私は昨今の「ワ」については獣の刻印であるとは思っておりません。
666をヘブライ語に翻訳するとかぎりなくコロナウイルスのスパイクのように見え恐ろしく思いましたが
少なくとも今回の「ワ」に関して言えば
それは「獣の刻印」ではないと思います。
なぜならばヨハネはこう言っているからです
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。ヨハネの黙示録13章16節(聖書協会共同訳)
「すべての者にその右手か額に刻印を押させた」とありますが
すべての者は打っていません。少なくとも私は打っていません。
そして誰一人「右手か額」には打っていません。
額はすぐに「打ってない」とわかりますが、もしかすると「手」という言葉に引っかかる方がいらっしゃるかもしれませんので根拠を書きます。
黙示録のこの箇所をギリシャ語の聖書で見ると、
「右手」という言葉は「右」という言葉と「手」という言葉の二つの言葉で表現されています。
「手」という言葉はStrong's Greek 5495
χειρὸς (cheiros)
これは腕ではなく「手」なのです。
筋肉注射を打つ場所は「手」ではなく「腕」です。
聖書ギリシャ語には「腕」を表す言葉が別にあります。
βραχίων Strong's Greek 1023 brachión
聖書ヘブライ語でも「腕」は、例えば創世記49章24節で腕と訳されている
זְרוֹעַ zeroaという言葉があり
זְרוֹעַ zeroaという言葉があり
「手」は創世記3章22節や8章9節で手と訳されている
יָד yadという言葉があり、腕と手は区別されています。
そして「手」であっても「右手」は
旧約聖書を読めばわかる通り神さまが救ってくださる御手なので、特別な言葉があります。
旧約聖書を読めばわかる通り神さまが救ってくださる御手なので、特別な言葉があります。
יָמִין yamin
ですから、この黙示録を書いたのが本当に使徒ヨハネであり
ヨハネによる福音書と呼ばれる福音書を記した人物と同一であるとするならば、
つまり、福音書の冒頭でハ・トーラー「生けるまことのトーラー」であるイエシュアを告白する弟子ヨハナンの書である黙示録という前提が崩されない限り
この黙示録13章に書かれた「右手」という言葉はトーラーが語るところの「右手」と同一のものであり、
「ヨハネの言ってた刻印は右の腕にした筋注のことかもしれないよ」ということにはなり得ないのです。
また、仮に、ギリシャ語で表現されている二語のうちの「手」という言葉を手なのか腕なのか判別しないとしても、
マタイの福音書25章にのこされた
イエスさまの語られた「右」という言葉が示す「右」という言葉の持つ特殊性を踏まえるならば(引用は聖書協会共同訳)
33節
羊を右に、山羊を左に置く。
34節
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
左ではなく「右」に刻印を押されるというのは、単なる物理的な問題ではないのかもしれません。
本日のタイトルに書いた内容につきましては以上ですが
せっかくなので「刻印」という言葉について調べたことも記しておこうと思います。
日本聖書協会の聖書本文検索で「刻印」という語を検索すると
聖書協会共同訳聖書では
ヨブ記、黙示録、そして旧約聖書続編のシラ書にしかありません。
ヨブ記38章14節
地は刻印を押された粘土のように変わり
上着のように彩られる。(聖書協会共同訳)
(シラ書の言葉につきましては日本聖書協会の聖書本文検索をご利用ください。)
新共同訳では
黙示録のほか旧約聖書続編の知恵の書とシラ書とエズラ記(ラテン語)がヒットしますが、
つまり「刻印」という言葉は、
プロテスタントのクリスチャンたちにとって
「黙示録にある、もしくは、黙示録にしかない特殊な言葉」という印象の強い単語であると言えます。
ではギリシャ語聖書ではどうなのか、ということですが、
ヨハネの黙示録の「刻印」という言葉をBIBLE HUBで調べると
χάραγμα (charagma) Strong's Greek 5480 だとわかりました。
これの単語は
ヨハネの黙示録の13:16 、13:17 、14:9 、 14:11、16:2 、19:20 、20:4 に登場します。
そして、ヨハネの黙示録以外では新約聖書にもう一か所だけ、
charagmaにτιが付いた形で使徒17:29に登場します
χαράγματι(charagmati)
口語訳聖書では「彫り付けた」
聖書協会共同訳聖書では「刻んだ」と訳されています
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。(口語訳)
私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。(聖書協会共同訳)
Strong's Greek 5480についてBIBLE HUBのHELPS Word-studiesにはこう書かれています。
(以下グーグルに翻訳してもらったものを引用しています)
(以下グーグルに翻訳してもらったものを引用しています)
正しくは、彫刻 (エッチング); (比喩的に)当事者間に反論の余地のないつながりを与えるシンボルのように、否定できない識別を提供するマーク。
xáragma(「ブランド マーク」) は、もともと、金型 (スタンプ、焼印) の彫刻家によって使用される、コインまたはシールの刻印でした。 5480 ( xáragma ) は後に「識別マーカー」になりました (所有者固有の「ブランドマーク」と同様)。
「当事者間に反論の余地のないつながりを与えるシンボルのように、否定できない識別を提供するマーク 」
なるほど、と思えます。
さて、
福音書で、網の中に魚が「153匹」入っていた!とか言ってしまうヨハネが書き遺したとされる黙示録という書物は、
なんだか謎めいていて、読み取ることや理解することはとても難しい~という印象を受けます。
ただ、
何かを書き遺そうと思った書き手の心境を想像するならば、
読んだ人々が全く理解できないようなことを書くはずはないわけです。
そもそも、ヨハネの黙示録の1章1~3節(口語訳)にはこう書いてあるのです。
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
ヨハネは、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」と言っていますから
朗読してもらったものを聞いただけでも理解でき、守れることが書かれているということになります。
とすると、黙示録は難解な書物だと言っている人々は
ヨハネの想定している読者とは異なる人々であるかもしれません。
たとえば
私が「群馬県で小学生時代を過ごした子供たち」を対象に本を書いて死に(笑)死後どこかで私の本が発見されたとします。そして、そこにはこんなことが書いてあった、とします。
「私はしーんと静まり返った体育館のステージに立ち、一呼吸置き、あたりを見回すと、今自分に出せる精一杯の大声で叫んだのだった『ライトカラ・・・(ドドドドドドドドドバババババ・・・)」
おそらく、群馬で小学生時代を過ごした子供たちであれば、この著者は今何をしているところであるか、そして何を言っているのか「朗読してもらうだけで」瞬時にわかるはずです。
しかし、群馬県で小学生時代を過ごしていない方がこの文を朗読されても、たとえ文字で読んだとしても、私が何をしているのかということはもちろん、叫んだ内容についてもきっとわからない。(笑)
群馬県で小学生時代を過ごしていない方、どころか、この文が他の言語に翻訳されたりしたら、いったいどうなることか(笑)
「らいとから」とはいったい何であるのか
右方向から何が来た?右方向が空っぽ?野球してた?
人によっては照明器具の色に関係あるかも?とか思うかもしれません。
しかし、群馬県で小学生時代を過ごした子供たちに聞かせたら一瞬で意味が分かるはずです。私が何をやっていたのか、何を叫んだのか、そしてその季節までわかってしまうわけです。
話を戻します。
本当に黙示録があの使徒ヨハネによって書かれたのだとすれば、(そうでないのなら何とも言えませんが)
ハ・トーラー=The Torah=生けるトーラーであられる御子イエシュア
そのお方に愛された人です。
福音書の冒頭で創世記と御子を描く彼が
「律法と預言者」からはみ出したことを読者に期待(要求)するはずはない、と個人的には思っています。
黙示録がわからない、難しいと敬遠せず、
そして、解釈を不信者の手に任せるのではなく、
律法と預言者からはみ出さない黙示録理解に努めたい、と、心の底から思います。
キリスト教の「正典」・・・だと聞いておりますので。
(まったく善良ではありませんが一応キリスト者であるつもりなので)
さて、
先日「イザヤ書33章22節」という記事を書いたときのことでした。
何度も何度もイザヤ書33章22節を読み、いつものようにノートにその個所をヘブライ語で書き写し、
כי יהוה שפטנו יהוה מחקקנו יהוה מלכנו הוא יושיענו׃
すると、
私の好きな文字קクフが二つも並んでいる語がありました。
で、なんだこれは?と調べたら
חָקַק Strong's Hebrew 2710 chaqaq (khaw-kak')
主こそ私たちを裁く方。
主は私たちを指揮される方。
主は私たちの王。
この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳)
聖書協会共同訳聖書で言うところの「指揮される方」という言葉にあたるヘブライ語でした。
そして、いつものようにコンコルダンスを見ましたら、Strong's Hebrew 2710のこの言葉は
聖書ではまず創世記49章10節に登場する言葉だ、ということがわかりました。
王笏はユダから離れず
統治者の杖は足の間から離れない。
シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。創世記49章10節(聖書協会共同訳)
「統治者の杖」とかかれているところがStrong's Hebrew 2710の言葉にあたる部分です。
さらにBIBLE HUBを眺めわたすと
この創世記49:10と同様、
「指揮をする」とか「統治する」という言葉として2710番が使われている箇所もありますが
(民数記21:18 申命記33:21 士師記5:9、 5:14 詩篇60:7、108:8)
Strong's Hebrew 2710の定義はそもそも「刻む」とか「記す」ということで、
定義通りの訳がつけられている箇所もありました。
ヨブ記19:23「刻まれるように」
どうか私の言葉が書き留められるように。
どうか碑文に刻まれるように。(聖書協会共同訳)
イザヤ書49:16「刻みつけた」
見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。
あなたの城壁は常に私の前にある。(聖書協会共同訳)
日本語だけを読んでいると「刻む」と「統治する」は似ても似つかぬ言葉ですが、
ヘブライ語では同一の単語なのですね。
もっとも、時代や文化的な背景を考えてみれば、刻むことが統治するという意味に至る過程を想像できないことはないけれど
・・・とここまで考えたときヨハネの語る「刻印」という言葉が思い出されました。
ヨハネの語る刻印とは
ヘブライ語の表現を踏まえて読むならば
だれの支配を受け入れるのか、だれの教えに基づいて行動するのか、ということなのではないか。
イザヤ書33章22節の「指揮される方」と訳されるところについて
New American Standard Bibleでは「lawgiver」
そして、JPS Tanakh 1917では「主」という言葉を「大文字のL」で書き始めるのと同様に大文字のLをつかって「Lawgiver」と訳されていました。
だれかによって指揮される、統治されるということはその「法」を受け入れるということ。
「法を受け入れる」イコール「刻まれる」!
ところで、
ヨハネの黙示録に描かれる「獣の刻印」は
すべての人が押されたはずなのに、20章4節を見ると押されていない人々というのが存在しているのです。
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(口語訳)
・・・断われるのですね刻印
とにかく
しっかり目を覚ましていなければ。
押されるならば7章の印がいいですねえ。
7章1~4節を引用します
この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
ヨハネの黙示録7章1~4節
もちろんこのところにある「印」は刻印とは異なるギリシャ語で
σφραγῖδα sphragidaというものです。
ヨハネの黙示録では6章にある「封印」と書かれているところにこの語がつかわれています。
この言葉はσφραγίς Strong's Greek4973が元の言葉です。
そして、「印を押す」という動詞は
σφραγίζω Strong's Greek 4972 sphragizó
動詞である4972番はヨハネの書いた福音書の3章33節で使われています。
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
(口語訳)
また、同じヨハネによる福音書6章27節にも使われています。
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである。(聖書協会共同訳)
そしてエペソ人への手紙1章13節でパウロもこう書いています。
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。 (口語訳)