう世界に生きている人間は安定した状態に一つの動点を与え、実験と称し、何が動くと何が変化するのかということをひたすらに追求し続け多くの書物に表してきたわけです。~とは~である、という定義、そして、変化を関数で表し、自分たちの生かされている地球における様々なものを「理解」してきたわけです。

ただ、それは、「理解」であり、もう一つ加えるとしても「利用」であり、さらに進めたとしてもそこに創造主を越えることがあってはならないし超えるはずはないというのが聖書信仰であり、秩序です。そして、現段階ですべてのことが解明されているわけではないということはゆるぎない事実であります。

バベルの塔の物語で計画がとん挫したのは、その秩序を破壊しようとしたからで、それはこの時代にあっても同じような結果になる、これが聖書の教えでありましょう。

 

もし、これらの定めが私の前から取り去られるなら
イスラエルの子孫も、永遠に
私の前で民であることはできない――主の仰せ。

 

エレミヤ書31章のこの言葉は
この文のまま「これらの定めが」神さまの前から取り去られるなら・・・云々、というふうに読めますが、そうではなくて、「定めは絶対に取り去られない」というふうにも読めます。なぜなら、イスラエルは滅びないからです。神さまは絶対に愛するイスラエルを滅ぼすことはないからです。

しかしだったとすると、この御言葉によって、消えることのない「定め」の存在があるということがあらためて示されたわけです。

神さまの律法は有効なのか無効なのか云々という議論自体がこのエレミヤ書の御言葉で吹き飛ばされてしまう、ということを私たちは再度認識しつつ、

同時に、律法(トーラー)とは、ただ単に人の道を定めたものではなく、この世界、否、宇宙全体のルールであるということも知らされるわけです。

 

太陽を置いて昼の光とし
月と星を夜の光と定め
海をかき立て、波を騒がせる方
その名を万軍の主と言う方

 

太陽であれ月や星であれ
創世記で神さまが作られたことは聖書を神の言葉として信じている人であれば知っていることでありますが、そこにも神さまはルールを与えられているわけですね。
それもルールであり、人間に与えられたものもまったく同じ。同一のお方が作られた同一の基準であるわけです。変えることはできない、変えてはいけない、その線引きがその秩序が続く限り変わるはずのない、ルール。

迷うことのない迷う必要もない決まり事。読めるルールは読めばよい。見えぬルールは私たちはそれを観察し実験してルールを探して立式する。それこそが科学。謙遜に律法を知ること、それが科学。

 

主はこう言われる。

もし、上においては天が測られ

下においては地の基が究められるなら

私もイスラエルのすべての子孫を

彼らのあらゆる行いのゆえに

退けることもありえよう――主の仰せ。

 

なぜ、天が測られ地の基が究められるなら退けられるのか。
それは、これが漠然と空を測っているという話ではないから。
そして単純に地面の下を研究しようとしているわけではないから。

命を与える創造主たる神を超え
死して地の底に沈む命を認めず永遠の命を得ようとする、

(補足:創造主は唯一絶対なる創造主、被造物は創造主を超えることはできない。しかし創造主が定められたルールや、秩序(創造主が線引きし整えたもの)なんてものは終わりにして壊してしまおう、そして、地上にある被造物のもつ根本的な部分を究めれば「創造主のようになれるよ」「この世を支配できるよ」と蛇は誘惑してくる。

その誘惑に惑わされた科学者がエバのように引きずり込まれ、さらにはエバによって引きずり込まれたアダムのように罪を犯してしまう人がいる。)


神に似たものとして造られた人間の
そして、エデンの園を追放された人間の
主の御言葉よりも蛇の誘惑に好んで耳を傾ける人間の
あらゆる活動への警告だ。

人間が到達しうる、手を伸ばせばそこにある、園の中央の木、

 

・・・同じ過ちを繰り返してはいけない。

そこに人間は手を伸ばしてはいけない。

 

「あなたがたは食べても死なない」と蛇は言う。

 

しかし、創造主は間違いなく語られたのだ

「それを食べたら必ず死ぬ」

 

מות תמות

 

 

ただ、創造主を畏れぬ人間は命の木の実に手を伸ばし続けている。
絶えず絶えず。そして創造主のつくられたルール(設計図)を人間の浅知恵でいじくりまわして永遠に生きようとしている。

しかしそれは赦されることではないのだ。いや、赦されることではないと伝えられているのは主の愛のゆえだろうと思う。ナノの世界で物性が変わってしまうのと同じように私たちにはどこまで行っても知り得ないことがあるに違いない。

主の目から見ればピコの世界も肥杓、宇宙もビー玉ひとつにすぎないのだ。

逆に、われわれにとって単なる塩基の並び順は、本当ははかり知れない宇宙なのだ。

מות תמות

エデンの園に住んでいると思っている地(הארץ)の住民たちよ

また主の声が聞えないか。

繰り返される主の声。

「科学的にぃ~」とか言ってる場合ではないのだ。

踏み込んではいけない一線には絶対に踏み込んではいけない。


羊たちよ!
古い時代から変わることのない主の御言葉を守るように教えない伝道者説教者の言葉に耳を傾けてはいけない!

良く考えることもなく従ってはいけない!

「科学的にぃ~」は科学ではない!

「科学的にぃ~」は教えではない!


羊たちよ!
その喧騒から離れよ!しずまって主のみ言葉を聴け!
そして「聖」であれ!

聖ということ- 9月 28, 2019
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偶像(1)- 8月 01, 2016
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2021年1月1日金曜日

人間に求められていたこと

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 
創世記1章26~28節(口語訳)

 創世記1章26~28節を読みました。
神さまが人に求められていたことは何だったのか

ヘブライ語の単語を一つ一つチェックしながらゆっくり読み進めていく中で

治める רָדָה raw-baw'

従わせる כָּבַשׁ kaw-bash'

という二つの言葉が心に留まりました。

私たち人間が神さまから命じられていたことは אֶרֶץ eh'-rets=「地」 を従わせること、そして海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物を治めることだった・・・

そして思いました。

果たして人間は地を従わせているのだろうか、そして、生き物を治めているのだろうか、と。

もちろん、やってはいるのです。
しかし完全にはできていない。
というか、科学技術の発展によっていろいろ出来ているような気はしていたのにだんだん出来なくなっているような気がする今日この頃。

 

創世記で神さまは一つ一つクリエイトし、それぞれに秩序を与え役割を与えられました。その創造という行動は「茫漠」、「混沌」としていたものに「界面」を与えて「分けて」いくこと。曖昧なものにくっきりと境界を定めていくことでした。そして神さまは創世記2章19節で、人にこんなことをさせます。

 

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
創世記2章19節

 

名を付けるという行為。名を付けるという行為の土台は「分ける 分類する」ということです。神さまのつくられたこの動物とその動物は似ているかもしれないが別物なのだ、こちらの動物にはこういうかたちや性質があって、そちらの動物とは異なるのだ、ということを人が気付き名を付ける、つまり神さまのつくられたこの地球הָרֶץ eh'-rets における秩序を実体物により学習させる第一歩です。

そして、やがて人は実体物に名をつけて分けることから、目に見えないものを分けることを神さまによって教えられ学んでいくわけです。良いこと、悪いこと。これはして良いこと、そしてこれはしてはいけないこと。創造のはじめに神さまのつくりあげられた秩序とは、くっきりと定められた境界とはこうである、と。しかし・・・

 

 

地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
創世記1章2節(聖書協会共同訳)

 

烏とふくろうがその地を住みかとし
森ふくろうと烏が住み着く。
主はその上に混沌の測り縄を張り
空虚の重りを下げる。
イザヤ書34章11節(聖書協会共同訳)

 

 

私は地を見た。
そこは混沌であり
天には光がなかった。
エレミヤ書4章23節(聖書協会共同訳)
引用聖句中の「混沌」という語には
 בֹּהוּ bo'-hoo
というヘブライ語がつかわれています。
聖書の中にこの語のこの形はこの3か所だけに使われています。
すなわち、創世記1章2節が表現している神さまが諸々をクリエイトする以前の「地」אָ֗רֶץ eh'-retsの状態を表現する1か所、そしてほかの2か所は神の裁きにかかわる箇所です。
 
 
創造の真逆が裁きによる姿、またはこう言えるかもしれません、創造の始めに定められた秩序の破壊は反キリスト。くっきりと明確に線引きされ、これはこれ、あれはあれ、光と闇がきっちりと区別されるように、神さまがクリエイトされた秩序や分類は絶対であって、「これ」と「あれ」は相容れないもの、しかしその境界面を崩して曖昧にするものすることこそが反キリスト。


מ֥וֹתתָּמֽוּת
創世記2章17節で、「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」と「死ぬ」という言葉を2度繰り返して教えられた神さまの言葉を
פֶּן־ תְּמֻתֽוּן
エバは「פֶּן」とか言って・・・פֶּןとはlestつまり「~するといけないから」という言葉を「死ぬ」という語にくっつけてくっきりクリアな神さまのみことばを曖昧にしてしまったわけですが、そう、これこそが罪、これこそが神への反逆、反キリスト!
 
そして、このエバのlestという語に類した行動の積み重ねが、創造の真逆つまり「裁きの混沌」に至る道です。
 


教えと証しの書にこそ尋ねよ。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない。彼らは虐げられ、飢えて、この地を通る。
飢えて、憤り、その王と神を呪い、顔を天に向ける。
地を見渡すと、見よ、苦難と闇
苦悩に満ちた暗黒、そして追放の暗闇。
しかし、抑圧された地から闇は消える。
先に、ゼブルンの地とナフタリの地は
辱められたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう
異邦人のガリラヤに栄光が与えられる。闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。
イザヤ書8章20~9章1節(聖書協会共同訳)

教えと証しの書にこそ尋ねよ、とイザヤは語ります。この言葉に従って語らなければ、夜明けは訪れない、と。

教えとはトーラーתּוֹרָה to-raw'

です。そして人となって来られた真のトーラーである御子。

創世記1章26節には「われわれにかたどって人を造り・・・」という不思議な言葉がありますが、「われわれは造る」という言葉は נַֽעֲשֶׂ֥ה na-‘ă-śeh

という語で、この語はこの箇所以外では
出エジプト記19:8、24:3、24:7などで使われていて、複数の人々の心が完全に一致して語っている様子が見てとれます。

それ以外で使われている箇所について詳細はこちら↓
https://biblehub.com/hebrew/naaseh_6213.htm

「われわれ」という複数人が言ってはいるけれどもその複数の人格は完全に一致してそれを行うと語る時にנַֽעֲשֶׂ֥הという語は使われるのかな?という印象を持ちました。

御子は神ご自身、御霊も神ご自身です。

 

 

 

 

 

 

 ויקח יהוה אלהים את האדם וינחהו בגן עדן לעבדה ולשמרה׃

神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。
創世記2章15節

 

創世記2章15節というわずか一節の中から、私たちクリスチャンはとてもとても大切なことを教えられるような気がします。

ひとつは、

神さまがエデンの園に人を連れてこられたのだ、ということ。
エデンの園の外でつくられ、エデンの園の外にいた人間がエデンの園に神さまご自身によって連れてこられました。

そして蛇の誘惑の言葉を選び、自らの行動をその言葉に従って行い=罪を犯して エデンの園から追放されてしまった後、
神さまは御子によって再びエデンの園に人間を入れてくださった。

つまり、エデンの園גן עדןは神の国天の国。

 

だとしたら、神さまは私たちに何を求められるのか、と言えば、エデンの園に住んでいた当時と変わらぬ「そこを耕し、守る」ことですね。

2章15節から教えられるふたつめの大切なことはそれです。

「耕す」というところに使われているヘブライ語はעבד

Strong's Hebrew 5647. עָבַד (abad)
https://biblehub.com/hebrew/strongs_5647.htm
働くという意味があるようですが、この語がつかわれている箇所を確認してみると、所属する国であるとか、王であるとか、その人のために働くという意味があるようです。

たとえば我が家と我は主に仕えんでおなじみヨシュア記24章15節の「仕える」がこの言葉で、また、士師記2章11節などの「バアルに仕える」ところにもこの言葉が、そして、出エジプト記6章5節のようなところでは「エジプト人の奴隷となる」というように翻訳されていますがここでもעָבַד (abad)が使われています。

創世記ではこの2章15節の箇所の前に、2章5節の新共同訳では「土を耕す人もいなかった」と言う箇所の「耕す」というところで使われていますが
創世記2章5節の時代で考えれば農耕をするということが神さまの下で働くという意味であったのでしょうけれども、要するに仕えている相手や所属する場所それぞれで変わってくるやるべきことのそれぞれを行うことがעָבַד (abad)なのだと思います。

そして「守る」というところに使われているヘブライ語はשָׁמַר

Strong's Hebrew8104. שָׁמַר (shamar)
https://biblehub.com/hebrew/strongs_8104.htm

何かをずっと失われないように「保存」するという方向性で守ったり、何かをじっと「注意深く見る」ことで守るという意味があるようです。
創世記3章24節にある「命の木に至る道を守るために」であったり、創世記17章9節「契約を守る」の「守る」がこの単語です。あと、創世記の30章31節にある「(羊の群れの)世話をする」英語で言うところのfeed and keepのkeepがこの שָׁמַר (shamar)にあたります。

 

だとすると、現代に生きる私たち「クリスチャン」は神さまから何を求められているのか、ということになります。

 

神さまに仕える者として神さまの命により働く。神さまの下でみこころを行うべく働く。
そして、神さまの国が失われないように守る、神さまの御言葉が法として及ぶ国が失われないように、そして、הארץをそれぞれが置かれた場所で注意深く見て、守る。

地の塩、世の光 ですね。