2023年1月20日金曜日

それでもあれは「獣の刻印」ではない

私は昨今の「ワ」については獣の刻印であるとは思っておりません。
666をヘブライ語に翻訳するとかぎりなくコロナウイルスのスパイクのように見え恐ろしく思いましたが
少なくとも今回の「ワ」に関して言えば
それは「獣の刻印」ではないと思います。
なぜならばヨハネはこう言っているからです
 
 
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。ヨハネの黙示録13章16節(聖書協会共同訳)
 
 
 
 
「すべての者にその右手か額に刻印を押させた」とありますが
 
 
すべての者は打っていません。少なくとも私は打っていません。
そして誰一人「右手か額」には打っていません。
 
額はすぐに「打ってない」とわかりますが、もしかすると「手」という言葉に引っかかる方がいらっしゃるかもしれませんので根拠を書きます。
黙示録のこの箇所をギリシャ語の聖書で見ると、
「右手」という言葉は「右」という言葉と「手」という言葉の二つの言葉で表現されています。

「手」という言葉はStrong's Greek 5495
χειρὸς (cheiros)
これは腕ではなく「手」なのです。
筋肉注射を打つ場所は「手」ではなく「腕」です。
聖書ギリシャ語には「腕」を表す言葉が別にあります。
βραχίων  Strong's Greek 1023 brachión
 
 
聖書ヘブライ語でも「腕」は、例えば創世記49章24節で腕と訳されている
זְרוֹעַ zeroaという言葉があり

「手」は創世記3章22節や8章9節で手と訳されている
יָד yadという言葉があり、腕と手は区別されています。
そして「手」であっても「右手」は
旧約聖書を読めばわかる通り神さまが救ってくださる御手なので、特別な言葉があります。
יָמִין yamin
 



ですから、この黙示録を書いたのが本当に使徒ヨハネであり
ヨハネによる福音書と呼ばれる福音書を記した人物と同一であるとするならば、
つまり、福音書の冒頭でハ・トーラー「生けるまことのトーラー」であるイエシュアを告白する弟子ヨハナンの書である黙示録という前提が崩されない限り
この黙示録13章に書かれた「右手」という言葉はトーラーが語るところの「右手」と同一のものであり、
「ヨハネの言ってた刻印は右の腕にした筋注のことかもしれないよ」ということにはなり得ないのです。
 
また、仮に、ギリシャ語で表現されている二語のうちの「手」という言葉を手なのか腕なのか判別しないとしても、
マタイの福音書25章にのこされた
イエスさまの語られた「右」という言葉が示す「右」という言葉の持つ特殊性を踏まえるならば(引用は聖書協会共同訳)
 
33節
羊を右に、山羊を左に置く。
34節
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 
左ではなく「右」に刻印を押されるというのは、単なる物理的な問題ではないのかもしれません。
 
 

本日のタイトルに書いた内容につきましては以上ですが
 
 




せっかくなので「刻印」という言葉について調べたことも記しておこうと思います。
 
 
 
日本聖書協会の聖書本文検索で「刻印」という語を検索すると
聖書協会共同訳聖書では

ヨブ記、黙示録、そして旧約聖書続編のシラ書にしかありません。
ヨブ記38章14節
地は刻印を押された粘土のように変わり
上着のように彩られる。(聖書協会共同訳)
(シラ書の言葉につきましては日本聖書協会の聖書本文検索をご利用ください。)
 
新共同訳では

黙示録のほか旧約聖書続編の知恵の書シラ書エズラ記(ラテン語)がヒットしますが、
 
つまり「刻印」という言葉は、
プロテスタントのクリスチャンたちにとって
「黙示録にある、もしくは、黙示録にしかない特殊な言葉」という印象の強い単語であると言えます。
 
ではギリシャ語聖書ではどうなのか、ということですが、
 
ヨハネの黙示録の「刻印」という言葉をBIBLE HUBで調べると
 
χάραγμα (charagma) Strong's Greek 5480 だとわかりました。
 
これの単語は
ヨハネの黙示録13:16 、13:17 、14:9 、 14:11、16:2 、19:20 、20:4 に登場します。
 
そして、ヨハネの黙示録以外では新約聖書にもう一か所だけ、
charagmaにτιが付いた形で使徒17:29に登場します
χαράγματι(charagmati
口語訳聖書では「彫り付けた」
聖書協会共同訳聖書では「刻んだ」と訳されています
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。(口語訳)
私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。(聖書協会共同訳)
 
Strong's Greek 5480についてBIBLE HUBのHELPS Word-studiesにはこう書かれています。
(以下グーグルに翻訳してもらったものを引用しています)
 
正しくは、彫刻 (エッチング); (比喩的に)当事者間に反論の余地のないつながりを与えるシンボルのように、否定できない識別を提供するマーク。
xáragma(「ブランド マーク」) は、もともと、金型 (スタンプ、焼印) の彫刻家によって使用される、コインまたはシールの刻印でした。 5480 ( xáragma ) は後に「識別マーカー」になりました (所有者固有の「ブランドマーク」と同様)。
「当事者間に反論の余地のないつながりを与えるシンボルのように、否定できない識別を提供するマーク 」
なるほど、と思えます。
 
 
 
さて、
 
福音書で、網の中に魚が「153匹」入っていた!とか言ってしまうヨハネが書き遺したとされる黙示録という書物は、
なんだか謎めいていて、読み取ることや理解することはとても難しい~という印象を受けます。
ただ、
何かを書き遺そうと思った書き手の心境を想像するならば、
読んだ人々が全く理解できないようなことを書くはずはないわけです。

 
そもそも、ヨハネの黙示録の1章1~3節(口語訳)にはこう書いてあるのです。
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
 
ヨハネは、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」と言っていますから
朗読してもらったものを聞いただけでも理解でき、守れることが書かれているということになります。
 
とすると、黙示録は難解な書物だと言っている人々は
ヨハネの想定している読者とは異なる人々であるかもしれません。
 
たとえば
私が「群馬県で小学生時代を過ごした子供たち」を対象に本を書いて死に(笑)死後どこかで私の本が発見されたとします。そして、そこにはこんなことが書いてあった、とします。
 
 
「私はしーんと静まり返った体育館のステージに立ち、一呼吸置き、あたりを見回すと、今自分に出せる精一杯の大声で叫んだのだった『ライトカラ・・・(ドドドドドドドドドバババババ・・・)」
 
 
 
おそらく、群馬で小学生時代を過ごした子供たちであれば、この著者は今何をしているところであるか、そして何を言っているのか「朗読してもらうだけで」瞬時にわかるはずです。
 
しかし、群馬県で小学生時代を過ごしていない方がこの文を朗読されても、たとえ文字で読んだとしても、私が何をしているのかということはもちろん、叫んだ内容についてもきっとわからない。(笑)

群馬県で小学生時代を過ごしていない方、どころか、この文が他の言語に翻訳されたりしたら、いったいどうなることか(笑)
「らいとから」とはいったい何であるのか
右方向から何が来た?右方向が空っぽ?野球してた?
人によっては照明器具の色に関係あるかも?とか思うかもしれません。

 
しかし、群馬県で小学生時代を過ごした子供たちに聞かせたら一瞬で意味が分かるはずです。私が何をやっていたのか、何を叫んだのか、そしてその季節までわかってしまうわけです。

 
 
話を戻します。

 
本当に黙示録があの使徒ヨハネによって書かれたのだとすれば、(そうでないのなら何とも言えませんが)
ハ・トーラー=The Torah=生けるトーラーであられる御子イエシュア
そのお方に愛された人です。
福音書の冒頭で創世記と御子を描く彼が
「律法と預言者」からはみ出したことを読者に期待(要求)するはずはない、と個人的には思っています。
 
黙示録がわからない、難しいと敬遠せず、
そして、解釈を不信者の手に任せるのではなく、
律法と預言者からはみ出さない黙示録理解に努めたい、と、心の底から思います。
キリスト教の「正典」・・・だと聞いておりますので。
(まったく善良ではありませんが一応キリスト者であるつもりなので)

 
 
さて、
 
先日「イザヤ書33章22節」という記事を書いたときのことでした。
 
何度も何度もイザヤ書33章22節を読み、いつものようにノートにその個所をヘブライ語で書き写し、
כי יהוה שפטנו יהוה מחקקנו יהוה מלכנו הוא יושיענו׃
すると、
私の好きな文字קクフが二つも並んでいる語がありました。
 
 
で、なんだこれは?と調べたら
חָקַק Strong's Hebrew 2710 chaqaq (khaw-kak')
 
主こそ私たちを裁く方。
主は私たちを指揮される方
主は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
聖書協会共同訳聖書で言うところの「指揮される方」という言葉にあたるヘブライ語でした。
 
 
そして、いつものようにコンコルダンスを見ましたら、Strong's Hebrew 2710のこの言葉は
聖書ではまず創世記49章10節に登場する言葉だ、ということがわかりました。
 
王笏はユダから離れず
統治者の杖は足の間から離れない。
シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。創世記49章10節(聖書協会共同訳)
 
「統治者の杖」とかかれているところがStrong's Hebrew 2710の言葉にあたる部分です。
 
さらにBIBLE HUBを眺めわたすと
 
この創世記49:10と同様、
「指揮をする」とか「統治する」という言葉として2710番が使われている箇所もありますが
(民数記21:18 申命記33:21 士師記5:9、 5:14 詩篇60:7、108:8)
Strong's Hebrew 2710の定義はそもそも「刻む」とか「記す」ということで、
定義通りの訳がつけられている箇所もありました。
 
ヨブ記19:23「刻まれるように」
どうか私の言葉が書き留められるように。
どうか碑文に刻まれるように。(聖書協会共同訳)
 
イザヤ書49:16「刻みつけた」
見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。
あなたの城壁は常に私の前にある。(聖書協会共同訳)
 
 
 
日本語だけを読んでいると「刻む」と「統治する」は似ても似つかぬ言葉ですが、
ヘブライ語では同一の単語なのですね。
 
もっとも、時代や文化的な背景を考えてみれば、刻むことが統治するという意味に至る過程を想像できないことはないけれど
 
・・・とここまで考えたときヨハネの語る「刻印」という言葉が思い出されました。
 
 
 
ヨハネの語る刻印とは
ヘブライ語の表現を踏まえて読むならば
だれの支配を受け入れるのか、だれの教えに基づいて行動するのか、ということなのではないか。
 
イザヤ書33章22節の「指揮される方」と訳されるところについて
New American Standard Bibleでは「lawgiver」
そして、JPS Tanakh 1917では「主」という言葉を「大文字のL」で書き始めるのと同様に大文字のLをつかって「Lawgiver」と訳されていました。
だれかによって指揮される、統治されるということはその「法」を受け入れるということ。
「法を受け入れる」イコール「刻まれる」!

 
 
ところで、

ヨハネの黙示録に描かれる「獣の刻印」は
すべての人が押されたはずなのに、20章4節を見ると押されていない人々というのが存在しているのです。
 
 
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(口語訳)

・・・断われるのですね刻印



とにかく
しっかり目を覚ましていなければ。
 
 
 
押されるならば7章の印がいいですねえ。
 
7章1~4節を引用します
この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
ヨハネの黙示録7章1~4節
もちろんこのところにある「印」は刻印とは異なるギリシャ語で
σφραγῖδα sphragidaというものです。
ヨハネの黙示録では6章にある「封印」と書かれているところにこの語がつかわれています。
この言葉はσφραγίς Strong's Greek4973が元の言葉です。
そして、「印を押す」という動詞は
σφραγίζω Strong's Greek 4972 sphragizó
動詞である4972番はヨハネの書いた福音書の3章33節で使われています。
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
(口語訳)
また、同じヨハネによる福音書6章27節にも使われています。
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである。(聖書協会共同訳)
そしてエペソ人への手紙1章13節でパウロもこう書いています。
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。 (口語訳)

2023年1月12日木曜日

イザヤ書33章22節

はわれわれのさばき主、
はわれわれのつかさ、
はわれわれの王であって、われわれを救われる。イザヤ書33章22節(口語訳)
こそ私たちを裁く方。
は私たちを指揮される方。
は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
כי יהוה שפטנו יהוה מחקקנו יהוה מלכנו הוא יושיענו׃
これまではそれほど切羽詰まった思いではなく読んでいたこの御言葉でしたが
最近は本当に切実な思いで読んでいます。
 
なんだかんだ言って、
平和な日本だったのです。
そういう「戦後の昭和」に生まれた自分にとって
「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」というイザヤ書9章2節(口語訳)の言葉は
「クリスマス」という
「過去」に成就し完了したものでしかありませんでした。


私のようなクリスマスを単なるイベントとして消化するだけだった寝ぼけた馬鹿者は
長い長い間、「救い」を個人的な御利益のようにしかとらえることができず

祈りが聞かれるの聞かれないの
病気が治るの治らないの
 
そんなものだったのです。
 
 
しかし、んなこたぁどうでもいい!
そんなことは!
 
正直言って
 
もはやそんなことを言っている状況にはない!それが自分の今の心境です。


 
毎朝毎朝新しい新聞が届くたび
並んでいるのは置き場のないほどのたくさんの棺。
老いも若きも あの人もこの人も
この間の救急車はこの方の・・・と気付かされる。
台所の戸棚にあふれかえる香典のお返し。
 
テレビをつければ
バベルの塔の言葉、うそにまみれた強欲な言葉。
弱い者をかえりみるようであり、その実(じつ)は真逆。
求めているのは自分だけの利益、豊かさ
自分さえよければほかの人はどうなろうと知ったこっちゃない
 
「死ぬ?死など恐れることはない。遺伝子を変えて永遠に生きようではないか!」
CMだってバベルの塔!美しいメロディ、知的で美しいアナウンスは
御霊様の神殿に恐れもなく偽のトーラーを入れてしまえといざなう。
 
私たちに御言葉を伝えてくださった宣教師のふるさとは、もはや義の言葉からは程遠く、
いかにしてその邪悪で強欲な手から逃れることができるのか
私の心の中にはそればかりがあります。
 
 
 
人々の間には亀裂、そして分断、闇、闇、闇!
 
 
 
 
 
 
・・・しかし、必ず救われる。
絶対に、絶対に、
邪悪なものをのさばらせたままにはしない。
主は来られる!
そして救ってくださる!
 
 
 
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。イザヤ書9章2節(口語訳)
 
主こそ私たちを裁く方。
主は私たちを指揮される方。
主は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
 
 
 
 
 
「救い」とは
「救われる」とは
 
 
 
ここまで恐怖を覚え
ここまで切実で
 
ここまでつらく悲しく
どうにもならない
逃げ場のないものからの救いだったのだ。
 
創世記に描かれた「罪」は熟し
ここまで
さらりと
全くそれと気付かないほどに
日常生活の中に
当然のこととして・・・
 
 
 
しかし、
私たちは救われ「た」
 
スクリーンに映し出されていた恐怖の場面は
スクリーンでしかない。
「それ」はそこに「ある」ように見えるが
「ある」わけではない。
 
そう、恐れなくてよいのだ。
今「ある」ようでも「それ」は終わっている。
 
なぜなら私たちは「あってあられる」お方にあがなわれた。
 
私たちは恐れる必要はない。
すでに主は勝利されているのだ。

 
 
それが「救い」だ。
 
 
恐れる必要はない
恐れる必要はない
恐れる必要はない

2023年1月6日金曜日

【調べ学習】わたしはある(2)

אהיה
あらためて43箇所のאהיהを含む日本語の聖句を読んでみました。
 
昨日書きましたように、
英語の翻訳聖書(NAS、KJV)で見ると43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけで、それ以外の34箇所にはNASまたはKJVの該当箇所が示されていません。
 
日本語の聖書でも「なる=成る」という動詞であることが確認できるものもありますが、補助動詞のような訳がつけられていたり
否、もしかしたら、補助動詞でもないのかもしれません。
昨日は日本語の聖句の単語から一生懸命「探し出して」これなのではないか?と太字にする部分を選んでみたのですが、もしかしたらそれは私の全くの見当違いで、口語訳聖書の中にאהיהאהיהというものとして存在していないのかもしれない。(さすがにאהיהについてはそれはないかなあ・・)
 
以前、אתというStrong’sの853番の単語について書いた事がありますが
ヘブライ語聖書を眺めるようになって初めて知った事として、
旧約聖書には相当な頻度で登場するのにちゃんと訳されていない謎ワードというのが少なからずある、ということがあります。
אתという単語もその一つなのですが、7034回も登場しているのにその存在をスルーしてしまえる心理が理解できないというか
まあ、わからないものはわからないのだから仕方ないのでしょうけれども、
「見えないお方を見る」ことが信仰にもかかわらず
「ある物を見なかったことにする」って
 
書いておけばいいのにねえ、「ここに入ってるのよ謎ワード」って。
たった二文字の事なんだからそのままそれを書いておけばいいと思うのですが。
 
実験の結果の数値をプロットしたのち、なんとな~くいい具合にスムーズなグラフ書くのとは違うんですから
「神さまの言葉」はちゃんと写してちゃんと読もうとしなければよろしくないのではないか、とか思うのはおかしいでしょうか。
 
 
しかも、今回のאהיהは出エジプト記3章14節の御言葉を構成する重要な要素であるわけです。
 
出エジプト記 3:14 ויאמר אלהים אל משה אהיה אשר אהיה ויאמר כה תאמר לבני ישראל אהיה שלחני אליכם׃
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
ここで「有る」と訳されているאהיהという単語、
よりによって神さまご自身がご自身について語られ表わされている単語を
…スルーしてもいいのでしょうかねえ。
たとえきれいなわかりやすい日本語にならなかったとしても
…もしもそれがあの時わたされた石の板に刻まれた言葉だったなら、
読めるか読めないかはともかくとしてとりあえずは端から端まで民に見せなければ…
…あ、見せないのか、教会は(;´Д`A ```どこかの政府と同じで愚かな民衆には見せてもどうせわからないとか思っていて、否、見せたらウソがばれるから見せないのかな。(と勘繰ってしまう)
 
 
そもそもאהיהは文字の構成を考えれば、どこから眺めても大切な単語のように見えます。
先頭の文字אアレフは昨日も書きましたが父なる神さまを表す文字で、
二文字目四文字目のהヘーは神聖四文字の二文字目四文字目の文字であり、アブラムがアブラハムになるときの「ハ」であり、息が吹き込まれて命が与えられるような意味を持つ文字です。
そしてיヨッドは小さな文字ですが神さまの御手(右手)を表している文字です。
イエスさまが語られた一点一画の一点にあたる文字だと言われています。
 
 
 
 
 
 
 
2015年に、私は通読の聖書を新改訳から新共同訳に替えました。
 
新改訳を使っている教会で受洗し、そのあとオープンブレズレンの集会に移ってからも新改訳が使われていたので長い間新改訳を愛読していたわけですが、
ある時、新共同訳聖書を開いて、衝撃を受けたことがあったのです。
忘れもしません。ヨハネによる福音書です。ヨハネによる福音書の中に、私はこれまで一度も見たことのなかった「とんでもないもの」を見てしまったのです。それがこの言葉でした。「わたしはある」
 
そんな言葉がまさかヨハネによる福音書にあったとは知らなかった。
しかも、カギカッコつきで「わたしはある」と書いてあるのです。
イエスさまが、そうおっしゃっていたのです。
 
それまで、イエスさまは一度だって私に
「わたしはある」なんておっしゃったことはなかったのです。
しかしその日、イエスさまは「わたしはある」とおっしゃった。
 
 
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ヨハネによる福音書8章 24節(新共同訳)
 
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
ヨハネによる福音書8章 28節(新共同訳)
 
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
ヨハネによる福音書8章 58節(新共同訳)
 
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
ヨハネによる福音書13章 19節(新共同訳)
ἐγώ εἰμι エゴーエイミ
 
もちろん、「私はある」とせず、新改訳聖書のように翻訳したって良いのでしょう。
 
しかし、
ヨハネは福音書の冒頭で「生けるまことのトーラーである御子」を描いているのです。
たとえיוחנן‎ヨハナンがΙωάννης イオーアンネースとされ、我々の知るところのヨハネとなり、彼の著作が彼の母語ではなくギリシャ語に変換されてしまっていたとしても、
彼がイエスさまの語られた言葉として伝えた「エゴーエイミ」というギリシャ語は単なる主語と動詞ではなく
「わたしはある」אהיהなのではないか。
 

 
それまでの私は、ただ単に、「通っていた教会で使われていた訳だから」とか「理解しやすい日本語で読みやすいから」という理由で翻訳された日本語の聖書を選んでいましたが
この「わたしはある」の一件以来、
ショックと恐怖で
 
 そして、とりあえず、あの日、私は
シェルターに逃げこむような気分で
新共同訳聖書に乗り換えたのでした。

2023年1月5日木曜日

【調べ学習】わたしはある(1)

今日は出エジプト記3章14節「わたしはある」という御言葉を調べてみました。
 
I AM WHO I AM の I AMにあたる部分のヘブライ語はאהיה ’eh-yeh 
Strong's Hebrew 1961הָיָה hayah の先頭にאが付いた形。
 
 
אアレフはウィキペディアで見ると起源は
「牡牛(ヘブライ語 אֶלֶף elef)の頭を描いた文字に由来する」とあり、
父なる神さまを表す文字です。
 
אהיהは聖書中に43回登場します。

 
ちなみに、英語の翻訳聖書(NAS、KJV)で見ると43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけのようでした。
内訳は
出エジプト記3章14節(3回)、士師記11章9節、ルツ記2章13節、サムエル記15章34節、ヨブ記10章19節、12章4節、17章6節。

 
 
さてそれでは、本日はまず
אהיה
43箇所、口語訳聖書でいうとどこなのか引用してみます。
ただ、口語訳は直訳とか対訳された聖書ではないので、ここかな?というところにつけた印=太字 は必ずしもぴったり訳語を示しているわけではありません。
 
出エジプト記 3:12 וַיֹּ֙אמֶר֙ כִּֽי־ אֶֽהְיֶ֣ה עִמָּ֔ךְ וְזֶה־
神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。
出エジプト記 3:14 ויאמר אלהים אל משה אהיה אשר אהיה ויאמר כה תאמר לבני ישראל אהיה שלחני אליכם׃
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
出エジプト記4:12: לֵ֑ךְ וְאָנֹכִי֙ אֶֽהְיֶ֣ה עִם־ פִּ֔יךָ
それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
出エジプト記4:15: בְּפִ֑יו וְאָנֹכִ֗י אֶֽהְיֶ֤ה עִם־ פִּ֙יךָ֙
あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、
この箇所は日本語だと二回「ある」という言葉が出てくるのですが、ヘブライ語では「あなたの口と彼の口と」という感じで共にあるものが二つまとめて書いてあるのでאֶֽהְיֶ֤הは一度だけ書かれています。
申命記31:23 לָהֶ֑ם וְאָנֹכִ֖י אֶֽהְיֶ֥ה עִמָּֽךְ׃
主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。
ヨシュア記 1:5 עִם־ מֹשֶׁה֙ אֶהְיֶ֣ה עִמָּ֔ךְ לֹ֥א
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨ることもしない。
モーセと共にいた、というところの「いた」というヘブライ語は同じ1961番ではありますがהָיִ֛יתִיです。
  אֶהְיֶ֣הではない、というこのあたりからも、単なる時制とかそういうこととは違う、「アレフの付いている1961番」という単語の意味が読み取れるような気がします。
ヨシュア記 3:7 עִם־ מֹשֶׁ֖ה אֶהְיֶ֥ה עִמָּֽךְ׃
主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。
この箇所でも、モーセと共にいた、というところの「いた」というヘブライ語は同じ1961番ではありますがהָיִ֛יתִיです。
士師記 6:16 יְהוָ֔ה כִּ֥י אֶהְיֶ֖ה עִמָּ֑ךְ וְהִכִּיתָ֥
主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。
士師記 11:9 לְפָנָ֑י אָנֹכִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לְרֹֽאשׁ׃
エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。
アレフ付きの1961番がこの箇所で初めて「エフタ」の意思表示というところで使われますが、
ここまでのאהיהの使われ方を意識するなら彼の言葉にどういう意味が込められているかということが見えるような気がします。
ヘブライ語の「文字」(書き言葉として伝達されるもの)には翻訳では読み取れないものが多くあるように思えます。
ルツ記 2:13 וְאָנֹכִי֙ לֹ֣א אֶֽהְיֶ֔ה כְּאַחַ֖ת שִׁפְחֹתֶֽיךָ׃
彼女は言った、「わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました」。
この箇所は「私は(まったく)違う、אֶֽהְיֶ֔ה、ひとり、あなたのはしため」という感じのヘブライ語になっています。
出エジプト記等の「ある」というאהיהを踏まえると、神さまが共にある存在というような特別な立場では全くないのに、という強い謙遜が感じられる??ということでしょうか。わかりませんが。
 
1 サムエル記18:18 בְּיִשְׂרָאֵ֑ל כִּֽי־ אֶהְיֶ֥ה חָתָ֖ן לַמֶּֽלֶךְ׃
ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。
「イスラエルの王」というものがどういう立場で
その婿というものがどういう立場であるのかということがאֶהְיֶ֥הという言葉から見えてきます。
この次↓23章17節も同様です。
 
1 サムエル記23:17 יִשְׂרָאֵ֔ל וְאָנֹכִ֖י אֶֽהְיֶה־ לְּךָ֣ לְמִשְׁנֶ֑ה
そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。
ヘブライ語にはאֶֽהְיֶהが一度だけ書かれています。「イスラエルの王となり」というところは「王になる」という一語の動詞で表現されていて、תִּמְלֹ֣ךְという一語で完了しています。
2 サムエル記7:14 אֲנִי֙ אֶהְיֶה־ לּ֣וֹ לְאָ֔ב
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。
「子となる」という方の「なる」は同じ1961番ですがアレフが先頭についている単語ではなく神さまの御手を表す י ヨッドが付いているこの単語が充てられています。יִהְיֶה
「わたしは彼の父となり」という「なる」には神さまご自身の御意思(御意志)が感じられ、
「彼はわたしの子となる」という「なる」には神さまご自身のお考えを御手によって行われる(間違いなく確実に成し遂げられる)という感じが読み取れるような気がします。
2 サムエル記15:34 אֲנִ֤י הַמֶּ֙לֶךְ֙ אֶֽהְיֶ֔ה עֶ֣בֶד אָבִ֤יךָ
しかしもしあなたが町に帰ってアブサロムに向かい、『王よ、わたしはあなたのしもべとなります。わたしがこれまで、あなたの父のしもべであったように、わたしは今あなたのしもべとなります』と言うならば、あなたはわたしのためにアヒトペルの計略を破ることができるであろう。
2 サムエル記16:18 (לֹ֥ו ק) אֶהְיֶ֖ה וְאִתּ֥וֹ אֵשֵֽׁב׃
ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。
2 サムエル記16:19 אָבִ֔יךָ כֵּ֖ן אֶהְיֶ֥ה לְפָנֶֽיךָ׃ פ
かつまたわたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。
・・・どれがどのヘブライ語に該当するのかよくわかりません
 
1 歴代誌17:13 אֲנִי֙ אֶֽהְיֶה־ לּ֣וֹ לְאָ֔ב
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。
1 歴代誌28:6 לְבֵ֔ן וַאֲנִ֖י אֶֽהְיֶה־ לּ֥וֹ לְאָֽב׃
主はまたわたしに言われた、『おまえの子ソロモンがわが家およびわが庭を造るであろう。わたしは彼を選んでわが子となしたからである。わたしは彼の父となる
 
ヨブ記3:16 טָ֭מוּן לֹ֣א אֶהְיֶ֑ה כְּ֝עֹלְלִ֗ים לֹא־
なにゆえ、わたしは人知れずおりる胎児のごとく、
光を見ないみどりごのようでなかったのか。
אֶהְיֶ֑הの前にלֹ֣אという否定語を置いて強く否定している。
つまり、そうなるように神さまがしてくださらなかった、という感じ?
ヨブ記10:19 לֹא־ הָיִ֣יתִי אֶהְיֶ֑ה מִ֝בֶּ֗טֶן לַקֶּ֥בֶר
胎から墓に運ばれて、
初めからなかった者のようであったなら、
よかったのに。
これも否定語לֹ֣אを置いて、そのあとで1961番を二回繰り返している。
で、前の方がהָיִ֣יתִי I had beenで
後の方がאֶהְיֶ֑ה 
信仰を持ちながらも揺れ動くヨブの気持ちが表れている?
ヨブ記12:4 שְׂחֹ֤ק לְרֵעֵ֨הוּ ׀ אֶֽהְיֶ֗ה קֹרֵ֣א לֶ֭אֱלוֹהַּ
わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、
その友の物笑いとなっている。
正しく全き人は物笑いとなる
ヨブ記17:6 וְתֹ֖פֶת לְפָנִ֣ים אֶֽהְיֶֽה׃
彼はわたしを民の笑い草とされた。
わたしは顔につばきされる者となる
 
正しく全き人が物笑いとなる、そして、顔につばきされる者になるのは
神さまの御意思(御意志)によるというニュアンスが読み取れるような気がします。
…イエスさまが見える…
 
詩篇50:21 דִּמִּ֗יתָ הֱֽיוֹת־ אֶֽהְיֶ֥ה כָמ֑וֹךָ אוֹכִיחֲךָ֖
あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、
あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。
しかしわたしはあなたを責め、
あなたの目の前にその罪をならべる。
・・・・難しい~~~どこだろう
 
雅歌 1:7 בַּֽצָּהֳרָ֑יִם שַׁלָּמָ֤ה אֶֽהְיֶה֙ כְּעֹ֣טְיָ֔ה עַ֖ל
わが魂の愛する者よ、
あなたはどこで、あなたの群れを養い、
昼の時にどこで、それを休ませるのか、
わたしに告げてください。
どうして、わたしはさまよう者のように、
あなたの仲間の群れのかたわらに、
いなければならないのですか。
 
 
イザヤ書3:7 לֵאמֹר֙ לֹא־ אֶהְיֶ֣ה חֹבֵ֔שׁ וּבְבֵיתִ֕י
その日、彼は声をあげて言う、
「わたしはいやす者となることはできません、
わたしの家にはパンもなく、外套もありません、
わたしを立てて、
民のつかさびとにしないでください」。
 
イザヤ書47:7 וַתֹּ֣אמְרִ֔י לְעוֹלָ֖ם אֶהְיֶ֣ה גְבָ֑רֶת עַ֣ד
あなたは言った、
「わたしは、とこしえに女王となる」と。
そして、あなたはこれらの事を心にとめず、
またその終りを思わなかった。
 
エレミヤ書11:4 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
この契約は、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄のかまどの中から導き出した時に、彼らに命じたところのものである。すなわち、その時わたしは彼らに言った、わたしの声を聞き、あなたがたに命じるすべてのことを行うならば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる
「民となり」というところの「なり」はוִהְיִ֤יתֶם
 
エレミヤ書24:7 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִ֑ים
わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。
「民となり」というところの「なり」はוְהָיוּ
 
 
エレミヤ書30:22 לְעָ֑ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
あなたがたは、わたしの民となり、
わたしはあなたがたの神となる」。
「民となり」というところの「なり」はוִהְיִ֥יתֶם
エレミヤ書 31:1 נְאֻם־ יְהוָ֔ה אֶֽהְיֶה֙ לֵֽאלֹהִ֔ים לְכֹ֖ל
「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。
「民となる」というところの「なる」はיִֽהְיוּ
エレミヤ書 32:38 לְעָ֑ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
そして彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 
「民となり」というところの「なり」はוְהָ֥יוּ
 
エゼキエル書 11:20 לְעָ֔ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。
「民となり」というところの「なり」はוְהָיוּ
エゼキエル書14:11 לְעָ֗ם וַֽאֲנִי֙ אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
これはイスラエルの家が、重ねてわたしを離れて迷わず、重ねてそのもろもろのとがによって、おのれを汚さないため、また彼らがわが民となり、わたしが彼らの神となるためであると、主なる神は言われる」。
「わが民となり」の「なり」はוְהָ֥יוּ
 
 
エゼキエル書34:24 וַאֲנִ֣י יְהוָ֗ה אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
 
エゼキエル書36:28 לְעָ֔ם וְאָ֣נֹכִ֔י אֶהְיֶ֥ה לָכֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。
「わが民となり」の「なり」は וִהְיִ֤יתֶם
エゼキエル書37:23 לְעָ֔ם וַאֲנִ֕י אֶהְיֶ֥ה לָהֶ֖ם לֵאלֹהִֽים׃
彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる
「わが民となり」の「なり」はוְהָיוּ
 
そして、神さまが私たちの神さまになってくださる、とおっしゃっているときには
アレフが先頭にある1961番であることは確定ですね。
 
しかし、この後登場するのはホセア書
ホセア書1:9 וְאָנֹכִ֖י לֹֽא־ אֶהְיֶ֥ה לָכֶֽם׃ ס
主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。
לֹֽא־ אֶהְיֶ֥ה 強い否定語の後にアレフが先頭にある1961番
 
 
ホセア書 14:5 אֶהְיֶ֤ה כַטַּל֙ לְיִשְׂרָאֵ֔ל
わたしはイスラエルに対しては露のようになる
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
よかった・・・悔い改めたイスラエルに対しては神さまは露のようになってくださる。
 
ゼカリヤ書 2:5 וַאֲנִ֤י אֶֽהְיֶה־ לָּהּ֙ נְאֻם־
主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり
 
ゼカリヤ書2:5 סָבִ֑יב וּלְכָב֖וֹד אֶֽהְיֶ֥ה בְתוֹכָֽהּ׃ פ
その中で栄光となる』と」。
 
ゼカリヤ書8:8 לְעָ֗ם וַֽאֲנִי֙ אֶהְיֶ֤ה לָהֶם֙ לֵֽאלֹהִ֔ים
彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせ、彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ』」。