イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコ1章17節(口語訳)
マルコが記録した「イエスさまの言葉」。
一番初めのものはマルコによる福音書1章15節
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。
そして、二番目のものとして記録されているのは、ガリラヤ湖で網を打っていた漁師の兄弟シモンとシモンの兄弟アンデレに語られた17節の言葉です。
「漁師」という言葉を日本聖書協会の聖書本文検索で調べてみると、
口語訳聖書では新約聖書のマタイ、マルコ、ルカに登場するだけですが、
聖書協会共同訳聖書ではその三書に加え、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書にも漁師という訳語が登場することがわかります。
著作権の関係でなるべく口語訳聖書から引用したいので口語訳聖書でイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書の該当箇所を見るとそこには「漁夫」という言葉がありました。
イザヤ19:8 漁夫は嘆き、
すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、
網を水のおもてにうつ者は衰える。エレミヤ16:16 主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。
エゼキエル47:10すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
次にBIBLE HUBでヘブライ語聖書のイザヤ書19章8節を見ると
漁夫に該当するヘブライ語は Strong's Hebrew 1771 דַּיָּגであるということがわかります。
で、この言葉は旧約聖書では二か所に登場していてそのもう一か所はエレミヤ書16章16節ということでした。
イザヤ書ではהַדַּיָּגִ֔יםという形で登場しているのでhad-day-yā-ḡîm,であるのですが、
エレミヤ書では二通りの可能性があるようで [לְדַוָּגִים כ] (לְדַיָּגִ֥ים ק)
右側の綴りであればlə-ḏay-yā-ḡîmということでイザヤ書と同じיヨッドの入った単語ですが、
左側の綴りだとlə-ḏaw-wā-ḡîmということでוヴァヴの音が入ることになります。
でヨッドではなくヴァヴが入っている単語がちょうど
エゼキエル書47章10節の「漁夫」に当たるヘブライ語でありまして、
エゼキエル書47章10節のところをヘブライ語聖書で見るとそこには1771番ではなく1728番と書かれていまして
Strong's Hebrew 1728 דַּוָּג
で、本文ではדַּוָּגִ֗ים という形で登場しており、これはちょうどエレミヤ書のヴァヴの入ったものと同じ形でdaw-wā-ḡîmとなります。
いずれにしてもこの「漁夫」にあたる単語は
Strong's Hebrew 1709 דָּג dag
これは「魚」を意味する単語ですが、この言葉が元になってできた言葉です。
この1709番の単語は「魚」という意味と「釣り」という意味で旧約聖書に合計19回登場します。
ブログでも頻度高く登場するイザヤ書のヘブライ語を見ていると、
トーラーに用いられている単語を使った造語、
つまり、古くからあるヘブライ語を少し変化させて新しい言葉を作っているという印象を受けます。
トーラーという変えてはいけない言葉
そういう共通理解をもっているという前提がしっかりある上で、
神さまは預言者を通して、トーラーをよく理解していないとわからない「謎」を語っている、というような印象を受けます。(個人の感想です)
魚を意味する דָּג の間にיヨッドが入るかוヴァヴが入るか
いずれにしてもイエスさまが一点一画とおっしゃった文字であり、
その文字は神聖四文字を構成する大切な二文字であるわけです。
預言書に登場している「漁夫」=「漁師」という言葉に
神さまの御心、御手が深くかかわっているという印象を受けます。
もっとも、預言書なのですから、それ以外の何があろうか、ということではありますが。
そういう旧約の言葉を思いながら
もう一度マルコ1:17に戻ってみたいと思います。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコ1章17節
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
というイエスさまがご自身が語られた言葉の次に
「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
という言葉をイエスさまがご自身が語られた言葉として記録したマルコ。
もしかしたら彼は
イエスさまの御生涯とその教えを思い返してエゼキエル47:10の幻を思い出していたかもしれません。
דַּוָּגִ֗ים daw-wā-ḡîm
「人間をとる漁師」という言葉を聞いたマルコの耳にはその言葉が聞こえていたのかもしれません。
そして、ヨッドではないヴァヴの音に、天から降(くだ)られた神の御言葉であられる御子を感じ取ったかもしれません。
エゼキエル書47章1~12節を引用します。
そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水が宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。
それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
豊かな水!豊かな命!
喜びに満ち溢れた景色が見えます。
「エゼキエル書47章daw-wā-ḡîm」
しかしマルコはそう考えながらも、
主の十字架を目撃して
エレミヤ書16章の預言を思い出したかもしれません。
もしも「漁師」という単語に、内容としての違いが反映されるということであれば
エレミヤ16章はイザヤ書19章と同じḏay-yā-ḡîmとする方が正しいのかもしれません。
いずれにしても
イエスさまの到来は終わりの始まりだということです。
弟子たちは最後に向かって
しかしそれは、決して暗く悲惨な最後ではなく
豊かな命溢れるエゼキエル書47章の楽園があるのだと信じて
イエスさまの後ろを行きます。
「わたしについてきなさい。」と語られたその言葉は
21世紀の今も世界中の人々の心に響いています。
そして、
どこに行っても逃れることのできない大きな青い空につつまれ、
出エジプト記のように昼はわきあがる白い雲に導かれ、
ひとあしひとあし自分の道を歩んでいく。
心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。箴言3章5,6節
新約聖書で「漁師」と訳されている言葉は
Strong's Greek 231 ἁλιεύς halieus
新約聖書には5回登場しています。
Strong's Greek: 231. ἁλιεύς (halieus) -- a fisherman
つづく