38年前、私が洗礼を受けた福音的な教会で教わり、礼拝の時に唱えていた「主の祈り」は
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
というものでした。
しかしふと思いました。
保育園児だった頃に教えられた主の祈りはたしか・・・
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はろうどびーざいねーむ・・・ |
hallowed be thy name
偶像のあふれた家に育ち、寺の和尚さんが所長をしていた保育所に通っていたのにいったい誰から英国聖公会祈祷書の主の祈りを教えられたのか、ということについて今日は語りませんが、しかしとにかく、イエスさまがお弟子さんたちに「祈り」としてまず願うようにと教えて下さったことは「はろうどびーざいねーむ」だった。
hallowed be thy nameって「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」とイコールではないですよね?
hallowed be thy nameはギリシャ語聖書ではἉγιασθήτω τὸ ὄνομά σου· であって、(まあ、これをアプリに翻訳させると御名をあがめさせたまえと訳してしまうのですが)
Ἁγιασθήτω Hagiasthētō は
Strong's Greek 37 ἁγιάζω hagiazó
Definitionは to make holy, consecrate, sanctify
だから、 I make holy, treat as holy, set apart as holy, sanctify, hallow, purifyという感じで使われる。
なので、これは「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」とするよりも
カトリック教会と日本聖公会の共通口語訳
「み名が聖とされますように」
日本正教会の「天主経」
「願はくは爾の名は聖とせられ」
これらの方が原文に忠実だと思います。
「聖とされますように」とは
聖でないものとの「区別」を求める言葉です。
なぜなら、「聖」とは、「分離する」とか「切り離す」ということがもともとの意味だからです。
Strong's Greek 37 ἁγιάζω hagiazó は
Strong's Greek 40 ἅγιος hagios の派生語なのですが
この40番 hágiosの基本的中核的な意味は「異なる」というものだそうです。
つまり、「聖」という言葉のおおもとの意味は
創造主である神さまが「この世にあるものとは異なる」ということですから、
「聖とされますように」とは、「神聖四文字であられるお方のお名前が、世の神々のようなとはものと混ぜられることなくしっかりと切り離され、比類なき「唯一の特別な」お名前とされますように」と言っているのではないか、と思います。
そのようなことを考えておりましたら、
ふと
ヨハネによる福音書17章の御言葉が思い出されました。
新共同訳聖書ヨハネによる福音書17章14~17節
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ὅτι οὐκ εἰσὶν ἐκ τοῦ κόσμου, καθὼς ἐγὼ οὐκ εἰμὶ τοῦ κόσμου
なぜならわたしが世のものではないのと同じように、彼らも世のものではないからです
ἐκ τοῦ κόσμου οὐκ εἰσὶν καθὼς ἐγὼ ἐκ τοῦ κόσμου οὐκ εἰμὶ.
私が世のものではないのと同じように、あなたも世のものではありません。
イエスさまも「聖」であられ
イエスさまが「聖」であられるのと同じように
信じる者たちも世には属さず「聖」である。
そして、
彼らが悪い者からまもられ聖であり続けるために
Ἁγίασον αὐτοὺς ἐν τῇ ἀληθείᾳ σου·
あなたの真理によって彼らを聖なるものとしてください、と
イエスさまは祈られました。
イエスさまは祈られました。
そして、真理とは何かといえば
ὁ λόγος ὁ σὸς ἀλήθειά ἐστιν.
「あなたの御言葉」は真理だと。
「あなたの御言葉」は真理だと。
有名なヨハネによる福音書14章6節を思い出します。
Ἐγώ εἰμι ἡ ὁδὸς καὶ ἡ ἀλήθεια καὶ ἡ ζωή· οὐδεὶς ἔρχεται πρὸς τὸν πατέρα, εἰ μὴ δι’ ἐμοῦ.
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければ、だれも父のもとにくることはない。