2022年1月12日水曜日

創世記をヘブライ語で読んでみたらちょっと違うものが見えてきた、という話

はじめに神は天と地とを創造された。

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח אלהים מרחפת על פני המים׃

神は「あれ」と言われた。するとがあった。

ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור׃

神はそのを見て、良しとされた。神はそのとやみとを分けられた 

וירא אלהים את האור כי טוב ויבדל אלהים בין האור ובין החשך׃

神はを昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。

夕となり、また朝となった。第一日である。

ויקרא אלהים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד׃

 

創世記1章1~5節

 

 

BIBLE HUBのサイトを利用してヘブライ語の創世記を一節一節ノートに書き写すということを続けています。ただただヘブライ文字と発音記号を眺めているだけなのですが、

ずーっと眺めていたら面白いことに気付きました。「ה」「ל」という文字。

神さまがיהי אור(光よあれ)とおっしゃると
 אור(光)が出来るのですが、
出来たאורは次に「ה」の文字がつけられて、האור となる。
で、おなじように「ה」がつけられている闇החשךとの間を分割されるという文になってるわけです。
そしてさらに次にはלאור という
「ל」という文字のついたאור
が現れ、その「ל」という文字がつくと光の果たすべき役割が決められてיום昼という名がつけられることとなるわけです。
 
もちろん、ヘブライ語に詳しい方がご覧になったら
こいつはいったい何を言ってるんだ!?
「ה」なんてそれはただの冠詞theだよ、
ということになってしまうかもしれませんがしかし言いたい(笑)
石の板に文字を書いてくださった神さまだから、
眺めているだけの私にもぜったいなにかしら気付けることがあるのだ、と思うので。(思いこみか?信仰か?)
 
創世記の始めのあたりをヘブライ語を書き写しながら気づいたのは、
神さまが何かを作られるときには一定のルール(段階)があるんだなあということです。
よく見れば日本語で読んでもそうだ、ということにヘブライ語を読んだ後に気付いたのですが、
母国語で読むと注意深く読めないのでしょうか、これまではそういうことを考えたことがありませんでした。

 創世記1章1~5節で見た「光」だけのことではなくすべての被造物は光と同じような段階を経て造られます。
(この件に関してはこの記事を書いた二年後にもう少し詳しく書いていますので興味のある方はご参照ください。https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_16.html


ヘブライ語の「ה」の文字が「光」という言葉の前につけられる段階になると「光」は「闇」に対するものであるということが示されて「闇」とは完全に分けられます。「光」とは「闇」とは相いれないものであり、絶対に混在することはないのだというご意志を感ずるのがこの段階です。
そういえば、アブラムがアブラハムとなった時に付加された文字は「ה」でした。
そして次の段階、ヘブライ語の「ל」という文字が「光」という言葉の前につけられている段階がやってきます。この創世記の箇所であれば「光を昼と名づけ」というところにある「光」がそれにあたります。「闇」とは完全に相容れないものとして分けられた「光」というものが、具体的にどんな役割をもっているのか、神さまがその役割を定めておられるように思えます。
 
 
このわずかなことをもって何かを語ることはおこがましいような気はしますが、
ただ、この「ה」「ל」の文字がつけられている言葉を見たときに
私たち今この世界に生きる人間についても、
神さまはこのようにごらんになっているのだ、ということに気付いたのです。
 
「ה」「ל」の文字のことを考えながら読むと、
例えばベテスダの池のストーリーは創世記に始まった神さまの愛の壮大なストーリー、羊飼いがたった一匹の迷子の子羊を何千年もかけて探し続けるストーリーのように私には感じられるのです。
 
神さまが人を創造された。
人は罪を犯しエデンの園から追放された。
しかし神さまはその愛のゆえ愛するひとり子を世に送る。
時は満ちてひとり子は来られた。
そして神のひとり子である救い主イエスさまは罪にまみれた世で神さまと断絶している人に出会う。
イエスさまは神さまのみこころを宣言し、
罪から解き放ち(分離させ)神さまとの断絶を終わらせる!
そしてその人はみこころの実現のために歩みだす!

 

2022年1月11日火曜日

ベテスダの池

さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。

ヨハネによる福音書5章5~9a節(口語訳)

 

エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダの池の水が動いた時、まっ先にはいる者はどんな病気にかかっていてもいやされると信じ、たくさんの人がそこに集まっておりました。そして、その中の一人の方=38年間病気に悩んでいる人が主イエスに出会い…というのが福音書にしるされたこの場面です。

 

 

38年という年数をどうご覧になりますか?40年に2年足りない、35年に3年多い、22歳の若者が60歳になるまでの年…。

そしてこの人の病についてはどう思われますか?横になっているのだから重症である、いや、病んでいたとはいえ38年間生きていられたのだからそれほどでもない…。

読み手の状態や心境によってこの38年間病気に悩んでいた人にストーリーはいろいろにとらえられることでありましょうが、
今この人がどういう心持であるのか、

それはこの方のこの言葉が語っています。

 

「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

 

ひとことで言えば、「人に対する憤り」でしょうか。もう一言付け加えるならば「孤独」ということでしょうか。

「わたしを池の中に入れてくれる人」
この人は池の中に入りたいと願っています。しかし一人では池の中に入ることのできない状態なのでしょうか、誰かの手を借りなければ池の中に入ることはできないのだけれど、誰一人自分を助けてくれる人がいないのだ、とこの人は考えている・・・
いや、そうではないかもしれません。「わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行く」とも言っていますから、歩くには歩け、池の中に入りかけるというところまではできるのだけれど、自分が行こうと思うと邪魔をする人がいる、ということなのかもしれません。

いずれにしても、この方はイライラしています。思い通りにならないことに憤り、人の冷たさにもうんざりしています。病自体の苦しみに加えられた別の苦しみがいっそうこの人を苦しめています。

ベテスダの池のところまで来るには来たのです。しかし、治るために必要な条件とされる「池の水が動いたその時に池の中に入る」ということがどうしてもできない。どうしたら入れるのかと思案するけれども、結論としては「他人」次第。誰かが私を池の中に入れてくれるということにならなければ解決はない。

病、そして池に入ること、問題は次から次へ、永遠に明けることのない闇のように感じておられたのかもしれません。

 


東日本大震災の頃「絆」という言葉が流行しましたが、私たちは人と人との結びつきの中で生きていて、人の情けであったり人の助けがなければ生きていけないということは確かなことです。
しかし、現実問題として、私たちが何か大きな問題に直面した時、手を貸してくださったり助けてくださる方がいるか、と言うと、そういうわけでもないということが多々あるわけです。また、逆に、私たちがどなたかに手を差し伸べたいと考えたところで、差し伸べることができないことも少なからずあるわけです。

特に昨今、私たちがどう考え何を思おうとも否応なしに「徹底的に一人にさせられる」いや、「徹底的に一人にならなければならない」そんな事態が起こっています。

 

 

38年間病気に悩んでいた方が

 

「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」

 

と訴えておられましたが、「ベテスダの池で癒されるというシステムのある社会」の中で自分の思う通りにならず苦しみも癒えないこの人と、昨今の混乱の中「どうしてよいのかわからなくなってしまった」人々が重なって見えるような気がします。

 

しかし、救い主はそこに現れました。

私たちの側から見ればいい加減時は経ち、わざわいも積み重なり、いい加減うんざりさせられて、あのヨブですら口を開いたようなとき、
救い主は目の前に現れるのです。

そして救い主は問うのです。「なおりたいのか」


治りたいに決まっている、治りたいからここに来たのだ、神さまなら何もかもわかっているだろう?何を今さら…
本人だけではなく読者も一同でそう思う。


しかし本当は、
イエスさまの、その的外れに見えるかもしれないその問いは、
極めて大切な問いでありました。
「なおりたいのか」という質問に必要な答えは、治りたいか治りたくないかのどちらかです。
しかし病人はこう答えたのです。

「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」

人は、平時にはいくらでもきれいごとを語ることができます。災害や事件があったとしても他人のことであれば美しい道徳心を語ることができます。
しかし、自分自身が苦しみに直面しどうにも抜け出られないというような暗闇の中に閉じ込められたとき、
一枚一枚化けの皮がはがされます。そしてむき出しの「本性」があらわになる。そのむき出しの本性があらわになったとき、
その時にメシアは私たちの前に現れる。


なぜなら、神さまの語られる「救い」とはそこからの救いであるからです。
聖書の語る「救い」は人間の語る薄っぺらな道徳ではありません。
快適に暮らすための方便でもありません。
聖書の語る「救い」とは、この「罪の世」にあることがどんなに悲惨であるか、私たちが徹底的な孤独の中で、そしてどん底の闇の中で知り、心の底から切望するものであるからです。

38年の間病に悩み、そして今ベテスダの池を目の前にして絶望している人の心にあったものは、「治りたい」ではなく「池に入りたい」という言葉でした。勿論、治りたいという言葉と池に入りたいという言葉はこのベテスダの池で癒されるシステムのある社会では同じ意味となりましょう、しかし、イエスさまはこの人の心を見抜かれ、この人にとって本当の必要が何であるのか、問いながら示されたのであります。ほどけなくなった糸をほどくように諭すように事の本質を突かれたのであります。
いたるところに罪があり、行くところまで行ってしまった私たちの社会では「池に入ることが重要」だと信じられているかもしれません。しかし、それがあなたにとっての本当の必要であるのか、
神さまは、孤独と絶望の闇の中に頭を抱えて座り込んでいる私たちに問われるのです。

 

そしてこう言われます。

 

「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」

 

これが神さまが私たち一人ひとりに語られるメッセージです。

ベテスダの池に入る必要はない。
そこに居続ける必要はない。
あなたはメシアに出会ったのだ。
メシアはあなたを救いあなたと神さまの関係を回復する。
だから、あなたは
創造の始めに「神さまがあなたに期待しておられたとおりの姿」で歩みなさい!

2022年1月6日木曜日

「待ち望む」という言葉について(2)

前回、「待ち望む」という言葉を調べる中で、「集まる」という言葉が気になるようになりました。

前回の記事より

「イザヤ書40章31節の「待ち望む」Strong's 6960. qavah קָוָה


qavahという言葉がいちばん初めに登場するのは創世記1章9節のところで
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
ここでは「集まり」という訳が充てられています。

(略)
qavahが創世記1章9節で「集まり」という訳を充てられていると上に書きましたが、もう一か所「集まる」という訳の充てられている箇所がエレミヤ書にあります。


エレミヤ書 3章17節
そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。」


あの後、聖書協会共同訳聖書で該当箇所をもう一度読んでいたところ、右側のページにこんな箇所のあることに気付きました。

 主は羊飼いのようにその群れを飼い
その腕に小羊を集めて、懐に抱き
乳を飲ませる羊を導く。
イザヤ書40章11節


いっそうエクレシアっぽい「集めて」ではありませんか!しかもこんな近くに。


早速この「集めて」がどんなヘブライ語なのか調べてみました。

Strong's 6908. qabatsקָבַץ

この単語が最初に現れるのは創世記41章35節で口語訳聖書ではこんな風に書かれています。


続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。

「待ち望む」ということばのqavahによって表現される「集まる」という言葉は神さまが集まるべきとされたもの自体が主体的に集合しているような印象である(もちろん神さまの御心のあらわれではあるのですが)のに対し、

Strong's 6908. qabatsは上の二つの聖句からの印象では、集める主体者があり、その集める主体者が意志を持って集める様子が見て取れます。

特に、イザヤ書40章11節でקָבַץは、原文ではיְקַבֵּ֣ץとなっていて、
つまりqabatsの前にיヨッドがあり、ヨッドは神さまの右の御手=救いをお与えになる手のことですから、神さまが「救いたい」というご意志を持って集める様子をイメージできるわけです。

יְקַבֵּ֣ץこのyə·qab·bêṣという形の単語が聖書に登場するのはわずか2回で、
一つがこの40章11節のところ、そしてもう一つはイザヤ書11章12節。
預言者イザヤはこのようにいつもオリジナリティにあふれる独特のヘブライ語を使っているわけですが、このことを考慮すると、40章11節と11章12節はずいぶん離れた場所にある言葉ではあっても、それぞれの言葉を語るイザヤの心持ちの近さというものがあるような気がします。


主は国々のために旗をあげて、
イスラエルの追いやられた者を集め、
ユダの散らされた者を地の四方から集められる。イザヤ書11章12節(口語訳)

ちなみに、「イスラエルの追いやられたものを集め」の方の「集め」はאָסַףという別の言葉で、

あなたは食べることのできるあらゆるものを自分のもとに集めなさい。それがあなたと彼らの食物となる。創世記6章21節(聖書協会共同訳)

アブラハムは良き晩年を迎え、老いた後、生涯を全うして息絶え、死んで先祖の列に加えられた。創世記25章8節(聖書協会共同訳)

群れがすべてそこに集まると、石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませ、またその石を元の場所、井戸の口に戻していた。創世記29章3節(聖書協会共同訳)

・・・翻訳聖書を読んでいる日本語を話している我々にとってはなかなか違いは分かりにくいですけれども

表現したい内容の差は間違いなくあるのだと思います。


קָבַץqabatsに話を戻しますが、

ついていますね、ק

קָוָהqavahにもあったクフです。


Strong's 6960. qavah קָוָה  待ち望む

Strong's 7121. qara קָרָא 呼ぶ

Strong's 6908. qabats קָבַץ 集める


こうなると私の頭の中にはサンクトゥスのメロディが流れ始めるわけです。

そしてイザヤ書6章3節が思い浮かぶ。

互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
イザヤ書6章3節(口語訳)


イザヤ書6章3節をヘブライ語で見るとこうなっており

וקרא זה אל זה ואמר קדוש קדוש קדוש יהוה צבאות מלא כל הארץ כבודו׃

出だしにはまずStrong's 7121. qara קָרָאがあります。

そしてקָד֧וֹשׁ qā·ḏō·wōš

これはStrong's 6918. qadosh קָדוֹשׁ 聖なる


サンクトゥスのメロディが流れれば思い出すのは出エジプト記30章。

これらをきよめて最も聖なる物としなければならない。すべてこれに触れる者は聖となるであろう。
30章29節(口語訳)


וקדשת אתם והיו קדש קדשים כל הנגע בהם יקדש׃

https://biblehub.com/text/exodus/30-29.htm

6944. qodesh קֹדֶשׁ 神聖さ

6942. qadash קָדַשׁ 聖別する


クフがたくさん!



ついでに言うと、

私のブログのファビコンは


青空に浮かぶ白い雲がקの文字を描いているイメージです。


「聖」という気分で作りました。

以前はこんなファビコンだったのですが、



いろいろ考え、替えました。

長い長い間自分をただの落ちこぼれ、ダメな人間、教会からの落ちこぼれだと思っておりましたが

「聖ということ」について考え続ける中で、そうではないのではないか、と思うに至ったからです。


「待ち望む」という言葉について(1)

イザヤ書30章15~18節(口語訳)
主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。

イザヤ書40章27~31節(口語訳)
ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。


イザヤ書の30章と40章に「主を待ち望む」という訳が充てられている言葉があります。
いつも特に気にすることなく読んでいましたが、昨日Bible Hubのサイトを眺めていたらこの二つは異なるヘブライ語であるということを知りました。

はじめに、

30章の茶色の文字の部分の「待っていて」「待ち望む」は

Strong's 2442. chakah חָכָה

この言葉が最初に現れるのは列王記下の7章9節

列王記下7章9節

そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。 

そして同じイザヤ書では

8章17節

主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。

64章4節

いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。


次に、

40章の青い文字の部分の「待ち望む」は

Strong's 6960. qavah קָוָה

qavahという言葉がいちばん初めに登場するのは創世記1章9節のところで
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
ここでは「集まり」という訳が充てられています。

また、イザヤ書のほかの箇所では5章2節4節のところの良いぶどうの結ぶのを「待ち望む」という言葉や
彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、
またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
8章17節では「望み」この箇所で「待ち」と訳されてるのは上の2442. chakah
なので、6960. qavahの方には単に待っているだけではなく期待する意味があるのでしょうか。
主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。
25章9節では「待ち望んだ」という言葉で二回繰り返されています。
その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。

26章8節では「待ち望む」

主よ、あなたがさばきをなさる道で、われわれはあなたを待ち望む。われわれの魂の慕うものは、あなたの記念の名である。

33章2節でも「待ち望む」

主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。
 

49章23節も「待ち望む」
もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。
51章5節「待ち望み」
わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める。
海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕に寄り頼む。

59章9節「望んでも」

それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。

60章9節
海沿いの国々はわたしを待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげ、イスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。
64章3節
あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事をなされた時に下られたので、山々は震い動いた。


qavahが創世記1章9節で「集まり」という訳を充てられていると上に書きましたが、もう一か所「集まる」という訳の充てられている箇所がエレミヤ書にあります。

エレミヤ書 3章17節
そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。

ここを最新の聖書協会共同訳聖書から引用しますとこうなっています。
その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国民は皆そこに、主の名のためにエルサレムに集められる。もはや、かたくなで悪い心に従って歩むことはない。
ちなみにここで「呼ばれ」と訳されている言葉の原語はStrong's 7121. qaraです。
קָרָא
呼ばれるという言葉を聞くと、ギリシャ語のエクレシアを思い出すわけですが、

あ、もちろんここでは「エルサレムが主の王座と呼ばれ」という話でエクレシアには何も関係ないのですが、「呼ぶ」という行為は召し出されたエクレシアのごとく、何かを特にピックアップして命名したり定義することですね。(ここではエルサレムが主の王座と呼ばれ、と特に取り上げて説明している)
だから、創世記には一章のところにはこのqara「呼ぶ」という言葉がたくさん登場するわけです。
この「呼ばれ」というヘブライ語の qaraのはじめに使われている文字は
קクフ(コフ)なんですが、
これはウィキペディアとかを見るとサルの頭の形からできたというようなことが書いてあるのですが、創世記1章のqaraを頻度高く目にすると、サルなんかではなく、とても聖い特別な文字のような気がするわけです。
で、その文字がちょうどqavahにも使われていて、しかもqavahはקのあとに神さまのお名前の一部分が入っているわけですから、קָוָהqavahというヘブライ語であらわされている「待ち望む」ということばはchakahで表現されている「待つ」とは異なり神さまとの深い関係性を表しているのではないか、などと思いました。(個人の感想です)


「待ち望む」と「集まる」が同じqavahという表現であるということにも何かしら特別な意味がありそうな・・・(集まる・・・エクレシア?またエクレシアにつながる気分)

・・・(2)に続く