2024年5月20日月曜日

イザヤ書28章10節ツァウ ラツァウ、カウ ラカウ、ゼエル シャム、

 כי צו לצו צו לצו קו לקו קו לקו זעיר שם זעיר שם׃

ここのところずっとイザヤ書28章を読んでいたわけですが

突然ひらめいたのです。

イザヤ書28章のところのツァウ ラツァウ、カウ ラカウ、ゼエル シャム、

これって黙示録22章11,12節では?と。

不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

ヨハネの黙示録のハルマゲドンはイザヤ書30章という視点で読んでまいりましたが、このイザヤ書28章についてもヨハネは黙示録において言及していたのではないか、と思いました。


さて、

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

ヨハネの黙示録22章18,19節に書かれているこの言葉に恐れおののいて解釈を怖がるクリスチャンが?少なからず存在しているかもしれませんが、

冷静に考えてみれば、黙示録を書いたヨハネはまずはユダヤ教徒であり、
そういう土台の上にメシアに出会い弟子となり、(別のヨハネなのかもしれませんが)

いぜれにせよ、ユダヤ教徒であるのならば、

ラビの一人として言葉を遺すことがあったとしてもそれはあくまで聖書の解釈なのであって、自らの言葉について「付け加えることも減らすこともできないトーラー」と同レベルのものとすることはありえないような気がします。

書き加えたり取り除いてはいけないとする「この書」という言葉が指し示しているものが「黙示録」自体のことなのか、つまり、エレミヤ書26章2節が語るような、

「主はこう言われる。主の神殿の庭に立ち、主の神殿に礼拝に来るユダのすべての町の者に向かって、私が命じた言葉をすべて語れ。一言も減らしてはならない。エレミヤ書26章2節(聖書協会共同訳)

黙示録は「預言書」であるという主張なのか

それとも、箴言やコヘレトが語るような意味あいで

御言葉に付け加えてはならない
あなたが懲らしめを受け
偽りの者とされないために。
箴言30章6節(聖書協会共同訳)

私は知った。
神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく
加えることも除くこともできない。
こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。
コヘレトの言葉3章14節(聖書協会共同訳)

この書の根底、否、すべての根底にある「トーラーを指して」申命記に記されているような意味あいで言っていたものが伝わっていく間に変わってしまったのか

あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。

申命記4章2節(聖書協会共同訳)

私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。

申命記13章1節(聖書協会共同訳)


「正典だ」と決めて配布し続けているのですから、
考察くらいはおこなっても
終末も終末、ここまで来ているのですから
バチはあたらないような気がします。

まあ、とにかくそういうのは考えるのも駄目絶対ダメ!ヤバいヤバいと考える方は

そういう信仰なのですからそのままでいてください。

こういうヤバいブログは読まない方が身のためです。



さて、話をイザヤ書28章に戻します。

イザヤ書28章のこの辺りというのは、翻訳聖書ではKJVのように For precept must be upon precept precept upon precept line upon line line upon line here a little and there a littleと訳すか、もしくはヘブライ語の「音」をツァウ ラツァウ…とかそのまま書き記すかという事をしてあるわけですけれども、いくらなんでも、これでは全く意味が分からないわけです。

ただ、ヘブライ語のトーラーをひまにまかせてぼーっと眺めるようになって気付いた
「新約聖書を知っている信者には」分からないはずのヘブライ語聖書の単語の意味がわかるという
まるでマタイによる福音書13章52節のようなことが

そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。(口語訳)

きっとここでも起こりうる・・・


そんなふうに思って考えていたら
צוツァウ  לצוラツァウのצוツァウは

צツァディから始まっている、つまりメルキツェデクのצツェから始まっているからきっと「義」に関すること

קוカウ לקוラカウのカウはקクフから始まっているからきっと「聖」に関すること

זעירゼエル שםシャムのゼエルはזザインから始まっているから「武器」または「冠(ご褒美)」に関すること

・・・あれ?これって黙示録22章11,12節に似てるのかも?と思ったわけです。

そして

 לצוラツァウとלקוラカウについてはצוツァウとקוカウにそれぞれלラメドが付いたものなので、

לラメドは牛飼いが牛を動かす棒ですから、棒でぐいっと押して動かすという意味があると考えれば・・・と。

そう考えると、צוツァウ  לצוラツァウとは

イザヤは「צוツァウ」という一語をまず発し、

二語目の先頭にラメドを一文字加え、 לצוラツァウとし、צוツァウの方向に棒で動かすニュアンスを加えているのではないかと思い

同様にקוカウ לקוラカウも、まずは「קוカウ」という言葉を発し、次に「לקוラカウ」としてקוカウの方向に棒で動かすというニュアンスを持たせていると思ったわけです。

また、聖書ヘブライ語では言葉を繰り返して「強調する」はずですので

「義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」となるのではと。

ただ、イザヤ書28章の文脈から考えるとヨハネの言葉は直接適用できないかも、と一瞬思ったのですが、28章12節の

主はさきに彼らに言われた、「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。しかし彼らは聞こうとはしなかった。

という言葉を読んだときに、イエスさまがパリサイ人律法学者を批判したことを思い出しまして、

その瞬間、ツァウ ラツァウが二度繰り返され、カウ ラカウが二度繰り返され、というイザヤの言葉が「二重の意味を持つ韻文」かもしれないと思ったのです。
義と聖の方に棒で牛を動かし、義となれ聖となれと語る言葉ではあるけれども

義のようであっても本当は義ではなく

聖のようであっても本当は聖ではない

そこまでを含んでいるのではないか、と。



すると見えてきました。


ツァウ ラツァウ ツァウ ラツァウ カウ ラカウ カウ ラカウ がいつになっても
For precept must be upon precept precept upon precept line upon line line upon line here a little and there a littleとしか聞こえない人、または、
こんなものは放置しておいても大勢(たいせい)に影響はない、どうでもよい、と思っている人はそれでよいのだ、ということを。
それはもちろん肯定的な評価としての「よい」ではありません。


イザヤ書28章13節の言葉はそういう事を描写していると思うからです。


そこで、主の言葉が彼らに臨んだ。
「命令に命令、命令に命令
規則に規則、規則に規則
しばらくはここ、しばらくはここ。」
これは、彼らが歩くとき、後ろに倒れ
打ち砕かれ、罠にかかり
捕らえられるためである。イザヤ書28章13節(聖書協会共同訳)

主は彼らに告げられる。「ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル。」これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられるためである。イザヤ書28章13節(新改訳聖書2017)


協会訳を読んでいても新改訳を読んでいても、英語で読んでいてもヘブライ語で読んでいても

倒れて砕かれて罠にかかって捕らえられることは読み取れているのだから、悪いことをしているのはわかっているはずですから。


教師の立場にある人々が「ゼエル シャム」が二度繰り返されたのを

シャムに「シャマ」や「シェム」という言葉を見ぬままに、「ここ」だの「そこ」だのと訳し続けたとしても、

それはそれでよいのだと思います。

「そういう」人々の態度についてイザヤは、否、

神さまは語っておられるのだと思います。


不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。黙示録22章11,12節(口語訳)

そして、

たとえイザヤ書28章が黙示録とは関係なかったとしても、

黙示録22章11,12節における

「義」を行うとはどういうことなのか、何を基準として義であると認定するのか、

「聖なる」とはどういうことなのか、

もう一度考え、確認する必要性を感じます。