2018年12月3日月曜日

【調べ学習】新約に引用されている旧約聖書

私が読んでいる新共同訳聖書には聖書を読むのに便利な付録がいろいろついているのですが、中でもこれは大変便利!と思ったのは
「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」というものです。
各書でどこが引用されているのかが一目でわかるのです。
新改訳を使っていた時にも引照付きの聖書を使っていたので、どこが引用されているとかどこと比較して読むと良いとかいうことが読んでいる最中にわかってとても便利でしたが、一覧表になっていると、傾向みたいなものが見てとれますよね。

で、それぞれの書でどこが何回引用されたのか、ということを数えてみました。
各書に登場するのが早かった順に書物名を拾い、その書の中での登場回数を数えました。
つまり、例えばマタイによる福音書では、一番最初1章23節ににイザヤ書の引用が見られたので、まずはイザヤ書という名を書き、マタイによる福音書の中で、イザヤ書からの引用が何回であるか数えたら、11回だったので、「イザヤ書11回」と書きました。そして、2章6節にミカ書から引用されていたので、イザヤ書の下にミカ書と書き、マタイによる福音書の中でミカ書は全体として何回引用されているのか数えたら2回だったので「ミカ書2回」と書きました。
また、参考までにモーセ5書を太字でアンダーライン、各書で最も引用回数の多い書の背景色を黄色で塗りました


マタイによる福音書

イザヤ書11回
ミカ書2回
ホセア書3回
エレミヤ書1回
申命記13回
詩編9回
出エジプト記7回
レビ記5回
民数記1回
マラキ書1回
ヨナ書1回
創世記2回
ゼカリヤ書3回
ダニエル書2回

マルコによる福音書

マラキ書1回
イザヤ書5回
出エジプト記4回
申命記8回
創世記2回
詩編5回
レビ記2回
ダニエル書2回
ゼカリヤ書1回

ルカによる福音書

出エジプト記3回
レビ記2回
イザヤ書5回
申命記6回
詩編7回
マラキ書1回
ダニエル書1回
ホセア書1回

ヨハネによる福音書

イザヤ書4回
詩編7回
ゼカリヤ書2回
出エジプト記1回
民数記1回

使徒言行録

詩編11回
ヨエル書1回
出エジプト記11回
申命記3回
レビ記1回
創世記4回
アモス書2回
イザヤ書5回
サムエル記上1回
ハバクク書1回

ローマの信徒への手紙

ハバクク書1回
イザヤ書18回
詩編13回
創世記9回
出エジプト記4回
申命記8回
マラキ書1回
ホセア書2回
レビ記2回
ヨエル書1回
列王記上2回
ヨブ記1回
箴言1回
(一応、サムエル記下1回・・・ダビデの詩で、詩編18:50と同内容なので上の詩編のところでカウントしました)

コリントの信徒への手紙1

イザヤ書6回
エレミヤ書1回
ヨブ記1回
詩編3回
申命記2回
創世記2回
出エジプト記1回
ホセア書1回

コリントの信徒への手紙2

詩編2回
イザヤ書2回
レビ記1回
エゼキエル書2回
サムエル記下1回
出エジプト記1回
エレミヤ書1回
申命記1回

ガラテヤの信徒への手紙

創世記4回
申命記2回
ハバクク書1回
レビ記2回
イザヤ書1回

エフェソの信徒への手紙

詩編2回
ゼカリヤ書1回
創世記1回
出エジプト記1回
申命記1回

テモテへの手紙1

申命記1回

テモテへの手紙2

民数記1回

ヘブライ人への手紙

詩編16回
サムエル記下1回
申命記4回
イザヤ書2回
創世記6回
出エジプト記3回
エレミヤ書2回
ハバクク書1回
箴言1回
ハガイ書1回

ヤコブの手紙

レビ記1回
出エジプト記1回
申命記1回
創世記1回
箴言1回

ペトロの手紙1

レビ記1回
イザヤ書6回
詩編2回
出エジプト記1回
箴言2回

ペトロの手紙2

箴言1回

*+++++++***+++++++***+++++++*

フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケ信徒への手紙1,2、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヨハネの手紙1~3、ユダの手紙、ヨハネの黙示録
には引用箇所がない?みたいです。
付録の一覧表にはかかれていませんでした。



(感想)

新約の著者は、当然のことのように旧約聖書からの引用をしているわけですが、それは、読み手との間の共通理解があるという前提に立っているからです。だとすると、私たちもそのあたりの理解をしっかりと持っていないと、いくら新約聖書を読んだとしても的外れな理解になっていく可能性がありますよね。



そう、あとパウロのお気に入り聖句がハバクク書の2章4節だということに気付きました。
ローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、ヘブライ人への手紙に引用されています。「神に従う人は信仰によって生きる」というところですね。
あと、使徒言行録13章41節でのハバクク書の引用はハバクク書1章5節からでありますが、これもパウロによる引用です。

そういえば、ローマとガラテヤはパウロが書いたという可能性が極めて高いらしいということですが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E6%9B%B8%E7%B0%A1
ヘブライ人への手紙はよくわからない、みたいな話をウィキペディアで読みました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E4%BA%BA%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99

でも、ヘブライ人への手紙は詩編の引用も多いし、引用の趣味!?はパウロっぽいような。(笑)


それから、モーセ五書の中で民数記の引用率が低いのがちょっと気になりました。まあ、内容的に考えたら仕方ないかな。
しかも引用されているのがテモテへの手紙2ということで
パウロが書いたという真筆性が極めて低いのだとか・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BC%BC%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E6%9B%B8%E7%B0%A1


本物か偽物か

ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。
                  申命記18章20~22節(口語訳)




スーパーに行くと、商品を手に取り、裏側の表示を見る習慣が私にはあります。
そして、表示を見ながらいつも心の中でつぶやくのです、
(これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。)

子どもが小さかったころ、当時私はとある生協を通して「無薬鶏」という名前のつけられていた特別な飼育方法で育てられたとされる鶏肉を買っていました。娘がデリケートな体質であったため、食べ物にはかなり神経を使っていたからです。
ところで、「無薬鶏を買っていた」と書かなかったのには理由があって、実は、その無薬鶏という名前を付けられていた鶏肉は実際には無薬鶏ではなかったのですね。いわゆる、「偽装」でした。
当時この件についてマスコミで取り上げられた時、まさか自分が該当するとは思っておりませんでしたが、ある日生協から連絡があり、購入代金が一括返金され大変驚いたことを覚えています。
かなりの長期間、トータルではかなりの量をいただいておりましたが、娘の身体に異常が生じるようなことはなかったので感謝でした。もっと言うと、「無薬鶏でなくても大丈夫なんだ、食べられるんだ」という知見を与えられた!?ということとなりそのことのゆえに主に感謝いたしました。また、何かあった場合にその生協の対応は大変早い、ということも分かり、そちらに対する信頼も改めて確認することができたのでした。

さて、そんな経験もあるため、スーパーの食品を手に取ったとき、表示を見ながら
(これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。)
とつぶやくと同時にもう一言、
(もしもウソだったら、しかも何か被害があったら、神さまは絶対におゆるしにならないからね!)と考えるようにもなってしまいました。
なぜなら食べ物という直接身体に取り込んでしまうものについて偽りを表示するということは、人の命を危険にさらすことになるからです。たかが表示、ではありません。その程度のこと、ではありません。殺人という重罪に至る可能性を持ったものであるという認識をお持ちいただきたいと思います。

さて、スーパーの話からいきなりではありますが聖書のお話に移りたいと思います。

私は長い間、福音的な教会の教えに親しんでまいりましたので、「聖書は原典において誤りない神のことばである」という信仰を持ってきました。もちろん今でもそう思っているつもりなのではありますが、
しかし、あまりに長い間孤羊でいるためでしょうか、どうも最近は「余計なこと」を心の中でモゴモゴと思うようになりました。



初信者の頃、聖書という書物がどういう書物であるのかということを先輩クリスチャンたちから何度となく教わったわけですが、たいていの場合パウロが語った第二テモテ3章のあたりを引用して説明されました。

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(口語訳)

特に、
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」というところ。

で、当時10代後半~20代前半だった私は聞くや否や「なるほどそういうものか」と納得したわけです。そして深く考えることなく転送、いや、次の人に自信満々で「聖書っていうものはね、」と伝達し続けてまいりました。

しかし、いろいろな経験を経てうざいババア孤羊となった今、どうもそのパウロの言葉をを昔のように納得できない。なんとなく変なことを言いたくなるのです。
「でもさ、やっぱりパウロがここで言ってる『聖書』って今私が持っている66巻の聖書のことじゃないよね・・・」とか。←完全に私は福音派、福音的な教派から落ちこぼれたようです。
実際問題として、パウロがここで言っている聖書とは私の聖書66巻とは別物に違いありません。ただ、いろいろな考え方とか解釈とかがあることは無学ではあっても年の功で気付いています。しかし、私が長いこと聖書だと信じて読んできたこの聖書という本についても申命記18章のみことばは適用できるんじゃないかしら、と、最近頻度高く思うのです。

もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

聖書は試すものではなくて信じるものだ、とか、聖霊さまに導かれて語られる先生や兄弟たちの教えに従っていれば間違わない、ということを言われる方もいますが、
正統を自称していてもおかしな教えに流されていく、そういうケースは絶対にあるはずです。なぜならば人間は間違う存在だからです。理由はどうであれモーセも人を殺しました。ダビデも他人の妻に手を出しました。ペテロは3度主を知らないと言いました。
赦される云々の問題ではなく、間違うのか間違わないのか、という点において、人間は絶対に間違うわけです。完璧な人間なんて、…そもそもキリスト教の立場からの説明としてイエスさま以外いないわけです。

だからこそヨハネの黙示録に7つの教会のうちに描かれるようなおかしな教会が出現するわけです。もちろんヨハネの黙示録がインチキだったのならば7つの教会の話もインチキだということになり、変な教会なんてないわけですけれども。
いずれにしても申命記18章のみことばは
万一このみことば自体の翻訳に多少の問題があったとしても、この言葉の言わんとしている内容は至極もっともなことであって、聖書を信ずる者たちは時々ここに立ち返る必要があるような気がするのですね。


またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
           マタイによる福音書24章3~14節


イエスさまが再びおいでになるときには
・・・このマタイの福音書が偽物のことばでないならば←くどい

「人に惑わされないように気をつけなさい。」
とイエスさまは教えておられます。
小さな子どもたちにそう語られたのではありません。
弟子たちに向かってイエスさまは
「人に惑わされないように気をつけなさい」
とおっしゃったのです。
重いですよね?危うさを感じませんか?
「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」 ともイエスさまは語られました。

Bible Hubで見てみると「多くの者がわたしの名を名のって」という箇所は多くの英語の聖書でFor many will come in my nameという表現になっており
For many=たくさんの者たちが
will come=来るであろう≒現れるであろう
in Jesus name=イエスさまのお名前の中に=イエスさまの権威の中に≒イエスさまの権威を着て 
ということになりますよね。
そう、
in Jesus nameでやってくる人間が惑わす人間として現れるわけです。
in Jesus nameでやってくる人間を見分けることは容易なことではないような気がします。
パッと見、仲間っぽいのです。
そしてそいつはもしかしたら「上の方」の立場の人かもしれません。なぜならそいつは
 claiming, 主張するのですね、
‘I am the Christ,’ =わたしはキリストだと。
and will deceive many=そしてたくさんの人を欺くであろう
というのですが、
deceiveの代わりにmisleadと言う語をあてている英語の聖書もあるのです。
misleadとはミスリードのこと、つまり間違った情報を与えて人々を間違った方向に導いていくということです。
つまりミスリード出来るポジションにあるということかもしれません。


弟子のようなベテラン?クリスチャンでさえ騙される危険性があるかもしれない・・・
イエスさまの警告に私たちは耳を傾けなければいけません。
よく考えることなくホイホイと人の言説に安易に乗らないようにしようと思います。
騙す側にも騙される側にも立たないように注意深くありたいです。

私のような孤羊は本当はとても危険だと思うのですが、物理的にも身体的にもどうしようもないので、1タラントをフルに活用して羊飼いの声を聞きもらさぬよう努力したいと思います。

2018年10月3日水曜日

言(ことば)は神であった、ので (2)

あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
ヨブ記41章2節(新共同訳)



これ以上ない苦しみの中で
神さまのみ言葉を耳にしたヨブ。
そしてヨブは、神さまにはすべてがおできになり、どんな計画も成し遂げることが出来るということ、「御旨の成就を妨げることはできない」と悟った、と告白します。

ヨブの言葉を聞いて、おそらくは全てのクリスチャンがアーメンと言うに違いありません。
しかし、私たちは忘れるのです。「アーメン」と思っても忘れてしまう。
目に見えること、日々のことに追われ、
昨日のつぎの今日であり、今日のつぎの明日であり、
1年後、5年後、10年後
今と同じ暮らしがそこにあり続けるのだと
本当は神さまのご計画など成就しないと思っているわけです。

しかし、やはりそうではない。
…あり得るとは予想で来ていても、わが身に起こるとはまったく想定していなかったあらゆることが起こっているのです。
そして私たちは何度も何度も「神さま、なぜ?どうして?」と問いかける。

しかし、私たちがどう思おうと、私たちがヨブのように主張しようとも
その全てはみこころのままであります。
みこころは成し遂げられ、
そして何事もなかったようにひろがる青空。
あまりにも爽やかなその青さに、
不信をもたらすむなしさと、そして怒りにも似た感情が
クリスチャンであったとしても心の中に拡がっていくのを感じてしまう。

けれども、そんなときに「こそ」私たちは「あえて強く」心の中に思い出せなければいけません。神さまは天の「父」であるのだということを。神さまの私たちへの愛は変わらないということを。
そしてたとえあの瞬間が、私たちから何もかもを奪い去り、生きていく自信や気力をすべて失わせたとしても、

それは、間違いなく神のみわざが私たちを通して現れるためである、ということを。

そして、もう一つ。
誰が何と言おうと
父なる神さまのご計画は必ず成し遂げられる




マタイの福音書の25章にはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえがあります。
マタイの福音書が書かれてから今に至るまで、このたとえ話はたくさんの人々に読まれ続け、おそらくその読者のほとんどが単純な発想としてあのような愚かな5人の娘にはなるまじと思うわけであります。それで、「油をあらかじめ準備しておく」というのは聖霊の満たしであるから、聖書を読もう、祈ろう、教会に行こうとメッセンジャーから勧められるのが当然の展開となるわけですけれども、しかし、本当に彼女たちはそんな単純明解な基本的なミスを犯したのでしょうか。

ヨブ記を読んだり、私たちに起こるいろいろな問題について考えつつ、この終末を想起させるたとえ話を読むとき、事はそう単純なものではないような気がするのです。
なぜならば、まずあの話はクリスチャンたちに対する重大な警告からスタートしているからです。
「花婿が来るのはクリスチャンたちが居眠りしてしまうほど遅れる」
定番の解釈によって花婿を再臨のキリスト娘たちをクリスチャンと読むならばまずはそういうメッセージが読み取れるわけです。
このたとえ話を読むときに気を付けなければいけないのは、このストーリーの設定がどことなくほんわかムードであるということです。花婿だのおとめだのランプだの、おめでたいようなほんわかふんわりかわいらしい設定であるのだけれども、終末というものがどういう時であるのか聖書のすべてを読んで知っている私たちは決して印象に引きずられてはいけないのです。情報の解釈、そして取捨選択、それが生死にかかわってくる終末のことです、めとったりとついだりしているまさにそういう日常がある中での終末ですからこのストーリーから今という終末の時代を生きているキリスト者として何を読み取るべきなのかと考えなければならないと思います。
とすると、この話は花婿の到着(キリストの再臨)がかなり遅れたけれどいよいよ到着されるという辺りについて述べられている、というふうに読めますから、愚かな5人の娘については、花婿の到着がかなり遅れたけれどいよいよ到着されるという辺りに存在しているクリスチャンたちへの警告であり、マタイ24章からの流れを受けるならば、困難な時代となるから、本当は出迎えに出るつもりであったが出迎えに出られない者が出る、つまり、脱落する者が出る可能性が語られているということだと思うのです。


・・・ということを、教会を離れて20年の孤羊ばあさんが語るというのはどうなのかという気はしなくはありませんが(笑)


しかしはっきりと言えることは
どんな立場にあってもどんな状況にあっても、
悩みに打ちひしがれたとしても、苦しみのゆえに何も考えられなくなったとしても
「油」の準備、
ただただこの一点だけは決して忘れてはいけない。


で、ここからは「今時点での私の解釈」(つまり、もしかしたら後の日には変わりうるもの)となりますが、

ではどうやってその油を準備するべきなのか。
どうしたら世の光として「ともしび」をともしつづけることができるのか。
その手がかりは
「言(ことば)は神であった、ので」
という、この言葉に見いだすことができるのではないかと思うのです。


生後すぐには言葉を持っていなかった私たちは、教育によって生活によって人々との触れ合いによって言葉を獲得し、言葉によって思考するようになるわけですが、
そういう日々の歩みの中に「神のことば」が介入しそのことばを獲得し思考するようになる、このあたりが私たちの光の原因であり結果となっていくのではないでしょうか。

言(ことば)は神であった、ので

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1章1~5節





「ことば」というものはそれを発する人の奥深いところからくみあげられ
その人の願いのような漠然とした形のないものに音や文字といった形を与えていくものですね。

聖書(創世記)の冒頭を見ると、この世界のもろもろは神の「ことば」によって創られたことが書かれています。「混沌」である原始の世界に、神の奥深いご意志を「ことば」によって形あるものにされた、まさに「ことば」。
そう、「ことば」とはそういうものなのだ、われわれ人間に与えられているところの「ことば」もそういうものなのだという定義のようにも聞こえてくるのであります。


今日冒頭に引用した箇所でヨハネは

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

と語り、

聖書を知るだれもが知っている通り「初めに」あったのは神であるが、「初めに言(ことば)があった」と言い、神が五感で認識できるような形を持っておられる方ではなく「ことば」なのだと言うのです。
ヨハネはトーラーと、そしてメシアとしてこられたイエスさまを思いながら、
同時に
「わたしはある」という「ことば」を発する主体の存在を思い、
その主体から発せられる「ことば」そのものは完全に主体ご自身であるということ、
そして、発せられた「ことば」がそのものとして形をとるならば、主体から発せられるのだから主体と同一であり、さらに主体の外に出たとしても「共にある」状態となる

という彼の信仰を宣言しているのですね。



さて、
同じヨハネが記録したとされるヨハネの黙示録16章にこういう箇所があります。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。


ヨハネの黙示録という書物は読み解くことは難しく、注意のいる書物でありますが、今日は上に書いたような「ことば」という視点が与えられたのでその視点で16章の箇所を見ようと思います。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。

蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見たと語るヨハネ。
興味深いことに汚れた三つの霊は「口から」出て来るというのです。
ヨハネがどういう光景を見たのかを、「光景」であっても絵として受け取ることは出来ないのですが、言葉として、解釈しうる言葉として受け取るなら、

三つの霊はまずは蛙のようであるということ。蛙とは、聖書の世界のことでありますから汚れたものの比喩ということでしょうが、蛙と言えば特徴的なのはあの鳴き声。合唱されるとなんともやかましい。


その「蛙のような霊」が
終末のある時に、
竜の口、獣の口、そして偽預言者の口から出て来るというのです。
姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴(ガラテヤ5章19節から引用)
の父であるサタン、悪魔、神を神とせず反逆する者破壊する者の口から!

これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。



サタンの口から出て来る悪霊どもの霊。

「口から出て来るもの」



しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 マタイ15章18、19節






「神の御言葉」によって造られたよいもの=完全なもの
それを破壊するサタン。
破壊者も「言葉」によって破壊する。
破壊者の言葉は敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。

そして、申命記10章にはこんな御言葉があります。

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。


この申命記の御言葉が神さまの御心であるということを私たちクリスチャンは信じているわけでありますけれども
だとすればこの御言葉に反逆するようなことをサタンは語るはずなのであります。
神を神とせず、人を偏り見、わいろを取り、孤児と寡婦の権利をないがしろにし、在留異国人を憎み排除しようとする。
そういう言葉を語る世界の王が出現する。


終末のある時、
蛙のような汚れた三つの霊が
竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から出てくる。
そして、それは
神に反逆するものの語る言葉は言葉として人間を迷わせる。
エバが蛇に惑わされた時のように
その言葉は一見するととっても麗しく見える。
しかし、その言葉のもたらすものは死!
弱いものを顧みることのない
自己中心的な欲を満足させる言葉
破壊者の言葉は世にあふれ
幼児から高齢者に至るまで
その言葉を繰り返し聞かされ、
心に植え付けられ、
心がその言葉で満たされ、
やがてはその言葉を自分の言葉として発するようになる。


そして
人は持っているその言葉で考え
持っているその言葉で判断する。










また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。


ここに引用した黙示録16章1、2節を読むと、「言葉」そして「言(ことば)」というものの重みをいっそう感じさせられます。

第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。

と言うので、海の中の生き物は天使が注いだ何らかの物によって絶滅するわけですね。そして地上に住む人間の場合は

第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。

天使が注いだ物質によって悪性のはれ物が出来る者と出来ない者という差が生じるというのです。
なぜ、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物が出来るのか、と考えるわけですが、
同時代に生きる人間の遺伝子や環境条件はだいたい一緒だと仮定して考えるならば、こういう違いを生じさせるためには「鴨居と入り口の二本の柱に過越の羊の血を塗れ」というのと同じようなやり方で「情報」がもたらされて選別されると考える以外に方法がないわけです。
情報(ことば)を受け、情報を信じて従うか従わないか、そういう差。


「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ヨハネによる福音書10章1~5節


メシアによる「救い」が彼の言葉を信ずるか否かでもたらされたこともそうでありましたが、終末に羊飼いなる主は、どういうタイミングでいかなる方法を用いて私たちに情報を与え連れ出してくださるのでしょうか。

 


聖書を一冊を貫く思想=神の御心 をしっかり心に持った状態で、
普通にテレビニュースを見、ネットのニュースを読んでいたら
きっとなにか気付くことがあるのかもしれません。

聖書はあるし聖霊さまがともにいてくださるのですからね。
聖書をしっかり読んでいさえすれば、
絶対気づく。
言(ことば)は神なのですから。

2018年5月29日火曜日

イスラエル アロンの家 主を畏れる人

詩編115編と118編を読むとこんな箇所があります。

(以下本日の引用はすべて新共同訳聖書)


イスラエルよ、主に依り頼め。
主は助け、主は盾。
アロンの家よ、主に依り頼め。
主は助け、主は盾。
主を畏れる人よ、主に依り頼め。
主は助け、主は盾。
詩編115編9~11節


イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。
主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。
詩編118編2~4節


これまでこの「イスラエル アロンの家 主を畏れる人」という三つの言葉について特に気にして読んだこともなかったのですが、最近なんとなくこの三つの言葉が気になるようになりました。

で、気になりながらルカによる福音書のイエスさまのご降誕前後の場面を読んでみたら、

ルカによる福音書


1章
5節 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリザベトといった。
11節 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
26、27節 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。


2章
8節 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
9節 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
27節 シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入ってきたとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れてきた。
28節 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。


「イスラエル アロンの家 主を畏れる人」のそれぞれが意識される構成?になっているような気がしました。
構成というよりも、秩序と表現する方が適切でしょうか。

2018年5月5日土曜日

聖書の中に描かれた「繰り返される」風景

主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。
「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。
万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。
あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。
もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、
寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、
わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。
見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。
わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
主は言われる、今あなたがたはこれらのすべてのことを行っている。またわたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、あなたがたを呼んだけれども答えなかった。
それゆえわたしはシロに対して行ったように、わたしの名をもって、となえられるこの家にも行う。すなわちあなたがたが頼みとする所、わたしがあなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの所に行う。
そしてわたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、わたしの前からあなたがたをも捨てる。
エレミヤ書7章1~15節(口語訳)

今日の聖書通読はエレミヤ書7章の始めの辺りでした。

エレミヤが主の家の門に立って神さまの御言葉を語る場面です。

「主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。」

ということでした。

主を拝むために主の宮にやってきたユダの人ですから、主を知っているはずで、主を拝みにやってきたというのですから拝みに行かない者と比べたら信仰に篤い人々だ、と外から見れば思うわけです。
で、その人たちに神さまが何とおっしゃったのか。

「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。」

そうです、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めろ、と言うのです。
主の宮に行き主を拝もうとしている敬虔そうに見える人々に「道と行いを改めろ」と。
そして神さまは御言葉をさらにこう続けられるのです。

「もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、
寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、
わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。
見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。」

神さまがおっしゃった御言葉を言い換えるならこういうことになります。

  • あなたがたは互いに公正を行っていない
  • あなたがたは寄留の他国人とみなしごとやもめを虐げている
  • あなたがたは罪のない人の血をこの所に流している
  • あなたがたは神さまのことばではなく偽りの言葉を頼みにしている
  • あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、まことの神さまの神殿に来て「われわれは救われた」と言っている



それで神さまは預言者エレミヤをとおしてこう言われます。

 「わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。」



ここで、イエスさまの来られた後のエピソードをマタイによる福音書21章から引用してみたいと思います。

21:10イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
21:11そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
21:12それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
21:14そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。 21:15しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
マタイによる福音書21章10~16節(口語訳)

イエスさまは主の神殿におられます。そして、怒りをあらわにされます。

「宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされ」

そしてその後にはこう語られ、

「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 同時に身体の不自由な人々を不自由さから解放してくださいました。

そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。




そして時は経ち、現代。


主の神殿と呼ばれる「建物」はありませんが、主を知り、メシアを信じ、神さま(聖霊さま)のご臨在される至聖所を内に持つキリスト者は、パウロが一コリント6章19、20節で表現しているように「宮」主の神殿です。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。一コリント6章19、20節(口語訳)


生けるまことの神さまが造られた人間。蛇の誘惑に負けて罪が入りエデンの園から追放されたけれども、ひとり子の命をもって神さまは私たち一人一人を買い取って下さり、エデンの園で初めに造られた時と同じ立場を与えられ、人間が神殿となった現代、

そして間もなく再臨の主をお迎えするであろう現代、


エレミヤをとおして神さまが語られその御言葉ののちに行われた
イエスさまが宮で語られ行われたような

そのようなことがもう一度ありそうな気がします。

さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
一ペテロ4章17、18節(口語訳)

「さばきが神の家から始められる」「義人でさえ、かろうじて救われる」
と語るペテロの言葉に、全くその通りであろう、と思うのです。




「主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。」
神さまはエレミヤを通してまずこう呼びかけました。
主は同じように私たちキリスト者に語られます。「主の言葉を聞け」と。
主は何とおっしゃっているのか、主は何を私たちに求めておられるのか。
唯一の主は、旧約時代から今に至るまで唯一の主であります。ブレはなく一貫した同じ神さまです。その神さまが私たちに何を求めておられるのかというのは昔から一切変わっていません。
いつの時代にあっても寄留の他国人とみなしごとやもめを虐げ、罪のない人の血を流す者を主は退けられます。国も、個人も。

そして、

黙示録3章14節~22節(口語訳)

ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。



神さまに

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」


と、言われることのないようにしたいものです。

教会の外に立ってドアをたたいている主、
クリスチャンと呼ばれている人の中(神殿の中)に入れないのでドアをたたいている神さま 。          

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」

2018年3月13日火曜日

狭い門、広い道

今日は詩編84編を読みました。



現在私は新共同訳聖書を読んでおります。しかし、20年以上新改訳聖書を愛読していた関係でときどきあてられている訳語の違いに戸惑うことがあります。

で、今朝も、「こんな御言葉あったんだっけ???」と不思議に思える箇所に出会いました。

いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
詩編84編6節

ここの箇所に該当するところを新改訳聖書から拾ってみるとこう書かれています。

なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
詩篇84篇5節 



「シオンへの大路」という表現に慣れ親しんでいたので、単なる「広い道」という表現に少々違和感を感じたのだと思います。


新共同訳の詩編84編6節から始まる段落と新改訳の詩篇84篇5節から始まる段落のそれぞれ全体を比較してみれば取り立てて言うほどの違いはないのですが、ただ、自分は物を読むときに、「意味」だけではなく「言葉から受ける印象」というものの影響を強く受けるタイプなので、同義であったとしてもそこに選ばれて置かれた言葉の深いところにある意味を探って見出そうとしてしまったのかもしれません。

で、何を思ったか、ということですが、
それはタイトルに書いた通りで、
「心に広い道を見ている」という御言葉を読んだとき、反射的に「狭い門」という言葉が心に浮かんだわけです。



「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書7章13、14節




ところで、イザヤ書40章にこんな御言葉があります。

呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
イザヤ書40章3,4節

 「呼びかける声」が
「荒れ野、道」、「荒れ地、広い道」、「険しい道、平ら」、「狭い道、広い谷」という対になる言葉、そして、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」という対になる表現を用いて
メシアの到来によって地上にどんなことが起こるか、ということを語っています。
私たちの心には到底浮かんできそうにないようなとてつもないこと、そして逆転現象のようなものがもたらされそうです。

主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
イザヤ書40章5節

神さまはメシアによって驚くべきことを実現され、
主の栄光がこのように現れるのを肉なる者は共に見ることになるのだ、と預言書は語ります。


 
上に引用したマタイ7章の御言葉でイエスさまはこう語られました。
狭い門=命に通じる門=見いだす者は少ない
 
狭い門は、見いだす者は少ないということですから、うっかりしていたら気づかないような門であるわけです。どっちに行こうかしら、なんて迷うことすらない、見落としてしまうような門です。だとすれば、こっちに行こうかなあ、どうしようかなあ、と二股に分かれた道の手前に立って首をひねった挙句にエイヤーっと狭そうな方を選択するわけではないようです。つまり、たいていの人は何の迷いもなくみんなと一緒に普通に広い道を歩んでいる、しかし、ある時そこには命に通じる門が出現する、が、その門を見いだす者は少ない、とイエスさまは語っておられるのです。
とすると、私たちにはまずその狭い門を求めようとする心が必要です。そして、門はどこであろうかと注意深くなる必要もあるわけです。そして、もしも門のあることに気づいたら直ちに入っていくべきだ、ということになります。
私たちは、聖書を読んで、「わたしは門である」とイエスさまが語られたということをヨハネによる福音書10章9節で知っていますから、
聖書の中だけのことで言えば、
おそらくは当時、宗教指導者をはじめとするたくさんの人々が、突然地上に現れた救い主イエスを見いだすことができず、それどころか拒絶をしたため、滅びに至ってしまうのだということをイエスさまは語られたのかもしれません。
そして、メシア初臨以降現在に至るまでのことで言えば、私たち異邦人にも「命に通じる門(道)」が人生における荒れ野や荒れ地の中に現れるようになり、それを見いだし通った者はみな永遠の命を与えられるのです。
補足するなら、
門を通ったのにその後も門を探して門を通り続ける必要などないのです。門を通って入った者は救われたのです。この事実は人間の権威などによって変えられることはありません。
 
この世界に身を置くゆえこの身体を持っているゆえの病や苦しみは「まだ」あることに違いはないのですが、
もう少し、もう少しです。
こうやって詩編を読めば今日も神さまは希望を与えてくださいます。
神さまの御言葉によってそれを信じる信仰によって今日も勇気を出します。すべての人が同じ世界に存在しているように思えても、私たちはあの門を見いだし、命に通じる道を歩んでいるのです。
狭く見えるこの道も険しく悲しいこの道も、ゴールのあることを信じ、主とともにあれば広く豊かなシオンへの大路です。
 
いかに幸いなことでしょう
神さまによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
 
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
 
 
アーメン