2022年8月26日金曜日

エデンの園そしてイエスさま

AFPニュースで

干上がる「エデンの園」 イラク・メソポタミア湿地帯
 https://www.afpbb.com/articles/-/3420032

という記事を読みました。

 

そこが本当にエデンの園なのか否かはともかく、いろいろ思うところもあり、ここのところエデンの園の物語を繰り返し読んでおりました。

 

 

日本語の聖書サイト様から創世記(口語訳)を引用させていただきます。

 

 2:8主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 2:9また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 2:10また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 2:11その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 2:12その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 2:13第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 2:14第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。

2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 

 
2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
 
創造主は「東のかた、エデンに」園をつくられました。

のちにここから人が追放されて中に入れなくなったわけですから、そういうことが可能なひとまとまりのエリアだったのでしょう。そしてそれは、「創造」というドラマの繰り広げられていた地点から見ると東の方で、ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテという名の川の源流のあたり。つまり、ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテの源流の西の方に人類発祥の地=創造の舞台 があるのだと創世記の著者は語ります。


人は創造主によってエデンの園に連れていかれました。ここを耕し守るために。

人以外の生き物については、創世記1章で創造された後、神さまが決められたルールとシステムに従って増えて広がっていますから、ノアが箱舟に乗せたようにわざわざ運び入れる必要はなかったのかもしれません。


 2:9また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
 

生き物にとって不可欠な水は十分にあり、また、耕作という労働によって作物を得るまでの間には木から取って食べればよいという充実した社会保障?で安心な園。



 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 
そして、この園の主人である神さま=混沌とした宇宙に秩序をお与えになった御方 は、この園で暮らすための一つのルールを人にお与えになりました。
 
 

ויצו way·ṣaw

 

ヘブライ語聖書の2章16節の先頭にはこの言葉があります。

 Strong's Hebrew 6680 צָוָה が元の形で、
「命じる」という意味の言葉です。
 
andの意味のヴァヴが先頭について、神の御手であるיヨッドがついて語尾のהヘーが抜けた形であるויצוは他に
 創世記12:20パロは彼の事について人々に命じ
 
 創世記26:11それでアビメレクはすべての民に命じて言った
 

12章20節の「命じ」という言葉と26章11節の「命じて」というところにも使われています。

 


エデンの園で暮らすにあたって神さまから与えられたルール。
神さまの言葉を聞き、人は言われた通りに行う。
聖書の神さま=創造主 と人間の関係とはそういうものである、という その「初め」がここに記されます。
そして神さまは、善悪を知る木から取って食べたらどうなるか=神さまのおっしゃる通りにしなければどうなるのか、ということを人に教えます。

 

מות תמות

 

מות「死ぬ」という意味の言葉が二回繰り返されています。

口語訳では「きっと死ぬ」と訳されていますが、この「きっと」は推測の意味ではありません。「必ず死ぬ」という意味です。副詞を用いて強調するのではなく、言葉を二回繰り返すことによって強調するというシンプルで分かりやすい強調の仕方です。


ルールを教えるために使う「言葉自体」が難解では、ルールは徹底できません。

もっとも、言葉がいくら単純であっても内容が難しければまもれるはずはありません。

ならば、「人」が守ることができなかった「善悪を知る木から取って食べない」というルールとは、「難しいこと」だったのでしょうか。

もう一度創世記3章を読んでみましょう。



創世記3章を読むにあたり、まず大前提として、

全知全能の神さまは人の行動を予測できないはずはない、ということは考えておくべきです。
また、人が「好奇心」のある生き物であるということは創造の初めに設計されていたことでありましょう。
そして、アダムが良く考えもせずエバの判断に任せ、勧められたものを食べてしまうという「怠惰」な部分も、大きな「脳」を持った人間という生き物にとって健康を保つためには必要な性質です。(なまけものであるからこそ発明や工夫をするとも言えます。)

ところで、
「良く考えもせず」エバから勧められたものを食べてしまった原因を「怠惰」と書きましたが、怠惰だけではなくアダムの妻であるエバに対する「信頼」というものだってあるはずです。

妻がくれた食べものが安全かどうか逐一検査する夫はいないだろうし、そんなことをしなければならない夫婦関係なんて、破綻しています。(笑)

 

さらに、

前提という点で付け加えるとすれば、
死を知らぬ者に「絶対死ぬ」という言葉は脅しにならないはずです。
アダムとエバ以外に人間はいないということであれば、彼らは「死」とは動物の死しか知らないはずです。
ペットでも家畜でもない野生動物の死を彼らがどうとらえていただろうかと考える時、
そこに「恐怖」の感情が存在するかどうかということは微妙です。
「恐怖」というのは、何かしら自分にとって不快なことが起こったという経験から獲得する心の動きだと思うからです。

 

だとしたらこのストーリーはいったい何なのか。

 

・・・教会に通っていた頃にはこんなふうに読むことはなかったわけですが・・・


ヘブライ語聖書を創世記の初めから一節一節書き写す日々の中ですぐに気付かされたのは、
この書の著者は史実を事細かに伝えようとしているわけではない、ということです。

そうではなくて、この著者には何が何でも伝えなければならない大きなテーマがある、というように思えるのです。どの時代の人々でも、どこに住む人々でも共通して持っているであろう「問題」に対する究極的な答えというテーマ

 「どうして私はこんな世でこんなふうに暮らさなければならないのだろう、

いくら働いても苦しいだけで豊かになるわけではなく、

女性にはいつまでもいつまでも男性にはない苦しみが続く。

争いは絶えることなく、血は流され続ける。

愛する者との死別を悲しみ、迫り来る自らの死を恐れ惑う人生、」


どの時代のどの人にも思い当たることのある悲しみや苦しみ、

そのすべての根源はここなのだ、エデンの園から追放されてしまったことなのだ、

つまりは、「創造主である神さまとの断絶なのだ!」と、

創世記は語って聞かせているのです。

 

そして、時は経ち

ヨハネは福音書の3章16節でこう語りました。

 

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
 

トーラーを持たない私がこの言葉を聞いたとき、

この言葉は、自分の現在の立ち位置を原点として未来という一方向だけに限りなく伸びる半直線をイメージさせました。

現在の自分_______________永遠

そして、「死んでも死なない」という意味での「永遠の命」そして漠然とした「天国」を思い描いたわけですが、

トーラーを持つ人々がこの言葉に出会った場合、

おそらく線は自分の立つ原点を中心に、未来だけではなくはるか遠い創造の昔にも向かっているのです。

永遠(創造の昔)_______________現在の自分_______________永遠

そして、こんなメッセージを聞くことになるのです。

 

「エデンの園に帰れるのだ!

神さまは御子によって人間を再びエデンの園に戻してくださった!

神さまとの断絶が完全に終わったのだ!」

 

御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
ヨハネの黙示録22章1~7節(口語訳)


都の大通りの中央を流れているいのちの水の川の両側に「いのちの木」が生えています。
ヨハネの目には麗しい麗しいエデンの園が映っているのです。
 
 

 

 

かつてイエスさまが「神の国」についてこのように語られたことがあります。

 

 

律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
ルカによる福音書16章16節
 

「神の国」を「エデンの園」だと考えるならば、

人々が神の国に「突入している」という言葉の意味がつかめるような気がしました。

 

 

余談になりますが

創世記には

神さまが、エデンの園の東にケルビムと、回る炎のつるぎを置いて命の木の道を守らせられたと書いてあります。
とすると、おそらく、園の入り口は東側であるということだと思います。(幕屋の入り口も東でした)

「東(ひがし)」はヘブライ語でqedemと言います。

 

 קֶדֶםStrong's Hebrew 6924 ケデム

 

ケデムはקクフという文字から始まる言葉です。


クフはサルの頭の形から来た文字という説もありますが、フェニキア文字のコフ(クフ)では「針の穴」の形だとされています。フェニキア文字(ウィキペディア)


そしてクフはStrong's Hebrew 6944קֹדֶשׁ コデシュ=sacredness神聖という意味の言葉の先頭の文字でもあります。

コデシュとケデムは最後の一文字が異なる単語であるということも興味深く感じます。←好奇心旺盛な人間(エバ似)ww


ケデムの二文字目はדダレットです。ダレットはドアの形からできたとされる文字です。


ケデムの三文字目はמメムです。海の波の形、命に欠かすことのできない「水」を表す文字です。

 

こんなふうに東という方角をあらわすヘブライ語の単語ケデムקֶדֶםに使われている文字を眺めていると、

大きな大きなラクダが(または針の穴に通すには太すぎる綱が)

あれもこれも、否、「すべてをそぎ落とさなければ」入ることのできないקクフ「針の穴」を通る難しさ」と、

そうやって初めて入ることのできる聖い聖い扉דダレットがあるイメージが見えてきます。

そして、ドアの向こうには命の水םメムソフィート(=מメムが単語の最後に来たときに取る形)が。

 

 


福音書のイエスさまの御言葉が聞こえてくるようです。

 

それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。
マタイによる福音書19章23節~26節(口語訳)
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
ヨハネによる福音書7章37,38節(口語訳)