2024年5月22日水曜日

イザヤ書28章(7)ゼエルについて

イザヤ書28章に登場するゼエルזעירについて考えていました。

そして、ふと、

ガザ(アザ)がעז(アズ)というアインとザインという文字を含む語であることを思い出しました。

עז(アズ)という言葉はStrong's Hebrew 5794で獰猛な、凶暴な…という意味です。

ゼエルזעיר頭2文字はこのעז(アズ)の逆の配列だと気付きました。

で、そういった場合にどういう現象が起こるのか、と思いました。

現象というとおかしな表現になりますが、

アインとザインの順番が入れ替わると単語の意味にはどういう変化がみられるのか、という意味です。

イザヤ書28章に登場するゼエルזעירを考えればlittleというDefinitionなので、凶暴な感じはしないわけですが、

他はどうなのだろうと。

ゼエルזעירはStrong's Hebrew 2191なので、そのあたりを探してみました。

2188番にזֵעָהという単語があり、これはたった一度、創世記3章19節に登場する「汗」というところに使われています。עז(アズ)後にה(ヘー)が付くとガザ地区のガザという意味で凶暴そうなニュアンスがあるわけですが、文字の順番をひっくり返したזעの後にה(ヘー)が付くと「額に汗して働く」という時の「汗」になるわけです。否応なしに従わせられている感じとでも言いましょうか。

次の2189番はזַעֲוָהです。これは申命記とエゼキエル書に一回ずつ合計2回登場する言葉です。

申命記28:25に一回あるはずなのですが…

主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。申命記28:25(口語訳)

口語訳聖書には見当たらないのでKJV。太字にしたremoveのあたりが2189番です。

The LORD shall cause thee to be smitten before thine enemies thou shalt go out one way against them and flee seven ways before them and shalt be removed into all the kingdoms of the earth 申命記28:25(KJV)


そしてエゼキエル書23:46

主なる神はこう言われる、「わたしは軍隊を彼らに向かって攻め上らせ、彼らを恐れと略奪とに渡す。エゼキエル書23:46(口語訳)

これも口語訳だとわかりにくいのでKJVを。太字にしたremoveのあたりが2189番です。

For thus saith the Lord GOD I will bring up a company upon them and will give them to be removed and spoiled エゼキエル書23:46(KJV)


2189番も2188番同様で、本人が好まないとしても無理矢理そういうことをされるというニュアンスを感じます。

2190番はזַעֲוָן Zaavanという地名です。

2191番はイザヤ書28章の言葉で、

2192番はダニエル書7章8節の「小さい角」の「小さい」というところに使われている単語です。

続いて2193番זָעַךְ これはヨブ記17章1節に一度だけ使われている単語でDefinitionは to extinguish 「消す」

口語訳聖書でここを読むと「わが霊は破れ、わが日は尽き、墓はわたしを待っている。」と書いてあり、なかなか読み取るのが難しいですがKJVで見るとMy breath is corrupt my days are extinct the graves are ready for meとあるので口語訳の「尽き」となっているところが2193番だと思われます。

「わが日は尽き」にしても、「my days are extinct」にしても、ヨブ自身が好き好んで終わりにしたり消したりしているわけではありません。

そんな風に考えるとダニエル書の「小さい角」の「小さい」という言葉も好き好んで小さいわけではないが、というニュアンスを含んでいる可能性があるかもしれません。

そうなってくるとイザヤ書28章のlittleにもそういうニュアンスが含まれているのかもしれません。


続いて2194番זָעַם これは12回登場する言葉で、Definitionはto be indignant

「憤慨する」

そして2195番はזַעַם これは「憤り」で全部で21回登場する言葉ですが、イザヤ書にも10章5節と25節、13章5節、30章27節に登場し、主の憤りがこの単語で表現されています。

2196番זָעַף 「腹を立てる」

これはたとえば歴代誌下26:19に登場します。

するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、らい病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。 

以下御言葉を引用しませんがזעという文字列によって伝えられるものがなんとなく理解できるような気がしてきます。

2197番זַעַף  激怒

2198番זָעֵף  不快でイライラする

2199番זָעַק 泣く、叫ぶ、呼ぶ

2200番זָעַק 泣く、呼ぶ

2201番זַעַק 泣き声


ちなみに、littleに似た意味の単語はゼエルזעיר以外にもあります。

6996番のקטןという単語です。

小さい、若い、重要ではないという意味で用いられています。

イザヤは6996番קטןという言葉を使わない人ではなく、

例えば11章6節のところには ונער קטן  と書いていて

これは「小さい子供」という意味です。

11章というのはメシア預言として良く知られている「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。」という言葉から始まる章です。

あとほかに4箇所קטןの使われている箇所がイザヤ書にはあり

22:24「小さい器」

HEB: כֹּ֖ל כְּלֵ֣י הַקָּטָ֑ן מִכְּלֵי֙ הָֽאַגָּנ֔וֹת

KJV: all vessels of small quantity, from the vessels


36:9「小さい一隊長」

HEB: עַבְדֵ֥י אֲדֹנִ֖י הַקְטַנִּ֑ים וַתִּבְטַ֤ח לְךָ֙

KJV: captain of the least of my master's


54:7(口語訳聖書には「しばしば」と訳されていますが、「小さい」という単語なのですから、ほんのわずかの間、ごくわずかの間、瞬間、と訳す方が良いような気がします)

HEB: בְּרֶ֥גַע קָטֹ֖ן עֲזַבְתִּ֑יךְ וּבְרַחֲמִ֥ים

KJV: For a small moment have I forsaken


60:22「最も小さい者」

HEB: הַקָּטֹן֙ יִֽהְיֶ֣ה לָאֶ֔לֶף

KJV: A little one shall become a thousand,



以上のことを踏まえるとき、ゼエルזעירを「少し」という日本語に迷いもなく置き換え、そうであると言い切ることにはちょっと抵抗を感じます。


求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
マタイによる福音書7章7節(口語訳)

2024年5月20日月曜日

イザヤ書28章10節ツァウ ラツァウ、カウ ラカウ、ゼエル シャム、

 כי צו לצו צו לצו קו לקו קו לקו זעיר שם זעיר שם׃

ここのところずっとイザヤ書28章を読んでいたわけですが

突然ひらめいたのです。

イザヤ書28章のところのツァウ ラツァウ、カウ ラカウ、ゼエル シャム、

これって黙示録22章11,12節では?と。

不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

ヨハネの黙示録のハルマゲドンはイザヤ書30章という視点で読んでまいりましたが、このイザヤ書28章についてもヨハネは黙示録において言及していたのではないか、と思いました。


さて、

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

ヨハネの黙示録22章18,19節に書かれているこの言葉に恐れおののいて解釈を怖がるクリスチャンが?少なからず存在しているかもしれませんが、

冷静に考えてみれば、黙示録を書いたヨハネはまずはユダヤ教徒であり、
そういう土台の上にメシアに出会い弟子となり、(別のヨハネなのかもしれませんが)

いぜれにせよ、ユダヤ教徒であるのならば、

ラビの一人として言葉を遺すことがあったとしてもそれはあくまで聖書の解釈なのであって、自らの言葉について「付け加えることも減らすこともできないトーラー」と同レベルのものとすることはありえないような気がします。

書き加えたり取り除いてはいけないとする「この書」という言葉が指し示しているものが「黙示録」自体のことなのか、つまり、エレミヤ書26章2節が語るような、

「主はこう言われる。主の神殿の庭に立ち、主の神殿に礼拝に来るユダのすべての町の者に向かって、私が命じた言葉をすべて語れ。一言も減らしてはならない。エレミヤ書26章2節(聖書協会共同訳)

黙示録は「預言書」であるという主張なのか

それとも、箴言やコヘレトが語るような意味あいで

御言葉に付け加えてはならない
あなたが懲らしめを受け
偽りの者とされないために。
箴言30章6節(聖書協会共同訳)

私は知った。
神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく
加えることも除くこともできない。
こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。
コヘレトの言葉3章14節(聖書協会共同訳)

この書の根底、否、すべての根底にある「トーラーを指して」申命記に記されているような意味あいで言っていたものが伝わっていく間に変わってしまったのか

あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。

申命記4章2節(聖書協会共同訳)

私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。

申命記13章1節(聖書協会共同訳)


「正典だ」と決めて配布し続けているのですから、
考察くらいはおこなっても
終末も終末、ここまで来ているのですから
バチはあたらないような気がします。

まあ、とにかくそういうのは考えるのも駄目絶対ダメ!ヤバいヤバいと考える方は

そういう信仰なのですからそのままでいてください。

こういうヤバいブログは読まない方が身のためです。



さて、話をイザヤ書28章に戻します。

イザヤ書28章のこの辺りというのは、翻訳聖書ではKJVのように For precept must be upon precept precept upon precept line upon line line upon line here a little and there a littleと訳すか、もしくはヘブライ語の「音」をツァウ ラツァウ…とかそのまま書き記すかという事をしてあるわけですけれども、いくらなんでも、これでは全く意味が分からないわけです。

ただ、ヘブライ語のトーラーをひまにまかせてぼーっと眺めるようになって気付いた
「新約聖書を知っている信者には」分からないはずのヘブライ語聖書の単語の意味がわかるという
まるでマタイによる福音書13章52節のようなことが

そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。(口語訳)

きっとここでも起こりうる・・・


そんなふうに思って考えていたら
צוツァウ  לצוラツァウのצוツァウは

צツァディから始まっている、つまりメルキツェデクのצツェから始まっているからきっと「義」に関すること

קוカウ לקוラカウのカウはקクフから始まっているからきっと「聖」に関すること

זעירゼエル שםシャムのゼエルはזザインから始まっているから「武器」または「冠(ご褒美)」に関すること

・・・あれ?これって黙示録22章11,12節に似てるのかも?と思ったわけです。

そして

 לצוラツァウとלקוラカウについてはצוツァウとקוカウにそれぞれלラメドが付いたものなので、

לラメドは牛飼いが牛を動かす棒ですから、棒でぐいっと押して動かすという意味があると考えれば・・・と。

そう考えると、צוツァウ  לצוラツァウとは

イザヤは「צוツァウ」という一語をまず発し、

二語目の先頭にラメドを一文字加え、 לצוラツァウとし、צוツァウの方向に棒で動かすニュアンスを加えているのではないかと思い

同様にקוカウ לקוラカウも、まずは「קוカウ」という言葉を発し、次に「לקוラカウ」としてקוカウの方向に棒で動かすというニュアンスを持たせていると思ったわけです。

また、聖書ヘブライ語では言葉を繰り返して「強調する」はずですので

「義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」となるのではと。

ただ、イザヤ書28章の文脈から考えるとヨハネの言葉は直接適用できないかも、と一瞬思ったのですが、28章12節の

主はさきに彼らに言われた、「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。しかし彼らは聞こうとはしなかった。

という言葉を読んだときに、イエスさまがパリサイ人律法学者を批判したことを思い出しまして、

その瞬間、ツァウ ラツァウが二度繰り返され、カウ ラカウが二度繰り返され、というイザヤの言葉が「二重の意味を持つ韻文」かもしれないと思ったのです。
義と聖の方に棒で牛を動かし、義となれ聖となれと語る言葉ではあるけれども

義のようであっても本当は義ではなく

聖のようであっても本当は聖ではない

そこまでを含んでいるのではないか、と。



すると見えてきました。


ツァウ ラツァウ ツァウ ラツァウ カウ ラカウ カウ ラカウ がいつになっても
For precept must be upon precept precept upon precept line upon line line upon line here a little and there a littleとしか聞こえない人、または、
こんなものは放置しておいても大勢(たいせい)に影響はない、どうでもよい、と思っている人はそれでよいのだ、ということを。
それはもちろん肯定的な評価としての「よい」ではありません。


イザヤ書28章13節の言葉はそういう事を描写していると思うからです。


そこで、主の言葉が彼らに臨んだ。
「命令に命令、命令に命令
規則に規則、規則に規則
しばらくはここ、しばらくはここ。」
これは、彼らが歩くとき、後ろに倒れ
打ち砕かれ、罠にかかり
捕らえられるためである。イザヤ書28章13節(聖書協会共同訳)

主は彼らに告げられる。「ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル。」これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられるためである。イザヤ書28章13節(新改訳聖書2017)


協会訳を読んでいても新改訳を読んでいても、英語で読んでいてもヘブライ語で読んでいても

倒れて砕かれて罠にかかって捕らえられることは読み取れているのだから、悪いことをしているのはわかっているはずですから。


教師の立場にある人々が「ゼエル シャム」が二度繰り返されたのを

シャムに「シャマ」や「シェム」という言葉を見ぬままに、「ここ」だの「そこ」だのと訳し続けたとしても、

それはそれでよいのだと思います。

「そういう」人々の態度についてイザヤは、否、

神さまは語っておられるのだと思います。


不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。黙示録22章11,12節(口語訳)

そして、

たとえイザヤ書28章が黙示録とは関係なかったとしても、

黙示録22章11,12節における

「義」を行うとはどういうことなのか、何を基準として義であると認定するのか、

「聖なる」とはどういうことなのか、

もう一度考え、確認する必要性を感じます。

イザヤ書28章(5)ヴァヴについて

וヴァヴという文字について

この文字の音と同じ単語

Strong's Hebrew 2053 וָו

出エジプト記に13回登場します。

幕屋の幕を留めるためのhook。

וヴァヴは英語ではandと訳されているので

「そして」とか、「~と」 と、シンプルな接続詞として読み流しがちですが

幕屋のフックであると知れば、見えなかったものが見えてきます。

トーラーをはじめから読んだり書き写してみればわかることですが

一番初めに現れるוヴァヴは創世記1章1節におけるוヴァヴであって、

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃

このוヴァヴは日本語の聖書における「天地を作られた」と訳されている箇所の「と」にあたるものです。

「と」にあたるもの、と考えてしまうと見逃してしまうかもしれませんが

את השמים

את という二文字が付いた、「付加不要不許な被造物」であるשמים(天) があり

そのשמיםはアブラムがアブラムとなった時に与えられたהを冠され、השמים となっている。הとは英語でtheなどと訳されますけれども、決してそんなものではないという事はアブラムのハであることに気付けばわかるわけです。そのהשמיםと地が結合する。

地にしましても、地はארץです、そしてそれにもアブラハムのハהが冠されている。そしてその前にはאתがあるわけです。アルファでありオメガである方の作られたハ・アレツ(地)です。

そのハ・アレツの前に置かれたאת、その二文字の前にוヴァヴがある。

幕屋に幕が欠くことはできないのと同じように、

ハ・シャマイム(天)にはハ・アレツ(地)は欠かせない、

天と地は夫婦が一体であるように一つであるわけです、なにによって?וヴァヴによって!

つまり「天」「地」はוヴァヴによって結合して「一つ」になっている。

となればクリスチャンならピンとくるわけです、ああ、וヴァヴ、וヴァヴというヘブライ文字は何を表しているのか、と言えばイエスさま!

創世記1章1節の中に、すでにイエスさまが描かれている!



また、ユダヤ教ではוヴァヴという文字は「人間」を表している、と考えるのだそうです。

וヴァヴという文字はヘブライ文字の6番目の文字ですが

人間は6日目に創造されたからでしょうか。

「人の子」由来でしょうか。

なんだろう。

2024年5月16日木曜日

イザヤ書28章(4)7,8節で使われている言葉

5回登場 創世記49章11節  he washed his garments in wine and his clothes in the blood of grapes サムエル記下13章28節 merry with wine エステル記1章10節merry with wine 伝道の書2章3節with wine イザヤ書28章7節reel with wine   בַּיַּ֙יִן֙

18回登場 創世記9章21節 He drank of the wine and became drunk, イザヤ書には2回 24章11節と28章7節  הַיַּ֖יִן

3回登場 すべてイザヤ書28章7節  שָׁג֔וּ reel 

2回登場 申命記14章26節その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。イザヤ書28章7節 וּבַשֵּׁכָ֔ר 濃い酒

イザヤ書28章7節のみ בַשֵּׁכָ֜ר 濃い酒

イザヤ書28章7節のみ  הַשֵּׁכָ֔ר 濃い酒

9回登場 イザヤ書には4回 תָּ֣עוּ  イザヤ書16章8節、28章7節に2回、47章15節

これは元の形はתָּעָהでerrという意味がある。聖書には50回登場するが最後にヴァヴをつけたこの形は9回という事で、ほかの形は多くても3~4回であることを考えると全体(50回)から見た使用頻度は高い。ただそのおよそ半分にあたる4回がイザヤ書で用いられているという点でイザヤ的な言葉と言えるような気がした。

ちなみにこの「タウ」という言葉はこのようなところで用いられている。
詩篇58篇3節ではthey go astray as soon as they be born

詩篇107篇4節ではThey wandered in the wilderness

イザヤ書16章8節ではthey wandered [through] the wilderness

イザヤ書28章7節ではBut they also have erred through wine and through strong drink are out of the way the priest and the prophet have erred through strong drink they are swallowed up of wine they are out of the way through strong drink they err in vision they stumble in judgment

イザヤ書47章15節ではThus shall they be unto thee with whom thou hast laboured even thy merchants from thy youth they shall wander every one to his quarter none shall save thee


3回登場 すべてイザヤ書28章7節 שָׁג֔וּ

この言葉は元の形はשָׁגָהでこれもto go astray, errという意味がある。聖書には21回登場するが、語尾にヴァヴがついたシャグゥというこの形はイザヤ書だけ。

イザヤ書28章7節だけに登場 נִבְלְע֣וּ They are confused by wine

元の形はבָּלַעとされているので、この単語のあたまにヌンが付いた形。音だけで考えるとヌンとベトで「ナビ」という音が感じられ、預言者をイメージさせているのかもしれない。

そしてそのあとにלְע֣וּラウが残り、עアインとוヴァヴで構成される「アウ」という母音で

タウ、シャグゥ、とあわせて韻を踏んでいるような・・・

そういう視点で見ていくと28章7節にはもう一つ「アウ」という母音を持つ、この28章7節だけに登場している言葉がある。

 פָּק֖וּ パクゥ これもふらつくという意味がある。


そして、28章8節にも「アウ」という母音を持つ語がある。

מָלְא֖וּ マラウ これは「満ちた」という意味

創世記29章21節 ヤコブはラバンに言った、「期日が満ちたから、わたしの妻を与えて、妻の所にはいらせてください」。


イザヤ書28章(3)5,6節で使われている言葉

イザヤ書28章5節のみ  לַעֲטֶ֣רֶת crown

合計12回登場のうちイザヤ書が6回、そのうち3回が28章。1節、4節、5節 צְבִ֣י  glorious beauty

イザヤ書28章5節のみ וְלִצְפִירַ֖ת diadem

イザヤ書28章5節とエレミヤ書48章17節のみ תִּפְאָרָ֑ה glorious 

イザヤ書だけに2回登場 イザヤ書11章16節と28章5節 לִשְׁאָ֣ר  remnant

 合計2回登場 ヨブ記6:26とイザヤ書28章6節 וּ֝לְר֗וּחַ spirit(wind)

イザヤ書28章6節のみ לַיּוֹשֵׁב֙  sit

 イザヤ書28章6節のみ  וְלִ֨גְבוּרָ֔ה   strength 

合計2回登場 箴言26章16節とイザヤ書28章6節  מְשִׁ֣יבֵי repel

イザヤ書28章6節のみ  שָֽׁעְרָה gate

2024年5月15日水曜日

イザヤ書28章(2)3,4節で使われている言葉

箴言とイザヤ書28章3節に一回ずつのみ  בְּרַגְלַ֣יִם under foot

イザヤ書28章3節のみ תֵּֽרָמַ֑סְנָה  is trodden

合計6回登場 うち詩篇93篇1節に一回以外は全部イザヤ書。28章には1節と3節 גֵּא֪וּת majesty

イザヤ書28章1節と3節に登場するのみ שִׁכֹּרֵ֣י drunkards 

イザヤ書28章4節のみ צִיצַ֤ת flower

イザヤ書28章1節と4節のみ נֹבֵ֖ל  shall be a fading

合計12回登場 うちイザヤ書に6回 そのうち3回は28章。 28章1,4,5節 צְבִ֣י glorious beauty

合計3回登場 全てイザヤ書 そのうち2回は28章 1節と4節 תִפְאַרְתּ֑וֹ beauty

合計5回登場 うち4回がイザヤ書 そのうち2回が28章 1節と4節 שְׁמָנִ֖ים fertile

合計8回登場 サムエル下16章1節、詩篇32篇4節、74篇17節、イザヤ書28章4節、エレミヤ書8章20節、アモス書8章1節2節、ミカ書7章1節  קַ֖יִץ summerまたはsummer fruit

合計8回登場 士師記19章30節、サムエル下15章27節 歴代誌上9章22節、26章28節、29章29節、歴代誌下16章7節、16章10節、イザヤ書28章4節、エゼキエル書8章6節 הָרֹאֶ֗ה seer

イザヤ書28章4節のみに登場 בְּעוֹדָ֥הּ soon

合計3回登場 出エジプト記4章4節、サムエル記下18章14節、イザヤ書28章4節 בְּכַפּֽוֹ in his hand

イザヤ書28章4節のみに登場 יִבְלָעֶֽנָּה swallow

2024年5月14日火曜日

イザヤ書28章(1)1,2節に使われている言葉

28章1節、3節だけに登場  שִׁכֹּרֵ֣י of the drunkards

28章1,3節 他合計6回  גֵּא֥וּת proud

28章1節だけに登場 וְצִ֥יץ  flower

28章1節と4節だけに登場 נֹבֵ֖ל  fading

合計12回登場のうちイザヤ書が6回、そのうち3回が28章。1節、4節、5節 צְבִ֣י  glorious beauty

イザヤ書だけに合計3回登場、28章1節と4節、そして63章12節 תִפְאַרְתּ֑וֹ beauty 

全部で5回登場するうちの4回がイザヤ書 שְׁמָנִ֖ים そのうち2回が28章で1節と4節。fertile

イザヤ28章1節に一度だけ הֲל֥וּמֵ overcome

合計4回登場するうちの2回がイザヤ書28章2節と40章26節 他はヨブ記とアモス書 וְאַמִּ֣יץ and mighty

合計11回登場 創世記2回、詩篇に2回、イザヤ書2回 28章2節と22章5節、 エレミヤ書3回、ダニエル書1回、マラキ書1回 לַֽאדֹנָ֑י For the Lord

イザヤ書だけに登場。25章2節に1回、26章2節に2回 כְּזֶ֥רֶם Like a storm

合計4回登場 ヨブ記に一回エゼキエル書に2回、イザヤ書28章2節に1回 שַׂ֣עַר storm,horribly

 イザヤ書28章2節にだけ登場 קָ֑טֶב destroying

 イザヤ書25章4節に1回、28章2節に2回 כְּזֶ֥רֶם Like a storm

合計三回 ヨブ記に1回 イザヤ書に2回 17章12節と28章2節 כַּבִּירִ֣ים  mighty

イザヤ書28章2節だけに登場 שֹׁטְפִ֛ים overflowing

合計8回登場 士師記に1回 サムエル下に2回 列王記上1回 歴代誌上1回 詩篇1回 エレミヤ書1回 そしてイザヤ書28章2節に1回 הִנִּ֣יחַ cast down,suffered