「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
という言葉を書き残した時のマルコの心持ちがどうであったにせよ、
マルコによる福音書1章17節を読む現代のクリスチャンは、
「 人間をとる漁師」という言葉自体を預言していたエレミヤ書16章16節の言葉を思い出すはずです。
主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。エレミヤ書16章16節
ですから前回書いたような「エゼキエル書47章の漁夫が~」とか言いだす人はいない。ヘブライ語がどうであれギリシャ語が何であれ、旧約聖書を知っている人は誰でもエレミヤ16章14節からのパラグラフを思い出せなければいけない。
16:14主は言われる、それゆえ、見よ、こののち『イスラエルの民をエジプトの地から導き出した主は生きておられる』とは言わないで、 16:15『イスラエルの民を北の国と、そのすべて追いやられた国々から導き出した主は生きておられる』という日がくる。わたしが彼らを、その先祖に与えた彼らの地に導きかえすからである。
16:16主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。 16:17わたしの目は彼らのすべての道を見ているからである。みなわたしに隠れてはいない。またその悪はわたしの目に隠れることはない。 16:18わたしはその悪とその罪の報いを二倍にする。彼らがその忌むべき偶像の死体をもって、わたしの地を汚し、その憎むべきものをもって、わたしの嗣業を満たしたからである」。(日本語の聖書さまより口語訳聖書を引用)
象徴でも何でもない、謎でも譬でもないダイレクト
「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
というイエスさまの言葉が
どこから来たものかわかってもらわなければ困るから
神さまはここまではっきりときかせてくださった。
とすると、このイエスさまの言葉とセットで成就するであろうこの預言はどうなるのか。
16:17わたしの目は彼らのすべての道を見ているからである。みなわたしに隠れてはいない。またその悪はわたしの目に隠れることはない。 16:18わたしはその悪とその罪の報いを二倍にする。彼らがその忌むべき偶像の死体をもって、わたしの地を汚し、その憎むべきものをもって、わたしの嗣業を満たしたからである」。
前回の記事の最後に私はこう書きましたが
どこに行っても逃れることのできない大きな青い空につつまれ、
出エジプト記のように昼はわきあがる白い雲に導かれ、
ひとあしひとあし自分の道を歩んでいく。
これはエレミヤ書16章17節に対する自分自身としての解釈であり応答でありました。
地球に酸素や水を供給してくれる大気圏のごとく
大地は神さまに包まれている。
包まれていない場所はどこもない
だから大空が雨を降り注いでくれるように
神さまは恵みを雨のように降り注いでくださる。
そして、
神さまはエジプトを脱出したイスラエルの民のように私たちを導いてくださるので
私たちは決して道を間違えることはない
私たち神さまの御言葉に導かれ、
そのあとに従って歩んでいく、ということ。
しかし、
これは信仰による「応答」なのであって
応答しない者はいるわけです。
となると
「地球に酸素や水を供給してくれる大気圏のごとく
大地は神さまに包まれている。
包まれていない場所はどこもない」
という事実は恵みとはならずわざわいをもたらし
雲が見えようと火が見えようと
従わないから
神さまは敵となり
エジプトのように滅ぼされる。
マラキ書の最後、4章にもこう書いてあります。
4:1万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。 4:2しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。 4:3また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。
4:4あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
4:5見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。 4:6彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない、と語られる一方で
わが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えているというのはどういうことかと言えば
同じとき、同じ大地に存在する人々に明確な差が生じるわけです。
「同じ現象」が別の結果をもたらす。
高ぶる者と、悪を行う者にとっては「焼き尽くされて何も残されない」恐怖の太陽かもしれないけれども
主の御名を恐れる人々にとってはそれは「義の太陽」であり「癒しがある」わけです。
マラキだけでなくイザヤも
65章13節でこういう描写を行っています。
それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わがしもべたちは食べる、
しかし、あなたがたは飢える。
見よ、わがしもべたちは飲む、
しかし、あなたがたはかわく。
見よ、わがしもべたちは喜ぶ、
しかし、あなたがたは恥じる。
食べて飲む者が存在する一方で飢えて渇く者もそこに存在する
喜ぶものが存在する一方で恥を受けるものが存在する
と語ります。
これについてはイエスさまもマタイによる福音書25章で同じようなことを語っておられます。
25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。
人を「分ける」と語っておられる。
神さまが人を「分ける」
その時代、その時に、そこにいる人間が二つに分けられる、と
イエスさまは語られます。
そしてこのことについては25章に至る前の24章でも
イエスさまは創世記のお話しをよく知る人々に向けてこう語られました。
24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
ノアの箱舟を思い出してください。
洪水が襲ってきたときに助かった人は箱舟の中にいた人です。
箱舟の中にはノアの悪い息子(ハム)も乗っているわけですから
とりあえずノアの一族(彼の言葉を聞いて乗った人々)です。
で、マタイ24章のこの箇所でイエスさまはこう語っています。
「洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。」
まさか洪水が来るとは思わなかった人はノアをあざけりました。
その結果、洪水によって「いっさいのもの」がさらわれるわけですが
洪水が終わったあと大地に残っているのは
ノアをあざけった人たちですか?それともノアたち一族ですか?
以前「残りの者」という旧約の思想について言及しました。
旧約聖書では一貫して「残っている方が」良いのです。
ところがこのマタイ24章では40節にあるように「取り残される」と訳されていてなんとなく残っている方が悪いように印象付けられるわけですが
ギリシャ語を読んでも同じような印象しか持てないわけです。
ただ、どう考えたとしてもノアの洪水の場面で「さらわれてしまっていなくなった人たち」が正しい人たちであると解釈するのはおかしいわけで、洪水のあとも生き残っている人たち、つまり「残された人たち」の方が
神さまの目から見て正しいはずです。
ギリシャ語の新約聖書を重んずる文化、律法は終わったとか言って旧約を重視しない文化にあってはこんなことを言っても受け入れられず、さらわれた方が義人であるという発想になることはいたしかたないですが、
聖書全体を一つと考えてストーリーを追っていくとき、
聖書全体が一つとは考えない人が自分自身の文化や理解であてがった「ギリシャ語」という「翻訳された語」が
ギリシャ語をなぜ「翻訳された語」だと言い切るのかと言えば、
イエスさまは絶対にギリシャ語で語られてはいなかった、と考えるからですが
翻訳された語が本当に正しいものであるのか否か
旧新約聖書全体を眺めわたすことのできる私たちは気を付けなければいけないと
不都合な真実をいろいろ知ってしまった最近では、特に思うようになりました。
さて、話を戻します。
イエスさまは「人間をとる漁師」に関連して
マタイによる福音書22章でも解説しておられます。
それから僕たちに言った、『(略)だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
「僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった」と書かれているこれが「人間をとる漁師」の仕事です。
そしてここでも集められた人々が選別されるということが語られます。
ここでは礼服という言葉を用いて
それを着ているかいないかという一点において分け、着ていないものは外の暗闇に放り出されると書かれています。
そしてそれは
婚宴が始まる前に行われるということがわかります。