2022年12月28日水曜日

「初め」という言葉についてギリシャ語とヘブライ語の比較を試みる

Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.
בראשית היה הדבר והדבר היה את האלהים ואלהים היה הדבר׃
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネによる福音書1章1節(口語訳)
 ἀρχῇ  Strong's Greek 746
 beginning, originと定義されるギリシャ語arché
日本語では「初め」と訳されています。
ヘブライ語に訳された新約聖書でこの部分を見るとここには創世記1章1節の「初め」ということばがあります。
 
私たちは現在、新約聖書と言えばギリシャ語で書かれたものとその翻訳しか読むことはできません。
しかし、イエスさまも弟子たちもパウロもギリシャ語を母語としているわけではなく、
また、彼らは幼いころからトーラーに親しんできたユダヤ教徒ですから、
彼らが遺した言葉はトーラーが土台となっているはずです。
 
だとすれば、新約聖書で語られる言葉をより深く理解するためには、トーラーの理解は不可欠です。
 
ただ、本当にそうであるかどうか、それは素人の私が断言できることではありませんので、
 
トーラーに登場する特徴的な語句と共通の和訳が充てられているギリシャ語を調べ、
その言葉がどのような文脈で登場しているのか、ということを調べれば
直接的に旧約からの引用がなかったとしても
彼らの心の中にあるものの由来を知ることができるかもしれない、と思い。
 
手始めに今日は冒頭に書いたヨハネの言葉にある「初め」という言葉と
創世記1章1節のבראשיתについて調べてみようと思います。
 
 
 
新約聖書の記者たちは「初め」と訳されている言葉を記すとき、創世記1章1節の「初め」という言葉を心に置いていたのかどうか、ヨハネの1章1節以外の箇所について
ἀρχῇというギリシャ語の使われているみ言葉を確認したいと思います。
 
コンコルダンスによるとStrong's Greek 746は56回登場しているそうです。
以下口語訳聖書から引用します。
 
マタイ19:4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 
マタイ19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
マタイ24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
マタイ24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
 
 
マタイ19章そして24章21節はあきらかにトーラーである創世記を意識して「初め」という表現が使われている。
 
マルコ1:1神の子イエス・キリストの福音のはじめ
マルコ10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 
マルコ13:8民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
マルコ13:19その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
 
マルコもマタイと同様で、創世記を意識して「初め」という表現が使われている。  
 
ルカ1:2わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、 
ルカ12:11 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。
ルカ20:20そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。
 
ルカはマタイやマルコとは違い「高官」とか「支配」という風に訳されるところに使っているから、ヘブライ語のרֹאשׁ roshというニュアンス「体のてっぺんにある頭」という意味での「初め」
 
ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネ1:2 この言は初めに神と共にあった。
ヨハネ2:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。
ヨハネ6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
ヨハネ8:25そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。
ヨハネ8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
ヨハネ15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
ヨハネ16:4 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
 
ヨハネの文にある「初め」という語は創世記を意識しているというだけでなく、イエスさまが創造の初めから存在しておられた、つまり神さまご自身と全く同じお方であるというニュアンスも含ませている。
 
使徒10:11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
使徒11:5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。
使徒11:15そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。
使徒26:4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。
 
四すみという言葉に「初め」という意味の言葉が充てられているということからわかるのは、その入れ物の四すみとは外側の出っ張ったところという意味合いがあるのだろう。
他は、順番としての一番目ということを表現したり「もともと」という根源を表現することに使われている。根源を表すということにおいては、創世記を意識していると思う。
 
 
ローマ8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
一コリント15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべてのたち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
エペソ1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
エペソ3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、 
エペソ6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
ピリピ4:15ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
 
「始めた」=スタートさせた「当初」という意味
 
コロサイ1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
コロサイ1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
コロサイ2:10そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
コロサイ2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
支配=רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
18節は教会のかしら、最初に生まれたかた、第一の者、という言葉と並列しての「初めの者」ということで、根源=起源ということが強くあらわされていて、ベレシートのように聞こえる。
 
二 テサロニケ2:13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
だとするとこの「初めから選んで」という表現はベレシートのような意味合いでの、つまり「創世の初め」から選んで、ととらえてよいのかもしれない。
 
 
テトス3:1 あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
ヘブル1:10 さらに、
「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。
もろもろの天も、み手のわざである。
ヘブル2:3わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
ヘブル3:14もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
ヘブル5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 
ヘブル 6:1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、 
ヘブル7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
1章10節は創世記を意識しているが
以降は・・・パウロらしくないというか、本当にパウロが書いたのだろうか?
 
二ペテロ3:4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
創造の初め
 
一ヨハネ1:1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――  
一ヨハネ2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。 
一ヨハネ2:13父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。 
一ヨハネ2:14 子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。
一ヨハネ2:24 (2回)初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。
一ヨハネ3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。 
一ヨハネ3:11わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。 
 
ヨハネの言葉は創世記、トーラーが中心にある。
 
二ヨハネ1:5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。 
二ヨハネ1:6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。
ここでもトーラーが見える。
 
ユダ1:6 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。
 
地位=「そもそも」置かれた場所=「初め」に創造主が与えてくださった立場、それを捨て去った御使い。
 
黙示録3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
黙示録21:6そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
黙示録22:13わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
ここでもヨハネの言葉にはトーラーが見える。
 
ところで、黙示録にはもう一つの「初め」
つまり、ここまで調べてきた ἀρχῇ Strong's Greek 746ではない「初め」という言葉がある。
 
それは 2章4節にある「初め」
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
これは Strong's Greek 4413 πρῶτος prótos
NASB ではこのように翻訳されている。(カッコ内は回数)
before (3), best (1), first (128), first of all (2), first importance (1), first man (1), first one (1), first things (1), first time (1), foremost (5), leading (2), leading man (1), leading men (5), outer (3), previous (1).
 
 
Strong's Greek 746 ἀρχῇ arché
こちらは以下のように翻訳されているが
beginning (38), corners (2), domain (1), elementary (1), elementary* (1), first (1), first preaching (1), principalities (1), rule (4), rulers (6).
 
 
ヘブライ語で考えるとこれらは Strong's Hebrew 7225 רֵאשִׁית reshith 
NASB では
beginning (19), choice (2), choicest (3), finest (2), first (16), first fruits (7), foremost (2).
 
もしくは
Strong's Hebrew 7218 רֹאשׁ rosh
NASBでは
bands (1), beginning (11), beheaded* (1), best (1), best things (1), bodyguard* (1), captains (3), census (7), chief (35), chief men (6), chiefs (3), companies (7), company (5), corner (1), count (1), distant (1), divisions (1), ends (2), every (1), faced* (1), favor* (1), finest (2), first (12), full (2), hair (3), head (256), heads (129), laughingstock* (1), leader (4), leaders (8), leading man (1), leading men (2), masters (1), released* (1), ridge (2), rivers (1), sum (2), summit (7), themselves (1), top (51), topmost (2), topmost* (1), tops (15).
 
 
 


 
 
先月、「使徒18章21節にはパウロはエルサレムに行ってユダヤ教の祭りを祝う」ということが書かれていたはずなのに、現代の聖書のほとんどは、そう書かれていない底本から翻訳されているため
「なぜパウロがあの場面でエルサレムに行ってしまうのかは謎」とされている、という話を知り、
さらに昨日は、
Strong's Greek 4413 πρῶτος prótos を
上でStrong's Greek 746 ἀρχῇ archéと同様のやり方で調べたところ、
調べ始めてすぐのマタイの福音書の段階で、
大正昭和平成と読まれ続けてきた
「イエスさまがなさったマタイ21章28節からのお話」が最近変更され、登場人物の行動が昔の聖書とは逆になっていることに気付かされ、
そうです、私の持っている紙の聖書ではすべて「ぶどう園に行ったのは弟」だと書かれていたのに、新しい翻訳の聖書には「ぶどう園に行ったのは弟ではなく兄」兄が「悔い改めた」ということに変更されていたわけです。
 
そんなんどうでもいいじゃないか、と思う方もいるとは思いますが、
信仰を持って40年以上の間、ぶどう園には弟が行っていると信じていたわけで
だって、何しろバイブルのことです。いろいろなものが変わってもこれは変わらないと思っていたわけです。
 
変わってもらっては困る!
だいたい、このお話しには解釈があるわけです。解釈をもとに何度も何度もお話を聴いて納得しているわけです。
 
もちろん、聖書は原典において誤りがないだけであって、翻訳聖書に誤りがないとは教わっていません。
しかし、某異端宗教の翻訳聖書であるナントカ訳聖書は改ざんされて間違ったことが書いてあると教わったことはあり・・・つまり、自分たちの使っている聖書は正しい、翻訳聖書とはいえ我々の使っている日本語の聖書は正しいのだ、と、考えているわけです。
だからこそ、朗読するときにも書き写すときにも一語一句間違うことのないように真剣に行う。
著作権を気にして間違わないようにしているわけではありません。原典ではなくとも翻訳された日本語の聖書の言葉を
神さまの言葉として大切に受け取ろうと思うからこそ一語一句大切に丁寧に読んでいるわけです。
それなのに、です。いくらなんでも、ひどすぎる。
 
そして、それと同時に言葉が思い浮かびました「置換神学」「反ユダヤ」。

 
そして、アモス書8章が思い浮かびました。
シチュエーションは異なるとはいえ、
さまよい歩くような気分となってしまったからだと思います。
 
その日が来る――主なる神の仰せ。
私は地に飢えを送る。
それはパンへの飢えでも
水への渇きでもなく
主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ。
人々は海から海へと行き巡り
北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが
見いだすことはできない。アモス書8章11,12節(聖書協会共同訳)
 
 
 
 
けれども、
さきほど、こんな御言葉が思い浮かびました。
 
師よ律法のうち何の誡か大なる 
イエス答けるは爾心を盡し精神を盡し意を盡し主なる爾の神を愛すべし マタイ22章36,17節(明治訳)
 
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。申命記6章4~6節(聖書協会共同訳)
真実はどこにあるのか、と悩み、さまよいながら主の御言葉に取り組んでいくしかないような気はするのですが
「取り組んでいくしかない」と、否定的にとらえる必要はなく
そうであればこそ主をいっそう求め、
御言葉を愛することができるようになるのかも
しれない、と
御言葉を読んで思いました。
 
来る新しい年には、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして
神さまの御言葉をたずねたい
そんなふうに思います。