2022年12月30日金曜日

心穏やかに新年を~「交差免疫」と「ウイルス干渉」について

心穏やかに新年を迎えられるよう
本日はコロナウイルスにおける交差免疫について そして、ウイルス干渉について書きたいと思います。
 
これらの件についてはもうずいぶんと前から語られていることなのですが、
 
通りいっぺん聴いても、試験があるわけでもないですから
そして、毎日毎日アレを推進するために恐怖をあおるような話ばかりを報道し続けていますから
忘れておられる方もいらっしゃるかと思いますので
新年を前に復習タイムです。
 
 
 
まずはコロナウイルスにおける交差免疫について参考になる記事をご紹介します。
「交差免疫」
とは、過去に感染したことのある病原体に似ている病原体に感染した場合に働く免疫のことを言います。
 
 
 
日本人における新型コロナウイルスIgM、IgG、IgA
 
以下、上記のサイトより引用
(図表は除きます。詳細はリンク先でご覧ください。)
抗体価の変動から推定される日本人における交差免疫存在率

新型コロナウイルスにかかわらず、ウイルスに初めて感染すると、まずIgMが誘導される。その後、IgMがクラススイッチを起こし、IgGが産生される。すなわち、ウイルスに初感染した場合は、そのウイルスに対するIgMがIgGに先行して上昇することが免疫学の概念として確立している。
前述した通り、日本人における新型コロナウイルスに対する抗体の変動は、IgGの上昇がIgMの上昇よりも早い例が多いことが特徴である。
IgMが上昇するが、IgGは上昇しないパターンおよびIgMがIgGに先行して上昇するパターンを交差免疫無しのパターン、
IgGが上昇するが、IgMは上昇しないパターンおよびIgGがIgMに先行して上昇するパターンを交差免疫有りのパターン、
IgMとIgGが同時に上昇するパターンおよびどちらも上昇しないパターンを交差免疫不明のパターンに分類した。
52症例について解析したところ、【図3】に示すように、約75%が交差免疫ありのパターンを示した。
海外の文献でも、IgGは他のウイルス感染症と比べて比較的早期に出現することが示されているが、IgMと同時期あるいはIgMにやや遅れて上昇するという報告がほとんどである[6]。
同一の測定系での比較や他の東アジア地域での研究が必要であるが、本研究結果は、日本人において、新型コロナウイルスに対する交差免疫が存在する可能性を示唆している。
 
あえてこれ以上踏み込んだことを書きませんが、
「交差免疫」とは、過去に感染したことのある病原体に似ている病原体に感染した場合に働く免疫なのだ、ということであれば、この事実からどんなことが推測されるか、ということです。流行初期に日本ではどういうことが観察されたか、あの頃のイタリアの状況などと比較してみると理解できるような気がします。
 
 
 
 
さて、続きまして、今度はウイルス干渉についてです。
 
まずは干渉(ウイルス干渉)という言葉についてウィキペディアから引用します。
ウイルス学における干渉(かんしょう、interference)とは、1個の細胞に複数のウイルスが感染したときに一方あるいはその両方の増殖が抑制される現象。干渉の機構として、一方のウイルスが吸着に必要なレセプターを占領あるいは破壊してしまうために他方のウイルスが吸着することができなくなる。増殖に必要な成分が一方に利用され、他方が利用できない。一方が他方の増殖を阻害する因子を放出するなどの異種ウイルス間の干渉現象のほか、同種ウイルス間で欠陥干渉粒子(DI粒子)による増殖の阻害、インターフェロンによる増殖の抑制がある。
 
新型コロナとインフルエンザに干渉があったのかどうか

国立感染症研究所のデータから群馬県のデータをピックアップしてご紹介します。
 
 
群馬県のここ5年間の第04週のインフルエンザの流行の様子
 
群馬県 2017年 第04週 (1月23日~1月29日)
保健所数12 注意報数5 警報数7  
 
群馬県 2018年 第04週 (1月22日~1月28日)
保健所数12 注意報数0 警報数12
 
群馬県 2019年 第04週 (1月21日~1月27日)
保健所数12 注意報数0 警報数12 
 
群馬県 2020年 第04週 (1月20日~1月26日) 
保健所数12 注意報数9 警報数3  
 
群馬県 2021年 第04週 (1月25日~1月31日) 
保健所数12 注意報数0 警報数0  
 
 
 
ただ、以下のような研究結果もありましたので「一応」ご紹介します。
 
2021年11月に発表された長崎大学の研究です。詳細はリンク先で。

https://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/science/science248.html

以下引用

・・・(省略)双方のウイルス(新型コロナウイルスとインフルエンザウイルスのこと)は個体レベル、臓器レベル(肺)ではウイルス干渉を起こさないが、細胞レベルでのウイルス干渉は起こり得るということを示しています。つまり、両ウイルスの重複感染と同時流行は起こり得るということを示唆しています。(以下略)
 
 
この長崎大学の研究によれば重複感染がおこるかもしれない印象を受けますが、

現実にはどうなっているのか、
実際に起こったことの記録を見てみましょう!
 
 
国立感染症研究所のサイトで公開されているグラフを見てみましょう!

・グラフは年ごとに色が違います。
・右側にある四角い枠の中に何色が何年を表しているのか書いてあります。
・20年というのが2020年、21年というのが2021年・・・です。
















 










インフルエンザに関して言えば完全に「出る幕が無い、出る幕が無かった」状態のように見えます。
溶血性レンサ球菌の2020年と2021年の増減、そしてRSウイルス感染症が2020年の間はごくごく少数だったのに、021年に入ってから増加しているという現象は何を示しているのでしょうか?考察する必要を感じます。
 
 



 
当初の新型コロナウイルスというものが致死性の極めて高いものだったとします。
すると、そのウイルスは宿主を高率で殺してしまう=感染すると重篤になり死に至るわけですから
そもそもパンデミックは起こりにくく、局所的な流行で終了するはずです。
だとすると、そもそもパンデミックに至るためにはそこまで致死性の高くはないウイルスである必要があります。
コロナウイルスは宿主の中で次々と変異することが知られておりますので、当初は強毒であったかもしれないけれども、変異した「そこまで強力ではない」ウイルスが人の移動にともなって世界中にもたらされた、と考えられます。
 
コロナウイルスの性質を考えれば、そうやって変異することにより淘汰されて徐々に毒性は下がっていく、その結果人が死ななくなるから感染者数が増える。もちろん、ウイルスに発症させるだけの力がなければ淘汰されてゼロになってしまいますから、「強力な感染力=宿主にたかったあと効率よく増殖する能力」を持つものがいつまでもだらだら残っていくわけです。
で、
この段階になってまめに検査をするから「感染爆発」のように見えるのです。
 
検査というものは
水際でおこなって国内に入れないため、もしくは国内に入ってしまった発症者ではない「少数の陽性者」(保因者)や発症してしまった「少数の患者」を健康な人に接触させないよう隔離するためにおこなうべきものです。が、今さら検査数を増やしても意味がありません。
なぜなら、今はすでにどこに行ったって感染する可能性がきわめて高い、つまり患者は日本全国どこにでも存在しているので、隔離などできないからです。
だいたい、エアロゾル感染するということも分かっているわけです、たとえその場所に発症している人がいなくたって、少し前にそこにいた人がマスクの隙間から放出した空気中に浮遊しているものを吸うかもしれない。
 
コロナの女王と言われた先生がテレ朝で検査検査とおっしゃっていたあの時こそ検査が必要だったのです。
今頃、こんな蔓延してから検査するのはお金の無駄です。
インフルエンザ感染者と区別するという発想で検査すべきだとおっしゃる方もおられますが、
医療崩壊しそうな、否、している段階において(本当にそうであれば)そんな区別をしている余裕はありません。
「コロナは怖いの!後遺症もあるの!」とおっしゃる方もおられますが
医療崩壊というような先進国とは言えないような事態が起こっている場合には
とにかく「死なせない」ということしか考えないのが普通です。
トリアージ。
 
 
 
 
話を戻しますが、
新型コロナについて、従来通りのウイルス干渉は
2021年のインフルエンザの感染者数をみれば「ある」ということになるはずですが、
最近言われているように「今年2022年に限っては重複感染がある」のだとすると、
 
本当にそれが事実であるならば、
 
何か重大な変化があったから、ということになります。
これまで、いや、去年までの医学生物学界隈では当たり前だったことを覆すような大きな変化がおこった、ということです。
何がありましたか?昨年から今年の12月に至るまでに?
 
そう考えるのが論理的な思考というものです。
 
 
そしてもうひとつ、冷静に論理的に思考しなければならないことがあります。
 
なぜ新型コロナウイルス感染症による死者数が日本で急増しているのですか?
当初の強毒ウイルスでは大丈夫だったのに。
デング熱で知られているADE Antibody-dependent enhancement ではないのですか?
言いたい言葉を飲み込んであえてここでは関係ないデング熱ということばをだしておりますが
変ですよね。ほんとにおかしい。
 
そしてどうしてコロナに感染した小さな子供たちが
基礎疾患がないのに重症化、さらには死亡、という状況になっているのですか?
 
当初はそんなことなかったのに。
変ですよね。
 
何がありましたか?昨年から今年の12月に至るまでに?
 
 
何事も原因があっての結果です。
これまでの世界では行っていなかったおかしなことをやったのではありませんか?
我々が想像することさえできない、
否、専門家と称する人々にも予想できない
未知の実験的な領域に踏み込んだのではありませんか。
 
 
どう責任をとるおつもりですか。
 
 
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。
人の血を流すものは、人に血を流される、
神が自分のかたちに人を造られたゆえに。創世記9章5,6節
 
 
 
 
 
 
 

2022年12月28日水曜日

「初め」という言葉についてギリシャ語とヘブライ語の比較を試みる

Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.
בראשית היה הדבר והדבר היה את האלהים ואלהים היה הדבר׃
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネによる福音書1章1節(口語訳)
 ἀρχῇ  Strong's Greek 746
 beginning, originと定義されるギリシャ語arché
日本語では「初め」と訳されています。
ヘブライ語に訳された新約聖書でこの部分を見るとここには創世記1章1節の「初め」ということばがあります。
 
私たちは現在、新約聖書と言えばギリシャ語で書かれたものとその翻訳しか読むことはできません。
しかし、イエスさまも弟子たちもパウロもギリシャ語を母語としているわけではなく、
また、彼らは幼いころからトーラーに親しんできたユダヤ教徒ですから、
彼らが遺した言葉はトーラーが土台となっているはずです。
 
だとすれば、新約聖書で語られる言葉をより深く理解するためには、トーラーの理解は不可欠です。
 
ただ、本当にそうであるかどうか、それは素人の私が断言できることではありませんので、
 
トーラーに登場する特徴的な語句と共通の和訳が充てられているギリシャ語を調べ、
その言葉がどのような文脈で登場しているのか、ということを調べれば
直接的に旧約からの引用がなかったとしても
彼らの心の中にあるものの由来を知ることができるかもしれない、と思い。
 
手始めに今日は冒頭に書いたヨハネの言葉にある「初め」という言葉と
創世記1章1節のבראשיתについて調べてみようと思います。
 
 
 
新約聖書の記者たちは「初め」と訳されている言葉を記すとき、創世記1章1節の「初め」という言葉を心に置いていたのかどうか、ヨハネの1章1節以外の箇所について
ἀρχῇというギリシャ語の使われているみ言葉を確認したいと思います。
 
コンコルダンスによるとStrong's Greek 746は56回登場しているそうです。
以下口語訳聖書から引用します。
 
マタイ19:4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 
マタイ19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
マタイ24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
マタイ24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
 
 
マタイ19章そして24章21節はあきらかにトーラーである創世記を意識して「初め」という表現が使われている。
 
マルコ1:1神の子イエス・キリストの福音のはじめ
マルコ10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 
マルコ13:8民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
マルコ13:19その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
 
マルコもマタイと同様で、創世記を意識して「初め」という表現が使われている。  
 
ルカ1:2わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、 
ルカ12:11 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。
ルカ20:20そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。
 
ルカはマタイやマルコとは違い「高官」とか「支配」という風に訳されるところに使っているから、ヘブライ語のרֹאשׁ roshというニュアンス「体のてっぺんにある頭」という意味での「初め」
 
ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネ1:2 この言は初めに神と共にあった。
ヨハネ2:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。
ヨハネ6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
ヨハネ8:25そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。
ヨハネ8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
ヨハネ15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
ヨハネ16:4 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
 
ヨハネの文にある「初め」という語は創世記を意識しているというだけでなく、イエスさまが創造の初めから存在しておられた、つまり神さまご自身と全く同じお方であるというニュアンスも含ませている。
 
使徒10:11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
使徒11:5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。
使徒11:15そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。
使徒26:4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。
 
四すみという言葉に「初め」という意味の言葉が充てられているということからわかるのは、その入れ物の四すみとは外側の出っ張ったところという意味合いがあるのだろう。
他は、順番としての一番目ということを表現したり「もともと」という根源を表現することに使われている。根源を表すということにおいては、創世記を意識していると思う。
 
 
ローマ8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
一コリント15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべてのたち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
エペソ1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
エペソ3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、 
エペソ6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 
 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
ピリピ4:15ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
 
「始めた」=スタートさせた「当初」という意味
 
コロサイ1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
コロサイ1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
コロサイ2:10そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
コロサイ2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
支配=רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
18節は教会のかしら、最初に生まれたかた、第一の者、という言葉と並列しての「初めの者」ということで、根源=起源ということが強くあらわされていて、ベレシートのように聞こえる。
 
二 テサロニケ2:13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
だとするとこの「初めから選んで」という表現はベレシートのような意味合いでの、つまり「創世の初め」から選んで、ととらえてよいのかもしれない。
 
 
テトス3:1 あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、 
支配者רֹאשׁ rosh=体のてっぺん=頭というニュアンスでの「初め」
 
ヘブル1:10 さらに、
「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。
もろもろの天も、み手のわざである。
ヘブル2:3わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
ヘブル3:14もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
ヘブル5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 
ヘブル 6:1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、 
ヘブル7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
1章10節は創世記を意識しているが
以降は・・・パウロらしくないというか、本当にパウロが書いたのだろうか?
 
二ペテロ3:4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
創造の初め
 
一ヨハネ1:1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――  
一ヨハネ2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。 
一ヨハネ2:13父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。 
一ヨハネ2:14 子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。
一ヨハネ2:24 (2回)初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。
一ヨハネ3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。 
一ヨハネ3:11わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。 
 
ヨハネの言葉は創世記、トーラーが中心にある。
 
二ヨハネ1:5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。 
二ヨハネ1:6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。
ここでもトーラーが見える。
 
ユダ1:6 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。
 
地位=「そもそも」置かれた場所=「初め」に創造主が与えてくださった立場、それを捨て去った御使い。
 
黙示録3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
黙示録21:6そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
黙示録22:13わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
ここでもヨハネの言葉にはトーラーが見える。
 
ところで、黙示録にはもう一つの「初め」
つまり、ここまで調べてきた ἀρχῇ Strong's Greek 746ではない「初め」という言葉がある。
 
それは 2章4節にある「初め」
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
これは Strong's Greek 4413 πρῶτος prótos
NASB ではこのように翻訳されている。(カッコ内は回数)
before (3), best (1), first (128), first of all (2), first importance (1), first man (1), first one (1), first things (1), first time (1), foremost (5), leading (2), leading man (1), leading men (5), outer (3), previous (1).
 
 
Strong's Greek 746 ἀρχῇ arché
こちらは以下のように翻訳されているが
beginning (38), corners (2), domain (1), elementary (1), elementary* (1), first (1), first preaching (1), principalities (1), rule (4), rulers (6).
 
 
ヘブライ語で考えるとこれらは Strong's Hebrew 7225 רֵאשִׁית reshith 
NASB では
beginning (19), choice (2), choicest (3), finest (2), first (16), first fruits (7), foremost (2).
 
もしくは
Strong's Hebrew 7218 רֹאשׁ rosh
NASBでは
bands (1), beginning (11), beheaded* (1), best (1), best things (1), bodyguard* (1), captains (3), census (7), chief (35), chief men (6), chiefs (3), companies (7), company (5), corner (1), count (1), distant (1), divisions (1), ends (2), every (1), faced* (1), favor* (1), finest (2), first (12), full (2), hair (3), head (256), heads (129), laughingstock* (1), leader (4), leaders (8), leading man (1), leading men (2), masters (1), released* (1), ridge (2), rivers (1), sum (2), summit (7), themselves (1), top (51), topmost (2), topmost* (1), tops (15).
 
 
 


 
 
先月、「使徒18章21節にはパウロはエルサレムに行ってユダヤ教の祭りを祝う」ということが書かれていたはずなのに、現代の聖書のほとんどは、そう書かれていない底本から翻訳されているため
「なぜパウロがあの場面でエルサレムに行ってしまうのかは謎」とされている、という話を知り、
さらに昨日は、
Strong's Greek 4413 πρῶτος prótos を
上でStrong's Greek 746 ἀρχῇ archéと同様のやり方で調べたところ、
調べ始めてすぐのマタイの福音書の段階で、
大正昭和平成と読まれ続けてきた
「イエスさまがなさったマタイ21章28節からのお話」が最近変更され、登場人物の行動が昔の聖書とは逆になっていることに気付かされ、
そうです、私の持っている紙の聖書ではすべて「ぶどう園に行ったのは弟」だと書かれていたのに、新しい翻訳の聖書には「ぶどう園に行ったのは弟ではなく兄」兄が「悔い改めた」ということに変更されていたわけです。
 
そんなんどうでもいいじゃないか、と思う方もいるとは思いますが、
信仰を持って40年以上の間、ぶどう園には弟が行っていると信じていたわけで
だって、何しろバイブルのことです。いろいろなものが変わってもこれは変わらないと思っていたわけです。
 
変わってもらっては困る!
だいたい、このお話しには解釈があるわけです。解釈をもとに何度も何度もお話を聴いて納得しているわけです。
 
もちろん、聖書は原典において誤りがないだけであって、翻訳聖書に誤りがないとは教わっていません。
しかし、某異端宗教の翻訳聖書であるナントカ訳聖書は改ざんされて間違ったことが書いてあると教わったことはあり・・・つまり、自分たちの使っている聖書は正しい、翻訳聖書とはいえ我々の使っている日本語の聖書は正しいのだ、と、考えているわけです。
だからこそ、朗読するときにも書き写すときにも一語一句間違うことのないように真剣に行う。
著作権を気にして間違わないようにしているわけではありません。原典ではなくとも翻訳された日本語の聖書の言葉を
神さまの言葉として大切に受け取ろうと思うからこそ一語一句大切に丁寧に読んでいるわけです。
それなのに、です。いくらなんでも、ひどすぎる。
 
そして、それと同時に言葉が思い浮かびました「置換神学」「反ユダヤ」。

 
そして、アモス書8章が思い浮かびました。
シチュエーションは異なるとはいえ、
さまよい歩くような気分となってしまったからだと思います。
 
その日が来る――主なる神の仰せ。
私は地に飢えを送る。
それはパンへの飢えでも
水への渇きでもなく
主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ。
人々は海から海へと行き巡り
北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが
見いだすことはできない。アモス書8章11,12節(聖書協会共同訳)
 
 
 
 
けれども、
さきほど、こんな御言葉が思い浮かびました。
 
師よ律法のうち何の誡か大なる 
イエス答けるは爾心を盡し精神を盡し意を盡し主なる爾の神を愛すべし マタイ22章36,17節(明治訳)
 
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。申命記6章4~6節(聖書協会共同訳)
真実はどこにあるのか、と悩み、さまよいながら主の御言葉に取り組んでいくしかないような気はするのですが
「取り組んでいくしかない」と、否定的にとらえる必要はなく
そうであればこそ主をいっそう求め、
御言葉を愛することができるようになるのかも
しれない、と
御言葉を読んで思いました。
 
来る新しい年には、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして
神さまの御言葉をたずねたい
そんなふうに思います。
 

2022年12月7日水曜日

ぶどう園に行ったのは誰?

マタイの福音書21章28節からのところ。

あなたのお持ちの聖書では、だれがぶどう園に行ったことになっていますか?

新改訳第3版も、口語訳でも弟が行ってます。

口語訳から引用しますね。

あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
 
兄は行かなかった、弟は行った、・・・ですよね。
 
でも新共同訳も聖書協会共同訳も兄が行ってます。

BIBLE HUBでギリシャ語と、それに対応している英語の訳を読んでもそうです。

 


明治訳を読んでみたら
 
 
 
21:28爾曹いかに意ふや或人二人の子ありしが長子に來りて曰けるは子よ今日わが葡萄園に往て働け 21:29答て否と曰しがのち悔て往たり 21:30また次子にも前の如く曰けるに答て君よ我往べしと曰しが遂に往ざりき 21:31此二人のもの孰か父の旨に遵ひし彼等いひけるは長子なりイエス彼等に曰けるは誠に爾曹に告ん税吏および娼妓は爾曹より先に神の國に入べし  
馬太傳福音書21章28~31節(明治訳 日本語の聖書さまサイトより)

明治訳聖書を読んでいたであろう高祖父とこの箇所の話をした場合
「ぶどう園に行ったのは誰?」と聞いたらきっと高祖父は
「お兄ちゃんが行ったって書いてあるだろ?」と答えるでしょう。
新改訳を読み慣れていた私とはまた話が合わない。
まあ、新改訳も、第三版ではなく最新版のものではお兄ちゃんが行っているようでした。
 

お兄ちゃんが行っているということになると
これまで教わってきた「兄とは~のことで、弟とは~のことで」という解釈が変わってしまうと思うのですが、皆さんどういうふうに受け止めているのかしら。

新改訳を読んでいる教会にそういう柔軟性ってありましたっけ?(;´Д`A ```

2022年12月2日金曜日

バベルの塔とハルマゲドン(2)バベルの塔は復讐のため

先月「石」という言葉についての記事を書きましてその記事の最後に12月25日はニムロドの誕生日だと知ってしまったことを書いたのですが
 
同じく先月は翻訳聖書が改ざんされている疑惑に複数気付くことにもなり、
さらに次の段階に突入してしまった感があります。😩
そんなわけでクリスチャンですがクリスマスなんて祝う気になれません。
いや、クリスチャンであるからこそそういう気になれないのですが
 
そんなこと言ったって伝道の好機なんだよクリスマスは
真実はどうであれクリスマスの「意味」が大切
そんなくだらないこと知らなくていいんだから忘れろ
 
そういう言葉を、
善良なクリスチャンであったころの、すなわち、キリスト集会から落ちこぼれる前のワタクシ=脳内から消すことはできないワタクシ が語りかけてきます。(私の脳内ではいつもいろいろな葛藤があります)
 
 
「ユダヤ古代史」にどれだけの権威があるのか知りませんが、
「石」という記事に引用した文章をもう一度ウィキペディアから引用します。
 
 
 
神にたいし[このような]思いがあった侮辱的な行為に出るよう彼らを煽動したのは、ノーコス(ノア)の子カマス(ハム)の孫で、強壮な体力を誇る鉄面皮人のネブローデース(ニムロデ)だった。彼は人びとを説得して、彼らの繁栄が神のおかげではなく、彼ら自身の剛勇(アレテー)によることを納得させた。そして神への畏れから人間を解き放す唯一の方法は、たえず[彼らを]彼自身の力に頼らせることであると考え、しだいに事態(プラグマタ)を専制的な方向へもっていった。彼はまた、もし神が再び地を洪水でおおうつもりなら、[そのときには]神に復讐してやると言った。水が達しないような[高い]塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をするというのである。人びとは、神にしたがうことは奴隷になることだと考えて、ネブローデースの勧告を熱心に実行し、疲れも忘れて塔の建設に懸命にとりくんだ。そして、人海戦術のおかげで、予想よりも[はるかに]早く塔はそびえたつことになった。しかもそれは非常に厚く頑丈にできていたので、[むしろ]高さが貧弱に見えるほどだった。素材は焼き煉瓦で、水で流されないようにアスファルトで固められていた。ところで、神は狂気の沙汰の彼らを見ても、[今度は]彼らを抹殺しようとは考えられなかった。最初の[洪水の]犠牲者たちを破滅に導いても、その体験が子孫たちに知恵を授けることにならなかったからである。しかし神は、[彼らに]いろいろ異なった言葉(アログロッソイ)をしゃべらせることによって彼らを混乱(スタシス)におとしめられた。言葉が多様になったため、互いの意志が通じなくなってしまったのである。なお彼らが塔を建てた場所は、[かつてはすべての人が]理解できた[人間の]最初の言葉に混乱(スユンキュシス)が生じたので、現在バビュローン(バビロン)と呼ばれている。というのも、ヘブル人は混乱[のこと]をバベルと呼んでいるからである。この塔[の話]と人間の言葉の混乱(アロフオーニア)に関する[話]は、次のシビュラの言葉にも記載されている。





「ユダヤ古代史」によると、
ハムの孫のニムロデ(ニムロド)は人びとを説得して、彼らの繁栄が神のおかげではなく、彼ら自身の剛勇(アレテー)によることを納得させた、と。

そして神への畏れから人間を解き放す唯一の方法は、人間をニムロデ(ニムロド)の力に頼らせることであると考え、しだいに事態(プラグマタ)を専制的な方向へもっていった、と。
神への畏れから人間を解き放す!?
神を畏れなくする?
ニムロデ(ニムロド)の力に頼らせる?
 
創世記を読んでいるとノアの息子ハム=悪、ハムの子カナン=悪 であることを知るわけですが、
創世記の記述がなぜああいう具合になっているのかと言えば、その後こういうニムロデ(ニムロド)のようなとんでもない反逆者がハムの子孫から出ている事実があったからでしょうか。
まったく、

唯一の神
創造主であられる方を
いったい何だと思っているんだ!!
 
現在進行形で大殺戮を継続している
王たちと王たちの手下もだ!
 
 
 
 
 
そして、まるでエデンの園の蛇が人間の形をとったような邪悪なニムロドはこんなことを言うわけです。
  
彼はまた、もし神が再び地を洪水でおおうつもりなら、[そのときには]神に復讐してやると言った。水が達しないような[高い]塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をするというのである。
 
バベルの塔の目的がここに示されます。
水が達しないような[高い]塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をする、
唯一絶対の主に復讐するという目的で建てられた塔!
 
מגדל 塔
 
Strong's Hebrewでは4026、塔という意味のこのヘブライ語はmigdal または migdalahと読むようですが
 
 
Strong's Hebrewで、この単語の前にあるいくつかの単語に目を留めてみると
 
 
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh 
 
ハルマゲドンという言葉を考えるとき、ニムロドという人物の態度や言葉、そしてもたらしたことも頭のどこかにおいておくべきですね。
 
ユダヤ古代史がどの程度信頼できる書であるのかはわかりませんが。
 
で、人びとは、神にしたがうことは奴隷になることだと考えて、ニムロドの勧告を熱心に実行し、疲れも忘れて塔の建設に懸命にとりくんだというのですが
 
 
 
…でもこの話、
教会で誰かが似たようなことを言ってるのを聞いたことがあります。
「神にしたがうことは奴隷になること」っていうような話。
 
いや、神にしたがうことは、とは言っていないんだ。
すり替えられている。

「律法に従うか従わないか」
 
でも、律法は神さまが下さったものですからね、
これは神さまに従うか従わないかと同義です、本当は。
 
で、クリスチャンはそれぞれ所属教会の先生に教えられ、それぞれの結論は持っているわけですが
どっちなんだどうなんだ?
どうすることが正しいのか?
 
ほらやっぱりニムロドはエデンの園の蛇にそっくりだ!
 
エデンの園の蛇から誘惑されたエバにそっくりな迷い。
 
そしてエバは蛇の言葉に耳を傾けて蛇の勧めを聴きいれて食べちゃったわけです。
 
 
 
ニムロドの言葉に聞き従った人々は
 
 
疲れも忘れて塔の建設に懸命にとりくんだ。そして、人海戦術のおかげで、予想よりも[はるかに]早く塔はそびえたつことになった。しかもそれは非常に厚く頑丈にできていたので、[むしろ]高さが貧弱に見えるほどだった。素材は焼き煉瓦で、水で流されないようにアスファルトで固められていた。
 
焼き煉瓦
 
レンガの何が悪いのか、実はずーっと考えておりました。40年くらい考えておりました。
でもヘブライ語でTorahに親しむようになってもしかしたら…と気付きました。
石ではなくてレンガにしたというのは非常に象徴的なのです。
ひとつには「石」という記事で書いた内容のとおりで
「神こそが岩」であると考えると「石」とはどういうものであるか、ということになるわけです。
そして、その代替物としてのレンガ。
レンガとは土をこねて作るものですね
アダマ(土)と言えばアダム(人)です。
レンガとは創造主である唯一の神を捨て、人間の知恵と力により頼むこと
人間の知恵と力が
創造主を超える!と考え、人間の教えを尊び、守り行うことですね。
 
 
 
ムーンショット目標を思い出します。
 
そして、
想像以上のスピードで変異を繰り返してしまう生物と無生物の中間にあるものを人為的に制圧できるとか思っている
ニムロドのような発想の
人間の愚かさを思います。
 
 
 
ニムロドを信奉する人々よ、
ミカ書にあなたがたの大好きなニムロド(ニムロデ)という名が登場します。
 
日本語の聖書様サイトより口語訳聖書ミカ書5章1~15節を引用させていただきます。
 
5:1今あなたは壁でとりまかれている。
敵はわれわれを攻め囲み、
つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。
5:2しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。
5:3それゆえ、産婦の産みおとす時まで、
主は彼らを渡しおかれる。
その後その兄弟たちの残れる者
イスラエルの子らのもとに帰る。
5:4彼は主の力により、
その神、主の名の威光により、
立ってその群れを養い、
彼らを安らかにおらせる。
今、彼は大いなる者となって、
地の果にまで及ぶからである。
その神、主の名の威光により、
立ってその群れを養い、
彼らを安らかにおらせる。
今、彼は大いなる者となって、
地の果にまで及ぶからである。
5:5これは平和である。
アッスリヤびとがわれわれの国に来て、
われわれの土地を踏むとき、
七人の牧者を起し、
八人の君を起してこれに当らせる。
5:6彼らはつるぎをもってアッスリヤの地を治め、
ぬきみのつるぎをもってニムロデの地を治める。
アッスリヤびとがわれわれの地に来て、
われわれの境を踏み荒すとき、
彼らはアッスリヤびとから、われわれを救う。

5:7その時ヤコブの残れる者は多くの民の中にあること、
人によらず、また人の子らを待たずに
主からくだる露のごとく、
青草の上に降る夕立ちのようである。
5:8またヤコブの残れる者が国々の中におり、
多くの民の中にいること、
林の獣の中のししのごとく、
羊の群れの中の若いししのようである。
それが過ぎるときは踏み、かつ裂いて救う者はない。
5:9あなたの手はもろもろのあだの上にあげられ、
あなたの敵はことごとく断たれる。
5:10主は言われる、その日には、
わたしはあなたのうちから馬を絶やし、
戦車をこわし、
5:11あなたの国の町々を絶やし、
あなたの城をことごとくくつがえす。
5:12またあなたの手から魔術を絶やす。
あなたのうちには占い師がないようになる。
5:13またあなたのうちから彫像および石の柱を絶やす。
あなたは重ねて手で作った物を拝むことはない。
5:14またあなたのうちからアシラ像を抜き倒し、
あなたの町々を滅ぼす。
5:15そしてわたしは怒りと憤りとをもって
その聞き従わないもろもろの国民に復讐する。
その聞き従わないもろもろの国民に復讐する。
 
 
口語訳聖書の訳に納得がいかないので
 
ミカ書5章6節をヘブライ語聖書から引用します。
ורעו את ארץ אשור בחרב ואת ארץ נמרד בפתחיה והציל מאשור כי יבוא בארצנו וכי ידרך בגבולנו׃
Strong's Hebrew 7489が ורעו という形で文頭にありますね。これを口語訳は治めると訳しているように思いますけれど、7489番というのは 粉々に打ち砕いてしまうこと。
治めるどころの話ではないはずだと思います。
明治訳の「ほろぼし・・・ほろぼさん」の方が適切であるような気がします。
彼ら劍をもてアッスリヤの地をほろぼしニムロデの地の邑々をほろぼさん アッスリヤの人我らの地に攻いり我らの境を踏あらす時には彼その手より我らを救はん  明治訳 米迦(ミカ)書5章6節