2019年8月23日金曜日

詩編127編 読み比べ

聖書協会共同訳聖書を読み始めてからハッとさせられることばかりなのですが、
今朝は詩編127編1,2節を読んでいて特に2節を読んだとき、少々驚いたような心持になりまして、思わずこの文章を書き始めてしまいました。

私が持っている4つの聖書からそれぞれ1節と2節の本文部分を書き出し、それぞれの聖書から自分はどう読んでいたのかということをお話します。




口語訳聖書

 主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。



口語訳聖書では、
人が家を建てる場合に
主ご自身がそういうご意志を持っておられ、人がそのご意志に従うということにより建てるということでなければ、建設にかかわる人の勤労はむなしい=意味がない
というのです。
また、主ご自身が町を守ろうと考えられて、人がそのご意志に従って守るのでなければ
夜の間ずっと起きていて町を守るというのはむなしい=意味がない
というのです。で、夜の間中起きているというような話題を受けて、でしょうか、早起きしたり遅く寝たり、という話が登場します。そして、辛苦のかてを食べるという言葉が並列されているので、早起きや遅く寝ることになるようなイレギュラーなことを好んでもいないのに強いられるということを辛苦のかてと表現しているのか、
もしくは早起きや夜遅く寝るということのような不快なこととともに辛苦のかてを食べると表現するようなつらく苦しい仕事を、
神さまの御心でもないのに、もしくは、神さまと関わりを持つこともなく行うなどということは、むなしい=意味のないことだ、と聞こえるのです。

で、問題はその次です。
「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」というのですが、
「からである」という表現ですから、何かに対しての理由や説明を述べているわけですね。
じゃあどこと関連があるのかと言えば、「眠っている時にも与えられる」と言っていることから、「守る者のさめている」あたりからの一連の睡眠不足におちいってまでの苦しい労働に関わる話であるということが推測できます。
しかしここで「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」と言われてしまうと、この文にはその前の文をすべて吹き飛ばすほどの破壊力があり、

だったら、主に愛されてる人間は労働などしなくてもいいのではないかしら??と思えたりするわけです。


新改訳聖書

主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、
辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。

新改訳聖書でも、口語訳と同じように「主が家を建てる」という主ご自身の御心に沿った労働でなければ「むなしい」といいます。
ただ次の「町を守る」ことについて、口語訳聖書では夜の間中起きているということにむなしさの中心がありましたが、こちらでは起きているというよりも「見張る」という労働行為にむなしさの中心を置いています。もちろん、見張りは夜回りのことでしょうから次の「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも」という言葉につながっていくのだとは思います。
口語訳聖書と大きく異なるのは「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」という具合に「~のも」という言葉で事柄を並べているところです。
その言葉と語感のゆえに口語訳聖書よりも「むなしい」ことをシリーズとして並べている印象を受けます。ただ、「~のも」という言葉のせいで決定的に違う印象を与えているのが「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。」という言葉です。口語訳聖書では「辛苦のかて」が睡眠不足と関連するのかしないのかはっきりしませんでしたが、新改訳聖書の「~のも」という表現により「早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」ということになり、辛苦の糧は睡眠不足とは別の話だ、ということが分かります。

で、新改訳聖書でも問題はその次のみことばにあります。
「主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。」というのですが、まずは「このように」ということばどのようになのかがわからない。
ソロモンが書いているということが分かっていますので、ソロモンが「このように」といっているとすれば、神さまがソロモンにしてくださったように、ということでしょうか。
そしてもう一つの問題はとても大きな問題で、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」というみことばはいったい何が言いたいのかがわからないのです。
もちろん意味は分かります。が、なぜそんなことをこの場所で唐突に言うのかがわからない。口語訳聖書の場合は「からである」という言葉で無理はあっても上の文とくっついており、関係がありましたが。
ただ、しかし、ここでも口語訳聖書と同じようにこの一文が前段のすべてを吹き飛ばしてしまうのです。
そのため、新改訳聖書を読んでいた20年くらいの間、この箇所をこんなふうに読んでいたのです。
「神さまに愛されてない人関わりを持っていない人のやることはみんなむなしいよね。みんな必死にやるけどさ、そんなことしなくたって神さまはみんなやってくださるのにね」



新共同訳聖書

主ご自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。
主ご自身が守ってくださるのでなければ町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。


新改訳聖書だけを読むという生活を20年くらいした後で新共同訳聖書を読むようになったため「町を守る人が目覚めている」という細かい描写に、見張りが夜の見張りであるということをはっきり理解したのでした。しかし、それはそうと口語訳と新改訳でごちゃついていた「睡眠不足と辛苦の糧問題!?」について、新共同訳聖書は私に驚くような言葉で語って聞かせるのでありました。これは衝撃的でした。
「朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
「辛苦の糧を食べる」だとずっと思っていたところが「焦慮してパンを食べる人よ」という呼びかけになっていて本当に驚きました。焦慮という言葉を辞書で調べると「あせっていら立つ」ということらしいのですが、
「睡眠不足でつらく苦しいけれども辛抱していた」ことがむなしい=意味がない のではなく「超絶忙しくてバタバタしててムカついた~!」なんてむなしいよね、とソロモンに言われているようなそんな感覚になり・・・。
しかも、です。
口語訳新改訳と、眠っている間に何かしらを神さまが備えてくれていたはずだったのですが、主が与えてくださっていたのは「眠り」だったという!
これには本当にぶっ飛びました。
 ただ、わからなかったのです。なぜここでいきなり眠りが与えられるという話になるのか。
なので、口語訳と新改訳聖書のみことばと、他の詩編の箇所も踏まえ、
神さまに愛され神さまを信じている人には「主に愛され主を信じる者には眠っている間も主ご自身が働いてくださりあふれるばかりの祝福を与えてくださるので私たちには眠りという平安な休息が与えられる」
のだろうと思うことにしておりました。

そんな中出会った新しい聖書・・・


聖書協会共同訳聖書

もし、主が家を建てるのでなければ
それを建てる人々は空しく労苦することになる。
もし、主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。
空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。
主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。

この聖書協会共同訳聖書を読んで、あっと思ったのはここの箇所以降です。
「空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。」

「空しいことだ」ということばが先に来ることによって
新共同訳の
「朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
という文から感じる焦慮してパンを食べる人に対する疑問や確認のようにとれるイメージとは異なる中学の頃英語で習った「感嘆文」のように読めたので
「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる人々」が「とても空しい」という嘆きのように聞こえたのです。
で、その瞬間そのあとにある「主は愛する者には眠りをお与えになる」という一文が、特に、「愛する者には」の「には」という言葉が、ぐぐぐっと音がするほどに「愛する者」という言葉の特殊性を引き出してくれたような気がしました。
ソロモンが「それは、むなしいことではないか」と言った「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる人々」と「愛する者」とが比較されくっきりと対照的であることを教えられたのです。
それゆえ次の瞬間、主の与えてくださる「眠り」というものが、ただの眠りではなく、
主の愛する者であるイスラエルに対する安息
「安息日」について書かれた十戒を想起させてくれたのです。
神さまと愛の関係にあるイスラエルに与えられている掟を。
十戒(律法)は「縛り」ではなく「恵み」であるのだ!ということを。
「主は愛する者には眠りをお与えになる」のです。
主は愛する者だけに眠りという安息をお与えになるのです。
眠りは主が選び愛される者たちに与えられた特権。
眠りという安息は主が選び愛される者たちに与えられた特権。
律法は縛りではなく特権!


そこからさかのぼって1節に戻り読んでみました。
そう、愛する者に、愛するイスラエルには、主が建ててくださるのです。
愛する者を、愛するイスラエルを主はお守りになる。
主は主の愛する者たちに主は主を愛する者たちに一方的な恵みの契約を与えてくださり
神さまの契約の民は約束の祝福を受けることができる。





まあ、どの聖書を読んでいても大筋では同じかもしれませんが、

かゆくて仕方のないところに指の先がちょっとだけ届いた「ような気がする」というのは
かゆくて仕方のない私にとっては、とてつもない喜びなのです(笑)

2019年8月3日土曜日

自分の前に神を置くということ、そして、神さまご自身が私たちの前に置かれたもの

新共同訳で詩編54編を読んでいて5節が気になりました。

異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命をねらっています。
彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
詩編54編5節


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

創造主である神さまを「置く」という表現に、ちょっと違和感を感じつつも、置くということがどういう意味であるのかしばらく思いを巡らしておりました。


「置く」という日本語は、人間が何かを自分の手で持ち、テーブルだの棚だの自分の望むところに持っていき固定するとか、役職等に人員を配置するというような意味ですよね。

だから、異邦の暴虐な者たちが「自分の前に神を置こうとしない」というのはどういうことなのか、と言うと、
まずはポジション(位置)の問題として「自分の前」ではないということ。
では、「自分の前」とはどこでしょう。英語の翻訳を併せて考えると
(Bible hubでヘブライ語聖書も見たのですがよく分からなったので英語を参考にしました)
これはbeforeであり、 in front ofなので、「not far from 自分」であることが分かります。自分のすぐ前。はっきり見えるポジション。拡声器を使わずに対話できる位置。


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

そして、ここにはポジションの問題のほかに、置こうとするのかしないのかという「意志」という問題があるわけです。
「置こうとしない」という日本語訳に忠実にそのニュアンスをとらえようとするなら、過去、現在、という時の流れの中でいくらでも置くチャンスはあるにもかかわらず、「置く」という行為を選択しようとしない「彼ら」がいる。この詩編の作者であるダビデ、自分の前に神を置こうとし神を置くダビデには理解できない「異邦の暴虐な者たち」がいるのです。


ただ、なぜ私が「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と語るダビデの言葉に思いを巡らしているのかと言うと、自分の前に神を置こうとしないのは「異邦の暴虐な者たち」だけのこととして読み済ませてよいのか、と思ったからです。
本当に私たちは、
「神を信じていると公言している」私たちは、
神さまを自分の前に置いているだろうか、と思うのです。
日々の歩みにおいて、祈りにおいて、様々な場面において私たちのすぐ前に神さまを置いているでしょうか。

 
 
 

 


神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。
彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
詩編86編14節
今日の「自分の前に神を置く」という言葉は、新共同訳聖書の詩編86編14節のところからの引用です。

詩編54編のところで登場した「自分の前に神を置く」という言葉をまた詩編86編14節のところで読みました。
二つの詩が全く別のものなのか、そうではないのかはわかりませんが、両方ともダビデの詩と書いてありますので、とにかくダビデは、「傲慢な者や暴虐な者は神さまを自分たちの前に置かない」と言っている。
そんなことを考えながら最近詩編91編を読んでおりましたところ、「自分の前に神を置く」という言葉のイメージが少し膨らんだような気がしました。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
神はあなたを救い出してくださる仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
詩編91編1~4節

1節「 隠れ」「陰に宿る」

自分の前に神を置いている人は、自分の前の神さまに身を寄せて隠れ、神さまの陰にとどまっている人です。

4節「覆い」「翼の下にかばう」「盾」

神さまを前に置いている人を神さまは覆い、翼の下にかばってくださり盾になることがおできになる。
 
 
 
導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。
 
ですから私たちは決して神の先を歩いていかない。
私たちは神さまを前に置き、神さまの後について行くのです。
 
 

 
新共同訳から95編の10、11節を引用します。
四十年の間、わたしはその世代をいとい
心の迷う民と呼んだ。
彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
わたしは怒り、
彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。
(新共同訳)

次に新改訳から同じ箇所を引用します。

わたしは四十年の間、
その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。
彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。
「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
(新改訳)



私は長い間新改訳聖書だけで読んでおりました。で、新改訳だけで「読み流して」いたので「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」というニュアンスを読み取ることができずにおりました。新共同訳と新改訳を読み比べてみると、言わんとしていることは間違いなく一緒なのですが、「道」を「知ろうとしないから」知らないという、人間の意志によって行うか行わないかという問題の存在については新共同訳の方がわかりやすいかな、と思います。

「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」という御言葉を読んで思い出したのは、詩編37編23節の御言葉です。
これもまずは新共同訳聖書から引用してみます。

主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。
(新共同訳)
次に同じ箇所を新改訳から引用します。

人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
(新改訳)
一歩一歩を定めるのも確かにされるのもニュアンスとしては同じ感じもしますし、道を備えてくださるのも道を喜ばれるのもざっくり言えば同じ方の同じ行為と言えなくはないのですが、「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」とおっしゃる神さまに「いかにしたら彼らは(私たちは)道を知ることができたのですか?」と尋ねた場合、新共同訳の詩編37編が回答となっているような気がするのですね。神さまこそが道を備えてくださるお方、しかも神さまは42.195キロの道を作られて「はいどうぞ」と与えるお方ではなく「一歩一歩」私たちの歩むべきことを定めるとおっしゃってくださる。
神さまは私の前を行ってくださり私たちは神さまの後にいるのですから、当然神さまの定められたように歩むしかないのであります。「歩むしかない」というと、非常に消極的かつイヤイヤな感じに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、「限定される」という意味での「しか」です。
とすればその一歩一歩は、つまり毎日毎日の一瞬一瞬、次々と突き当たる良いことも悪いこともすべての物事は神さまの与えてくださった私たちの歩むべき一歩であると理解出来ます。
だとすれば、自分の前に神さまを置く人に起こる出来事はどんなことであれ、あやしんだりおそれたりする必要はないのです。この一歩こそが御旨、神さまが私にそしてあなたに与えてくださった一歩であり、その先は私たちにとっての最良なもの、安息であり、憩いの地であるからです。

上で私は、

「導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。」
と書きましたが、

イエスさまがヨハネによる福音書14章6節で「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(新共同訳)」と語られたことを思うと、わたしは在るという方は単純に私たちの前を行ってくださるわけではないような気がします。
私たちが自分の前に神さまを置くとき、私たちの意識としては先を行く導く雲であり羊飼いであるかもしれませんが、一歩一歩私たちは先を行かれる主に負われさらには主を踏んで、その結果至ることのできる場所に至る、そんな気がします。
困難に直面した時、私たちはたった一人先頭に立って困難にぶつかっていくのではないのです。神さまを信じる者=神さまを自分の前に置く者 は前を行かれる主が私たちを背負い主ご自身が私たちをかばって真っ先にぶつかり、ご自身の犠牲をもって私たちを次に行かせてくださる・・・私たちの日々は、一歩一歩とは、御旨にかなう道とは、安息に至る道とは、そういうものなのだと思います。




 


申命記を読んでいて、神さまご自身が私たちの前に置かれたものがあることに気付きました。
わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
申命記30章1~3節(新共同訳)
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
申命記30章16~20節(新共同訳)


神さまは私たちの前に、自由に選んで取ることのできる二つの選択肢を置いてくださったのです。

「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い」
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」
「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」


それを踏まえるならば、もしかすると
ダビデの語った「自分の前に神を置く」という表現は、
神さまが置かれた二つのものから、呪いを排除して「祝福、命、幸い」を選び取ったということなのでしょうか。
 

結局、聖書における「祝福」とは新約旧約どの場面においても、
人が罪を犯す前のエデンの園、エデンの園にいたころの日々であり
呪いとは、そこから追放されたことによってもたらされたもの。
で、神さまがくださったチャンスをしっかりものにして!?神さまとの交わりを回復すること=エデンの園の頃のような祝福
ということなのでしょう。

御子の十字架によって完全な交わりの回復がもたらされた今、
命の木の実をいただくことができるまでに!
 
 

【調べ学習】耕す者 悪しき者

「耕す者はわたしの背を耕し畝を長く作った。」(3節 新共同訳)

聖書協会共同訳で同じ箇所を読みましたところ

「悪しき者らは私の背に鋤を当て長い畝を作った。」(3節 聖書協会共同訳)

と書かれていました。

以前からこの箇所は比喩のように読んで理解していたつもりでしたが、
耕す者が悪しき者と訳されるのならばもう一つの耕すという言葉はどうなってしまうのか、という素朴な疑問もあったので、
いつものようにBIBLE HUBで3節について調べてみることにしました。

まずは「背」。
これはgab·bîという言葉で גַבּ gab がもとになっているようでした。
https://biblehub.com/hebrew/1354.htm
で、この単語には背という意味はあるのですが、新共同訳聖書の翻訳で言うところの
ヨブ記13章の(土くれの盾にすぎない)弁護という部分がこの語であり、同じくヨブ記15章の厚い盾という部分がこの語。そしてエゼキエル書16章の祭儀台という言葉がこの語なのだとかいてありました。
そしてStrong's Exhaustive Concordanceによるとgabというのはthe top or rim, a boss, a vaultだということなので、
背も形状としてのイメージがそうなのかもしれません。


次は「畝」。
https://biblehub.com/hebrew/4618.htm
 מַעֲנָה maanahとあり
サムエル上14:14 と詩編129:3に登場する単語なのだそうです。
で、maanahという語はanahが起源だと書いてあったのでanahのページを見ると
https://biblehub.com/hebrew/6030b.htm

意味としてto be occupied busiedと書いてありました。
何だかとても忙しそうな言葉でありますが、
とにかく何か一定の範囲をいっぱいにしてしまって他のものが入らないような状況が頭の中にイメージされました。
たしかに、日本語で考えると畝というのは作物を植えるために盛り上げた土のことですから畑一面につくるわけで、maanahという語がanahが起源だというのは理解できます。
で、NASBはanahにafflicted (1), keeps him occupied (1), occupy (1)という語を訳語として当てているということでした。


そして鋤。
charashだそうです。意味はto cut in, engrave, plow, devise
https://biblehub.com/hebrew/2790.htm
129編の3節全体を眺めるとcharashの形の変わったものが2度登場していてその一方が耕す者と訳されている。
ヘブライ語と英語を並記しているものを参考にすると
https://biblehub.com/interlinear/psalms/129-3.htm
(鋤で)耕作する者が私の背中を耕して長い畝を作る、ということで、新共同訳の訳と同じように読めます。
聖書協会共同訳はギリシャ語の底本から翻訳して「悪しき者ら」としたと言っていますが、それはヘブライ語をあたっただけではわからないということなのですね。
しかしそれにしてもギリシャ語の底本は鋤で耕す人を悪しき者としているのだとすると、charashという鋤にあたる言葉自体にも本当は何か良くないイメージがあるのかもしれません。
鋤は鍬と違って、地面に刃を刺して土を向こうに押しだすようにして使う道具ですから、耕作すると言っても鍬とは違って向こうに向けて刺すというのがよろしくないイメージなのかなぁ。


以上のことをまとめると
「耕す者」はわたしの「背gab」を「耕しcharash」「畝を長くanah」作った
→悪い者たちがイスラエルの「背gab」を「耕しcharash」「長い畝anah」を作った
→悪い者たちがイスラエルの「アーチ型の突起部gab」を「鋤で突き刺すようにしてcharash」「占領したanah」
→悪い者たちがイスラエルの「丘gab」の「住民を襲って追い出しcharash」「占領したanah」
悪い者たちがイスラエルの丘の住民を襲って追い出し占領した???

6節のことを踏まえるとこの悪い者たちとはアッシリアのことでしょうか。
「抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。」(6節 新共同訳)
6節のこのみことば、
「屋根の草」と言えばイザヤ書37章27節そして列王記下19章26節です。
「穂をつける前にしなびる屋根に生える草のようになった。」(新共同訳)
「育つ前に干からびる屋根の草のようになった。」(新改訳)
Psalm 129:6
as the grass(ka-ḥă-ṣîr)[on] the housetops(gag-gō-wṯ;)

Isaiah 37:27
the grass(ḥă-ṣîr) on the housetops(gag-gō-wṯ,)


「屋根の草」・・・
なんとなくこの「屋根」は、形状からするともしかしたら「背」と同じヘブライ語gabなのでは ?と思って調べたら
gag·gō·wṯ

違いました(笑)gabではなくてgagでした。




129編
1節 šîr,  ham-ma-‘ă-lō-wṯ  rab-baṯ  ṣə-rā-rū-nî  min-nə-‘ū-ray;  yō-mar-  nā  yiś-rā-’êl. 
2節 rab-baṯ  ṣə-rā-rū-nî  min-nə-‘ū-rāy;  gam  lō-  yā-ḵə-lū  lî.
3節 ‘al-  gab-bî  ḥā-rə-šū  ḥō-rə-šîm;  he-’ĕ-rî-ḵū,  [lə-ma-‘ă-nō-w-ṯāmḵ]   (lə-ma-‘ă-nî-ṯām.q)
4節 Yah-weh  ṣad-dîq;  qiṣ-ṣêṣ,  ‘ă-ḇō-wṯ  rə-šā-‘îm.
5節 yê-ḇō-šū  wə-yis-sō-ḡū  ’ā-ḥō-wr;  kōl,  śō-nə-’ê  ṣî-yō-wn.
6節 yih-yū  ka-ḥă-ṣîr  gag-gō-wṯ;  šeq-qaḏ-maṯ  šā-lap̄  yā-ḇêš. 
7節 šel-lō  mil-lê  ḵap-pōw  qō-w-ṣêr,  wə-ḥiṣ-nōw  mə-‘am-mêr.
8節 wə-lō  ’ā-mə-rū  hā-‘ō-ḇə-rîm,  bir-kaṯ-  Yah-weh  ’ă-lê-ḵem;  bê-raḵ-nū  ’eṯ-ḵem,  bə-šêm  Yah-weh.



gab gagということに気付いたので transliterationを書き写してみましたが
音として眺めると韻を踏んでいるとかそういう技巧的なこともあるのでしょうか。
音を楽しみながら、イスラエルならばだれもが記憶にあることを語り賛美する
そういう作品なのでしょうか。

しかしいずれにしても「背中を耕されたらいたいよね~苦しいよね~」ということではないような気がしました。(ざっくりとそう思っていたので)