2023年8月31日木曜日

マルコによる福音書1章17節 「イエスは彼らに言われた」

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコによる福音書1章17節

今日は、マルコによる福音書1章17節のカギカッコの前の言葉を見たいと思います。

イエスは彼らに言われた」という言葉。

日本語の新約聖書を読んでいるとき、わたしたちはどうしてもカギカッコの中にある

「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」

という言葉に注目しがちですし、当然、それでよいとは思うのですが、ヘブライ語のトーラーに親しみつつギリシャ語で書かれたマルコによる福音書を読んでみると、どうしても文頭のκαὶ(英語では「and」という意味)

そしてλέγωνまたはεἶπεν(ともにStrong's Greek 3004で「言う」という意味がある)に目が行ってしまうのです。

そして、その言葉とほぼ同じ意味でありヘブライ語の創世記でよく見かけるוַיֹּ֥אמֶר という言葉を思い出さずにはいられないからです。

וַיֹּ֥אמֶרという表現は、Englishman's Concordanceによると旧約聖書には1948箇所もあり、ありふれた表現に過ぎないともいえるのですが

創世記の冒頭、言い換えますと「神さまの律法」と日本語に翻訳されている「トーラー」の「はじめの書」のはじめに、こういう頻度でこういう場所に現れます。

 

創世記 1:3
HEB: וַיֹּ֥אמֶר אֱלֹהִ֖ים יְהִ֣י
KJV: And God said, Let there be light:
口語訳:神は「光あれ」と言われた

 

創世記 1:6
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֔ים יְהִ֥י
KJV: And God said, Let there be a firmament
口語訳:神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

 

創世記 1:9
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֗ים יִקָּו֨וּ
KJV: And God said, Let the waters
口語訳:神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。

 

創世記 1:11
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֗ים תַּֽדְשֵׁ֤א
KJV: And God said, Let the earth
口語訳:神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。

 

創世記 1:14
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֗ים יְהִ֤י
KJV: And God said, Let there be lights
口語訳:神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

 

創世記 1:20
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֔ים יִשְׁרְצ֣וּ
KJV: And God said, Let the waters
口語訳:神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。

 

創世記 1:24
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֗ים תּוֹצֵ֨א
KJV: And God said, Let the earth
口語訳:神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。

 

創世記 1:26
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֔ים נַֽעֲשֶׂ֥ה
KJV: And God said, Let us make man
口語訳:神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 

 

創世記 1:28
HEB: אֹתָם֮ אֱלֹהִים֒ וַיֹּ֨אמֶר לָהֶ֜ם אֱלֹהִ֗ים
KJV: them, and God said unto them, Be fruitful,
口語訳:神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

 

創世記 1:29
HEB: וַיֹּ֣אמֶר אֱלֹהִ֗ים הִנֵּה֩
KJV: And God said, Behold, I have given
口語訳:神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 

 

創世記 2:18
HEB: וַיֹּ֙אמֶר֙ יְהוָ֣ה אֱלֹהִ֔ים
KJV: God said, [It is] not good
口語訳:また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 

 

この2章18節までの箇所におけるוַיֹּ֙אמֶר֙は、way·yō·mer と読みますけれどもこれはギリシャ語のκαὶと同じような意味であるוヴァヴに、

יヨッドと Strong's Hebrew 559אָמַר が合わさってできた言葉です。 

このway·yō·merという表現は創世記1章のところであれば、

1章28節を除いて必ず文頭にあり、

創世記のこれらの箇所にוַיֹּ֙אמֶר֙と書いてあると、

そのあとには「神の御心」「神さまの御意思」「神さまの御命令」が示され、
次々とそれが実現していくわけです。

そして、例えば1章3節のところにおいては

「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」ということで

その言葉が発せられる前には無かったものが、言葉のあとには存在するようになる。

無が有となり、混沌としたところに秩序が現れていくのです。

ヘブライ語のトーラーはギリシャ語のノモス(律法)とイコールではない、と以前書いた事がありますけれども 、それはこういうことで、

トーラーとは人間生活や社会生活の規範だけではなく、

創造に際しての神さまの御意志や、それを実現させるための物理法則等々までをも含んでいるとかんがえられるからです。

 

さて、

 

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコによる福音書1章17節

もしもマルコによる福音書の著者が、私が推理したような創世記の記述を意識して書いているとするならば

それゆえにマルコによる福音書は短いのかもしれないのではないか、と思います。

トーラーやネイビームに小さいころから親しんでいた人なら

単語ひとつ文ひとつ文体ひとつでマルコの信仰、マルコが言わんとしていることの深い部分が伝わるからです。

実際、ヘブライ語聖書初心者の自分にすら、そのような彼の信仰が伝わってくるような気がします。
マルコは

イエスさまは間違いなく創造主と同一のお方なのだと
そして預言されていた救い主なのだと

そうした自分の信仰を、少ない言葉の中で証ししているような気がしてなりません。

だからこそ「新しく」て「最も大切」な十字架と復活の場面に重きを置いた文書になっている

そんな気がする今日この頃。

2023年8月29日火曜日

マルコによる福音書1章17節 「漁師」2

「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」

という言葉を書き残した時のマルコの心持ちがどうであったにせよ、

マルコによる福音書1章17節を読む現代のクリスチャンは、

「 人間をとる漁師」という言葉自体を預言していたエレミヤ書16章16節の言葉を思い出すはずです。

主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。エレミヤ書16章16節 

ですから前回書いたような「エゼキエル書47章の漁夫が~」とか言いだす人はいない。ヘブライ語がどうであれギリシャ語が何であれ、旧約聖書を知っている人は誰でもエレミヤ16章14節からのパラグラフを思い出せなければいけない。

16:14主は言われる、それゆえ、見よ、こののち『イスラエルの民をエジプトの地から導き出した主は生きておられる』とは言わないで、 16:15『イスラエルの民を北の国と、そのすべて追いやられた国々から導き出した主は生きておられる』という日がくる。わたしが彼らを、その先祖に与えた彼らの地に導きかえすからである。
16:16主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。 16:17わたしの目は彼らのすべての道を見ているからである。みなわたしに隠れてはいない。またその悪はわたしの目に隠れることはない。 16:18わたしはその悪とその罪の報いを二倍にする。彼らがその忌むべき偶像の死体をもって、わたしの地を汚し、その憎むべきものをもって、わたしの嗣業を満たしたからである」。(日本語の聖書さまより口語訳聖書を引用)

 

象徴でも何でもない、謎でも譬でもないダイレクト

「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」

というイエスさまの言葉が

どこから来たものかわかってもらわなければ困るから

神さまはここまではっきりときかせてくださった。

 

とすると、このイエスさまの言葉とセットで成就するであろうこの預言はどうなるのか。

 16:17わたしの目は彼らのすべての道を見ているからである。みなわたしに隠れてはいない。またその悪はわたしの目に隠れることはない。 16:18わたしはその悪とその罪の報いを二倍にする。彼らがその忌むべき偶像の死体をもって、わたしの地を汚し、その憎むべきものをもって、わたしの嗣業を満たしたからである」。

 

前回の記事の最後に私はこう書きましたが

どこに行っても逃れることのできない大きな青い空につつまれ、

出エジプト記のように昼はわきあがる白い雲に導かれ、

ひとあしひとあし自分の道を歩んでいく。

これはエレミヤ書16章17節に対する自分自身としての解釈であり応答でありました。

 

地球に酸素や水を供給してくれる大気圏のごとく
大地は神さまに包まれている。
包まれていない場所はどこもない

だから大空が雨を降り注いでくれるように
神さまは恵みを雨のように降り注いでくださる。

そして、

神さまはエジプトを脱出したイスラエルの民のように私たちを導いてくださるので
私たちは決して道を間違えることはない
私たち神さまの御言葉に導かれ、
そのあとに従って歩んでいく、ということ。

しかし、

これは信仰による「応答」なのであって
応答しない者はいるわけです。

となると
「地球に酸素や水を供給してくれる大気圏のごとく
大地は神さまに包まれている。
包まれていない場所はどこもない」
という事実は恵みとはならずわざわいをもたらし

雲が見えようと火が見えようと
従わないから
神さまは敵となり
エジプトのように滅ぼされる。

 

 

マラキ書の最後、4章にもこう書いてあります。

4:1万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。 4:2しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。 4:3また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。
4:4あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
4:5見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。 4:6彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない、と語られる一方で

わが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えているというのはどういうことかと言えば

同じとき、同じ大地に存在する人々に明確な差が生じるわけです。

「同じ現象」が別の結果をもたらす。

高ぶる者と、悪を行う者にとっては「焼き尽くされて何も残されない」恐怖の太陽かもしれないけれども

主の御名を恐れる人々にとってはそれは「義の太陽」であり「癒しがある」わけです。

 

マラキだけでなくイザヤも

65章13節でこういう描写を行っています。

それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わがしもべたちは食べる、
しかし、あなたがたは飢える。
見よ、わがしもべたちは飲む、
しかし、あなたがたはかわく。
見よ、わがしもべたちは喜ぶ、
しかし、あなたがたは恥じる。

食べて飲む者が存在する一方で飢えて渇く者もそこに存在する

喜ぶものが存在する一方で恥を受けるものが存在する

と語ります。

 

これについてはイエスさまもマタイによる福音書25章で同じようなことを語っておられます。

25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。

人を「分ける」と語っておられる。

神さまが人を「分ける」

その時代、その時に、そこにいる人間が二つに分けられる、と

イエスさまは語られます。

そしてこのことについては25章に至る前の24章でも

イエスさまは創世記のお話しをよく知る人々に向けてこう語られました。

 

24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

 

 

ノアの箱舟を思い出してください。

洪水が襲ってきたときに助かった人は箱舟の中にいた人です。

箱舟の中にはノアの悪い息子(ハム)も乗っているわけですから

とりあえずノアの一族(彼の言葉を聞いて乗った人々)です。

で、マタイ24章のこの箇所でイエスさまはこう語っています。

「洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。」

まさか洪水が来るとは思わなかった人はノアをあざけりました。

その結果、洪水によって「いっさいのもの」がさらわれるわけですが

洪水が終わったあと大地に残っているのは

ノアをあざけった人たちですか?それともノアたち一族ですか?

 

以前「残りの者」という旧約の思想について言及しました。

旧約聖書では一貫して「残っている方が」良いのです。

ところがこのマタイ24章では40節にあるように「取り残される」と訳されていてなんとなく残っている方が悪いように印象付けられるわけですが

ギリシャ語を読んでも同じような印象しか持てないわけです。

ただ、どう考えたとしてもノアの洪水の場面で「さらわれてしまっていなくなった人たち」が正しい人たちであると解釈するのはおかしいわけで、洪水のあとも生き残っている人たち、つまり「残された人たち」の方が

神さまの目から見て正しいはずです。

ギリシャ語の新約聖書を重んずる文化、律法は終わったとか言って旧約を重視しない文化にあってはこんなことを言っても受け入れられず、さらわれた方が義人であるという発想になることはいたしかたないですが、

聖書全体を一つと考えてストーリーを追っていくとき、

聖書全体が一つとは考えない人が自分自身の文化や理解であてがった「ギリシャ語」という「翻訳された語」が

ギリシャ語をなぜ「翻訳された語」だと言い切るのかと言えば、

イエスさまは絶対にギリシャ語で語られてはいなかった、と考えるからですが

翻訳された語が本当に正しいものであるのか否か

旧新約聖書全体を眺めわたすことのできる私たちは気を付けなければいけないと

不都合な真実をいろいろ知ってしまった最近では、特に思うようになりました。

 

さて、話を戻します。

イエスさまは「人間をとる漁師」に関連して

マタイによる福音書22章でも解説しておられます。

それから僕たちに言った、『(略)だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。

そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。

王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、

彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。

そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

「僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった」と書かれているこれが「人間をとる漁師」の仕事です。

そしてここでも集められた人々が選別されるということが語られます。

ここでは礼服という言葉を用いて

それを着ているかいないかという一点において分け、着ていないものは外の暗闇に放り出されると書かれています。

 

そしてそれは

婚宴が始まる前に行われるということがわかります。

2023年8月28日月曜日

マルコによる福音書1章17節 「漁師」1

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコ1章17節(口語訳) 

マルコが記録した「イエスさまの言葉」。

一番初めのものはマルコによる福音書1章15節

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。

そして、二番目のものとして記録されているのは、ガリラヤ湖で網を打っていた漁師の兄弟シモンとシモンの兄弟アンデレに語られた17節の言葉です。

 

 

「漁師」という言葉を日本聖書協会の聖書本文検索で調べてみると、

口語訳聖書では新約聖書のマタイ、マルコ、ルカに登場するだけですが、

聖書協会共同訳聖書ではその三書に加え、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書にも漁師という訳語が登場することがわかります。

 

著作権の関係でなるべく口語訳聖書から引用したいので口語訳聖書でイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書の該当箇所を見るとそこには「漁夫」という言葉がありました。

イザヤ19:8 漁夫は嘆き、
すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、
網を水のおもてにうつ者は衰える。

エレミヤ16:16 主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。 

エゼキエル47:10すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。 

 

次にBIBLE HUBでヘブライ語聖書のイザヤ書19章8節を見ると

漁夫に該当するヘブライ語は Strong's Hebrew 1771 דַּיָּגであるということがわかります。

で、この言葉は旧約聖書では二か所に登場していてそのもう一か所はエレミヤ書16章16節ということでした。

イザヤ書ではהַדַּיָּגִ֔יםという形で登場しているのでhad-day-yā-ḡîm,であるのですが、

エレミヤ書では二通りの可能性があるようで [לְדַוָּגִים  כ]  (לְדַיָּגִ֥ים  ק) 

右側の綴りであればlə-ḏay-yā-ḡîmということでイザヤ書と同じיヨッドの入った単語ですが、

左側の綴りだとlə-ḏaw-wā-ḡîmということでוヴァヴの音が入ることになります。

でヨッドではなくヴァヴが入っている単語がちょうど

エゼキエル書47章10節の「漁夫」に当たるヘブライ語でありまして、

エゼキエル書47章10節のところをヘブライ語聖書で見るとそこには1771番ではなく1728番と書かれていまして

 Strong's Hebrew 1728 דַּוָּג 

で、本文ではדַּוָּגִ֗ים という形で登場しており、これはちょうどエレミヤ書のヴァヴの入ったものと同じ形でdaw-wā-ḡîmとなります。

 

いずれにしてもこの「漁夫」にあたる単語は

Strong's Hebrew 1709  דָּג dag 

これは「魚」を意味する単語ですが、この言葉が元になってできた言葉です。

この1709番の単語は「魚」という意味と「釣り」という意味で旧約聖書に合計19回登場します。

 

ブログでも頻度高く登場するイザヤ書のヘブライ語を見ていると、

トーラーに用いられている単語を使った造語、

つまり、古くからあるヘブライ語を少し変化させて新しい言葉を作っているという印象を受けます。

トーラーという変えてはいけない言葉

そういう共通理解をもっているという前提がしっかりある上で、

神さまは預言者を通して、トーラーをよく理解していないとわからない「謎」を語っている、というような印象を受けます。(個人の感想です)

 

魚を意味する דָּג の間にיヨッドが入るかוヴァヴが入るか

いずれにしてもイエスさまが一点一画とおっしゃった文字であり、

その文字は神聖四文字を構成する大切な二文字であるわけです。

預言書に登場している「漁夫」=「漁師」という言葉に

神さまの御心、御手が深くかかわっているという印象を受けます。

もっとも、預言書なのですから、それ以外の何があろうか、ということではありますが。

そういう旧約の言葉を思いながら

もう一度マルコ1:17に戻ってみたいと思います。

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マルコ1章17節

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

というイエスさまがご自身が語られた言葉の次に

「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」

という言葉をイエスさまがご自身が語られた言葉として記録したマルコ。

もしかしたら彼は

イエスさまの御生涯とその教えを思い返してエゼキエル47:10の幻を思い出していたかもしれません。

דַּוָּגִ֗ים daw-wā-ḡîm

「人間をとる漁師」という言葉を聞いたマルコの耳にはその言葉が聞こえていたのかもしれません。

そして、ヨッドではないヴァヴの音に、天から降(くだ)られた神の御言葉であられる御子を感じ取ったかもしれません。

 

エゼキエル書47章1~12節を引用します。

そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水が宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。

彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。


その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。

彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。

彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。

彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。


それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。

わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。

彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。

おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。

すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。

川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

 

豊かな水!豊かな命!

喜びに満ち溢れた景色が見えます。

 

「エゼキエル書47章daw-wā-ḡîm

しかしマルコはそう考えながらも、

主の十字架を目撃して

 

エレミヤ書16章の預言を思い出したかもしれません。

 

もしも「漁師」という単語に、内容としての違いが反映されるということであれば

エレミヤ16章はイザヤ書19章と同じḏay-yā-ḡîmとする方が正しいのかもしれません。

 

 

 

いずれにしても

イエスさまの到来は終わりの始まりだということです。

弟子たちは最後に向かって

しかしそれは、決して暗く悲惨な最後ではなく

豊かな命溢れるエゼキエル書47章の楽園があるのだと信じて

イエスさまの後ろを行きます。

「わたしについてきなさい。」と語られたその言葉は

21世紀の今も世界中の人々の心に響いています。

そして、

どこに行っても逃れることのできない大きな青い空につつまれ、

出エジプト記のように昼はわきあがる白い雲に導かれ、

ひとあしひとあし自分の道を歩んでいく。

 

心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。箴言3章5,6節

 

 

新約聖書で「漁師」と訳されている言葉は

Strong's  Greek 231 ἁλιεύς halieus

新約聖書には5回登場しています。

Strong's Greek: 231. ἁλιεύς (halieus) -- a fisherman

 

 

つづく

2023年8月25日金曜日

箴言11章25節の「ברכה」から

箴言11章25節を読んでいたら Strong's Hebrew 1293בְּרָכָה という言葉がありました。

これも英語で言うところのblessingであり、以前こだわっていた祝福という言葉、1288番のバラクから出たとされる 言葉です。

BIBLE HUBで11章25節のヘブライ語と英語の対訳を見ると、blessingではなく

generousという言葉がありました。

generousは寛大とか気前がいいという意味ですから、「祝福する」という言葉はそんな風に訳すせる言葉なのか、と気付かされました。

気前がいいという言葉を聴くと、マタイ20章15節を思い出します。

自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか

ここの「気前よく」という言葉は Strong's Greek 18 ἀγαθός agathosで

本質的に良い、本質的に良い、そう見えるかどうかに関わらず良い、

神に由来し、信仰を通じて人生において神によって力を与えられるものをあらわす言葉だそうです。