さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
ヨハネによる福音書5章5~9a節(口語訳)
エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダの池の水が動いた時、まっ先にはいる者はどんな病気にかかっていてもいやされると信じ、たくさんの人がそこに集まっておりました。そして、その中の一人の方=38年間病気に悩んでいる人が主イエスに出会い…というのが福音書にしるされたこの場面です。
38年という年数をどうご覧になりますか?40年に2年足りない、35年に3年多い、22歳の若者が60歳になるまでの年…。
そしてこの人の病についてはどう思われますか?横になっているのだから重症である、いや、病んでいたとはいえ38年間生きていられたのだからそれほどでもない…。
読み手の状態や心境によってこの38年間病気に悩んでいた人にストーリーはいろいろにとらえられることでありましょうが、
今この人がどういう心持であるのか、
それはこの方のこの言葉が語っています。
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
ひとことで言えば、「人に対する憤り」でしょうか。もう一言付け加えるならば「孤独」ということでしょうか。
「わたしを池の中に入れてくれる人」
この人は池の中に入りたいと願っています。しかし一人では池の中に入ることのできない状態なのでしょうか、誰かの手を借りなければ池の中に入ることはできないのだけれど、誰一人自分を助けてくれる人がいないのだ、とこの人は考えている・・・
いや、そうではないかもしれません。「わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行く」とも言っていますから、歩くには歩け、池の中に入りかけるというところまではできるのだけれど、自分が行こうと思うと邪魔をする人がいる、ということなのかもしれません。
いずれにしても、この方はイライラしています。思い通りにならないことに憤り、人の冷たさにもうんざりしています。病自体の苦しみに加えられた別の苦しみがいっそうこの人を苦しめています。
ベテスダの池のところまで来るには来たのです。しかし、治るために必要な条件とされる「池の水が動いたその時に池の中に入る」ということがどうしてもできない。どうしたら入れるのかと思案するけれども、結論としては「他人」次第。誰かが私を池の中に入れてくれるということにならなければ解決はない。
病、そして池に入ること、問題は次から次へ、永遠に明けることのない闇のように感じておられたのかもしれません。
東日本大震災の頃「絆」という言葉が流行しましたが、私たちは人と人との結びつきの中で生きていて、人の情けであったり人の助けがなければ生きていけないということは確かなことです。
しかし、現実問題として、私たちが何か大きな問題に直面した時、手を貸してくださったり助けてくださる方がいるか、と言うと、そういうわけでもないということが多々あるわけです。また、逆に、私たちがどなたかに手を差し伸べたいと考えたところで、差し伸べることができないことも少なからずあるわけです。
特に昨今、私たちがどう考え何を思おうとも否応なしに「徹底的に一人にさせられる」いや、「徹底的に一人にならなければならない」そんな事態が起こっています。
38年間病気に悩んでいた方が
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」
と訴えておられましたが、「ベテスダの池で癒されるというシステムのある社会」の中で自分の思う通りにならず苦しみも癒えないこの人と、昨今の混乱の中「どうしてよいのかわからなくなってしまった」人々が重なって見えるような気がします。
しかし、救い主はそこに現れました。
私たちの側から見ればいい加減時は経ち、わざわいも積み重なり、いい加減うんざりさせられて、あのヨブですら口を開いたようなとき、
救い主は目の前に現れるのです。
そして救い主は問うのです。「なおりたいのか」
治りたいに決まっている、治りたいからここに来たのだ、神さまなら何もかもわかっているだろう?何を今さら…
本人だけではなく読者も一同でそう思う。
しかし本当は、
イエスさまの、その的外れに見えるかもしれないその問いは、
極めて大切な問いでありました。
「なおりたいのか」という質問に必要な答えは、治りたいか治りたくないかのどちらかです。
しかし病人はこう答えたのです。
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」
人は、平時にはいくらでもきれいごとを語ることができます。災害や事件があったとしても他人のことであれば美しい道徳心を語ることができます。
しかし、自分自身が苦しみに直面しどうにも抜け出られないというような暗闇の中に閉じ込められたとき、
一枚一枚化けの皮がはがされます。そしてむき出しの「本性」があらわになる。そのむき出しの本性があらわになったとき、
その時にメシアは私たちの前に現れる。
なぜなら、神さまの語られる「救い」とはそこからの救いであるからです。
聖書の語る「救い」は人間の語る薄っぺらな道徳ではありません。
快適に暮らすための方便でもありません。
聖書の語る「救い」とは、この「罪の世」にあることがどんなに悲惨であるか、私たちが徹底的な孤独の中で、そしてどん底の闇の中で知り、心の底から切望するものであるからです。
38年の間病に悩み、そして今ベテスダの池を目の前にして絶望している人の心にあったものは、「治りたい」ではなく「池に入りたい」という言葉でした。勿論、治りたいという言葉と池に入りたいという言葉はこのベテスダの池で癒されるシステムのある社会では同じ意味となりましょう、しかし、イエスさまはこの人の心を見抜かれ、この人にとって本当の必要が何であるのか、問いながら示されたのであります。ほどけなくなった糸をほどくように諭すように事の本質を突かれたのであります。
いたるところに罪があり、行くところまで行ってしまった私たちの社会では「池に入ることが重要」だと信じられているかもしれません。しかし、それがあなたにとっての本当の必要であるのか、
神さまは、孤独と絶望の闇の中に頭を抱えて座り込んでいる私たちに問われるのです。
そしてこう言われます。
「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」
これが神さまが私たち一人ひとりに語られるメッセージです。
ベテスダの池に入る必要はない。
そこに居続ける必要はない。
あなたはメシアに出会ったのだ。
メシアはあなたを救いあなたと神さまの関係を回復する。
だから、あなたは
創造の始めに「神さまがあなたに期待しておられたとおりの姿」で歩みなさい!