国が国民を救おうとしてどんなに放出しても
流すべき場所に流す意思のない人が間に入れば絶対に届かない
しかしだからと言っても独裁国家でなければ
そう簡単には介入できない
おなかがすいているわけでもない人々は
儲かる方儲かる方へと舵を切る
大切な備蓄米
行き先を追跡したいものだ
米は一体どこに行ってしまったのか
国の目的に沿わない事を行った者たちを厳しく罰したい!そんな思いはやまやまだが
しかし、次から次へと
なんでもかんでも法規制するような国家はおそろしい。
コンプライアンスという言葉に律法主義を重ねてしまう今日この頃。
つみびとには
正しいものやことを正しく運用していくことができない
コンプライアンスコンプライアンスと言って
日常のイライラをぶつけるように芸能人の倫理感を責めたて追い詰めたり
何でもかんでも一律に規制して
困ってしまう人があふれたとしてもそれでよしと考える
でも、キリスト教徒だった私は
罪の無い人間だけにしか他人に石を投げうつ権利はないと思うし
安息日に穂を摘んで食って何が悪いのか、と思う
そして
律法が律法主義と同義のように考えられるようになったり、
キリスト教会で終わったものだ良くないものだと考えられるようになったのは
人間が自分ではなく他人の悪事を裁くのが好きだったゆえの
残骸のような気がする今日この頃
律法を積極的に破ろうとする人はともかくとして
やりたいとは思っていてもできない
努力はしてもできない
良かれと思ってやったつもりでも失敗
病のゆえに我慢できなかった・・・
そういう人々について
イエスさまのおっしゃる通り
裁くのではなく数百人数千人とゆるしつづけていれば
最後にはきっとルールはないのとおなじようになる
姦淫をしようが安息日に働こうが
裁かずに赦すならルールは無いに等しい。
そういう、どうにもならない中
律法のエッセンスはこれだ、と広めたんではなかろうか。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
・・・知らんけど
まあ、でもしかし
そんなワンフレーズですら実行できないつみびと
自己中で、てめえの得しか考えないつみびと
大切なお米を流すべきではないところに流したり隠してしまうつみびと!
どんなに頑張っても
世の中はいつも優しい人がつらい目にあう
だから宗教は死んだ後のことばかり考えさせるんだろうな
死後のことばかり考えず今生きている人々のことを考えなければ
となりびとに手を差し伸べよう