2016年6月18日土曜日

主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33a節
 
 
私の頭の中に現れた変な等式
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
 
にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、
今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。
冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。
 
これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。
わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。
 
別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ヨハネの福音書14章11節
これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものをは与えてくださる)
だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。
しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょうか。
ちょうど、現代日本の「神を神とはしない」大人たちが、子どもたちの甲状腺がんが増えたのに増えてはいないと言い張るようなのと同じ、自分の都合にあわせて見えることも見ないことにしてしまうわけです。
見ずに信じるどころか見ても聞いても起こったことを起こったこととして認めない。そして自分たちの権威や知識を振りかざして正しく判断している人たちの邪魔をし、それでも済まずついには殺そうとする。
イエスさまを捕らえるためにやってきた時、大祭司のしもべの耳をペテロが切り落とし、イエスさまがいやしてくださったのに、それでもイエスさまは捕らえられる。
聖書に詳しく、神を第一にしてそうな権威のある聖職者は、神を神としない偶像の国日本、まことの神さまを神としない日本の権威と全く同じ事をしたわけです。
どこまでもどこまでも利益を追求し、神さまから最も遠いところに立っている。
 
 
感じたことを感じたままに感じたとする、そこに損得勘定などなにもなく、「すごい!」「うれしい!」「おいしい!」と言えること、
そして、白い花が咲いているのをみて、「あ、白いお花。白くてきれい」と言えること。
「その白は白だと思うかもしれないけど、厳密に言ったら白ではないよ。しかもその花のように見えているところは花ではなくて厳密に言ったら…」とか言わないこと。
 
そういう態度で神の国を受け入れることが「子どものように神の国を受け入れる」ということ。
 
 
 
ところで、
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33節b
祭司長、律法学者、長老たちとは異なり、群衆は、「ヨハネは確かに預言者だと思っていた」とここには書かれています。この部分だけをピックアップすると、祭司長、律法学者、長老たちは神の国に入れず群衆は神の国に入れるという印象を持ちますが、聖書をこのあと読み進めていくと分かるように「群衆」の声はやがてイエスさまを十字架につけろと言う声になっていくのです。まるで「種蒔きのたとえ」で語られる岩地。み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけ。
世の中の空気(ムード)や、祭司長、律法学者、長老たちという見たくれだけはソレっぽいにせものの声に聞き従うことなく、本物のみ言葉をよく聴いてしっかり根を張っていきたいものです。
 
 
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
マルコの福音書11章32節b~33節
 
寛容の極みである言葉なる神さまから「話すまい」と言われる=神さまとの断絶、永遠の断絶
 
そういうことにならないように。

主は寛容なお方(3)「子どものように、自分を低くする者」とは

前回まではマルコの福音書10章15節の「子どものように神の国を受け入れる」
ということばを読んでいましたが、今日は関連するみ言葉としてマタイの福音書18章のみ言葉を読んでみることにしました。
マルコの福音書の10章15節に対応している箇所はマタイの福音書19章14節のところだと思うのですが、
イエスさまが「子どもたち」のことを具体的にどのようであるとお考えになっているのかがはっきり書かれているのがマタイの18章4節なので、そのことについて考えようと思いました。
 
 
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
マタイの福音書18章1~4節
「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」
イエスさまは、子ども=自分を低くする者 だと言われています。
しかし、…子どもって自分を低くしているだろうか??
実はずっとこの新改訳聖書の「自分を低くする者」という言葉が引っかかっているのです。
引っかかったまま放置し続け30年。(;^_^A
だって、そう書いてあるんだからそうなんだよ、と納得しなくてはならないまま30年。
しかし!つい最近知ったBible Hubという素敵なサイトがあるじゃないか!そう、2016年のオバサンはついに誰かが作って下さった素敵なサイトによって、完全にあきらめていたギリシャ語で聖書を読むということが出来るようになったのでありました。
世の中が英国のEU離脱の件で大騒ぎしている最中、みんながどよーんと不安いっぱいの顔でいるのに、ひとりうきうきへらへらとパソコンに向かいマタイ18章4節をBible Hubに入力してオバサンmet Greek word at last!!!
ταπεινώσειという言葉なんだそうですよ。で、マタイ18章4節の他、マタイ23章12節に出て来るらしい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
というみ言葉の後半の方の「低くする」が全く同じ形。ταπεινώσειというのは英語ではwill humbleなので、前半の方の「低く」は「低くされ」という受動態なのでちがう形の言葉ταπεινωθήσεται,になるみたいです。
 
で、これでは結局「低く」という言葉しか新改訳の中では見あたらないので
ταπεινώσειではなく、ταπεινόωという言葉で調べることにしました。
ταπεινόωは14箇所あって、マタイ18:4 、23:12のほかにルカ 3:5(山と丘は低くされ)ルカ14:11(自分を高くする者は低くされ)ルカ18:14 (自分を高くする者は低くされ)​
Ⅱコリント 11:7(自分を低くして報酬を受けずに)Ⅱコリント12:21(はずかしめる)
ピリピ2:8(自分を卑しくし)ピリピ4:12 (貧しさの中にいる道も知っており)
ヤコブ4:10(へりくだり)Ⅰペテロ 5:6(へりくだり)
 
 
やっぱり子どもはへりくだって低くなっているんだろうか…
 
 
と、そこまで考えて
30年の謎がするっと解けた!(と思った)
 
 
 
わかった、そうじゃないんだ。
「大人」であるのに「子どものように」なるってことだ。
 
「子ども」と呼ばれる年代の人たちが、へりくだっていて素晴らしい模範的な人っていうことじゃないんだ。
何でも出来る大人になって、いっぱしの口もきける大人になった、
だ・け・ど・
そうなんだけど、そういう大人でありながら低くなる、
へりくだって小さく小さくなるってことなんだ。
 
「子どものように、自分を低くする者」
というのは、
子どもっていうのは自分を低くしていて素晴らしいからそういう子どもの真似をして低くしなさいね、って言っているのではなく、
経験を積んでそして学問を修めた大人になっても、自分は子どものような小さいものだ、取るに足らないちっぽけな者なんだと考え、そういう態度でいなさいよ、ってことなんだきっと。
神さまが、人となって来てくださったその「へりくだり」だ。

主は寛容なお方(2)「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章17~27節
 
 
 
前回の「主は寛容なお方」という記事で、私はこんな「変な」等式を書きました。
 
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
 
何の話を書いていたかというと、「どんな人が神の国に入れるのか」という話です。
マタイの福音書5章には、私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさる義でなければ天の御国に入れないと書かれていたが、
マルコの福音書10章には、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと書かれていたので、
ならば、律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる という等式が書けるのか?と思ったわけです。
 
ポワーンとわいてくるイメージみたいなものを文章にして人に伝えるというのはなかなか難しいので、もうちょっと言葉を足しますね。
 
私は、イエスさまが「マタイとマルコで語られた二つの言葉」だけをピックアップして考えた場合に、神の国に入るために必要なチケット(条件)は何だと言っておられたか?ということを考えたのです。
マタイの福音書では「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」が必要なチケットだ、と言っておられ、
マルコの福音書では「子どものように神の国を受け入れる」ということが必要なチケットだ、と言っておられるのですが、
ならば、天の御国に入るには両方のチケットが必要なのか、片方のチケットだけで良いのか、ということになりますよね。
 
で、もしも、両方のチケットが必要ならば、マタイでもマルコでも、とにかくどの場面においても二つセットにしてお話ししてくれなければおかしいわけです。なぜなら、場面場面で、弟子以外のそこに参加しているメンバーは変わっているわけですから、
「私は、Aっていう条件で入れるって聞いた」
「えー??私はそんなこと聞いてないよ。Bだって言ってるの聞いたよぉ」
という事件が勃発してしまうかもしれない。
とすると、チケットを2種類持っていなければいけないということはないだろう、と。
で、だとした場合、今度はこういう問題が生ずるわけです。
チケットAとチケットBの質や難易度の問題。
もしこの二つにそういった差があると、よろしくないんじゃないかと。(欠席者のために追試の問題を作る教員的な発想です)
 
で、ならば、パッと見は異なるかもしれないけれどAとBは等しいものなのだと考えることができれば、全てがクリアできるのではないかと思ったわけです。
「天の御国に入れる条件はAだよ」とある場所で何人かの人に言って、
「天の御国に入れる条件はBだよ」と別の日に別の場所で別の聴衆に語られたとしても
AとBが同じ物であるなら全く不公平ではないことになります。
 
なので、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
なのかな、と。
 
 
さて、補足はこのくらいにして次に行こうと思うのですが、
…というか、なぜまたあえてしつこく補足をしたのか、と言いますと、
今朝、いちばん始めに引用した箇所を読んでいた最中のことでしたが、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
というこの変な等式が、じつはちっとも変な発想でなかったということに気付いたからなのです。
 
マルコの福音書10章17~27節には、天の御国に入れる話ではなく、「天の御国に入れない」という話が書いてあります。
直前に書かれていた天の御国に入れる条件としての「子どものように神の国を受け入れる」ということに対立するものとしてここに描かれたのは「金持ち」。
イエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われるのです。
 
この「金持ち」の話を読んだとき、私は「あっ」と思いました。
 
この金持ちの人、律法学者とかパリサイ人に似てる~~
ルカ16章に書かれている「金の好きなパリサイ人」という話を思い出したというのもありますが、
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
めっちゃ真面目っぽいこの感じとか
 
 
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
 
と言っちゃうこの感じ
なんだか律法学者とかパリサイ人っぽい~~
 
そして、次の箇所を読んだとき、子どものように神の国を受け入れるということがいったいどういうことなのか、その真意が見えてきました。
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
金持ちの彼は、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と言っていることで分かるとおり、彼は、自分には「何かできる」と考えているのです。そして何かをすれば永遠のいのちを得られると思っているのです。
でもそうじゃないわけです。永遠のいのちはイエスさまのいのちによってしかいただくことは出来ない。
だからイエスさまは彼を優しく見つめておっしゃるわけです。あなたには、欠けたことが一つあります、と。
ではイエスさまがおっしゃりたかった彼が永遠のいのちを得るために欠けていた一つのこととはいったい何なのか。
それは、イエスさまについて行って、イエスさまのいのちをいただくということ以外にはありません。
 
しかしイエスさまは「自分は永遠のいのちを得るために何か出来る」と考えている彼のためにまずこうおっしゃった。「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と。もちろんこれは、キリスト教の教義を知っている誰もが分かるとおり、永遠のいのちを得るための「条件」であるはずはない。しかし、彼は「何かできる」と考えていたからイエスさまは彼にこうおっしゃったのですね。
じゃあ財産を売り、ほどこしをすることに何の意味があるかと言えば、それは主が仰せられたとおりで、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」ということ。
 
 
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ってしまうのです。
なぜですか?
財産を手放せなかったから?
 
彼はどうすれば良かったのでしょう。
本当は財産なんて手放さなくたって良かったのではありませんか?
だいたい、聖書の神さまは豊かな人を否定なんてしていません。
旧約聖書を読めばよく分かりますが、聖書に登場する神から祝福を受けた人は裕福です。
神さまは私有財産を否定したり、貧しいのを推奨しているのではなく、いつもいつも心の問題や態度のことをおっしゃっています。不正をしてまで私腹を肥やしたり、その不正も、弱い人を虐げるような不正であったりそういうのは良くないのだと。
ですから彼は
イエスさまの元を立ち去らなくて良いんです。ただ、
「先生ごめんなさい。私には財産を手放すことが出来ません。施すことが出来ません。」
それで良かったのではありませんか?
「何かできると考えていましたが、できません。だから永遠のいのちはあきらめなければなりませんか?」
そうたずねれば良かったのではありませんか?
 
で、ここで思い出したのです。「子どものように神の国を受け入れる」というみことばを。
 
泥でよごれた服のまま、「イエスさま~!!」
ジャムでベタベタになった手のまま、「イエスさま~!!」
なんにも出来ない、なんにも分からない、そのままでイエスさまのもとに飛び込んでいく
 
 
幼い子どもたちは
力もなく、知識も少ないから、
一生懸命にやっているつもりであっても上手に出来なかったり何か抜けや欠けがあるものです。でも幼い子どもたちにも上手に出来そうなことはあります。
甘え、受け、受けたら喜び、笑うこと。
 
人間は、どんなに立派な人であれ神さまから見れば子どもです。
神さまは人が胎内にいる時から白髪になるまでの全てをご覧になっているのですから、どんなに気取ったって、たかがしれているのです。しかも罪がありますしね。
人間なんてそんな者なのですから
見栄なんて張らず、
神さまに遠慮なく甘え、与えてくださるものを受け、喜ぶ、
それで良いのだと思います。
神さまはないところからとるような方ではないのです。
出来ないことをしろと強要される方ではないのです。
 
 
体裁をつくろうとか、きれい事を言うとか、
そんなことは要らないから、
着物(形)ではなく心を引き裂く、そうやってに立ち返る
イエスさま何にも出来ない失敗ばかりの私をゆるしてくださいと
その言葉だけを神さまは待っておられるのだと思います。
そして、その言葉を私たちが心の底から涙をもって絞り出したとき
神さまはぐちゃぐちゃドロドロの私たちめがけて走り寄り
どうしようもない「子ども」である私たちを抱きしめてくださる。
 
 
…それが「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意であり、
同時に「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」なのではなかろうかと。
 
 
たとい私がささげても、
まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれた霊、
砕かれた、悔いた心。
詩篇51篇17節

主は寛容なお方(1)「神の国は誰のものなのか」

クリスチャントゥデイを読んでいたら、「パキスタンのイスラム教徒たち、キリスト教会再建を支援」というニュースに出会いました。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/21180/20160617/pakistan.htm
 
パキスタンのキリスト教徒たちが、パンジャブ州にあるゴジュラで賛美歌を歌う。ゴジュラはキリスト教徒居住地の近くにある。2009年、1人のイスラム教徒の暴徒による襲撃事件が起きた。キリスト教徒の1家族7人はじめ10人が殺され、数十の家々や四つの教会が放火された。
この記憶を癒やす異教徒間の協力が始まっている。異教徒同士の対立があまりにも頻繁に起こる国家で、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒になってキリスト教会の会堂を建築しているのだ。
(続きはクリスチャントゥデイのサイトで)
素晴らしい!
本当に感謝なことです。
 
このニュースを読んだとき、
マルコ9章41節にあるイエスさまのみ言葉が思い出されました。
 
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
 
「あなたがたがキリストの弟子だからというので」
という言葉のニュアンスとこのニュースの話は異なるかもしれませんが、
キリスト教徒を助けてくださっているパキスタンのイスラム教徒の方たちにゆたかな報いがございますように。
 
 
 
 
ところで、
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
というイエスさまのみ言葉を読むたびに思うのは
寛容なお方であるということです。
こういう言い方をしたら怒られるかもしれませんが
イエスさまはクリスチャンにはない自由さ寛容さを持っておられると感じます。
まあ、イエスさまは神さまですから、
神さまご自身ですから権威がありますからね、
ご自身のみ言葉がルールとなるわけですが、
一方クリスチャンはタダの人間でありますから、
与えられたルール内でああじゃないこうじゃないと必死に判断し、
また一生懸命聖書の行間を読んでゴチャゴチャやっておりますからね、
コレハ聖書的に正しいとか正しくないとか
気付いたときには寛容さが失われてしまっているのかもしれません。
 
この「水一杯」の話だけでなく、他にも十字架の場面で起こった出来事を見るとき
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章42,43節
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
とは寛容のきわみではないかと思うわけですが、
しかし、これはイエスさまだから言えたことばで、クリスチャンには出来ない宣言です。
このケースは、メシアが人と、ダイレクトに会話をし、
神の御心としてこの人を受容したから「パラダイスにいます」と断言できたわけですが、
クリスチャンが、例えば日本国内で日本人を相手にして話をする場合なら
たとえ十字架の上にいたとしても!「四つの法則」を早口で説明し始めるのかもしれません。
 
 
そんなことを考えつつ、聖書通読を進めておりましたら、
今朝はマルコの福音書の10章で、こんな箇所でありました。
 
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10章13~16節
興味深いことに、人々が子どもたちをイエスさまのみもとに連れてきたら弟子たちが彼らをしかった、ということからこの場面はスタートします。
弟子たちはどういう思いでそんな行動を取ったのでしょうか。
私が弟子の立場であったら、
そうですねえ、自分が「偉い先生」のお側に仕える立場であったら、「ちょっと子どもは…」と思うかもしれません。いろいろイエスさまとお話ししたい人たちを優先するでしょうかねえ。それに、子どもがいたらその場が騒がしくなってしまってお話どころではなくなってしまいますからね。教会や集会に集っていた頃のことを考えれば、子どもたちは別室でビデオでも見ていてもらいますか。
しかし、その弟子の様子をご覧になったイエスさまは「憤って、彼らに言われた」のです。
 
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 
神の国はこのような者たちのもの?
子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません??
 
 
神の国が誰のものであり、どんな人が入れるのかということについて、別の所でイエスさまはこう断言しておられたはずです。
 
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
マタイの福音書5章3,10,20節
あらら、ここではA=B、B=CならばA=Cということが成り立たないのでしょうか?
どう考えればいいのかな…。
 
神の国がどのような人のものであるかということについては、
マタイの時よりも一つ可能性が増えたね、ということに出来ますけれど、
天の御国に入れるか入れないかという事については
「~でないなら入れない」という言い方がされておりますのでね、
可能性が増えた、というわけにはいかないような気がするのですよ。

律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
???
 
マタイの福音書を読んでいるとき、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」とはすなわち主の十字架によって与えられる義であり、それを理解し信じることだ、と思ったのですが、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
となると、
「主の十字架によって与えられる義を理解し信じる」ということに付帯、否、イコールとされて行ってきたような諸々の儀式等々がどんどん削られていき、もっと言えば、理解すべきとか信ずるべきとされているコムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうのではないかと。何しろ子どもは信じるにあたりそれほど細かいことを考えないでしょうから。
うーん。
 
(私は子ども時代に、素直にしているつもりであっても素直ではないと言われいつもいつも母から叩かれていましたので、子どものようにとは「素直になることだ」という説は、絶対にないな、と思っています←特殊な理解かな)
 
 
 
 
まあ、でもよく考えてみれば、コムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうというのは、「ignoranceは全く責めに値しない」ととれるローマ14章とほぼ同義ですよね。
 
しかしそれでもまだ何か
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
という等式が成り立つという事に違和感を覚えるのは、
イエスさまが最初に来られたときから、人間にとって見れば相当な時間の経った今、いわゆる「キリスト教」と名づけられた「宗教」には、まるで「歴史は繰り返すのだ」と言っているような律法主義的な贅肉が上乗せされてしまったからなのかもしれません。または、知らず知らずのうちに敵によってばらまかれた「パン種」のたぐいが上等な小麦粉の中に混ぜ込まれ、キリストの香りなのか、おいしいパンの香りなのか区別しにくくなってしまった、そんな気もします。
神さまの前にきよくありたい、正しくありたいという思いが強くあったとしても、
神の箱を手で押さえようとしたウザにパッと注意のできない、
そして、
「下がれ、サタン。」
と一瞬の判断でペテロに向かって言われたイエスさまのように言えない人間は
垢をため、無駄な肉を無駄と思わず蓄えて、一歩一歩成人病へと突き進み
気付いたときにはイエスさまが教会の外に立ってドアを叩いているというような状態に(黙示録3:20)なってしまうのかも?しれません。
 
なにしろ黙示録の7つの教会は
預言されていること…ですものね。